第七章/1
第七章/1
せっかくの休日だというのに俺は自室の勉強机にむかってレポート用紙と格闘していた。
姫宮さんと会ったときにも話したように、今週はいくつかの教科で宿題が出されていたのだが、これは科学部のレポート作成である。
科学部の活動内容は、週一の部活動のときに実験をし、宿題として翌週の活動日までにそのレポートを作成してくるというのが基本サイクルだ。
レポートといっても中学生の、それも部活動の一環なので、微に入り細をうがつような本格的なものをつくる必要はないのだが、やはりじぶんで実験内容をまとめて考察を書くというのは難しい。
時刻も昼をまわり、腹ごしらえに食事をしたせいかじゃっかん眠気もある。どうにもレポートの進捗は遅めだった。
俺は椅子の背もたれに体重をあずけながら、実験で使用した教科書をながめる。
『表面張力』
それが今回の実験内容だった。
俺は勉強机のうえに用意した空コップの中に、ペットボトルの水(母さんが健康のためにと買いだめしている天然水をこっそり拝借した)を注ぎながら、考えをまとめていく。実験は学校でも一度やっているのだが、実物があった方がイメージしやすいと思って用意したのだ。
表面張力というのは、液体の分子同士が小さくまとまろうと互いに引っ張りあう現象のこと、と教科書には書かれている。
有名なものでいえば、コップの容量よりも多くの水を入れているのに、コップの縁をこえても、すこしくらいなら水はこぼれずにドーム型に膨らんだ状態で耐えられるというやつだ。
水はコップの容量をオーバーしているのだが、水同士がお互いに手をつないで落ちないようにしているためこぼれずに表面で踏ん張るのだ。
たとえるなら、満杯に人が乗っていて定員オーバーなエレベーターがあったとする。そしてぎゅうぎゅう詰めのエレベーターからひとり押しだされそうになる。そのとき中に乗っている人が、落ちそうになった人に手をさしのべ、手をつないで引っ張ることでエレベーターからはみ出しているもののそのひとは落ちないでいられる、というところか。
まあこのたとえではエレベーターが出発できないので、けっきょく誰かに降りてもらわないといけなくなるわけだが……。
俺はコップの中に水を注いでいく。
ちょうどコップの縁の高さと同じくらいまで水がたまっていた。
ペットボトルから水を注ぐのを中断し、こんどはストローの一端を指で押さえてスポイトがわりにして、ちょっとずつ水を足していく。
たしかに水はこぼれず、縁からはみ出たドーム状の水がぷるぷると震えていた。
そこからさらに、すこしずつ慎重に水を足していくと、そのドームはだんだんと大きくなっていく。容量はとっくにオーバーしているのに、それでも水面は耐えている。たとえるなら、それは――
ふと――。
姫宮さんもこんなふうに、抱えきれない想いを身体のうちに溜めながら、耐えているのだろうか。なんてことを思った。
彼女はときどき、思い悩んで内に溜めた感情や考えを俺に話してくれることがある。そしてそのたびに、ひどく落ち込んだ顔をする。じぶんの内面を他者にみせたことを後悔するきもちと、しかしそうせずにはいられなかった衝動に板挟みにあって苦悩するような、そんな顔を。
でも、俺は話をきいてやることくらいしかできなくて、それでは事態はなにも変わらなくて。じぶんの不甲斐なさにがっかりする。
姫宮さんのメンタルの許容量をこえて、それでもなお、彼女は悩みをひとりで抱え続けている。それがほんとうの限界をむかえたとき、それでも無理矢理、彼女は耐え続けるのだろうか。
いや、限界をオーバーしているのなら耐えるもなにも、その先はもうないんじゃないだろうか。
メンタルオーバー。
そんな言葉が思い浮かんだ。まあ、俺の浅い英語力で考えた言葉なんて、翻訳したらどういう意味になるかわかったもんじゃないが。
「――あ」
ぼうっとしていた。
気づいたときにはもうコップの水は溢れだし、下に敷いておいたハンカチを濡らしてしまっていた。
勉強机の端の方にコップやペットボトル、ハンカチをどける。
なんだか無性にのどが渇いて、俺はコップの水を一気に飲み干した。
じんわりと潤されたのは最初のほうだけで、飲み終えたときには胃がたぷたぷとして、すこしきもちが悪くなった。
気を取り直してレポートへとむきあう。しかし、駄目だ。どうにも集中できない。
俺は振りかえり、漫画ばかりが並んでいる本棚のほうへ目をやった。しかしみるのは漫画でもなければ、下段の隅に追いやられた教科書でも辞書でもない。
姫宮さんから借りた本。
家にいるときにちょくちょく読んでいるのだが、五冊借りたうちの三冊を読み終えていて、残りも休み中に読み終えようかと思っている。どれもとても面白くて、ついつい時間を奪われてしまい――
「いや――」
俺は小さくつぶやいた。ぐっと目をつぶり、伸びをする。
べつに集中力が途切れるのは姫宮さんから借りた本の先が気になってしようがないというわけではないのだ。
昨日の学校の帰り。小次郎からきかれたこと。
『――カズアキはさ、本当のところどうなのさ。姫宮さんのこと、好きなのかい?』
あのときはいつもの調子で「馬鹿をいうな」と明言を避けたのだが、どうもそれ以降きもちが落ち着かず、そわそわしている。
なにかにつけて姫宮さんのことを考えてしまうし、姫宮さんのことに結びつけてしまう。
いままでなんとも思っていなかったことなのに、小次郎の言葉で変に意識させられるようになってしまったというか。たとえば、いつの間にか怪我をしていて、かさぶたがあることに気づいた途端、それまでは平気だったのに無性に掻きたくなってしまったときのような。
「まさかな――」
俺は考えることを放棄するように両手で万歳をした。
その勢いで手に持っていたボールペンが飛んでいきベッドに落ちる。
椅子から降りて、ボールペンを拾った流れでそのままベッドに寝転がった。
ふーっと息を吐いて大の字に脱力すると、なんだか眠気がこみ上げてくる。
ゆったり目をとじて、やわらかなまどろみの中に身をゆだねることにした。
筆記用具入れの中でボールペンがインク漏れしているのを発見したような気分だった。




