第六章/2
第六章/2
放課後もまた、姫宮さんのところへ来ていた。弥子は演劇部の練習で来られないため、今度はふたりきりだが。
雑談をしたり、例の一曲しか弾けない丸暗記式のピアノを弾いてみたり、それを姫宮さんに教えてみたり。昼休みの終わり際にどたばたしてしまって、ぎくしゃくした空気になってしまうかと危惧していたが、そんなこともなく自然と接することができていた。
姫宮さんは、まだあまり内面的な部分については打ち明けてくれないことが多いものの、俺はそれを良しとしていたし、前よりも彼女はほほ笑むことが多くなってきていて、それは素直に良いことだと思っていた。
「そうだ、あのさ。ちょっと勉強を教えてほしいんだよ」
俺はピアノから離れて近くの席に腰をおろすと、机のうえに鞄を置いた。そして中からいくつかの教科書と問題集を取り出す。
「いいですよ」
姫宮さんは俺の前方の席を選び、椅子をこちらにむけて対面になるように座った。
「数学と英語、あと社会科の宿題が出ててさ。そのうえに科学部のレポートまで重なっちゃって一杯一杯なんだ」
俺は苦笑気味に頭をかいた。普段はそれほど頻繁に宿題が出されるわけでもないのだが、珍しく出されたときに限って連動するかのように複数の教科で宿題が出てしまったのだ。
「それは、大変ですね」
姫宮さんも気圧されたように教科書に並べられた教科書群を眺めていた。
「さすがに全部教えてくれってわけにもいかないから……得意な教科とかあるか?」
「そうですね……この中なら、数学が」
姫宮さんは数学の問題集を指さした。
「じゃ、これをお願いしてもいいかな」
「はい」
他の教科書をしまい、俺は数学の問題集に取りかかる。
とりあえず自力でやってみてわからなくなったらきくというスタンスでやっているのだが、数学は苦手で自然と指示を仰ぐことが多くなってしまう。
そのたびに姫宮さんは丁寧に教えてくれるのだが、じぶんのふがいなさにちょっと反省する。
「あれ、この問題ってこの公式をつかうんだよな? なんかうまくいかないぞ」
「これは、そのまま公式をあてはめようとすると、情報が足りなくて計算が続かなくなってしまうんです。まずはべつの方法で、必要な条件を導き出して……」
授業を受けていないとはいえ、さすがは自力で勉強しているというところだろうか。もともと成績は優秀な子だったみたいだし、問題の捉え方とその解決への道筋の導き方がしっかりとしている。
「すごいな、姫宮さんは。教え方もわかりやすくて的確だし、すらすら解けて」
「そんな、すごくなんてありません。解き方とポイントをしっかり押さえて反復すれば、誰でもできるようになります。現にカズアキさんだってほら、教えたら解けましたよ」
控え目にそうこたえる姫宮さんである。
「いやあ、そのポイントをうまく捉えるのが難しいんだよ」
「だいじなのは、公式をそのまま覚えたり、現象の説明をそのまま覚えるのではなく、どうしてその問題がその公式で解けるのか、どうしてそういう現象が起きるのか、という成り立ちの部分に注目してみると良いかもしれません」
「成り立ちねえ」
「問題があれば、その解答があります。テストで問われるのは解答の部分ですけど、実際に試されているのは解答そのものというより、それを導き出すまでの過程なんです。どうしてその答えに至るのか、そこを考えながら勉強してみると、手応えが変わるかもしれません」
なるほど、と俺は感心していた。やはり優秀な子は構え方の時点からして違う。
俺なんかはクイズ番組の一問一答のように「こう問われたら答えはコレだ」と問題文から答えまでを一足飛びで求めようとしてしまうけれど、たしかにその間の過程を地続きで考えていけた方が確実にじぶんの力にできるような気はする。
「なるほどな。でもやっぱりすごいよ。俺は仮に姫宮さんみたいに考えたとしても、すぐに集中力が切れたり飽きたりして問題集から漫画本に読むものが変わっちゃいそうだ」
冗談めかして俺が笑うと、姫宮さんもくすくすと静かに笑っていた。
「姫宮さんは問題集やるのが面倒くさいと思ったり、飽きてべつのことをしたいと思ったりはしないのか?」
そう尋ねると、姫宮さんはちょっとだけ目線を伏せて、
「息抜きや、休憩はします。でも、あまり面倒とは、思わないんです」
「へえ、勉強そのものが好きとか?」
「そういうわけでは、ないんですが……。その」
いいにくそうに、俺の反応をうかがうようにしながらこういった。
「人生はすごく分厚い問題集のようだな、と思ったことはありませんか。それとくらべたら、学業の問題集はまだいいほうかなって」
ちょっとだけ、そのときの姫宮さんの表情が以前ファミレスの帰りにみせたものとだぶってみえた。
「うーん、あまりないかな。そういうふうに考えたことがない、というより、考えようとしたことじたいがないって感じだけど」
わりとマイペースな人生を歩んできたし、中学生の遊びたい盛りというとお気楽野郎にきこえてしまいそうだが、あまり人生というものじたい、真剣に考えてみたことがなかった。
「そうですよね、ごめんなさい。変なこと、いってしまって」
詫びるように姫宮さんは頭をさげる。
「いや、いいんだ。むしろきかせてくれないか。姫宮さんはどんなことを考えているのか、それには興味があるよ」
純粋に姫宮さんのことが知りたかった。事情を知るとか、過去を探るとかは関係なしに。
姫宮さんは言葉を探すようにゆっくりと、
「人生というのは、たくさんの問題を解いていくこと。そしてその問題集は生まれたときに与えられた一冊しかない。そういうふうにわたしは思うんです」
姫宮さんは手元にあった数学の問題集をなでながら語る。
「その問題集は、科目も、難しさも、出題形式も、解説の内容も、あらゆるものがひとによって異なるんです。みんなが同じ問題を出題されて、みんなが同じ方法で解答できると一概にいえるものではありません」
いいたいことはなんとなくわかる気がした。
生まれた家庭が裕福か貧困か、容姿が良いか悪いか、どんな環境で育つか、ひとによって様々だし、それは個人の力でどうにかなるものでもない。
「なんとなく、それはわかる気がするよ。俺も、家が金持ちならなあとか、もっと芸能人みたいなカッコいい顔ならなあとか羨ましく思ったことはなんどもある。でも、それを嘆いてもどうにもならないし、恵まれなかったひとでも努力して欠点を補ったり、長所を伸ばしたりしてがんばっているんじゃないかな」
姫宮さんはほんのわずかに、よく見ないとわからないくらいに小さく首を左右に揺り動かした――ような気がした。
「それは一理あると思います。けれど、逆をいえば一理しかないんです。成功したひとの視点からみた道理でしかないんです。
努力してなんとかなった。それは、そのひとの場合はそうだった、というだけなんです。他人よりも相当の努力を積み重ねても、成功しないひともいます。けれど失敗したひとに興味を示すひとはいないから、がんばったことを主張しても誰も聞き入れてくれない。
そして発言力をもった成功者が、みな口を揃えて『自分は苦しい努力を積み重ねたから成功した。失敗したやつは努力が足りない』そう言うんです。まるで欠席裁判みたいに」
姫宮さんは顔だけをこちらにむけて、でも視線はどこにやっていいかわからないというように、ためらいがちに視線を彷徨わせる。
「問題集にたとえると、こうです。
それぞれ個別に与えられた問題集をもとに、テストをすることになった。けれど先生は問題集によって難易度が異なることを知らなくて、ある生徒は簡単な問題ばかりだったり、またある生徒はとても難しい問題ばかり出題されたりします。
生徒たちは難易度がひとによって違うことに薄々感づいてはいるけれど、先生には逆らえないから言う通りにします。みんなそれぞれに問題集を勉強して、テスト当日をむかえます」
「うん」
俺は端的に頷いて、その先をうながす。
「ここでいう先生がいわゆる神様で、生徒というのはわたしたち人間です。そして問題集の難易度が、ひとそれぞれに用意された人生。
勉強した内容は違うのに、要求されるものも、合格のラインも、くだされる評価も同じ基準――良い点数が取れたかで評価されます。
だからテストを勝ち抜いていくのは、難易度の低い問題集をこなしている生徒たち。逆に難しい問題集をやっている生徒たちはどんどん脱落していきます。簡単な難易度をそれなりの努力でこなす生徒より、困難な問題をなんとか解き進めている生徒の方がよほど大変な努力を積み重ねているのに、です」
姫宮さんは、今度は大きく、なにかを諦めるように首を左右に振った。
「だけど、誰もその主張を聞き入れないし、努力も認めない。なぜなら、発言権を持っているのは、合格点がとれた生徒だけだから。じぶんが成功者の側に立てたのなら、それをいいことに文句はいわなくなるんです。
そして簡単な問題を解いて合格しただけの生徒が、困難な問題で苦労したすえに脱落した生徒にたいして『きみは努力が足りないからダメだったんだ。じぶんたちは努力したからうまくいった。みんな苦労しているんだ』なんて心ない言葉を吐きかける。それはとても、理不尽なことだと思うんです」
俺は姫宮さんの主張を肯定することはしなかった。だが否定するわけでもなく、ただ彼女のことを見つめていた。その、哀しそうにふせた瞳を。
「だから、ひとによって人生の苦しさも楽しさも、その度合いも割合も違うんです。恵まれた人生と、ある程度の苦しさという適度な負荷で、順調に成長することができたひとには、過度な負荷で折れてしまったひとのことは、わからないんです」
姫宮さんは顔ごと下をむく。
そうして長い沈黙。
だいぶ日が落ちていた。
第一音楽室も夕焼けで染まって、この時間帯特有の、今日一日が終わるという虚しさや寂しさが広がっていく。
「ごめんなさい。こんな、つまらない話を」
か細い声で姫宮さんはいった。
俺はできるだけいつもの調子を保ちながら、
「謝らなくていいよ、話してくれっていったのは俺の方だろう? 話すことで気が楽になることだってあるし。俺にとっても、そういう考え方もあるんだな、って見識が深まるっていうかさ」
俺は数学の問題集を片づけながら、
「それに姫宮さんのいいたいことだって、なんとなくわかる気がする。全面的に賛成ってわけじゃないけど、それこそ姫宮さんの言葉を借りれば、一理あると思うよ。一理だけな」
俺は鞄を肩にかつぎ、空いた方の手をぽんと、元気づけるみたいに姫宮さんの頭のうえに置いた。
「だけどさ。姫宮さんは真面目だから、問題はひとりで解かなきゃいけないと思い込んでるのかもしれないけど。本当のテストじゃないんだ、ひとりで無理なら誰かに手伝ってもらったっていいじゃないか。俺が姫宮さんに数学を教えてもらったみたいに」
姫宮さんはわずかに顔をあげる。俺は彼女の頭にのせた手を離して、
「俺でよければ、いつでも手伝うよ。そのかわりといっちゃなんだけど、また俺に勉強を教えてくれないか。明日……は土曜日だから、月曜日に。また来るからさ」
姫宮さんはこちらの方をみることはせず、しかし小声で、たしかにこう答えた。
「はい。……また、月曜日に」




