第六章/1
第六章/1
姫宮さんのところへ行くというだけならこれまでにも少なくない回数あったが、昼休みに行くというのは初めてのことになる。
あれから二日経って放課後に第一音楽室へ行くのが恒例になりつつあったが、演劇部の練習でなかなか放課後に時間をつくれない弥子の「あたしも未恋ちゃんのとこ行きたいもんー」という要望により、昼休みにふたりで行くことにしたのだ。
「ちょうど一週間ぶりだなあー。未恋ちゃんに会うの」
旧校舎への道すがら、給食にケーキが出ると判明した日の四限目の授業中みたいな、わくわくとした様子で弥子はいった。ちなみに、本日の給食は至ってふつうのソフト麺とうどんつゆ、サラダに竜田揚げ、牛乳などなどだった。
「カズくんばっかり未恋ちゃんと仲深めようとしちゃってさー。抜け駆けは許しません」
「べつに抜け駆けじゃねえよ。おまえが練習で来ないだけなんだから。俺が先を行ってるんじゃなくて、おまえが勝手に周回遅れしてるだけだ」
「しゅ、周回遅れ! およよ、カズくんはいつの間にかあたしの手の届かないところに行ってしまったんだね」
弥子は制服の袖を口もとに持っていき芝居掛かった動作で哀しそうに泣き真似をした。
「言葉の綾だよ。それよりほら、時間もそんなにないんだし、さっさと行くぞ」
昼休みは給食が終わってから五限目が始まるまでの約二十分間だが、なにしろ新校舎の一番端にある三年三組の教室から旧校舎の一番端にある第一音楽室までを往復することになるのだ。移動時間を考えると正味十五分とないかもしれない。
弥子を急かして第一音楽室へ。
いつものように先生から預かった鍵をつかって解錠する。
そしてまたいつも通りに第一音楽室に入ったのだが、その光景はいつもとすこしだけ違っていた。
オーバーヘッドタイプのごついヘッドホンをかぶった姫宮さんがグランドピアノの近くの席に座っている。そこまではいい。問題は次だ。
姫宮さんは本を読んでいるのではなく、慎ましやかにマヨネーズのパックをくわえていた。一般家庭で使うサイズの容器ではなく、携帯用の小さいものだが。
「あっ……」
俺たちに気がついた姫宮さんは、マヨネーズ容器の先をくちにした状態で固まって、林檎の成熟映像の早回しみたいに顔を赤らめた。
俺たちが姫宮さんの席の近くに座ると、
「ごめんなさい。はしたないところを、みせてしまって」
恥ずかしそうにこうべを垂れた。首にぶらさげたヘッドホンまで心なしか、しゅんとしているようにみえる。
「いや、急に来たのは俺たちだし、べつにかまわないけど……マヨネーズが好きなのか?」
マヨネーズが本当に好きなひとはマヨネーズ単体で食べたりすると話にきいたことはあったが、実際に見たのは初めてだった。そういえばファミレスでポテトの盛り合わせを食べていたときも姫宮さんはマヨネーズをつけていたっけ。
「……はい。風味と酸味が好きで」
こくりと、恥ずかしそうにうなずく。
「チューブをくちで吸うのは、マナーが悪いとわかっているのですが……。ほしくなってしまって。人目がないと、つい」
机のうえを見てみると、コンビニで買ったらしいおにぎりがふたつ(ツナマヨと明太マヨだった)と、例の携帯サイズのマヨネーズ、それとウーロン茶の紙パックが置いてある。
どうやら姫宮さんはいま昼食をとっていたらしい。
「悪いな、昼食中におじゃましちゃって」
「いえ、そんな。気になさらないでください」
姫宮さんは左右に首をふった。
と、弥子が身を乗り出し気味に、
「でもいいなー未恋ちゃん、マヨネーズってふとりやすいイメージだけど、未恋ちゃんは全然ふとってないもん」
たしかに弥子のいうとおりで、姫宮さんはシルエットが全体的に細く、むしろ華奢な部類に入るだろう。
「あたしもマヨネーズ好きだけど、ふとったら嫌だなーと思って付けすぎないように気をつけてるくらいなのに」
弥子も見る限り標準的な体形だが、わりと気をつかっているらしい。
「なにか体型をキープするコツとかあるの?」
「とくには、なにもしていなくて。痩せやすい体質なのかもしれません」
「うわーうらやましいよー。あたしはさ、お母さんがまん丸体型だから遺伝してたらヤバイ! と思ってけっこう気にしちゃうんだよねぇ。うちのお母さんはいっつも……――あ。えと、ごめんね」
姫宮さんのご両親の件を思い出したのだろう。母親というワードを姫宮さんのまえでくちにするのは良くないと弥子は思ったらしい。
弥子は申しわけなさそうに謝りを入れた。話に勢いがついてくると、考えるまえに言葉が出てしまうのは弥子の悪い癖ではある。
「いえ、気にしないでください。ほんとうに」
姫宮さんは姫宮さんで、弥子に謝らせてしまったのを悪いと思ったのか慌て気味にそういうと、
「むしろ、おふたりのご両親はどんな方ですか。きかせてください」
そう尋ねてきた。
弥子が「うーん……」と難しそうに考えていたので、先に俺の方から、
「俺の母さんはどこにでもいるありふれた感じだよ。勉強しろって口うるさくて、大雑把だけどなんだかんだで世話焼き、みたいな。父さんは口数少ないけど真面目なタイプかな」
と簡便にこたえたが、じぶんの両親はどんなひとかときかれると意外に返答に困るものだなと思った。
「そうだなあー」
弥子は顎に指をあてながらうえを見て、少々考えたあと、
「お母さんはけっこう能天気なひとだなぁ。どんなときも元気いっぱいで、あっけらかんとしてるっていうか。で、お父さんの方は親父ギャグが好きでさー。それがすっごい寒くてね」
「おまえがそれをいうか」
俺はつっこみを入れずにはいられなかった。夏の夜にコンビニなんかに設置されている電撃式殺虫機に飛び込んでいく虫と同じくらい、吸い寄せられるようにつっこんでしまった。
どうやら弥子の性格とギャグセンスは完全に親ゆずりのようだ。
「だってほんと寒いんだよ。あたしのよりも、もっと寒いの」
「じぶんのギャグも寒いってのは自覚してんだな……」
俺が呆れ気味にいうと、弥子は天恵を得たかのように、
「は、カズくん! 未恋ちゃん! 思いついたよ!」
俺と姫宮さんの顔を順にみて、いつもの宣言をした。
「なんでしょうか?」
「……もう好きにしろ」
そして弥子はとても楽しそうに言い放った。
「じぶんの親父ギャグが寒いなんて、おや自虐かい?」
そして「どうだ」といわんばかりの満足顔である。わりと手応えがあったらしい。
「ところでその明太マヨのおにぎりって美味いのか?」
「――あ、はい。とても、おいしいです」
「ちょ、ちょっとカズくんー! 未恋ちゃんまで! なんか反応してよー!」
弥子の親父ギャグに関わったらこっちまで火傷すると思ってスルーしたのだが、弥子は食い下がってくるのだった。
「ふふっ――」
と、上品な笑い声がきこえた。どこからかと思えば目の前。姫宮さんだった。片手で口元を隠すようにして、静かに笑っている。
「いいんだぞ、姫宮さん。弥子なんかに気をつかって笑ってやんなくても」
「いえ、ほんとうに、おもしろくて。その――ダジャレは寒かったんですけど、おふたりのやり取りが、なんだか」
「み、未恋ちゃん、その評価はあたしとしては複雑だよお……」
弥子はしなだれかかるように姫宮さんの肩に両手をのせて訴えかけていた。
「ぐすん……」
芝居がかった泣き顔で弥子は立ち上がり、
「ちょっとお花摘みに行ってきます」
まるで学校を徘徊する幽霊みたいな足取りで(幽霊に足があるのかは知らないが)第一音楽室を出ていく。
「鳴河さん、気を落としていないでしょうか……」
姫宮さんは心配そうに弥子の背中を見送る。
「大丈夫だよ、あいつの親父ギャグがウケないのはいまにはじまったことじゃないから」
そうこたえると姫宮さんはほっとしたような顔をした。
「それよりさ、姫宮さんのご両親はどんなひとだったんだ? もちろん話したくなければ無理はしなくていいんだけど」
俺がそう尋ねると、一瞬の間こそあったものの、
「いえ、だいじょうぶです」
やわらかくほほ笑んで応じてくれた。
「母は、とてもやさしいひとでした」
目をとじ、思い出を懐かしむように、
「いつも穏やかで、一緒にいるとまるで、ひだまりにいるみたいに温かなきもちになれました。母はピアノが上手で、わたしはよく、ピアノを弾く母の近くで本を読んでいました。その時間が、とても好きでした」
そう語る姫宮さんはほんとうに安らぎに満ちた、幸せそうな顔をしていた。
「へえ、姫宮さんのお母さんはピアノが弾けたのか。じゃ、姫宮さんがピアノを聴くのが好きっていうのはその辺りが由来してるのかもな」
「……そうかも、しれませんね」
と、姫宮さんはじゃっかん後ろめたそうに視線を逸らしてから、肯定した。
すこし気になったが、いちいち勘繰りを入れてもしようがない。
俺はすぐそばにある古びたグランドピアノを見る。
「今日もなにかピアノの曲を聴いてたのか? そのヘッドホンで。よかったらどんな曲か聴かせてくれよ」
気になって、姫宮さんの首にぶらさがっている例のヘッドホンを指さしながら俺はきいた。
部屋は静かだが、ヘッドホンの方から音が漏れてきこえてくるようなことはない。おそらくヘッドホンを外したときに、一緒に曲も停止させたのだろう。
「いえ、あの……。これは……これは、その、ダメです」
落ち着いた表情を不意に崩して焦燥気味にいう。彼女にしては珍しい、必死な目をしていた。
「その、ごめんなさい。あまり……おもしろくない曲ですから」
そして、すまなそうに頭をさげた。
「ああ。いや、いいんだ。気にしなくて」
俺は片手を左右に振って「いいよいいよ」と受けこたえる。嫌がるのを無理に要求する程のことではない。
「それじゃあさ、姫宮さん自身はピアノを弾けたりするのか?」
べつの話題にした方がいいか、と思い俺はそう尋ねた。
「昔から母のピアノを聴いてばかりで、わたしが弾くことはできないんです」
姫宮さんは残念そうにこたえた。
「そうなのか。姫宮さんのイメージにはピアノ似合うと思ったんだけどな。なんかこう清楚な感じっていうか」
物静かで純粋そうで、どこか儚げで。上品な姫宮さんとピアノは非常に相性がよさそうに思える。
「そんなこと、ありません」
謙遜気味に否定するが、やはり俺はピアノを弾く姫宮さんというのが見てみたいと思った。
「俺が教えるからさ、ためしに弾いてみないか? 教えるっていっても俺自身が全然うまくないけど、それっぽくはなるんじゃないかな」
姫宮さんはしばしの逡巡を見せたあと、
「それじゃあ、おねがいします」
「よし、それじゃ」
俺は立ち上がり、ピアノの方へむかおうとした。
そのとき、
「あっ――」
俺に続いて立ち上がろうとした姫宮さんだったが、彼女は首にヘッドホンをぶらさげていて、そのコードは足元に置いた鞄の中へと伸びている。踏み出そうとした足にコードが引っ掛かり、姫宮さんの身体が前方へと傾いていった。
「危ない!」
思わず俺は手を伸ばし、転びそうになった姫宮さんの身体を抱きとめるように、まえに出た。
「きゃっ」
胸のあたりにドンと姫宮さんの腕が当たる。姫宮さんの身体を受けとめるのには成功したが、
「うわっとと――」
咄嗟のことで俺の体勢も悪く、踏ん張りがきかない。
そのままじぶんの身体を支えきることができず、体勢を崩してしまった。
「痛てて……」
運良く、じぶんがさっき座っていた椅子に着席する形になったものの、
「あっ……」
俺は不意に、顔が熱くなった。
俺の胸元あたりに、姫宮さんはしなだれかかるようにして体重をあずけていた。それも、椅子に座った俺の両脚の間にすっぽりと収まるようにして。
俺の顔のすぐ目の前に、彼女の艶やかな黒髪が見えていた。女性独特の、シャンプーやコンディショナーの甘く爽やかな匂いが鼻腔を撫でる。
ドキドキと心音が強く鳴っているのがじぶんでもわかる。心臓を起点にして、首もとから頭頂部にかけては特に血液が強く脈打ってるのを感じる。
長い沈黙の時間を感じたのは、ただ単に俺に余裕がなかったからなのかもしれない。だが、ほんとうに長く感じた。
「その……ケガはないか」
なにか喋らなくちゃと思って、でもなにをいっていいかわからなくて、おれは苦し紛れにそう尋ねた。
姫宮さんは静かに、ゆっくりと頭を縦に揺らした。
頬を寄せるようにして、姫宮さんの顔は俺の胸に当てられている。もしかしたら心臓の音はきこえてしまっていて、俺の焦りもバレバレになってしまっているのかもしれない。そう考えると余計に恥ずかしくなって、鼓動が速くなる。
やばい、はやく姫宮さんにどいてもらわないと――。
そのときふっと、姫宮さんが顔をあげた。
俺の見下ろす視線と、彼女の見上げる視線がまっすぐに交錯する。
姫宮さんの頬は朱をさしたようにほんのり赤くなっていた。瞳もなんだかとろんとしていて、ぼうっとしているみたいで。初めてこんな間近でみる唇は透明感に満ちていて。
なんだか、見てはいけないものを、見ているような。触れてはいけないものに、触れているような。そんな背徳感すら覚えてしまう。
彼女の口元がわずかに緩み、
「あの――」
なにか、いおうとして、
「ふいー。カズくん、未恋ちゃん、ただいまー」
勢いよくドアがひらいた。やってきたのはもちろん弥子だった。
俺たちは慌てて離れ、さっきと同じようにそれぞれ着席している状態になる。
「どうしたの。なんだかふたりとも顔赤いけど。それに、そわそわしてるし」
不思議そうに、俺と姫宮さんの顔を交互に眺める。
なにか見られちゃまずいものが残っているわけでもないのに、胃から食道にかけてきゅっと搾り上げられるような緊張感が身体を駆けていく。
「いや、べつに、とくに変わったことはなかったぞ。俺たちはここで雑談してただけだし。な、姫宮さん」
じゃっかん、しどろもどろになりながらも姫宮さんに同意を求める。
「…………」
うつむき加減に身を縮こまらせた姫宮さんは、声は出さずに首を縦に動かした。
「うーん。なーんかなー。あやしいなー」
腑に落ちなさそうにしていた弥子だったが、そのとき救いを差し伸べるかのように昼休み終了のチャイムが鳴った。
「あ! まずいよ、カズくん! はやく教室に戻らないと五限目に遅刻しちゃう!」
慌て気味に「それじゃ、またねっ」と姫宮さんにわかれの言葉を残して駆けだす弥子とは対象的に、俺が内心ほっとしていたのは、いうまでもない。




