第五章/1
第五章/1
「あれ……おはよ、カズくん」
弥子は玄関から出て俺の姿を見るなりきょとんと、いわゆる鳩が豆鉄砲でも食ったような顔をした。
「カズくんがうちのまえで待ってるなんてほんと珍しいね」
「おう」
俺は挨拶がてらに軽く手をあげる。
昨日弥子が俺の家の前で待っていたのと正反対の構図になるが、これは本当に珍しいことだ。小学生の頃から数えても、朝俺が弥子を待っているなんてことは片手で足りる程度しかない。
「話があってさ」
学校への道のりを行きながら、俺は昨日のこと――武山先生からきいた事情を伝えた。
説明をしている間弥子はずっと神妙な面持ちで、終始聞き役に徹していた。
火事があったという事情を知っている弥子は、俺の話がどういう指向性を持つものになるかある程度予想できていたのだろう。
説明を終えると弥子は、
「そっか……」
とだけこたえ、後ろ手に鞄を持って、しゅんと下をむいた。
すこし間を置いて、
「ちょっとあたしたち、でしゃばっちゃったかな」
そうつぶやいた。
「未恋ちゃんの事情を知りもしないでさ、彼女のところにおしかけて、教室においでよなんて。挙句は事情を詮索するようなことまでしちゃってさ」
弥子も昨日の俺と同じことを思っているようだった。
「俺も、そう思った。けどさ、昨日の夜……色々考えたんだ」
「うん」
「姫宮さんがみんなと同じように教室にくるようになって楽しそうにしてくれればそれが一番良いことだと思う」
「そうだね、それはあたしも賛成」
弥子はこちらを見るとすこしだけ表情を明るくして頷いた。
俺もそれを確認するように首肯して、「ただ――」と付け加える。
「だけどさ『姫宮さんに教室に来てほしい』ってのは最終結果なんだよ。俺が願ってるのはもっと単純なことで『姫宮さんにもっと笑ってほしい』ってことなんだ」
「おお」
わずかだが、弥子の顔にいつも通りのひょうきんさが戻った。
「姫宮さんはさ、笑うとけっこうかわいいんだよ。ほがらかというか、のどかというか。だからさ、場所なんてどこだっていいんだ、とにかくまずは姫宮さんが笑顔になれるように……って、おい、なんで笑ってるんだよ!」
弥子は笑いを堪えるように(ただし実際は堪えられていない)身体をぴくぴくと小刻みに震えさせていた。
ついに我慢できなくなったようで、水中から息継ぎをするみたいに顔をあげて、
「ひ、ひぃぃはは。ご、ごめん! なんかカズくんがカッコよかったから似合わなくって」
「な」
弥子にいわれ、俺は「はっ」とする。すこし感情がたかぶっていたのと、話し相手が気心の知れた弥子だったということもあって、つい素直に話しすぎてしまっていた。
「しかも『俺が願ってるのは』って、ちゃんとあたしのことも頭数に入れてよー。それとも、カズくんもしかして個人的に……ふっふっふぅ~」
「お、おい」
「いえいえ、いいんですよぉ~。べつに学校の行事でも学級委員の義務でもないんだから、未恋ちゃんのためになにかしてあげたいっていう気持ちが、ヒャクパーセント私情でもなんの問題もありませんよぉ~」
口元に手をあてた弥子は目をUの字形にして笑いながらいった。いまなら弥子の顔文字を簡単につくれそうな気がするが、おちょくられているのは完全に俺の方だ。
俺は照れ隠しに、
「と、とにかく、笑うのをやめろ! 俺は姫宮さんに笑ってほしかったんであって、お前を笑い転げさせたかったわけじゃねえっ」
「ごめんてぇ。ごめんぅぅ」
そしてやっとのことで黙ると、笑って目元にたまった涙をふきながら、
「うん、さっきもいったけど、カズくんの意見には賛成」
弥子は両手を組んで上げると、ぐっと背筋をのばし冗談っぽく、
「でもちょっとジェラシー。カズくんいつも遊んでばっかで子どものままだなーってほほ笑ましく思ってたのに、ちょっと頼もしく見えちゃったよ。やっぱ男の子なんだなーってさ」
「いまさら褒めても許さん。というか褒めてるようで実のとこ、けなしてる部分の方が多くないか」
俺はむすっとした顔で先を行く。もちろん本気で怒ってるわけではないが。
「ちょーっとカズくぅーん!」
追いかけてきて弥子は俺の鞄を引っ張る。
俺はそのまま力尽くで弥子もろとも鞄を引いてまえに進んでいく。
が、交差点の信号待ちにつかまってしまって立ち止まらざるを得なくなる。
青から赤に変わった信号をみて、俺はふと昨日の武山先生の話――リトマス試験紙の話を思い出した。
昨日は帰ってから調べるなどということもせず、けっきょく答えはわからなかったのだが、ちょうどいいから弥子をすこし悩ませてやろう。笑われた仕返しだ。
「なあ弥子、問題だ」
「ほい」
俺のとなりにぴょこんと立って並ぶと、弥子は俺の出題に耳を傾ける。
「リトマス試験紙ってあるだろ? あれをアルカリ性の液体につけたら何色に変わるか、わかるか」
「青」
即答だった。
「なんだと……」
俺は愕然とし、数秒遅れてからぽかんと口をあけた。
出題した俺自身が答えをわかっていないので、弥子の解答が間違いという可能性も残っているが、この即答っぷりをみるとおそらく正しいのだろう。
昨日の俺と同じように「うーん……」と頭を悩ます弥子を見られると思ったのだが、よくよく考えてみれば、弥子はふだん能天気で馬鹿っぽくみえるものの、学業に関しては俺よりよほど優秀なのだった。
「なんでわかったんだ……?」
俺は無作為に選んだはずのトランプの数字とマークをマジシャンに言い当てられてしまった一般客みたいに尋ねた。
「だって授業でやったし」
と弥子はごもっともな返答をすると、鞄から科学のノートを取り出し、ぱらぱらとページをめくる。そして、
「これこれ!」
と指さす。そこにはリトマス試験紙の反応について色々書いてあり、注釈に『信号が、赤から青に、歩けるぜい(アルカリ性)』『青い梅、干したら赤に、酸っぱいね(酸性)』と書いてあった。
「かなり強引な親父ギャグ……しかもまた無駄に五七五調……」
「うん! 授業中に思いついちゃったから、書いといたんだー。でもね、ダジャレで覚えるのってけっこう頭に残るんだよ?」
弥子はにやにや得意げな顔をした。
俺はがっくりと肩を落とす。あれだけ馬鹿にしていたダジャレによって、返り討ちにあってしまうとは。
弥子はノートを鞄にしまいながら、
「は! カズくん、思いついたよ!」
追い討ちをかけるように、例の宣言をする。またなにかダジャレを思いついたらしい。
が、それと同時に信号の色が青に変わった。
「もう言わんでいいっ」
俺は半ば逃走するように、交差点を駆けだした。




