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第三章/3

第三章/3



 会計をすませてファミレスを出る。日が暮れはじめていた。空は、朱のブロックと紺のブロックを乱暴にぶつけたような雑な混ざり方をしていて、近場は赤く、遠方は青い。

 ときおり、ぬるいような涼しいような、これまた中途半端な風が肌を撫でていく。


 帰り道が同じ方角だったので途中まで送っていくことにした。


 ふたりで、並んで歩く。


 姫宮さんは例のごとくヘッドホンをかけていた。さすがに俺と一緒にいるので、頭にかぶるのではなく首にぶらさげているだけだが。


「そういや音楽はどんなのを聴いてるんだ? やっぱり好きなんだろ、音楽聴くの」


 俺は姫宮さんの首もと――ヘッドホンを指さしてきいた。いつもつけているくらいだからよほどの音楽好きなのかと思っていたのだが、ファミレスではそういう話はいっさい出ず、かえって気になっていた。


 姫宮さんは言葉を探しているといったふうで、視線をあちらこちらへと彷徨わせながらやっと、

「好きなのは、ピアノです。ただ――」

 片手でそっとヘッドホンの耳当てに触れ、

「これできいているのは、べつのもののことが多いです」


「べつの?」


 俺がそう問うと、少しいいにくそうに、


「落ち着くんです」


 とだけいって言葉を切った。


「落ち着く曲ねぇ」


 俺は適当に相槌をうちながら、なんだか腑に落ちない、と感じていた。


 たとえば、いつなんどきもヘッドホンを装着してまで音楽を聴いているわりには、あまり音楽への執着が感じられないということ。本の話をしたときは、物静かな彼女の印象とは違ってよく喋っていたのに、音楽のときはどうも淡白に感じる。


 それに彼女は「落ち着く」とこたえたが、初めて音楽室であったとき俺と弥子の自己紹介が聞き取れなかったり、今日みたいに近くで声をかけても会話がしにくくなるくらいの大音量で音楽を聴いていて「落ち着く」という返答になるものだろうか。

 もちろん何を聴いているかにもよるし、人の趣味趣向、感覚の違いなので俺とは考え方が違うのかもしれないが。


「クラシックっていうんだっけ? ピアノの演奏を収録したCDとか。そういうのは聴いたりはしないのか?」


 ときどきピアニストのCDがニュースで話題になったりして、そのたびにミーハーなうちの母さんは買ったりしている。「どれも同じにきこえるわねぇ」と素人丸出しな感想をいって棚のこやしになるのが通例だが。


「ピアノの曲は、第一音楽室にいるとき、ときどき」


「音楽室とピアノの曲は相性ぴったりだな」


 学校での姫宮さんの姿を思い出す。古びたグランドピアノのそばでひとり本を読んでいて、ヘッドホンで聴いているのはピアノの演奏曲ということか。

 ヘッドホンがすこし浮いている気もするが、なかなかに優雅な絵が目に浮かぶ。夕陽のさす無人の音楽室で、ピアノの演奏曲を聴きながら読書をする少女。絵画にでもして飾りたいくらいだ。


 だけど――。


「あのさ」


 やっぱりそれは寂しいと思う。


 俺は思いきって提案をしてみることにした。


「教室に、顔を出してみる気はないか」


「え……」


 こうして何度か姫宮さんと話してみた限りでは、彼女はけっして他者とのコミュニケーションをとることができないような人間ではないと思う。

 毎日を無人の音楽室でひとりきりで送るより、クラスのみんなと楽しくすごせたら、その方が彼女にとっても良いことなんじゃないだろうか。


「ごめんなさい。まだ、その。……気持ちが」


「理由をおしえてくれないか? 教室に顔を出さない理由を。力になれるかわかんねーけど、できることなら協力するよ。俺だけじゃない、弥子も同じ気持ちだし、なんなら俺の友だちのお気楽野郎だって引っ張り出せばちょっとは役に立つかもしれない」


 姫宮さんは足をとめた。そのまま黙ってうつむいてしまう。俺も立ち止まり、

「誰かにいじめられてる……とか、そういう事情なのか?」

 なんとなく、ひきこもる原因で思い浮かんだものを口にしてみる。


 姫宮さんは、左右に首を振る。


「それじゃあ、その……過去に異性と何かあったとか」


 再び左右に首を振った。


「誰も、悪くないんです。悪いひとは、誰も」


 消え入りそうな声だった。


「誰もいないんです」


 そのまま沈黙になってしまう。


 だいぶ話をしてくれるようになったと思っていたが、やはり内面に一歩踏み込もうとすると、彼女はそれを許してくれない。


 だが、ここで引き下がったら何も変わらないと思った。


 俺が弾くピアノを聴いてくれていたときの落ち着いた表情や、本を探しているときの楽しげな表情、そういう顔をもっとしていてほしい、それをクラスで、みんなとの交流の中でも見せてほしい。そう思った。


「押しつけがましくきこえるかもしれないけどさ、俺は姫宮さんが教室にきて、ふつうにクラスのみんなと笑っているような、そんな学校生活を送ってほしいと思ってる。少なくとも、いまみたいに、ひとりで音楽室にとじこもっているような毎日よりはよっぽど良いと思うんだ」


 姫宮さんは黙ったまま。


 そんな様子を見て、俺はつい熱がこもってしまって、声に力が入ってしまう。

「さっき、ファミレスでいっただろ? じぶんの人生が満足できるものとは限らない、だから本を読んで別の人生をあじわうんだって。姫宮さんはいまのじぶんの人生に満足できていないんじゃないのか?」


 わずかに反応があった。下を向いたままで表情はわからないが、肩は小刻みに震えている。


「だから教えてほしいんだ。いまのままじゃ俺に何ができるのかも、どうすれば解決できるのかも、なにもわからない。けど、ひとりじゃ無理でもさ、みんなと一緒にがんばれば、それこそ死ぬ気でがんばれば、なにかが変わると思うんだ」


 そのとき、意を決したように姫宮さんはいった。


「死にたいと――」


 すこし震え気味の声だった。



「死にたいと、思ったことはありますか」



 風が吹いて、彼女の黒髪とワンピースが揺れる。


 夕陽が地平線と重なり始めて、ぼんやりと薄暗くなってきていた。


 俺は却下されるのがわかっていながら、

「テストの点が酷かったときとか、欲しいものが売り切れてたり、なにかが思い通りにならなかったときに冗談で死にてえっていうことはあるけど、もちろんそういう意味じゃないんだよな」


 こくり、と姫宮さんはうなずく。

「生きていれば、たくさんの苦しいこともあれば、反対に楽しいこともあります」


「そうだな」

 まだ人生経験をどうこういえるほど長く生きたわけではないが、それはよくいわれていることだし、当然のことだとも思う。


「けれど、その量やバランス、度合いはひとによって違うと思うんです」


「ああ」


 俺はうなずき、姫宮さんの言葉に耳を傾ける。


「ひとが生きている理由は、その『苦』と『楽』のどちらが重いかを天秤にかけたときに、幸せなことの方が勝るからだと思うんです。

 天秤は常に揺らいでいて、『苦』の側の皿が底に当たったとき、ひとは死を選ぶんです。その判断は、ひとによってとてもシビアだったり、鈍かったりします。天秤が一瞬『苦』の側に片寄っただけで死がよぎるひともいれば、ちょっとだけ耐えて『楽』が巻き返すのを待てるひともいる」


「そこら辺は個人の忍耐力とか、辛抱強さってやつになるのかな」


 俺がそういうと、姫宮さんは左右に首を振って否定した。


「それは忍耐力とか我慢とか、そういう個人の能力の問題ではないんです。いままでの人生がどうだったか、で決まるんです。期待や、見込みの問題なんです」


「いままでの人生?」


「良いことが多い人生を歩んでいれば、すこし待てばまた幸運がくると思う。逆に苦しみが多い人生を歩んでいれば、これ以上待っても余計に苦しみを重ねるだけだと考える。

 そうして『苦』の側にばかり重りがのって、もうどうにも秤があがりそうにないと思ったり、たったひとつの不幸が重すぎて、一気に底を叩いたりして、死を選ぶんです。

 反対に、苦しいことよりも楽しいことの方が勝っているひとは、まだ生きていたいと願う。待っていれば良いことがあるかもしれない、天秤が『楽』の側に傾くかもしれない、という期待があるんです。その『期待』が命綱で、『苦』が底を叩かないように、抑えているんです」


 姫宮さんは顔をあげ、俺の目をみつめた。


「わたしには、それがありません」


 だがその瞳は、彼女の弁とは裏腹に、とても弱々しい。


「もう、わたしの天秤はとっくに『苦』の底を叩いていて……けれど、死のうと思っても、怖いんです。首に紐をかけてみても、屋上に立ってみても、喉に刃物をあてがってみても、臆病者のわたしは怖くて、それさえ諦めてしまうんです。死ねないまま、壊れた天秤を抱えたまま、ただただ毎日をさまよっているんです」


 いまにも泣きだしそうなくらいに、声はひどく震えていた。


 俺はそれに耐えかねて、

「でもさ、死ぬのは駄目だ。お前が死んだら哀しむ人は絶対いる。家族とか友だちとか。俺だって、もし姫宮さんが死んだなんてきかされたら、ほんとうに悲しい。弥子なら大泣きするに決まってる。だから生きていてほしいし、いまこうして姫宮さんが生きていることは尊いことだ」


 姫宮さんは首を振った。


「それは、無責任で、残酷な言葉です。死のうとしている人間は、悩みに悩んで、道を模索した結果に、もう死ぬしかないという結論に辿り着くんです。死ぬ以外の道は、地獄にしか続いていないことに気づいてしまっているんです。

 じぶんが『死』に囲い込まれているのに、その状態で他人の気持ちを推し量る余裕は、ないんです。

 誰よりも救われたいのは自分自身なのに、他人の哀しみのことまで考えていられないんです。他人が哀しまないために、わたしは苦しんででも生きる。他人の『楽』のために、わたしは踏み台として天秤に『苦』の重りをのせ続ける。それは耐えられないんです」


 俺は言葉を返すことができなかった。そういわれてしまったら、もうなにもいえない。なにをいっても、彼女を傷つける言葉にしかならないじゃないか。


「でも、わたしは生きることを選べないくせに、死ぬことにも踏み切れない臆病者なんです。たくさんのひとに迷惑をかけて、じぶんの主張を通すくせに実行できない、卑怯で迷惑な人間なんです」


 姫宮さんはそっと、ふたたび俺の目をみて、問うた。



「それでも、友だちでいたいと思いますか――」



 俺は何もこたえられなかった。


 けっして姫宮さんの考え方に、吐露した感情に嫌悪感をもったわけではない。だけど、もろ手をあげて賛同できるかといわれればそれも否だった。


 ここで俺がなにをいっても、ただの綺麗事、詭弁になってしまう気がして、なにもいえなかった。


「だからクラスには、いけません」


 もう何度目になるだろうか、彼女は視線を歩道の隅にやり、そのまま顔を伏せた。一瞬見えたその表情には後悔とか、諦めとか、そういった負の気持ちが滲んでいるような気がした。


 華奢な背を俺に向けて、彼女は静かに歩き出す。


 あとを追うことは、いまの俺にはできなかった。呼び止めても、俺はかける言葉を持ち合わせていない。


 やがて、彼女の姿は夕闇の中に消えてしまった。


 俺以外、この場に誰もいなくなる。まるで示し合わせたかのように、他のひとが通りかかるようなことはなかった。


「――なんだよ」


 だけど、ここで投げだしちゃいけないと思った。ここで見捨ててはいけないと思った。


 彼女が顔を伏せたとき――


「――泣いてんじゃねえかよ」


 寂しげに表情が歪んだその瞬間。その目が潤んでいたのを、俺はたしかに見たから。


 俺はまだ、姫宮さんの心を縛りつけているものが何なのか、その原因をきかせてもらっていない。


 姫宮さんは無理だと判断したかもしれないが、それはあくまで彼女の判断だ。俺は俺の判断で納得できるまでは、諦めたくない。


 彼女は救いを求めている。そう思った。


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