4.変身
俺は無我夢中でギャミを引き離し、彼女にぼろぼろにされた服のまま、裸足で部屋を脱出した。
アパートから二百メートルほどの距離にある、公園まで全力疾走で逃げ、すっかり息切れした俺は、木陰のベンチに腰を下ろした。
「ウウ……」
汗が目にしみる。緊張から解放された身体は重い。痛む首筋をさすった。傷口に手で触れれば、まだ血が付いて来る。唇からもしたたる血を、手の甲でぬぐった。
やられた。俺の初めてを奪われた……簡単に。
尖った歯が生えたギャミに、いきなり口づけされ、必死で抵抗した。無理やり押さえこまれ、恐怖のあまり、手加減なしでギャミを蹴ったが、彼女はあまりにも怪力すぎた。
なんてことだろう。昨日まで赤ん坊だったくせに、容赦なく俺を――
ギャミに何度も噛みつかれた傷跡は体中に残っている。
血を抜かれたのか、毒を注入されたのか、なにがなんだかわからないが、とにかく、彼女に襲われ、ものすごくたくさんの元気を吸い取られたことは間違いなかった。
ギャミは危険すぎる。今すぐ警察へ通報した方がいい。
その前に腹が減った。ギャミのせいで、昨夜からまともな食事はしていない。近くのコンビニへ何か買いに行こうと思い、ショートパンツのポケットをさぐって絶望に陥った。
財布も携帯電話も部屋に残したまま。ああ、一文無し。
どんなに嫌でも、ギャミが居座る部屋へ戻るしかない。
ふと、公園内のブランコが目に入った。
あれ? あれはブランコじゃないよな。ブランコみたいな形をしているけど。楽しそうに揺れて、俺を誘っているような。
俺はふらふらとブランコに近寄って行った。
俺は今、何をやっていた?
目の前には、座る部分がなくなってしまったブランコ。
違うぞ。これはブランコではなかった。親切な誰かが、ブランコの椅子の形に焼いたパンを置いていってくれたに決まっている。俺が食べるように。
ぐずぐずしている場合じゃない。ギャミを野放しにしておけない。警察まで歩いて行こう。公園内を斜めに通り抜ければ、その先に交番があったはず。
ブランコの椅子一人前を食して満足した俺は、歩き出した。
まだ朝の六時なので、歩いている人は少ないが、犬の散歩やジョギングの人なら、ちらほらいる。すれ違う人たちは皆、みじめな裸足の俺を、気の毒そうな目で見て行く。その人たちに、携帯電話を持っているなら警察を呼んでほしい、と頼もうと思ったが、あからさまに嫌そうな顔をされると声をかけにくい。服に血が付いているのだから、どん引きされても仕方がなかった。
まさに敗走兵の気分。俺は拾った赤ん坊に襲われた哀れな男。向こうから歩いて来ていた、犬の散歩の人が、俺を避けるように急に方向転換して、走って逃げて行った。
そんなに髪がぼさぼさになって見苦しいのかと、頭に手をやった。
「……」
不思議な違和感。
頭頂部の髪は、太い毛糸のような手触りだった。
ドレッドヘア? 驚いて、両手で頭全体を確かめると、両耳の横の頭髪が、ばっさりと抜け落ちた。
「えっ、ハゲ?」
あせって、頭全体に触れる。バサバサと塊になって抜け落ちる、俺の黒い髪。頭頂部のごわごわした髪だけは残っていることがわかった。
なんだこれは。
残った頭髪は、モヒカン型の、ギャミの髪並びにそっくり。ベルトぐらいの幅で縦一列に生え、しかもドレッド風。
「うえぇぇ」
今の俺は、毛糸のように太い髪を生やした、みじめったらしくて残念なモヒカン男になっているらしい。とにかく、恥ずかしくても一刻も早く警察へ行き、事情を話すしかない。
抜け落ちた髪を肩から掃いながら、重い足取りで歩いた。ギャミと格闘状態になったせいか、ひどく肩が疲れている。筋肉痛の後のような身体の痛みを感じ、ランニングシャツを着ていることすら、苦痛になってきた。
「あ?」
今、どこか服が破れた音が。
尻が破れたわけでないなら、まあいい。世の中もっと恐ろしい事はいっぱいあるから気にしないのだ。それよりすべてを奪われた上、わけもわからずモヒカンもどきになっているショックの方が大きい。
んん?
いつもと違って見える風景。いつの間にか、視界が異様に高くなっていることに気がついた。二階の家の窓も覗けそうなほどに。なぜこうなっているのかを考える気力もない。
あ。
とうとうランニングシャツの脇が破れた。もう古くなっていたからな。
なんとなく、先ほど逃げてきた自分のアパートの方を振り返った。付近は、二階建ての民家が並ぶ住宅街で、背が高い建物と言えば、ギャミを拾ったマンションの他には、俺が住む四階建ての古アパートしかなく、どちらもここから見える。
アパートの屋上には――
「あいつめ」
ああ、俺のモヒカンの元。
清い身体だった俺を、なんのためらいもなく襲った女があそこに。