2.子育ては甘くない
自分の目を疑った。
牛乳をすくって入れたスプーンは、首から先がぽっきりと折れて無くなっていた。ギャミは催促するように、俺をじっと見つめてくる。
「おまえはスプーンを食うのか。じゃあ、食えるものなら、食ってみろよ!」
こいつは、幸せな父親気分をあっと言う間にぶち壊しやがった。せっかく癒されていたのに。スプーンの先で怪我をしたってかまうものか。
俺はギャミの手に、棒だけになってしまったスプーンを握らせようと――
思った瞬間には、スプーン棒は、俺の手から無くなってしまい、ギャミの口がモゴモゴと動いていた。
「ピィ」
なんだこいつ。魚みたいな口をしているくせに、ひよこに似た鳴き声を出すのか。
口の中が空になると、ウルルな黒い瞳が俺を捕える。
「はあ? 催促かよ」
二本目のスプーンを持ってくると、ギャミは、目で追えないような速さで手を伸ばし、あっという間にスプーンは食された。
「おまえ、なんなんだよ」
ギャミは、待ちきれないように手足をばたつかせる。
なんだか腹が立ってきた。こいつ、長い手で一瞬のうちに俺からスプーンを取りあげやがった。まだ動くこともできない赤ん坊だと思っていたのに。
「ピィー」
「待て、お座りだ。いや、お手をしないと次の餌はやらないぞ」
「ピイイイイイー!」
できるわけないか。俺の言葉を理解できないだろうけど、ちょっと意地悪なことを言ってみたかった。
「うるさい、近所迷惑だって。俺は見ての通りひとり暮しだから、何本も置いていないスプーンをこれ以上食われたら困るんだよ。赤ん坊らしく牛乳でも飲んでいろ」
スプーンでなく、先ほど温めた、牛乳が入ったコーヒーカップを見せた。ところが、ギャミは気に入らない様子で、俺の手を払いのけてしまった。
俺の膝に牛乳が思いっきりこぼれ、ズボンを通して俺の皮膚に到達し、狭い部屋に牛乳臭が満ちる。臭すぎてこのままではいられない。
怒りを押さえながら、ギャミを睨みつけた。
「おい、俺はシャワーを浴びてくる。おまえが牛乳をこぼしたからだ。静かにしていないと、ゴミ捨て場行きにしてやるからな。わかったか!」
俺は脅し文句を一方的に出すと、むずかるギャミを散らかった部屋に放置したまま、風呂場へ向かった。
牛乳をこぼされただけでも、ものすごく腹が立つ。こいつは、これだから捨てられたのかもしれない。
シャワーを頭から浴びながら、いろいろ考え、明日、出勤前の早朝に家を出て、ギャミを警察へ連れて行くことに決めた。今すぐの通報は夜が遅いのでやめ。間もなく日付が変わる時間に警察にここへ来てほしくない。
捨て子として警察へ連れて行くことは、かわいそうな気がしても、冷静に考えれば、最初からそうすべき。気分で連れてきてしまったものの、子育てはかわいいだけではなかったと猛反省。
シャワーを終え、ランニングとショートパンツ姿で居間へ戻ると、ギャミがいない。どこへ転がって行ったかと、狭い部屋の中を見回せば。
「ギャミ……」
頭を拭いていたバスタオルを、落としてしまった。
ギャミは、冷蔵庫の前に立っていた。つかまり立ちでなく、しっかりと両足で。まだ歩けない、歩けるわけがない、と思い込んでいたのに。
冷蔵庫の扉は半分ほど食べられ、全開になっている。彼女は、冷やしてあった缶ビールを、缶ごと口に押し込み、口からあふれたビールの泡をその辺りにこぼしまくっている最中だった。
「おまえ、歩けるのか! いつの間にそんなに大きくなったんだよ。俺のビールをよくも……このやろう、冷蔵庫を壊したな」
ギャミは、身長八十センチほどに成長していた。あまりのことに、ここにいるやつとギャミとは別人だと思いたかったが、こいつはやっぱりギャミだ。着ているのは俺のTシャツ。
ギャミは俺に気がつくと、目を輝かせて、喜びの表情を見せた。
「ピヨピヨ」
大きくなっても、かわいい声を出して甘え鳴く。ギャミを殴り飛ばしたい気持ちを必死で抑えた。
「やってくれたな。こんな真夏に冷蔵庫を破壊しやがって。こらっ、それ以上食うな。冷蔵庫から離れて、さっきの場所に戻れ」
意外にも、ギャミは俺の命令に素直に従ってくれた。満腹になったようで、先ほどのタオル上までハイハイで戻っていき、ゴロンと横になる。
やれやれ、と思ったとたん、ギャミの寝息が聞こえてきた。
……簡単すぎるやつだ。
ほっとしたものの、室内の空気は最悪。こぼされた、ビールと牛乳の臭いが混じってエアコンの風でかき回されている。
悲しかった。