第3話 焼け残ったもの
「少し眩しいですよ。」
白衣の男はそう言うと、手に持ったペンライトの光を依織の目に向けた。鋭い光が目に突き刺さり、依織は思わず眉をしかめる。男は左右の瞳孔の動きを確認すると、「左右瞳孔反射問題なし……」と呟きながらカルテに何かを書き込んだ。
「これは何本に見えますか?」
男は依織の目の前に指を二本立てる。依織はぼんやりとした視界の中で、それを見つめた。指先の輪郭が少し揺れている。
「…………2本……です……」
依織は喉がひどく乾いていた。そのせいか彼の声は弱々しく、掠れている。
「今から私の言う言葉を記憶してください。桜、猫、電車。」
「さくら…………ねこ……でんしゃ……はい……」
「今度は私が。双海依織さん、今は西暦何年か分かりますか?」
白衣の男に続き、白衣の女が矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。頭がはっきりとしない。数秒の間を置いて、依織はゆっくりと口を開く。
「えぇ、と……今は…2026……」
「うん。見当識問題なし。それじゃあ次、年齢は?」
「……17……です……」
「問題は無さそうね。」
白衣の女はカルテに視線を落とし、数行ほど何かを書き込んだ。ペン先が紙を擦る乾いた音が、やけに大きく聞こえる。
「さっき言った言葉、覚えていますか?」
依織は一度瞬きをした。頭の奥を探るように、ゆっくりと口を動かす。
「……さくら……ねこ……でんしゃ……」
「うん、正解。」
女は小さく頷き、ちらりと依織の体を見下ろした。その視線が胸元から腹部の辺りを一瞬だけなぞる。
「意識レベルはクリアだな。会話も成立してる。」
「ええ。認知面での魔術的後遺症も問題なし。奇跡的と言っていいわね。」
依織は二人の間で交わされる言葉の意味を理解できず、虚ろの目で二人の顔を交互に見つめた。
その視線に気がついた白衣の男はカルテを閉じ、小さく咳払いをした。
「双海さん。体に痛みはありますか?」
依織は視線を落とした。そして、両手をゆっくりと繰り返し開閉してみる。指は問題なく動く。腕も、足も、胸も、どこにも大きな痛みはない。
確かに燃えていたはずの体には、何らその痕跡がない。
「……ない……です。」
掠れた声でそう答えると、二人は一瞬だけ視線を交わした。
ほんのわずかな沈黙。
「…そう。それはとても良いことね。」
女は短くそう言った。言葉の内容とは裏腹に、その声にはどこか慎重な響きが混じっていた。依織は喉の奥の渇きをこらえながら、二人の顔を見比べた。
「……ここ……どこですか……」
その問いに、白衣の男はほんのわずかに眉を動かした。だがすぐに、何でもないような顔を浮かべ、穏やかに答える。
「安心してください。ここは医療施設です。あなたは火災の被害者として保護されました。」
火災。
その言葉を聞いた瞬間、依織の脳裏に赤い光が走った。燃え上がる炎。焼け焦げた臭い。黒く崩れた二つの塊。
「火災って……」
依織の呼吸がわずかに乱れる。
「………………父さんと、母さんは……」
依織の言葉は、最後まで形にならなかった。白衣の男女がほんの一瞬だけ視線を交わす。そして依織の様子をしばらく観察するように見つめ、男が静かに口を開いた。
「……残念ですが、ご両親は現場で亡くなられています。」
三人の間に、医療機器の微かな電子音だけが無機質に響いている。依織は、しばらく何も言わなかった。
「……」
依織はただ、自分の手を見ていた。
焼け跡一つない、白い手。受け入れ難い事実から逃避するかのように、滑らかな自分の皮膚を睨みつけていた。
「間違い……じゃないですか?…………それ……だって……だって、火傷もないですよ……俺……」
依織はそう言って病院着の隙間に手を入れ、自身の胸元を撫でた。指先は傷一つない皮膚の感触と、混乱によって激しく拍動する心臓を捉える。
「双海さんはここに来た時、全身にⅡ度からⅢ度の……つまり、体中に深刻な火傷を負っていました。」
「いや、だから……火傷なんて……」
「信じられないのも無理はありません。」
白衣の男は隣の女に視線を送りながら、言葉を選ぶように言った。女は小さく頷き、カルテの端に何かを書き込みながら補足する。
「双海さんの体は通常の医療技術では再生不可能な損傷を負っていました。そこで我々はあなたの生物学的再生のため、複数の魔術を使用しました。」
「…………魔術?」
依織の口から掠れた声が漏れる。あまりにも突拍子なく現れたその単語に、依織の意識は束の間火傷のことから離れた。
「はい。魔術です。」
女はあっさりと答えた。その表情は至って平静で、冗談を言っているようには見えない。白衣の男は、依織の顔に浮かぶ困惑の色を見て小さく咳払いをした。
「……順を追って説明しましょう。」
男はそう言うと、少し距離を置いた位置に立ったまま話し始めた。
「我々は火災現場で双海さんを回収し、通常の医療技術のみでの対応は不可能だと判断したため、魔術による治療を実施しました。」
依織はしばらく呆然と二人の顔を眺めていたが、やがて小さく首を振った。
「…………すいません……えっと……つまり、これはその……………………何なんですか?」
依織がそう言うと、二人は互いに短く目配せをした。女が依織の目を見て、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「魔術というのは……ざっくりと説明するならば、今の科学では説明が難しい未知の力を引き出す技術、といったところです。」
依織は言葉の意味を噛みしめようと、ぼんやりと空中を見つめた。だが、頭の芯が痺れたように働かない。現実味のない言葉たちが、統率を失った思考の渦をかき回していく。
「我々はそうした力を利用して、双海さんの肉体を修復しました。……ただ、あなたの回復は我々の施した魔術だけでは説明ができないんです。」
男は言葉を選びながら、慎重に依織の反応を窺った。依織は黙ったまま、ただ瞬きを繰り返す。何も言わない彼の様子を見て、男は話を続ける。
「通常、熱傷がここまで回復することはありません。たとえ魔術を併用したとしても、です。」
「………」
男と女が相互に視線を交わす。数秒の沈黙の後、男は口を開いた。
「……双海さんは、生得的な魔法能力を有している可能性があります。」
「魔法能力……?」
依織は掠れた声で繰り返す。白衣の男女は小さく頷いた。
「これはあくまで推測ですが、双海さんの体が異常なまでの回復を見せたのは、そうした特性が働いた結果である可能性が高いのです。」
「あなたのご両親は、どちらも卓越した魔術師でした。であれば、何らかの魔術的作用によって偶発的に魔法能力が発達する可能性もあります。」
依織は黙ったまま、彼らの言葉を反芻しようとした。だが、頭の中には疑問符が渦巻くばかりだ。魔術や魔法が存在すると。両親は魔術師だと。次々に詰め込まれるあまりにも非現実的な情報に、依織の脳は悲鳴をあげていた。
「……ちょっと……わけがわからないんですけど……」
彼の声は震えていた。混乱と疲労が入り混じり、頭がふらつく。処理しきれないほどの情報量と、それを受け入れることの困難さが彼の精神を圧迫していた。
「当然の反応です。あまりにも理解し難いことだと思います。…………詳しい事はまた改めてご説明します。まずはゆっくり休息をとりましょう。」
男はそう言うと、女の方を向いて小さく頷いた。彼女はそれに応え、依織から顔を背けてカーテンに手をかける。
「あの……」
依織は掠れた声で、二人に声をかけた。
「……もう一つ……教えてください」
依織は絞り出すように言った。二人は動きを止めて一瞬だけ戸惑ったような表情を見せたが、すぐに穏やかな顔に戻る。そして男が振り向き、「何ですか」と優しく促した。
依織は、しばらく迷うように唇を動かした。ややあって、ようやく言葉を紡いだ。
「俺……燃やされたんです……家にいた、知らない女に……あの女は一体、何なんですか?」
依織のその問いに、白衣の男女は一瞬だけ視線を交わした。そして男が依織の顔をじっと見つめながら口を開いた。
「双海さんを攻撃したのは、魔法少女と呼ばれる存在です。……ご両親を殺害したのもその存在です。」
「まほう……しょうじょ……」
依織は虚空を見つめてそう反復する。二人は少しの間そのまま動きを止めていたが、ややあって軽く会釈をしてカーテンをくぐって行った。
部屋の中に依織だけが残される。依織はベッドの上で微動だにせずに座っていた。彼は頭の中には、白衣の二人の口から出た言葉が反響していた。
魔法。魔術。魔術師。魔法少女。
そのどれもが、依織にとって理解不能で非現実的な概念だった。この世界には魔術が存在しており、両親は魔術師だった。そして二人は魔法少女に焼き殺され、魔法の力を持っていた依織だけが生き残った。まるで御伽噺か、悪趣味なファンタジーのようだ。
きっとこれは夢だ、と依織は思った。こんな馬鹿げたことが現実なはずがないと、依織は考えた。ベッドに横になり、深呼吸をする。
この悪夢から目覚めることを期待して、ゆっくりと目を瞑る。
数分の沈黙を経て、依織の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。彼は目を開け、天井を睨みつける。赤く充血した両目から幾筋もの涙が流れ、顔を伝い枕に染みを作る。
依織は、全てが現実だと気づいた。全てを夢だと思い込もうとしても、あの鮮烈な苦痛と恐怖が脳裏に焼き付いていた。骨に達する高熱。逃げ場のない激痛。理解不能な恐怖。肺を満たす不快な臭気。そして、無惨に焦げた両親の死体。彼に刻み込まれたその記憶が、あの出来事が現実だったことを突きつける。
「父さん……母さん……」
嗚咽の混じった声が、静かな空間に微かに響く。彼の手が震えながらシーツを握りしめ、皺を作る。
依織は歯を食いしばり、なおも天井を睨んだ。
呼吸が荒くなり、心拍が早まる。顔面は紅潮し、眼球は毛細血管が弾けんばかりに血走る。全身の筋肉が軋み、体の内側に制御できない焼灼感が走る。依織の体に繋がった心電図のモニターがアラームを鳴らす。
依織は声を上げた。獣のような唸り声。それは咆哮だった。依織の頭の中を占領していた混乱は、怒りに焼き払われていた。
焼け残ったものは、ただ一つの意志だけだった。
あの魔法少女を殺す。
ただ、それだけが。




