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第2話 不協和の目覚め

『…』


 暗闇の中に、何かが微かに反響している。


 鼓動ではない。

 燃える音でもない。


『……おり……』


 声だ、と依織は気づいた。


『……依織。』


 女の声。誰の声かは分からない。


 だが、依織には聞き覚えがあった。今まで何度も、何度も聞いてきた声だ。厳しく、恐ろしく、暖かく、優しく。その声は、様々な感情と結びつけられ記憶されていたものだ。



『依織。そろそろご飯できるから、パパ呼んできて』


 依織は声のした方に顔を向ける。そこには、エプロンを着た母親の背中があった。先程まで辺りを包んでいた無は、いつの間にか見覚えのあるキッチンに姿を変えている。


 グツグツと音を立てる鍋をかき混ぜながら、彼女は少しだけ振り向く。


『聞いてる?パパ呼んできて』


 鍋から沸き立つ湯気のせいか、彼女の顔はわずかにぼやけている。味噌と出汁の匂いが、温かい空気と一緒にキッチンの中に広がっている。


 依織はぼんやりとその光景を見つめていた。


 この光景を見ているのは確かに自分だという実感がある。だが、同時に少しだけ遠い。テレビの映像を眺めているような、奇妙な感覚があった。


『……依織?』


 母が不思議そうに眉を寄せる。


『どうしたの。ぼーっとして』


 依織は、ぱちぱちと何度か瞬きをした。


「……ああ、うん」


 自分の声が、妙に頼りなく聞こえる。


「呼んでくる。」


 彼はそう言ってキッチンを出ようとした。やけに高い位置にあるドアノブを掴み、捻る。


 がちゃりというドアの音がした次の瞬間、なぜか依織は車の助手席に座っていた。


 エンジンとカーオーディオの音が依織の鼓膜を揺さぶる。依織はしばらく車窓を流れていく街の灯りを眺めたあと、運転席に視線を向けた。そこには腕まくりをした父の姿があった。眼鏡の奥の彼の目が、対向車のライトを浴びて眩しそうに細められる。


『まぁ、なんだ。今日は残念だったな。』


 まっすぐ前を見たまま、父はそう言った。その横顔は信号の赤い光を受けてわずかに赤く染まっている。


 しばらくの間、二人の間に沈黙が訪れる。低い振動と、小さなラジオの音だけがその間を満たしていく。何かのトーク番組らしく、パーソナリティが軽い調子で笑っている。


『次の大会に向けて練習すりゃいいさ。気にしすぎんな。』


 車はウインカーを出しながら、交差点をゆっくりと曲がる。オレンジ色の街灯が、フロントガラスを横切っていった。


『落ち込んでてもどうにもなんないぞ。』


 父は少しだけ笑った。


『次どうするか、だ。』


 依織は窓の外を見た。見慣れた住宅街。コンビニの明かり。歩道を歩く人影。どれも普段通りの景色のはずなのに、なぜか少しだけ輪郭が曖昧に見える。


「……わかってるよ。」


 依織の口から小さな声が漏れた。なぜか、その声は自分の声ではないように感じられた。流れる車窓の風景。明滅する街灯。そして父の横顔。見覚えがある景色だというのに、その全てに違和感があった。はっきりとした異常があるわけではない。ただ何かがおかしいような、漠然とした居心地の悪さがあった。


「あれ?そういえば……今何をしてたんだっけ。」


 依織は自分が今何をしていたのかを思い出そうとした。母に頼まれて父を呼びに来たのか?いや、今は部活動の大会の帰り道で……。必死に頭を回転させているつもりになっているが、一向に考えはまとまらない。それどころか、思考しようとすればするほど、何かが食い違っている様な気配が肥大する。


「……父さん」


『ん?』


 父は前を見たまま、短く返事をする。


「俺、さっき……」


 そこまで言いかけて、言葉が止まった。何を言おうとしていたのか、自分でも分からない。依織はゆっくりと瞬きをする。視界を遮る瞼の動きすらも、まるで錆びた鉄扉のようにぎこちない。ラジオの声が、やけに遠く聞こえる。


 依織はふと、鼻先をひくつかせた。


 何かが焦げたような臭いが、依織の鼻の奥を刺す。腐った卵のような、体にまとわりつくような不快な刺激臭だ。何の臭いかは分からないが、その臭気は依織に耐え難い不安を想起させた。


「父さん……なんか、この臭い……」


 そう言って横を見る。そこには、父はいなかった。


 依織は、家のリビングにいた。強烈な臭気が漂う部屋の中に、ただ一人立っていた。


 生暖かい空気が喉の奥にまとわりつく。視界が暗い。カーテンの隙間から差し込む夕方の光が、部屋の中を斜めに照らしていた。


 その光の中で、床のあちこちが黒く汚れているのが見える。壁は煤け、テーブルの脚は焼け焦げていた。


 ぱち、と小さな音がした。


 依織はゆっくりと視線を落とす。そうしてテーブルの向こう側を覗き込む。


 そこに、黒い塊があった。


 真っ黒な二つの塊が、蹲るような姿勢で床に倒れ伏していた。その表面は黒くひび割れ、所々から赤黒い中身が覗いている。


 依織の中で警鐘が鳴る。見てはいけないと、本能がそう叫んでいる。だが、彼の視界は言うことを聞かない。まるで録画された映像を再生しているかのように、彼の意思とは無関係に目の前のそれに焦点が合ってしまう。


 焼けただれた指。その指に巻きついた指輪を、彼の視界は鮮明に捉えた。


 依織の中で、何かが激しく軋み始める。


 味噌汁の匂い。キッチンの湯気。父の横顔。車のライト。


 それらが、火に呑まれていく。


 炎。刺激臭。死体。燃え上がる家具。そして、ソファーに座っていた、あの少女。


 依織の視界が歪む。散逸していた意識と記憶が、強引に頭の奥から引きずり出され繋がっていく。


 熱。燃える剣。体を包む炎。皮膚が焼ける臭い。体内に侵入してくる苦痛。


 依織は思い出してしまった。


 絶え間ないフラッシュバックが、熱が、痛みが、苦しみが、依織の中を滅茶苦茶に掻き回していく。


 依織の声にならない叫びが、喉の奥で潰れた。


 その瞬間、すべてが止まった。苦痛が、恐怖が、唐突に切り取られた。


 周囲が、静かな闇に包まれる。


『ねえ』


 闇の中で声がする。聞き覚えのない少女の声だ。依織は、声のする方に必死に目を凝らした。


『ねえ』


 暗闇の中にうっすらと何かが見える。それは白っぽく、ぼんやりとした存在で、不明確な輪郭が周囲の闇に滲んでいる。歪に引き伸ばされた裸の人間のような形をしたそれは、不規則にゆらゆらと揺れ動いている。



『ねえ』


 声の主が、近づいてくる。やがてそれは依織の目の前に迫り、そして──────


『起きて』


 その音声が依織の体内で弾ける。瞬間、依織の意識は急速に浮上した。


 白い光が、瞼の裏を突き刺す。


 依織は、ゆっくりと目を開いた。


 少し霞んでいるが、天井が見える。真っ白な、無機質な天井だった。四角い照明が、冷たい光をまっすぐに降らせている。しばらくの間、依織はそれをただぼんやりと見つめていた。


 一定の間隔で電子音が鳴っている。どこか遠くで、機械が低く唸る音も聞こえる。依織はゆっくりと瞬きをする。視界の輪郭が、じわじわと形を取り戻していく。


「……」


 喉がひどく乾いていた。声を出そうとしたが、うまく息が通らない。口の中はひどく苦く、舌が重く感じる。


 首を持ち上げて辺りを見回す。依織はベッドに横たえられていた。その周囲はカーテンに囲まれていて、腕には点滴が繋がれている。


「……あ……」


 かすれた声が、ようやく喉から漏れた。


 その瞬間、依織の脳裏に炎が閃いた。


 焼ける臭い。黒い死体。燃え上がる部屋。そして──あの少女。依織の瞳が大きく見開かれる。


「……っ」


 肺が急激に空気を求め、依織は荒く息を吸い込んだ。胸が痛み、体の奥がじんわりと熱を帯びている。ベッドガードに捕まりながら体を起こすと、布団を払いのけて自分の身体を見下ろした。


 病院着から覗く手も、足も、胸元も。綺麗な肌をしていた。


 焼けていない。皮膚はただ少し青白いだけで、火傷の痕どころか、かすり傷すら見当たらない。


「え……は……?」


 依織の喉から、かすれた声が漏れる。


 燃えたはずだ。


 炎が体を包み、皮膚が焼けていく感触を確かに覚えている。あの熱も、あの臭いも、あの痛みも。確かに思い出すことができる。だが、目の前にある彼の身体はまるで何事もなかったかのようだ。


 依織は震える手で自分の腕を触った。生きた人間の体温が、皮膚を伝ってじんわりと広がる。


 その時、カーテンの向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。バタバタと駆ける音が、こちらへと近づいてくる。


 勢いよくカーテンが開かれる。そこには、白衣を着た男女が立っていた。


「マジか……」


 白衣の男は驚きの色を顔に浮かべ、静かにそう漏らした。

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