第1話 着火
『……次のニュースです。きょう未明、東京都品川コンテナ埠頭で発見された男性の遺体について、警視庁は事故の可能性が高いと発表しました。』
アナウンサーの落ち着いた声が、イヤホンの奥で淡々と続く。
少年はイヤホンのコードを繋いだスマートフォンをポケットに入れたまま、いつもの帰り道を歩いていた。高校三年生に進級した頃から、登下校の時間にニュースを聴くようになった。小論文対策になる、と進路指導の教師に言われたからだ。
ニュースの内容には大して興味があるわけではない。ただの習慣として、受験生らしいことをしているという気分になれるから彼はニュースを聞いている。
少年の名前は双海依織。都内の公立高校に通う、受験を控えたごく普通の高校生だ。成績は悪くないが、特別いいわけでもない。将来の目標も、まだはっきりとは決まっていなかった。
彼には特別な趣味もなければ、部活に熱中した経験もない。努力を積み重ねてきた経験もほとんどなく、強いていえば定期考査の前に数日勉強をしてきた程度だ。なんでもそれなりにこなせてきた経験が、より高いものを目指そうとする意志を育てなかった。
そうしたことが原因で、彼は受験勉強にどう打ち込むべきなのかよくわからずにいた。それゆえの焦燥感が、最近の依織に小さな影を落としている。自分がなにをしたいのか、どこに向かおうとしているのか。答えのない問いが、時折心の中に浮かび上がった。
志望している私立大学も、今の学力で届きそうなところをとりあえず選んだだけだった。
ぼーっと歩いていた依織は目の前で赤に変わった信号機を見て、はっと我に返る。横断歩道に踏み出しかけていた足を引っ込め、小さく息を吐いた。
『…現地メディアによりますと、フランス南東部のグルノーブルで発生した爆発事故について、地下に溜まった何らかの可燃性ガスが直接の原因だとする…』
イヤホンの向こうで、ニュースの内容はすでに別の話題に移っていた。スマートフォンを取りだして画面を見る。表示されたデジタル時計が、ちょうど18時2分に切り替わった。
信号が青になる。依織はスマートフォンをポケットに滑り込ませると、横断歩道を渡った。人通りの少ない住宅街の細い道へと入り、ぼんやりと歩き続ける。見慣れた電柱、見慣れた塀、見慣れた家々。それらが視界の縁を流れていく。そして程なくして、見慣れた自宅の門が見えてきた。
イヤホンを外し、ポケットの中に乱雑に詰め込む。玄関の扉の前に立ち、鍵を開けた。
「今日の夕飯はなんだろう」などと呑気なことを考えながら、依織はドアを引いた。
「ただい…」
そこまで言いかけ、依織は思わず口元を手で覆った。家の中から流れ出してくる生暖かい空気。その空気は異様な臭気を孕んでいて、依織の鼻腔に強烈な不快感を伴って突き刺さる。甘ったるく油っぽい、それでいて硫黄のような刺激臭。髪の毛を燃やした時の臭いを何百倍にも強烈にしたような臭いだった。
「くっさ……え、なに?」
依織は眉をひそめる。
玄関の電気は着いている。両親の靴も、いつも通り並んでいる。なのに、家の中は妙に静かだった。
「……ただいま。」
口元を抑えたまま再び言い直す。だが、返事はない。
「母さん、なんの臭い?これ。」
靴を脱ぎ、依織はゆっくりと廊下へ上がった。フローリングに足を踏み出した瞬間、床がわずかにざらりとした感触を返してくる。視線を落とすと、フローリングの上にうっすらと黒い粉のようなものが散っていた。靴下の裏にこびりついたそれは、煤のようにも見える。
「……なんだこれ。」
思わずつぶやく。
家の奥からは、やはり何の音もしない。テレビの音も、台所で食器が触れ合う音も聞こえない。両親の息遣いも、そこにはない。
依織は廊下の奥を見た。リビングの扉が、わずかに開いている。その隙間から、薄暗い室内が覗いていた。壁の一部が、黒く煤けているように見える。
胸の奥で、嫌な予感がゆっくりと膨らんでいく。
「……母さん?……父さん?」
返事はない。近づくにつれ、あの焦げた臭いがさらに強くなる。吐き気を誘うような臭いに顔をしかめながら、依織は一歩、また一歩と廊下を進んだ。
リビングのドアの前まで来たところで、足が止まった。隙間から見える床に何かが倒れていた。黒くなったテーブルの脚。その向こうに、何か黒い塊のようなものが見えた。
依織は、それが何なのか理解できなかった。
少しだけ開かれたドアに手を掛け、ゆっくりと押し開いた。きし、と乾いた音を立ててドアがさらに開く。その瞬間、濃い刺激臭が依織の顔を殴るように押し寄せた。
思わず息を止める。
リビングの中は薄暗く、天井の照明は消えたままだった。カーテンの隙間から差し込む夕方の光が、部屋の中を斜めに照らしている。
その光の中で、床のあちこちが黒く汚れているのが見えた。テーブルの脚は焼け焦げ、壁には煤がまだらに広がっている。
まるで、小さな火事でも起きた後のようだった。
「……え?」
依織の喉から、かすれた声が漏れる。
視線が、床の奥へと引き寄せられる。
テーブルの向こう側。そこに、黒く崩れた塊のようなものが横たわっていた。
最初、それが何なのか分からなかった。
だが、数秒遅れて、依織の中でその塊の形が意味を持ち始める。
細く突き出たもの。曲がった関節。人の腕のような輪郭。そして、真っ黒な指に巻きついた銀色の婚約指輪。
「……う……え?は?」
依織の下半身から力が抜け、思わず転倒しそうになる。胸の奥で心臓がどくん、と強く脈打つ。
視線を動かすと、そのすぐそばにもう一つ同じように黒く焼け焦げた影が、床に倒れている。
真っ黒に蹲った二つのそれは、人の形をしていた。
依織の頭の中が一瞬で真っ白になる。心臓が激しい音を立て、呼吸がコントロールできなくなる。浅い呼吸が繰り返され、手足の末端が痺れてくる。
「う……おぇ……お……」
どろりと、依織の口から吐瀉物がこぼれ落ちる。どろどろとした液体が彼の制服を汚し、煤で汚れた床に流れ落ちる。
自分の意思で視線を動かすことすら出来ず、目の前の黒い塊が、脳内でゆっくりと処理されてしまう。
「……かぁ……さん……とぉ……さ……」
喉の奥から絞り出した言葉が、自分の耳にも遠く響くように感じる。頭の中は白く麻痺し、混乱と恐怖と衝撃が渦巻く。依織の全身から力が抜け、床に座り込む。
「……双海依織、ね。」
突如として視界外から女の声がする。依織は今にも途切れそうな意識を何とか繋ぎとめ、その声のした方向に顔を向けた。
薄暗いリビングのソファーに、誰かが座っていた。
依織と同じくらいの年齢に見える顔。細く白い身体。深紅のストレートロングヘアー。和服のような意匠の、黒地に赤とオレンジのラインの走った奇妙なドレス。そして、過剰なほど大きなリボン。
凄惨なこの部屋の様相とは明らかに不釣り合いな、異様な格好の少女がソファーに腰掛けている。彼女は依織の方を見ると、組んでいた脚を下ろして立ち上がる。膝下までを覆っているロングブーツが擦れ、ぎしりと音を立てる。
「だ……だれ……誰、なん──」
床の上で後ずさりしながら、依織は尋ねた。恐怖と混乱に呑まれ、震える唇から言葉の断片を紡ぐのが精一杯だった。そんな彼の姿を、少女は人形のような美しい無表情で見下ろす。艶やかな髪が、さらりとその顔を撫でるように揺れていた。
「ここを……燃やさなくてはならないの。」
少女は依織の必死の問いに答えず、ただそう呟いた。ガラス細工のようなオレンジ色の虹彩は、ただ真っ直ぐに依織の顔面に向けられている。依織は彼女の存在も、その言葉の意味も、この状況も、その一切を理解出来ないでいた。ただ硬直して、吐物に塗れた口を開けたまま彼女の方を見上げていた。
少女の左手がゆっくりと持ち上がり、依織に向けて掲げられる。その手のひらには、黒い煙のようなものが纏わりついていた。煙は指先から徐々に形を成し始め、細長い何かへと変化していく。まるで生き物のように蠢く煙は、少女の左手を中心に渦を巻き、次第に密度を増していった。やがてそれは棒状に形を成し、完全な形を取る。
──剣。
凝集した煙が金属質のそれを形成し終えると同時に、刃の部分が発火した。強烈な火光が暗くなりつつあった部屋を隅々まで照らし、刀身から発生した熱風が部屋の中をかき回す。依織はその異常な光景を目の当たりにして、驚愕のあまり声も出せずに凍り付く。
火炎を相手に指揮棒を振るように、少女の手に握られた剣がゆっくりと横に振られる。その動作に合わせ、家具と床がごうという音を立てて発火した。
黒焦げになった両親の死体。目の前の異常な存在。火炎。熱。臭気。混沌に支配されていた依織の脳内で、それらはいつの間にか一つの像を結んでいた。
"死ぬ。"
今まで感じたことの無い恐怖と共に、その二文字が頭蓋骨の内側で膨れ上がる。
逃走を命じる脳に反して、彼の肉体は細かな痙攣を示すばかりでまるで動かない。その間にも、肌に伝わる熱は勢力を増していく。汗と涙と胃液でぐちゃぐちゃになっていた依織の顔が、急速に乾かされていく。
彼女の剣先がゆっくりと依織の方に向けられる。燃え盛る剣に反して少女の顔は相変わらず無表情で、その瞳にはただ目の前の炎だけが反射している。
依織は咄嗟に両手を前に出した。目をぎゅっと瞑り、無防備な両手で顔を守る。
その直後、瞼の裏側の闇だけを映していた彼の視界がオレンジ色の光に包まれた。
依織は両腕に感じたことの無い程の激烈な熱を感じた。その感覚は一秒にも満たない程のごく短い間に、皮膚の下へと突き刺さる激痛に上書きされる。
依織の両手が、松明のように燃え盛っていた。
両手を包んだ火は前腕を瞬く間に伝う。身にまとった学生服が燃料となり、炎が上半身を包み込む。服の繊維が焼き溶かされ、溶けたポリエステルが皮膚の深くを焼き貫く。耐え難い熱と苦痛が、彼の体表面を隙間なく包み込んでいく。
依織は絶叫した。だが、叫ぶために息を吸い込むと、口から喉の粘膜が焼け爛れ凄まじい苦痛を生む。それでも叫ぶのを止めることは出来ない。何度も何度も、苦痛の叫びをあげる。だが程なくしてその声も出なくなる。体の内側が沸騰するような、経験したことの無い苦痛が彼を満たしていた。
痛みのせいか、それとも燃焼によって生じた有毒ガスのせいか。依織の意識は苦痛の中で急速にその輪郭を失っていった。
視界が狭まり、網膜を焼く炎の光が遠のいていく。ぱちぱちという、自身の肉の焼ける音だけが残る。
目の前が暗くなり、前後左右が分からなくなる。
熱も、痛みも、分からなくなる。
心拍も、呼吸も、全て分からなくなる。
深く、深く。依織の意識は全ての感覚から切り離され、冷たい闇の中へと沈降した。




