藪の中〜オマージュ〜
※芥川「藪の中」の**構造(複数証言/食い違い/最後に死霊)**だけを借り、内容は別の事件として書いたものです。
目次
役人に問われたる炭焼きの物語
役人に問われたる旅芸人の物語
役人に問われたる番太の物語
役人に問われたる老女の物語
× × ×
盗賊「葛蔵」の白状
観音堂に来れる女の懺悔
巫子の口を借りたる死霊の物語
役人に問われたる炭焼きの物語
へえ、見つけたのはわしでござんす。嘘は申しませぬ。今朝は夜明け前から、いつもの谷へ炭を運びに参りましてな。谷と申しても、里からは二つ尾根を越えた、藤の蔓のからむ湿っぽい窪地でござんす。あの辺りは人の入らぬ藪で、春でも冷えます。鳥の声も、途中からふっと消えるような所で。
そこで、藪の中に――男が倒れておりました。仰向けで、胸のあたりに穴があいたように見えました。血は……血はもう黒く乾いておりましてな。竹の落葉に滲んで、土が紫がかっておりました。臭いだけが、妙に新しい。
衣は都ふうで、薄鼠の狩衣に、革紐の腰帯。髷は崩れておらず、顔も乱れておらん。つまり、もがいた様子は少ないように見えました。が、足元だけは、草が踏み荒らされ、藤蔓が切れておった。そこは不思議でござんす。
近くに落ちていたもの? ええ、二つ。
一つは、細い綱でござんす。炭俵を縛る綱とは違う、もっとしなやかな、獣の腱みたいな綱。
もう一つは、小さな鈴のついた根付――女もののようで、朱が剥げておりました。
刃物は見えませぬ。弓も太刀も見えませぬ。藪は深いが、目を凝らせば光るものは分かる。なのに、無い。
馬? 馬の跡はありませぬ。あの谷へ馬は入りませぬ。踏み入れば脚を取られて、腹まで沈みます。
ただ、妙なことに、藪の縁に新しい草鞋の跡が二つ、別々の向きへ伸びておりました。ひとつは谷へ、ひとつは――道へ戻る方へ。
役人さま、わしは炭焼きでござんす。人を殺す度胸も、恨みもありゃしませぬ。ただ、あの男の顔は、どこかで見た気がする。都から流れて来た商人の一行に、似たのがおりました。が、確かではありませぬ。わしらは、人の顔をよく見ちゃいけねえ暮らしでござんすから。
役人に問われたる旅芸人の物語
昨日の昼過ぎ、確かにその男と女を見ました。わたしは旅芸人で、笛と小太鼓を持って、関の茶屋で銭を稼いでおりました。客が引いて、しめり気のある風が吹いた頃です。
その二人が、峠を下りて来たのです。
男は、若い。背は高くはないが、肩がしっかりしている。都の人間にしては歩き方が土臭い。いや、都育ちのふりをしている田舎者――そんな感じでした。
女は、顔を布で隠していました。薄い藤色の布で、目だけが見えた。目が……妙に冷たかった。泣き腫らした目ではない。怒っている目でもない。冷たい、というより、決めている目でした。
男は女を馬に乗せ、手綱を引いて歩いていた。馬は栗毛。首に汗が光っていた。
わたしは、道の端に寄り、笛を止めて二人を見送りました。すると男が、わたしの笛を見て、ほんの少し笑いました。笑った、というより、口の端が動いただけ。
その時、女が男に何か言いました。声は聞こえない。でも唇の形だけが見えた。
「……やめて」
そう言ったように見えました。
それからしばらくして、峠の向こうから、誰かの叫び声が一度だけ聞こえました。女の声か、男の声かは分かりません。風が持っていったのです。
叫びの後、鳥がばたばたと飛び立った。あの辺りは、叫び声があると鳥が逃げます。獣よりも先に。
役人さま、わたしは嘘をついても得をしませぬ。芸で飯を食う者は、目の前の気配だけが商売です。
ただ――あの女は、怯えているようには見えなかった。
あの男も、女を守ろうとしているようには見えなかった。
どちらも、何かを終わらせに行く足でした。
役人に問われたる番太の物語
捕えたのは確かに「葛蔵」でございます。名のある盗賊で、女に手を出すことでも有名な。
昨夜、子の刻の少し前、川沿いの石段でうずくまっていたところを、私どもが取り囲みました。葛蔵は息が荒く、肩口に浅い切り傷があった。刀傷ではなく、爪で引っ掻いたような傷でございます。
手には弓。背には矢筒。腰には短刀。どれも新しい血の臭いがしました。
葛蔵は最初、笑っておりました。
「役人が来るのが遅い」
などと、ほざいた。
だが、足元を見ると、草鞋がちぎれ、泥だらけで、藪を這ったのは明らかでした。
役人さま、あの死骸の持ち物に弓矢があったか?――旅法師の証言にもあったように、あの男は弓矢を携えていたはず。ならば今、葛蔵の持っている弓矢は……。
加えて、栗毛の馬も見つかりました。川向こうの草むらで、手綱を引きずり、泡を吹いていた。
女? 女はおりません。
だが、女のものらしい布が一枚、川下の枝に引っかかっていました。藤色。濡れて重くなっていました。
葛蔵の話を聞くと、どうやら藪の中で揉めたのは確か。
ただ、死骸は胸の刺し傷一つ。葛蔵がそんな綺麗な殺し方をするかどうか……そこが私には腑に落ちませぬ。葛蔵はいつも、刃を見せびらかし、相手を痛めつけて笑う男ですから。
役人に問われたる老女の物語
あれは、わしの娘婿でございます。名は、伊吹の定次。年は二十五。都の役所に出入りする書き手でございました。
娘は、千世と申します。十九。勝気で、目が強い。幼い頃から、泣くより先に睨む子でした。
定次は、良い男でした。いや、良い男のふりが上手な男でした。娘はそれに惚れた。惚れたと言うより、賭けたのです。
――都へ行けば、人生が変わる。
娘はそう信じていた。
定次はそれを利用した。
二人は昨日、里へ帰る途中でした。定次が「母に顔を見せたい」と言ったからです。だが、母に会うはずの道を外れ、藤の谷へ向かったと聞きました。
なぜ谷へ?
わしは知りませぬ。だが娘は昔から、あの谷を嫌っていました。
幼い頃、谷で蛇を踏み、足に傷を作った。血が止まらず、三日熱を出した。
その谷へ、わざわざ行くはずがない。
役人さま、お願いでございます。娘を探して下さい。娘の行方が分からぬ。
娘は、たとえ盗賊に追われても、黙って死ぬような子ではない。どこかで生きているはずです。
ただ――ただ、娘が生きているなら、その胸に何を抱えたか。
それが、わしは怖いのです。
(ここで老女、口を覆い、しばし言葉なし)
× × ×
盗賊「葛蔵」の白状
殺したのは俺だ。
――そう言えば、お前らは安心するんだろう。物語が一つにまとまるからな。
だが、安心するのは早い。俺は殺した。だが俺が殺したのは「男」だけだ。女は殺してねえ。女がどこへ行ったか? それは知らねえ。知らねえものは、拷問でも出ねえ。
昨日、峠であの二人を見た。風が吹いて、女の布がふっと浮いた。
顔が見えた。
俺は、女の顔を見た瞬間、喉が渇いた。
欲じゃねえ。――いや、欲に違いねえが、ただの欲じゃねえ。あれは、火だ。
火を見たら、手を出さずにいられる男がいるか?
俺は道で声をかけた。
古い塚を知っている、鏡や指輪が埋まっている、都の品だ、掘れば一生遊べる。
男は笑って聞いていた。女は、黙っていた。
男は賢いふりをしていたが、賢いふりをする奴ほど、欲の臭いを隠せねえ。
谷へ入った。
藪は深く、足が沈む。
俺は男を縛った。綱は腰にあった。盗賊は綱が命だ。
男は怒っていた。怒っているが、声を出さねえ。声を出さねえ男ほど、後で面倒だ。
だから口に枯葉を突っ込んだ。
――そこまでは、いつものことだ。
俺は女を呼びに戻った。
「男が急に気分が悪くなった」
そう言うと、女は馬を降りた。
その顔は、泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ、目が決まっている。
あの目は、俺の刃よりも冷たい。
女は藪に入るなり、小さな刃を出した。
俺は避けた。避けたが、肩を引っ掻かれた。爪だ。女の爪は、刃より怖い。
俺は笑った。女は笑わなかった。
女は言った。
「触るな」
俺はその言葉で、逆に熱くなった。
……俺は女を奪った。
ここで綺麗事を言うつもりはねえ。俺は盗賊だ。
だが、一つ言う。女は泣かなかった。
泣かない女ほど、男を狂わせる。
俺は、その後、男を殺す気はなかった。女だけ持って逃げりゃいい。
ところが女が、突然笑った。
笑って、言った。
「どっちか殺して」
俺を見た。次に、縛られた男を見た。
「あなたか、あの人か。どっちかが死ねば、私の恥は一つになる」
そう言った。
恥?
俺はその言葉に、腹の底が冷えた。
俺は盗賊だが、恥で人を殺したことはねえ。
女は恥で人を殺す目をしていた。
――俺はその瞬間、こいつは俺より怖いと思った。
俺は男の縄を切った。
「立て。刀を抜け」
男は無言で立ち上がり、刀は……刀は抜かなかった。
抜かなかったんだ。
代わりに、男は女を見た。
その目で女を刺した。
女は一瞬だけ、揺れた。
揺れて、それでも言った。
「殺して」
俺は、その空気に耐えられなくなった。
俺は男を刺した。
一突きだ。胸の真ん中。
男は倒れた。倒れる時も、女を見ていた。
俺が顔を上げると、女はいなかった。
藪の音もしない。足音もない。
あの女は、最初から逃げる道を決めていたみたいに消えた。
だから俺は弓矢を奪って逃げた。
――俺の白状はこれだけだ。
どうせ首を吊るなら、派手にやれ。だがお前ら、俺の話を信じて楽になるな。
楽になるのは、罪人より悪い。
観音堂に来れる女の懺悔
……あの人(定次)は、私のことを愛していませんでした。
愛しているふりをしていただけです。
愛しているふりは、愛よりも上手でした。都の人は、みんなそうです。
谷へ行こうと言ったのは、あの人です。
「母に会う前に、寄りたい所がある」
そう言いました。私は嫌でした。谷は嫌いです。
でも私は、嫌と言えませんでした。
嫌と言えない女は、いつでも負けます。負ける練習だけが上手になります。
藪に入った時、あの盗賊が来ました。
盗賊の目は、獣の目でした。
私は震えませんでした。震えたら負けだと思ったからです。
……私は、汚されました。
その後、夫(定次)が見ていました。
縛られて、口に枯葉を詰められて。
でも目だけは、自由でした。
その目が、私を見ました。
怒りでも悲しみでもない。
冷たい、軽蔑の光でした。
私は、その光で死にました。
体は生きているのに、心が死んだ。
人はそういうふうにも死ぬのだと、初めて知りました。
盗賊は言いました。
「一緒に来い」
私は、頷きかけました。
なぜか。夫の軽蔑に耐えられなかったからです。
夫の軽蔑の前で生きるくらいなら、盗賊としてでも生きた方がましだと――その瞬間だけ、思ってしまった。
でも次の瞬間、私は夫を見ました。
夫は、まだ私を見ていました。
その目が言っていました。
「お前はもう、俺の妻じゃない」
口に出さなくても、人は言えるのです。
言葉より、目の方が残酷です。
私は叫びました。
「どっちか殺して」
……私は、自分の恥を、片方の死で薄めようとした。
最低です。
私は最低です。
その後、盗賊が夫を刺すのを見ました。
夫は倒れました。
倒れる時も、私を見ました。
私は、その目から逃げた。
逃げて、逃げて、川へ行きました。
藤色の布が枝に引っかかったのは、その時です。
私は死のうとしました。
でも死ねませんでした。
喉に石を当てても、足が震えて落ちる。
死ねない女は、生きるしかありません。
生きるしかないのに、生きてはいけない気がする。
その間で、私はいまも溺れています。
観音さま。
私はどうすればいいのでしょう。
夫を殺したのは盗賊です。
でも夫を殺してほしいと願ったのは、私です。
私の中の私が、私を許しません。
(ここで女、声を失い、ただ嗚咽のみ)
巫子の口を借りたる死霊の物語
――あれは、俺の妻だった。
俺は縛られていた。声も出せず、体も動かせず。
だが目だけは動いた。目だけが、俺の最後の刃だった。
盗賊が来た。
盗賊は俺を見て笑った。
妻を見て、もっと笑った。
俺は妻に目で言った。
「見るな。聞くな。信じるな。」
だが妻は俯いていた。俯いて、震えているふりをしていた。
――ふりだ。
今思えば、あれは震えではない。決めていたのだ。
盗賊は甘い言葉を吐いた。
都の女は、甘い言葉に慣れている。俺も甘い言葉を吐いていた。
だから妻は、盗賊の言葉を聞けた。
盗賊の言葉は、俺の言葉よりも正直だったからだ。
俺は見た。
妻が、盗賊の手を取る瞬間を。
――取ったのだ。
盗賊が引いたのではない。
妻が取った。
その時、俺の中で何かが壊れた。
壊れたものは、誇りか、愛か、信仰か。分からない。
ただ、俺は妻を軽蔑した。
軽蔑は、怒りより楽だ。悲しみより楽だ。
軽蔑すれば、痛みが形になるからだ。
妻が叫んだ。
「どっちか殺して」
俺は、聞いた。
俺は聞いてしまった。
自分が捨てた言葉が、刃になって返ってくるのを。
盗賊が俺の縄を切った。
「どうする」
盗賊は言った。
殺すか、助けるか。
頷け、と。
俺は頷かなかった。
頷けなかったのだ。
頷いたら、俺は俺でなくなる。頷かなければ、妻は妻でなくなる。
――もうその時点で、全部終わっていた。
盗賊の刃が胸に入った。
痛みは遅れて来た。
俺は倒れた。
倒れながら、妻を見た。
妻は逃げた。
逃げたこと自体が、俺への返事だった。
俺は死ぬ前に考えた。
盗賊が悪いのか。妻が悪いのか。俺が悪いのか。
違う。
誰か一人を悪にすれば、残りは救われる。
だが救われた救いは、たいてい嘘だ。
……最後に、誰かが近づいた。
足音がしない。
手が伸び、俺の胸から何かを抜いた。
――短刀ではない。
俺の持っていた、妻の根付だ。
鈴のついた、小さなもの。
妻が落としたと俺は思っていた。
だが、誰かが拾っていた。
盗賊か。妻か。
それとも、最初に死体を見つけた炭焼きか。
鈴が、かすかに鳴った。
その音で、俺は悟った。
この世の真実は、いつも小さな鈴の音みたいに、聞き逃される。
聞き逃した者だけが、あとで「分かった」と言う。
分かったと言う時には、もう何も戻らない。
俺は闇へ沈んだ。
沈みながら、まだ妻の目を探していた。
――軽蔑の目で刺したのは俺だ。
刺されたまま生きるのは、妻だ。
俺は死んだ。
だが妻は、俺の目を背負って生きる。
それが俺の復讐だとしたら、俺は生きているのと同じだ。
(ここで巫子、長く沈黙し、やがて倒れ伏す)




