プロローグ
『これで説明は終了です。何かご質問はございますか?』
目の前のパネルから、無機質な声が聞こえてくる。
初回ログイン前の、動画とAIアシスタントによる説明が、一通り終わったところだ。
「……ないです」
『それでは、準備が整いましたら、スタートボタンを押してください』
僕はAIの声に応えるように軽く頷くと、ドキドキしながら目の前のパネルのスタートボタンを押した。
これから、どんな世界が待っているんだろう。
期待と不安を胸に、僕はぎゅっと目を瞑った。
その次の瞬間、頬を撫でる風を感じ、草の匂いが鼻をくすぐった。
えっ!? 驚いてパッと目を開けると、もうそこは別世界だった。
目の前には果てしなく広がる草原、所々に木が生えていて、その周りを鳥たちが自由に飛び回っていた。
頬を撫でる風も、草の匂いも、地面を踏みしめる感覚もしっかりある。
「すごい……。最新のVRゲームは、こんなにリアルなんだ……」
僕は、その場でピョンっとジャンプしたり、くるっと回ってみたりした。
すごい、思った通りに体が動く!
僕のアバターはうさぎ獣人だから、いつもより高くジャンプができる。
ジャンプするたびに頭の上で跳ねる耳。そっとふれると、感触が手にも耳にも伝わってきて、不思議な感じだ。
ふわふわで気持ちいいからずっと触っていたいけど、触られる感覚もあるからなんかくすぐったい。
「本当にここは、ゲームの世界なの?」
あまりにもリアルすぎて、まだ信じられない気持ちだ。
この世界では、走るのを我慢しなくてもいいの?
思い切り草原を駆け回っても、自由に動き回っても、苦しくならないの?
この世界では、ずっと我慢していた、僕の願いが叶うの?
戸惑う僕の目の前を、一羽の鳥がスーッと横切っていく。
やわらかな風が頬を撫で、草や土の匂いが全身を包み込む。
草が風に揺れて、さらさらと音を立てていく。
そうだ。これは、夢じゃないんだ!
僕は嬉しくなって、近くの木まで走ろうと一歩踏み出した。すると、バサバサっと木からたくさんの鳥が一斉に飛び立っていく。
その直後、ガサガサっと草むらが揺れ、何かがこちらに向かって飛びかかってきた。
あまりにも突然の出来事で、僕は一歩も動くことができない。
ただスローモーションのように、何かが徐々に近づいてくる。
これは――狼!?
鋭い牙、光る瞳、迫る影。
どうしよう、もうダメだ――!
「――っ!」
そう思った瞬間、目の前の狼はギャンっと鳴き声をあげ、光の粒となって消えた。
地面には、効果音と共にコインが数枚転がり落ちていく。
え……な、何が起きたの……?
「大丈夫か?」
驚きすぎて、ぺたりと座り込んでしまった僕の前に、手が差し伸べられた。
無言のまま顔を上げると、そこには耳の尖った……おそらくエルフだろう。長い銀髪が風に揺れ、碧い瞳がこちらをじっと見つめていた。
目をまん丸にして、口をパクパクしている僕を見て、その口元にふっと優しい笑みが浮かんだ。
「群れからはぐれた、ベアウルフだろう。この辺には生息していないはずなんだが、迷い込んでしまったのかもしれない」
僕を助けてくれたその人は、そう言いながら、僕の腕をぐっと引っ張って立ち上がらせた。
「その様子だと、まだ戦闘に慣れていないんだろう? まずは近くの街まで移動しよう。話はそれからだ」
「あ、ありがとうございます!」
「いや、気にするな。俺はラパン。あんたは?」
「僕は、ま……じゃなくて、シロです」
思わず普通に、現実世界の名前を名乗ってしまいそうになり、僕は慌てて言い直した。
この世界での僕の名は『シロ』なんだ。さっきつけたばかりの、僕の新しい名前。
「シロか。よろしくな」
「よろしくお願いします」
ラパンさんは、僕の全身をくまなく確認すると、「怪我はなさそうだな」と安心したように微笑んで言った。
その笑顔を見たら、さっきまでの緊張がほぐれて、僕もほっと胸を撫で下ろした。
もう一度、「ありがとうございます」ってお礼を言おうとしたら、僕はラパンさんにヒョイっと横抱きにされた。
え? なにこれ? お姫様抱っこ!?
「えっ!」
「落ちるから掴まってろよ!」
「えっ、ちょっ、まっ」
僕の問いかけにならない問いかけなどお構いなしに、ラパンさんはすごいスピードで走り出した。
こんなの、人間の走る速さじゃない!
僕は振り落とされたくなくて、ぎゅっとラパンさんに掴まった。
なんで? どうして? 何が起きてるの……?
問いかけたくとも、下手に口を開いたら舌を噛んでしまいそうだ。
ついさっきまで、新しいVRゲームの体験ができると、ワクワクしながら動画説明を見ていたはずなのに。
ゲームをスタートしたら、まずは最初の街でゆっくり話を聞いてから……と思ってたはずなのに。
なんで僕は、初めて会った人にお姫様抱っこされて、草原の中を車並みのスピードで駆け抜けているの!?
「あと少しだ。ほら、街が見えてきた」
ラパンさんが猛スピードで移動しながら何か言ってるけど、風がゴーゴーいって何も聞こえない。
僕は聞き取ろうとするのを諦めて、とにかく振り落とされないように掴まりながら、街に到着するのをただ待つだけだった。




