玉
蛍光灯の明かりが顔を照らすと、辺りはすっかり朝になっていた。冬の乾いた風が流れ込み、私の周りを掠めてゆく。コンクリートの森の、高層ビルの木の間を縫って風は広がっていく。街に出てみればどこにも吐き出せぬ声が私に囁いてくる。男は叫ぶ、「あの恐ろしき異人を倒せ。異人の風は体に悪い。我々は異人によって危険にさらされている。異人を除け、異人を倒せ」と。男の周りにはほとんどだれもいない。まるで空気かのように人々は通り過ぎ、ビルに吸い込まれてゆく。街に溢れるたくさんの声を聴きながら、私はビルの横の小さくて小汚い商店に入った。みれば70は超えているであろう店主が、茶を淹れながら私を出迎えた。缶コーヒーを一つ買った。産地や種類など、何も考えずにコーヒーを買い、私もビルの中に吸い込まれてゆく。
ビルの中はモノクロだ。どこを見ても顔、顔、顔にあふれ、気を休めるところはもはや喫煙室くらいしか存在していない。私は自分の席に着き、ただただ引き出しの鍵穴を見つめていた。鍵穴の中には何があるのだろうか。私には見えない。やがて昼になり、外には雨が降っていた。ザアザアと降りしきる雨は私の声をかき消し、聞こえなくしてしまった。雨はやみそうにもないので私は昼食をあきらめてコーヒーだけでやり過ごすことにした。窓の外を見ると、板を眺めながらため息交じりの息継ぎをしている人が傘をさして歩いている。あの板が一体何なのっか私にはわからないが、きっとあの人は家に帰るのだろう。
17時には私も家に帰ることになっている。勿論、好んで一日中ビルの中にいるわけではない。これは変えることのできぬ決まりなのだ。そう考えているうちに私も帰る時間が来た。17時になったのだ。ビルの中からたくさんの人が出てゆく。雨はさらに強まり、もはや横を歩く人の声さえ聞こえなくなっていた。私も先ほどの人と同じように、傘をさしながら板を見つめて家に帰される。板の中は自由らしい。聞こえない声が聞こえるらしい。人々の苦悩、愉しみ、日常のすべてが見えるらしい。いや、本当は見えていないのかもしれない。私は大発見をしてしまったと気づき、板をポケットにしまった。コンクリートの森の隅々に目をやれば、モノクロに見えていた世界に色がついたような気がした。私は思わず傘を投げて走り出した。
私は家に着くとすぐに風呂に入り、そして目を閉じた。そうか、異人は存在するのだ。それも世界の隅っこで息をひそめて存在していたのだ。板の中から声がするように感じる。朝見かけたあの男の声だ。それだけではない。夥しい数の声が男の周りから聞こえる。人々の真の声はどれであろうか。私には分からない。
私は真っ暗な部屋のクローゼットの中で、私自身が異人であることを悟った。人々は異人を知らないのではない。見ようとしていないのだ。私たち異人は世界と調和し、相互に支持しながら生きているのだ。
私は恐らく遠い遠い国から来たのであろう。私は悟った。やがてまた朝が来た。蛍光灯に照らされながら、私は今日もクローゼットから取り出され、ビルへと吸い込まれてゆく。この冬が終わるその時までは。




