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バーバヤーガはそれなりに良い店をあっせんしてくれたと思う。控えの間でぼんやり室内を眺めながら、とりとめもなく考えた。
体育館の半分くらいの広さの部屋に、無数の鉄製の二段ベッドが乱立している。鉄柱と白い寝具の迷宮。私に割り当てられたベッドは、唯一の出入り口の近くにある。この部屋で、店に所属する令嬢たちが寝起きしている。
ベッドの上下、位置などは売上の多寡によって決まるらしい。売り上げが良ければより快適な場所をあてがわれる。実際、売り上げ一位と二位の胡蝶姐、みやこ姐だけは、狭いが個室を持っているのだ。お小遣いも多くもらっているから、欲しければ多少の私物を部屋に置いておくことだってできる。
今日は店が繁盛しているようだ。開店してからみんな指名を受けて行き、誰も戻ってこない。次々お客が入っているのだろう。おかげで私は、貴重なただひとりでいる時間を持てている。思考は再び回想へ沈んでいく。
一本通りを違えるだけで、路地裏の雰囲気はひどく変わった。見慣れない色のビル、見慣れない壁のしみ、見慣れない曲がり角。ジャンヌが縄張りとする範囲より、陰鬱で怪しい感じがした。
もうバーバヤーガが管理する領域に入っているはずだが……。辺りを見回しながらいると、白い服を着た子供が二人、私の進路を塞ぐように現れる。
この辺りで汚れの少ない白い服を着ているのは珍しい。だが顔も体つきも痩せ気味で、どうやらストリートではあるようだ。その奇妙な雰囲気に何かを感じた。話しかけていた。
「あの。バーバヤーガに会いたくて。探しているの」
バーバヤーガの名を出すと、子どもたちは黙って私に背を向ける。延びる通路をゆっくりと歩きだした。私は二人に続いた。
果たしてその先に、バーバヤーガはいた。
狭い路地の行き止まり。最も薄暗くて湿っぽいところに、折り畳み式のテーブルと椅子が置いてある。テーブルを挟んだ向こう側に、バーバヤーガが座っていた。
白い髪が滅茶苦茶にもつれた奥に、浅黒いしわしわの口元が見える。私はこれほど年老いた人を初めて見た。
「バーバヤーガ。お客さんです」
子どもの一人が知らせる。もつれた髪の奥から、私をじっと見つめる視線を感じた気がする。
「座りな」
しわがれた声が命じる。思っていたよりも張りのある声だ。指示を出し慣れている。
言われた通り、空いている椅子に腰を下ろした。バーバヤーガと向かい合う格好だ。カバンを膝に抱える。
バーバヤーガはぼやいた。
「まぁた子どもかね。最近は子どもばっかり来るね。そのぶん需要もあるようだけど」
需要。私はぼやけていく頭で集中するのに苦労した。
またその言葉だ。私の向かおうとしているところを的確に指し示す。これは私の意志でやろうとしていることであり、同時に方向づけられた唯一の道なのだろう。
路地裏で一人で生きていくことは難しい。ジャンヌたちから離れてみんなを守るには、こうするしか思いつけなかった。
「子どもはすぐ死んだり逃げたりするからね。アタシの評判を落とすような真似はしないんだよ、お嬢ちゃん。このバーバヤーガに店の案内を頼むのならね」
はいと答えたつもりが、乾ききった口に声が張り付いて何も出てこない。黙って頷いた。
そんな私をバーバヤーガは鼻で笑う。
「で? あんたはどういうわけでここにたどり着いたんだい。その様子じゃあストリートだけど、学園のカバンなんか持って。どこで盗んだ?」
「これは、私のです。前まで通っていたので」
「証拠は? 口ではなんとでも言えるさね」
詰め寄るような言い方。大事にしろよ。ジャンヌの声が耳の中でこだました。大事に。それは、ずっと持っていろということ? それとも使いどころを間違えるなということ?
私はカバンの底からゲートパスを引っ張りだした。
机の上に置き、バーバヤーガからもよく見えるように押しやる。バーバヤーガは目を見張った。
「へえ! こりゃ確かに本物だ。こりゃ価値が高い。あんた、高く売れるよ! さてどこの店にしようかね」
言うとバーバヤーガは俯き、しばらく黙りこむ。この時バーバヤーガが人手を求める店を思い起こしていることは、少し後になってから知った。バーバヤーガはこの街の店のほとんどを記憶し、どんな女の子が求められているのかも知り尽くしているのだ。
ただのストリートの子どもは、安い店に安く売られることが多いという。特別顔が可愛らしければ箔がつく。本来、学園に通うような女の子たちがバーバヤーガのもとに「落ちて」くることは少ない。彼女たちは高級令嬢になるための教育を学園で受けて、そのまま高級志向の店に就職していくからだ。いわば私は突然転がり込んできた、高く売れそうな商品なのだった。
「……うん、ここだね。ここがいいね」
白い頭がひょいと動く。小柄なバーバヤーガが立ち上がり、片足を引きずるようにしながら歩きだした。
「ついておいで。お前にぴったりの店を紹介してあげるよ」
バーバヤーガは私のゲートパスをふりふり歩きだす。ゲートパスは私の「箔」を証明する資料として使われ、そのまま今の店に回収されていった。
金銭のやりとりを直接見てはいないものの、私は高く売れたようだ。別れ際、バーバヤーガがひどく喜んで私にお礼すら言ったから……。
プツ。控えの間の天井から音が鳴る。意識が現在に引き戻された。放送だ。令嬢の呼び出しが鳴る時、いつもプツリと音がする。それを合図にして私は耳を澄ます。少しの雑音の後、私の名前が呼ばれた。
「九十分、ご指名です。四〇三号室にお入りください」
立ち上がって控えの間を出た。
本当に私に指名が入ったのかどうかは、疑わしい。胡蝶姐に教わった話では、フロントでは実際の指名でも、客がおおまかな好みを伝えただけでも、私たちを呼び出す際は「ご指名です」と言うのだそうだ。そんなささいな意味の違いなど気にしないのにと言うと、胡蝶姐は「まあ、中には気にする人もいるんじゃない?」とさっぱり返してきた。私はみやこ姐とその取り巻きの顔を思い浮かべた。実際に口には出さなかったけれど。
重い鉄製の扉を抜けて控えの間を出ると、コンクリートと蛍光灯が寒々しい従業員用通路が延びている。エレベーターに乗り、指示通り四階へ向かった。現在の階を表示するランプが、B1から4へ向かってゆっくり移り変わっていく。
それにしても、四〇三号室。確か他の部屋より広くて室料が高めだったはずだ。ゆえに空いていることの多い部屋である。多くの客は部屋より令嬢に金を払いたがるから。物好きな人もいるものだなと思う。
本当は部屋のことなどどうでもよかった。私はどうでもいいことを気にかけて頭を忙しく働かせ、そのあいだにすべて始まって終わってくれないかと思う。楽しんでいるふりには、もう慣れた。と、思う。のに、私と客との間にはぎこちない時間が流れることがよくある。リピーターがついたことがない。みやこ姐には小言を言われることもあるけれど、それをどうでもいいと思うこともあった。
私はいつまでも出入り口に近いベッドで、胡蝶姐に励まされみやこ姐に嘲られながら行くのだろう。年齢が上がっても、それは変わらないのだ。私たちは年齢層に応じて系列の店を「上がって」行く。一度どこかの店のレールに乗れば、使い物にならなくなるまで生きていくのには困らない。私たちの体に生まれつきそなわった、美しさか健康さ、その他の何か――「需要」が消えてなくなるまで。
エレベーターが止まり、扉が開く。目の前の壁に「4」と示されていた。通路を抜けてもうひとつ扉をくぐると、目の前には急に豪華な造りの廊下が広がる。客が部屋へ向かうための廊下だ。一定の間隔をあけてつけられた薄明るい照明と、毛足の長い絨毯。気を緩めていたら足をとられそうなほど。
廊下の角を曲がると、四〇三号室の上についたランプが光っていた。あの部屋の中で客が私を待っている。
部屋へ続くドアを開けた。
廊下から一転、くまなく明るい照明が狭い靴脱ぎスペースを照らしている。はじめに目に留まったのは、そこの端にきちんと揃えて脱がれた革靴だった。長く履かれてきた風合いがあるように感じられるのに、それは壊れているとか、ぼろいというのとは違う。この時の私はまだ、革靴を手入れして長く履くことを知らなかった。靴とは店から支給されたり、手の届かない店のショーウィンドウに並んでいたりするものだった。
先にあるもう一枚のドアを開けると、今日の客はソファに腰かけて私を待っていた。
「初めまして。ジョバンニといいます。よろしくお願いします」
客の姿と、流ちょうだがほんの少し切れのよすぎる発音に気づいた時、私の体は凍りつく。
「愛シテル……愛シテル……」
「良かったじゃん。それって需要があるってことだよ」
生々しく蘇る。あの薄暗さ。声、臭い。
違う、違う。あれはもう何年も前のことで。ここは私が働く店で。母とはもう会っていなくて……。私はここに居続けようとする。
そう。今なら「あの人」をなんと形容すればいいか分かる。彼は「観光客」だった。目の前にいる客も、またそうなのだろう。見知らぬ街から来た、見知らぬ言葉を話す人たち。
だがあの男とこの人とは何の関係もない。全く別の人だ。あの男は金髪だったけれど、この人は薄茶色の髪をゆるくなでつけている。とび色の目をしていて、ずっと落ち着いた佇まいだ。五十代くらいだろうか。
黒いリュックの代わりに手提げカバンがソファの近くに置いてあり、カジュアルな服ではなく白いシャツとツイードのジャケットを着ている。そもそも、これは商売だ。私は献身と奉仕に同意しているからここへ来たのであって。
どれくらい思考を回しながら突っ立っていたのだろう。ふと客が声をかけてくる。
「紅茶が二種類置いてあってね。アップルとストロベリー、どちらが良い?」
サービスで置いてある、二つのティーバッグの袋を見せてくる。私は物珍しくそれを眺めた。文字は読めないものの、りんごといちごの絵が載っているから私にもどちらがどちらかは分かる。いちごを指さすと、ジョバンニと名乗った客は微笑んだ。ティーカップに湯を注ぎ、ゆったりした所作で紅茶が入るのを待つ。
その間にも、買い取られた九十分は過ぎていく。私はどうしたら良いか分からなくなった。
呆然と、紅茶の出を待つジョバンニを眺めている。視線に気づいたのだろうか、ジョバンニはふと顔を上げ、ソファの空いているほうを手で示した。
「良ければ座って。まずお茶を飲もうじゃないか?」
「で、でも……」
言われるまま腰を下ろす。並んで座る形になった。私はまだどうしたら良いのか分からない。
紅茶に手をつけた人を見たのは初めてだった。それも最初の方に。他の女の子たちからも聞いたことがない。客と令嬢が「親密」でいられる時間は限られている。客たちはその時間を惜しむ。だから最低限の言葉だけを交わして、先へ進もうとする。それが当たり前だと思ってきた。
それなのに、流れが崩れてしまってどうしたら良いのか分からない。あるいはジョバンニはこの国へ来たばかりで、店のシステムを知らないのだろうか? フロントの仁科さんは何も説明しなかったのか?
「時間のことはちゃんと分かっているよ、ありがとう」
遠慮がちに尋ねると、穏やかな返答があった。
「けれども会ってすぐ先を急ぐようでは風情がないじゃないか? この国の人はますます雰囲気を大切にすると思ってきたんだけれど」
「そ……そうかも、しれません」
雰囲気。例えば、あの卒業式のこと? 周りが酔うから自分も酔う。あの感じ。自分と他者の境界が薄れ、ひとつの感情だけがふくれ上がっていった。あの男の子たちの群れ……。自信がないが、わざわざ議論することもないと思ってあいまいな返事をした。どのみち私の所感など求められてはいないだろう。「奉仕」には共感と同調も含まれている。授業で習った。客はここに意見交換を求めて来てはいない。
紅茶が入った。カップを受けとる時に名前を聞かれる。私が答えると、ジョバンニは確かめるように低く繰り返した。
「かわいらしいね。君は、今いくつ?」
年齢を答えると、ジョバンニは聞こえるか聞こえないかくらいの声で「うん」とだけ言った。どうしてかほんの少し申し訳なさそうだった。
熱めの紅茶をちびりちびりと飲み進めながら、天気やこの街の話などをされる。私はジョバンニが求めているものをはかりかねる。私は時間の感覚を失っており、あと何分残っているのかも分からない。
延々と時間を使うわけにはいかないので、思い切って本題に入ることにした。
ジョバンニはなぜか悲しそうに笑った。
そうして私たちは広いベッドに横になる。ジョバンニがおずおずと、次第に大胆に距離を縮めてくる。私はいつものように目をつぶる。まぶたの向こうに見える部屋の明かりと、布団がこすれ合う騒々しい音に集中する。早くすべてが終わるように。
ふと、手が離れた。
袋を開けるような耳慣れない音もする。
目を開けてみた。
ジョバンニが小さな袋を手にしている。中からまるいものを取りだした。あれは、なんだろう。
私の視線に気づいたらしい。ジョバンニが「これかい?」と軽く上げて見せた。
「お互いを病気から守るためのものだよ。望まない妊娠を防ぐ効果も期待できる」
「……防ぐ……?」
ジョバンニはちょっと不思議そうな顔をした。
「これは当然のマナーじゃないか? 君だって薬を飲んでいるんだろう?」
「いいえ」
「え! どうして?」
「どうして……?」
なんと答えれば良いのか分からなくなる。そもそも答えようがなかった。ジョバンニの問いに対する答えを、私が持ち合わせていないのだから。
強いて答えるとしたら、そう教わってきたから、だろうか。
「そうか……もしかしてみんな知らないのか? だからあの時……」
ジョバンニは座りこんでひとりごとをつぶやいている。私の言動のどれかが気に障ったのだろうか? 献身、奉仕、共感、同調。ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん! 私は彼に謝り、慰めるべきだろう。
「あの、ごめんなさ……」
「ごめんね。嗚呼、僕はとんでもなく愚かな人間なのかもしれない。きっとそうだ。どうしてもっと早く気づかなかったんだ。僕が望んでいたのはこういうことじゃ……」
「あの。どうして謝るんですか?」
私は思ったことをそのまま尋ねてしまう。それからしまったと思った。これは令嬢の「需要」の範囲を超えている。ここはもっと共感的なことを言い、ゆっくりと親密な雰囲気の中に連れ戻すべきだった。遅れて気づいてももう取り返しがつかない。店にはクレームが入るだろう。私はみやこ姐にまた小言を言われるだろう。あるいは、ジョバンニがこの場で怒りだすかもしれない……。
だがそのどれも現実にはならなかった。
私が尋ねた瞬間、ジョバンニは驚いたように私を見つめた。開かれたとび色の目。見慣れないその目の色に、私は射すくめられたようになる。
私はジョバンニに抱きしめられていた。
「君だ! こんなところにいたんだね! 僕の運命の人」
発せられた声に涙が混じっていた。私は遅れて気づく。あのとび色の目がなぜかうるみ、オレンジ色の照明を返して光っていたことに。




