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牲愛  作者: 久慈柚奈


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7/11

7

 ジャンヌは一体、いつ寝ているのだろう。考えこんでしまうほどにジャンヌは忙しい。

 私たちと一緒にゴミ拾いや雑誌売りをしていたかと思えば、いつの間にかいなくなって別のことをしていたり、また戻ってきたりしている。そういう時は大抵、私たちの夕飯を集めに行ってくれていたり、来客と話していたりするのだった。

 ジャンヌはこのあたりでよく知られているらしい。ほとんど毎日誰かしらがジャンヌを訪ねてやってきた。ただ気軽な立ち話をしていく人もあれば、もっと深刻な相談事を抱えてやってくる人もある。子どもができたが育てきれないとか、しつこい客がいて怖い思いをしている、とか。

「育てられないなら、ちょっとでもマシなハーメルンを探して買い取ってもらうことだな。まだ先行きがしっかりしてる。間違っても道端にだけは捨てるなよ。ヤバいのに拾われて使い潰されるのがオチだ。買われていくほうがまだいい」

 ジャンヌの助言は明快で、一貫していた。礼を言って去って行く女の子たちがその後子どもをどうしたのかは分からないけれど、ジャンヌの助言を受け入れているといいなと思う。

 妊娠は私たちにとって、起きてしまったら防ぎようのない出来事だった。だから生まれた子どもをめぐる問題は誰にでも降りかかる可能性があったし、どこにでもつきまとってくるものだった。私も段ボールに入った赤ん坊を、街角で見たことがある。ストリートの子どもたちのほとんどは段ボールから生き延びてきた。歓楽街の明かりが届かないところで、数えきれないほどの子どもたちが生まれ、捨てられ、生きて死んでいく。子どもの数は昔よりずっと増えたのだろうと思う。到底数えきれないくらいに。

 そういう相談者が今日も「家」に来ているようだった。高いヒールにドレスで着飾った彼女は、きっとどこかの店の令嬢だろう。私は忘れ物を取りに来た時に来客に気づいた。二人は声を落としてはいたが、辺りは静かで、ビルに反響する音声だけはどうにも消し去ることができない。私は断片的に聞き取れてしまった。

「――それでね。今度、行こうかと思ってて。行ったら、帰ってこられないと思うから」

「ああ」

「今まで……ありがとうね。いろいろ相談乗ってくれたりとかして」

「大したことじゃないさ。……達者でな」

「ありがと」

 真面目な話のようだが、私が通りすがった時にはちょうど終わりかけだったらしい。女は靴音を反響させながら去って行った。

 その背中を見送るジャンヌが伸びをして、今私に気づいたような顔をする。

「いたのか」

「ちょっと忘れ物しちゃって。ごめんね、邪魔だった?」

「いや。気にするな。そうやって気遣いできるの、お前の良いところだよな」

 思ってもみなかった時に褒め言葉が飛んできて、私は返事に困ってしまう。それでつい話をそらしてしまった。

「……今の人は?」

「ああ。あいつか。さやかっていうんだ。近くの店で働いてる。時々立ち話に来てた」

 なぜ昔のことのように話すのかと思えば、ひとつ間を置いてジャンヌは抑えた声で言う。

「密航するんだとよ、あいつ」

「み……? それって、何?」

「こっそり国を出ることだそうだ。ここじゃ女が暮らしていける方法は限られすぎてる。働くのが嫌になっても辞められない。辞めずに続けても、使い物にならなくなったら雇われなくなる。どっちにしろストリートまっしぐらだ。

 でも外の国は違うらしい。この街からも、この国からも出て、遠くへ行く。そうすると全然違う世界があるって話だ。俺は眉唾だと思ってるけどな。誰も確かなことなんて知らねえ、帰ってきた奴がいねえんだから。でもみんな希望かなにかを持って、この街を出て行くんだ」

 ビルの合間を縫ってきた、鋭く尖った風が吹く。ふとアノラックのフードの奥に垣間見えた横顔が、寂しそうに見えた。

「……ジャンヌは街を出ないの?」

「出ない。いや出られない」

「どうして?」

「パスを持ってないから」

 ジャンヌが私を見る。自嘲するような笑みが薄く浮いていた。

「ゲートパスがなきゃ『門』を出してもらえない。変装は見抜かれるし、警備も固い。見つかれば壁の中に戻される。もっと悪ければ『矯正施設』なんてのもあるんだって? 脱出を手伝ってくれる『密航屋』ってのもいるらしいが……。俺たちみんなの稼ぎを合わせても、ひとりだって送り出してやれねえよ。

 壁の中で生まれちまった俺たちは、壁の中で生きていくしかねえ。逃げ場がないから戦うしかねえ。身の守り方を覚えて、飯の食い方を覚える。俺が取れるのはいつも次善の策なのかもしれねえな。

 だからさ。お前は特別なんだ。お前はパスを持っているだろ。たぶんまだ使える。パスは道だ。大事にしろよ」

 そう言ったジャンヌの顔は、なぜあんなに寂しそうだったのだろう。

 私は突き刺されるように痛感する。

 ジャンヌたちと共に暮らす私――いや、単に家にも学校にもいられなくて身を寄せさせてもらっている私――は、彼ら彼女らとは根本的に何かが違う。私が必死に同じように振る舞おうとしても、みんなが私を受け入れようとしてくれても、その違いは埋められない。

 これほどジャンヌのそばにいるのに、私たちを隔てる一線は見えないどこかに存在し続ける。私は越えられたかもしれない――パスを捨てることによって――けれども、それはジャンヌが望まないだろう。


*


「いかがですかー」

 忙しく通り過ぎる人々に声を投げる。雑誌を抱えた私たちの影が、歩道に長く伸びている。

 私たちは今、雑誌を売っている。これは午後から夕方にかけての仕事。数種類の雑誌の中には仕入れたものも、捨てられていたのを綺麗にしたものもある。翼はじめ子どもたちの多くは、拾った本をきれいに修復するすべを大なり小なり心得ていた。

「いかがですかー」

 再び声を投げる。夕刻の光の中に吸い込まれていく。歩く人のほとんどは私たちに目もくれない。ふと、私たちの呼びかけは光にすっかり吸収されていて、誰にも届いていないのではないかと思ってしまう。

 最初の頃はほとんど見向きもされないのに声を出しているのを恥ずかしいと思っていた。今はなんとも思わない。買ってくれる人は買ってくれるし、やはり売れればうれしい。一日の貴重な時間を手ぶらではなく「売れるかもしれないもの」を抱えて過ごすことが大事なのだと、以前ジャンヌに教わって納得もした。

「いかがですかー」

 規則正しく歩くひとりひとりの足音は、多数集まると不規則な雑音になる。バラバラバラ。通りは静かなのに、なんとなくうるさい。バラバラバラ。まだ街は夜の顔をしていない。気の早い観光客がカフェに出入りしていたり、真面目な令嬢たちが出勤してきたりしているだけだ。ネオンも、音楽もまだなし。ネオンが灯りはじめるまでが私たちの仕事時間だ。それまでに、一冊でも売れると良いのだけれど。

 何が書かれた雑誌を売っているのか、私たちは知らない。以前開いてみたことがあるが、たくさんの文字と挿絵が目に飛びこんできて、どこから読めば良いのかも分からなくて閉じてしまった。花なら内容が分かったのだろうか……。考えてしまって、寂しくなる。

 人波と足音は途切れることなく続いている。

 見るともなく眺めていると、甲高い笑い声と、雑誌が落ちて散らばる音が平穏を破った。

「あっはは! ごめーん!」

 はじかれたようにそちらを振り向く。通行人の何人かも歩調を緩め、好奇の目を向けていた。

 私から少し離れたところで、翼もまた雑誌を立ち売りしていた。その翼が今、道路に倒れている。手をついて起き上がろうとしている。せっかく仕入れた新品の雑誌たちは、無惨にもアスファルトの上に散らばり汚れたり折れたりしてしまったものもあった。

「小さくて見えなかったあ! こんなところでうろうろしないでよね汚いんだから!」

 翼にぶつかったらしい令嬢はわざとらしく謝罪している。男と腕を組み、おかしそうに翼を見下ろしていた。立ち上がりかけた翼を軽く蹴ってまた転ばせる。私は気づいたら走り出していた。

 自分が抱えていた雑誌は脇に置き、令嬢の脚から守るようにして翼を助け起こす。抗議の目で令嬢を見上げた時、首の絞まるような緊張が私の全身をこわばらせた。

 向こうとてそれは同じだったようだ。

「あんた……!」

 令嬢が派手な化粧で縁取った目を見開く。それは、私の母だった。

 物心ついてから見慣れていたはずの姿が、ひどく新鮮に映る。ぼろぼろの肌を分厚く隠す化粧。丈の短いドレス。大きな耳飾り。

 夕日が彼女の姿を黒く浮かび上がらせた「あの日」の光景が時間の感覚を飛び越えて押し寄せてくる。

「愛シテル。愛シテル……」

「良かったじゃん。それって需要があるってことだよ」

 無関心に言い放った口調まで。

 何かが腹の辺りで渦巻いて喉をせり上がってこようとする。私は熱い嘔気を必死でこらえた。目をそらしてしまいたい。けれど下を向いたら何も言えなくなってしまいそうな気がする。言うべき抗議の言葉まで。

 感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がる。母から目を離さなかった。

 気づいたら「あの日」よりも私は背が高くなっている。ずっと上にあった母の顔と、今の私は頭半分くらいしか違わない。

 母は調子の外れた声で笑う。

「ははっ! そういうことだったの。急に帰ってこなくなって……ストリートに混ざってたなんてね」

 私は母の真意をはかりかねる。淡い希望すら抱いてしまった。もしかしたら心配してくれていたのかもしれないと。

 直後、私の左頬を指輪を嵌めた手が張り飛ばした。

 不意の衝撃に私は立っていられない。よろめいて尻餅をついた。なんとか翼の上に落ちかかることだけは防いだ。翼は少し離れたところにいる。無事なら良かったと思う。

 そのあいだにも今度は肩に衝撃がきて倒れ込む。反射的に身体を丸めた。

「この出来損ないめ!」

 衝撃が続く。体が痛い。

「アタシが! どれだけ! 辛い思いしてきたと思ってんの! 金かけて育ててきてやったっていうのに! 今じゃ! なんにもなくなった! なんにも! 学校は中退扱い! みんなに笑われる! 子どもに逃げられた! 出来損ないの! 愛情足りない親だってねえ!」

 状況の理解が遅れてついてくる。母が私を蹴っている。暴力的に踵の高い靴で、いちばん痛いところで、何度も何度も何度も何度も。

「どうしてくれんのよ!? なんでアタシが言われなきゃいけないの? 出来損ないはあんたのほうよ! アタシはこんなに頑張ってるのに! 全部あんたのためにやってきたのに! 返して。アタシの努力とお金返してよ! この親不孝者!」

 不意に果てしなかったはずの蹴りが途切れる。きつく閉じていた目をうっすら開くと、私と母との間に長身の姿が立ち塞がっているのに気づいた。ジャンヌだった。

「やめろオバサン。こいつが何したって言うんだ」

 母と並んで見ると、ジャンヌは本当に背が高い。長身から冷静な声をかけられ、母は面食らったように半歩下がった。連れの男が気遣わしげに肩に手を添えようとするのを、鼻息荒く振り払う。ジャンヌをきつくにらんだ。

「あんた……誰? 何? あんたに関係ないわよ。汚いストリートめ。あっち行って」

「いや関係あるね。こいつは俺の家族の一員だ。家族を傷つけられたとあっちゃ、黙ってるわけにいかねえ」

「なによ! 悪いのはそっちでしょ。そのガキが先にぶつかってきたんだから」

「……違う。ぶつかられた。その令嬢に」

 翼がジャンヌの脚にしがみつき、硬い声で事実を告げる。ジャンヌがどちらの主張を信じるかはみんなに分かっていた。

 ジャンヌは一つ間を置いて言う。

「べつに俺たちは、おおごとにしたいわけじゃない。したことは謝って、今後家族に手出ししなければそれで良いんだ。……もう暗くなる。今日は帰るぞ」

 私と翼に目を移しながら言う。つまり雑誌を拾って、すぐ帰れるようにしておけよということだ。私たちはすぐ言われた通りにした。

 雑誌を拾いながらも、私は母とジャンヌのやりとりが気にかかる。母はまだわめいている。

「なによ! 澄ました顔して! そっちのペースで話進めて! まだ話は終わってないのに」

「俺たちはもうお前と話をする気はない。それとも、恥の上塗りをしたいか? 周り見てみろよ」

 ジャンヌが促す。確かに、私たちの周りには人だかりができていた。面白そうに眺める者、カメラを向ける者。

 どうやら母が見下しているらしいストリートとの言い争いを、気位(きぐらい)の高い彼女がストリートと関わっているところを、大勢が見物している。

 この気づきは母の羞恥心をかき立てたらしい。夕日が当たっていても分かるほど顔が紅潮していき、甲高い声でまくしたてる。

「覚えてなさい! 絶対ひどい目に遭わせてやるんだから! 絶対! 絶対だから!」

「れ、麗子ちゃん。もう行こうよ……」

 さすがに耐えかねたのだろう。連れの男が母の手を引き、人だかりの輪を脱出していく。私たちも雑誌を拾い終え、反対側から輪を抜けた。輪は少しずつ解体されていった。

 路地に入って周りの視線も声も遠ざかっていくまで、私たちは押し黙って歩く。

 ようやくジャンヌが歩調を緩めたのが、じゅうぶん距離が取れたことの合図になった。

 翼が頼りない声で尋ねた。

「あれが……お前のお母さん?」

「……うん。ごめんね。痛かったよね」

「いや。平気」

 再び沈黙。翼は考えこんでいるふうだった。

「……お母さん、って、あんな感じなんだ。俺にお母さん、いなくてよかったかも」

 悪いお母さんばかりじゃない、と言いたかった。もしかしたら翼の母親は、私の母とは違うような人だったかもしれない。翼をジャンヌに託したにしろ、やむにやまれぬ事情があってのことだったかもしれない。翼は愛され、大切に思われていたかもしれない――アリスみたいに。

「全部のお母さんがああいう風じゃないよ。もっと優しい人だって。例えば」

 アリス母子のことを話そうとして、言葉に詰まる。大切な娘を(うしな)ったあの人は、今どこでどのように生きているのだろう。私の母が感情を振り乱している今のあいだに。

 翼は大して興味もなさそうに言う。

「想像できねえな。全然」

「うん……。ごめんね」

 それは私の落ち度のように思われた。

*


 鈍い音が夢に忍び込んできて目が覚める。テントの中は暗く、空気の冷たさと停滞した感じから深夜ではないかと思った。音はテントの外から聞こえてくる。

 私はこの音が何なのかを理解している。人が人を殴る音――ジャンヌがハーメルンたちを蹴散らす音だ。ハーメルンたちは二、三人で来ることも、六人以上で来ることもある。

同じなのは、いつもジャンヌが勝つこと。私たちの安全は守られている。

ほどなくして戦闘音はやんだ。逃げていく足音がする。静寂がもともとそうだったように私たちの頭上に居座る。私はテントを出てみた。

ジャンヌはこちらに背を向けて、通りの先を見据えている。まるで見張りの構えだった。

「ジャンヌ」

恐るおそる呼びかける。

「心配するな。寝てろ」

 淡々とした返事がある。「でも……」私は言いよどんだ。

「でも、最近、多いから。……お母さんに会った日から」

 あの一件からすでに七日が経っていた。この七日のあいだ、私たちの家には毎日侵入者がある気がする。毎夜ジャンヌが彼らを退けている。他の子たちは気づかないうちに。

「あ?」

 ジャンヌはやや不快そうな声を出した。

「ハーメルンとお前の母親と、何の関係があるっていうんだよ。こうやって目をつけられることは時々ある。ただの偶然だろ」

 私はジャンヌの言葉が実体験を語っているのか、単なる慰めか判断しかねる。私は私と出会う前の、ジャンヌたちの暮らしを知らない。このような襲撃が以前にもあったことなのか。だから私は懸念を拭いきれない。

「でも。お母さんが『覚えてなさい』って。『ひどい目に遭わせてやる』って言ってたし」

 この街にどんな人間関係の繋がりが築かれているのか、私は知らない。ジャンヌが様々な人と知り合い、さまざまなことを知っているように、母にも多少なりとも関わりがあるかもしれないではないか――ハーメルンか、それに似た攻撃的な人たちとの繋がりが。絶対にない、と言い切ることができない。

 ジャンヌはそれを一笑に付す。

「考えすぎだ。言っちゃあ悪いが、ああいう感情的な奴は深い知り合いが増えにくい。もし本当に俺たちに何か仕掛けたくても、頼むアテがないだろうよ。金でも積めば別だがな」

 ひとつ間を置き、追い払うように手を振る。

「さあ、これでちょっとは安心できたか? もう寝ろよ。冷えるぞ」

「……うん……」

 釈然としないまま、それでも素直にテントへ戻る。ジャンヌは私に戻ってほしいのだろうと思った。私は夜明けが近づいてくるのを聞いていた。


*


 この毎夜の襲撃はほんとうに、母の脅迫とは関係がないのだろうか。

 ハーメルンたちは毎夜毎夜やってくる。私たちをどこかへ連れ去ろうとする。

 それに対処するジャンヌは日に日に疲れていくように見える。当然だ。昼間、私たちに仕事を任せて仮眠しているようだが、私は仕事中もジャンヌのことが気になって身が入らない。

 襲撃の音を覚えてしまい、かすかな物音でも目が覚めるようになってしまう。ハーメルンたちはいつ来るのか分からなかった。私たちが眠った直後、それとも夜明けの直前。あるいは深夜。だからジャンヌは寝ずの番をして彼らを待ち受ける。私は戦いのたびに目が覚めて、ジャンヌが勝つ音を聞く。毎晩、毎晩。

 そのたびに、抗いがたい申し訳なさを感じる。せめて戦いの間だけでも私も目を覚ましたままでいることで、ジャンヌと共に在りたいと思った。まだなんの根拠もなかったのに、私の中では母のことと襲撃とが結び合わされていた。ジャンヌが戦っている音を聞いても、もはや私は守られている感覚に安堵することができない。本来は私ひとりが背負うべき叱責と苦痛を、無関係なはずのジャンヌがあいだに入ってせき止めてくれている。他の子どもたちとジャンヌを毎日危険にさらしながら、私はここで生き続けている。

 私は戦えない。その力も技術もない。それは痛いほど分かっている。

 けれど守られる以外に、私にできることはないのだろうか。


*


 とても穏やかな夢を見ていた感じがする。

 屋根があり、家があり、私たちはそこに住んでいる。みんなで分担して夕食をつくっている。そこへジャンヌが帰ってくる。

 おかえりなさい。玄関へ押し寄せるようにして迎えると、ジャンヌはいつものように無愛想に、けれどもまんざらでもなさそうに言う。

「ただいま」

 だからそれと同じ声が夜中に絶叫しているのが聞こえた時、飛び起きた私には何が起きたのかすぐには分からなかった。

 視界にテントの屋根が映りこむ。ブルーシートに透ける街灯と、黒い影になって眠る子どもたち。どうやら真夜中を少し過ぎているころだ。

「やめろ!」

 再び、ジャンヌの悲鳴。下卑た男たちの笑い声が続いた。私は状況を察した。

 襲撃だ。

 布団をはねのけて立ち上がる。なぜ今日に限って深く眠っていたのだろう。自分が恨めしい、恨めしい。

 テントを飛び出した。

 少し離れたところに男たちが集まりかがみこんでいる。囲まれた真ん中に、ジャンヌの赤いズボンを履いた脚が見え隠れしていた。

「ジャンヌ!」

 張り上げたはずの声は、かすれて喉にはりついている。口を塞がれているのだろうか。ジャンヌの叫びはもはや聞こえず、くぐもった呻きだけが抵抗を示している。ジャンヌを囲む彼らは寄り集まった黒い影だ。ジャンヌを食い尽くそうとしている怪物。

「散々俺たちをいたぶってくれたな。ようやくやり返せるぜ」

「気の強い女を潰してみたかったんだよ。お前みたいな」

「良いチャンスをくれたよな、麗子の奴も」

「まったくだ」

 全身が凍りつく。麗子。母の名前だ。やはりこれは彼女が。

「おいしい話だぜ。楽しんだうえに金までもらえる。今日までの怪我もこれで相殺よ」

「せいぜい楽しませてくれよ……」

 男の一人がジャンヌに馬乗りになる。他の男たちがジャンヌの手足を押さえる。呻きが大きく痛ましくなる。男がベルトに手をかける。

 知らずに耳を塞いでいた。

「愛シテル……愛シテル……」

 暗い。湿っぽい。逃げられないところで。

 これは、拡張された記憶の再演なのだろうか。より懲罰的に。より暴力的に。

 本当にあそこにいるべきなのは、損なわれるべきなのは、私ではないか?

「やめて」

 つぶやいたつもりの声は、本当に声として出ていただろうか。

「やめろ! ジャンヌに触るんじゃねえ!」

 控え目な拒絶は翼の大声にかき消された。

 大勢の足音が私たちに押し寄せる。振り返って初めて、私は子どもたちが向かってくることに気づいた。

 彼らは小さな体で男たちに掴みかかり、爪でひっかき、むき出しの手足に噛みつき、髪を引っ張った。男は最初こそ彼らを引き剥がしていたが、きりがない。子どもたちが上げる甲高い威嚇の声は、昔映画で観た鬼の襲来にも似て聞こえた。

 この乱闘はどのくらい続いただろう。男たちはついに必死の様相で走り出し、路地の暗がりに逃げていく。

「ジャンヌに近づくな!」

「二度と来るな!」

 男たちの姿が完全に見えなくなるまで、子どもたちの怒声はビルに反響してふくらみ続けた。

 そして一斉にジャンヌのもとへ駆けつける。

 ジャンヌは女の子たちに手を添えられ、近くの壁によりかかって座っていた。口々に気遣いの声がかけられている。

「ジャンヌ、痛くなかった?」

「大丈夫?」

「……ああ。平気だ。なんともないよ……何もされてない」

 このやりとりを、私は輪の外側に佇み眺めている。彼らの輪にどうしても入れなかった。入る資格がなかった。

「おい」

 ふと、ジャンヌが私を呼んだ。

 俯けていた顔を上げる。ジャンヌが手招いているのが見える。

 駄目だ。行ってはいけない。

 強く自分を制止するのに、足は近づいていってしまう。ジャンヌの傍らに座りこんだ。

 足から力が抜けた、と言うべきかもしれない。つい一瞬前までどうやって立ち続けていられたのか、まったく分からないのだ。

 ジャンヌは私を抱きしめた。強い力だった。

「忘れろ」

 有無を言わさぬ口調で言う。

「忘れろ。全部。今見たこと、聞いたこと。全部忘れちまえ」

 頭を強く肩に押し付けられ、ほとんど動けない。その動作は、言葉は私のためであり、同時にジャンヌが自分のために言っていた。

 私の背に触れた手がひどく震えていることに、否応なく気づいてしまったから。

 ジャンヌはせがんでくる子どもたちのことを順々に抱きしめた。

「みんな。起こしてごめんな。それから、助けてくれてありがとう。今日はもうあいつらも来ないだろう。……みんなで休もう」

 ぎこちなく立ち上がり、ゆっくりとテントに戻りはじめる。私は彼らの寄り添って歩く感じが好きだった。

 穏やかな夢の中で見た「家族」のようで、尊いものだった。


*


 何を言われても、私はその輪の中にはとてもいられない。

 翌日、ゴミ拾いをそっと抜け出し、私はテントへ戻ってくる。ジャンヌも出かけていることは確認済みだ。

 自分の布団の奥を探り、通学カバンを引っ張り出す。ここに来る時に持っていたものすべてを収めていた。白くて綺麗な制服、紙とえんぴつ、そして、私のゲートパス。

 ジャンヌが「大事にしろよ」と言ったゲートパス。再びカバンの底に押し込んで、それを背負った。

 元凶は、誰がなんと言おうと私だ。私が、ジャンヌに守ってもらってしまったから。間に入ってくれたジャンヌが、私の代わりに傷ついてしまった。本当は受けなくて良い傷を負わせてしまった。あの怪物たちに呑み込まれるべきだったのは私だ。次も追い払えるとは限らない。こうするのが遅すぎたのだ。

 思えば初めて会った時も、私はジャンヌに守ってもらったのだった。ジャンヌが与えてくれた居場所。ジャンヌが与えてくれた仕事。ジャンヌが与えてくれた「家族」。私がそれらに対して、一体何を返しただろう。良いことなんて何もない。自分の存在と一緒に、災厄を持ち込んでしまっただけだ。

 お前が本当に悪い子かどうか、俺が見極めてやる。ジャンヌはそう言って私がここにいる理由をくれた。この百八十日で答えは出てしまっただろう。

 今ごろ通りでは、私がゴミ拾いを抜け出していることに誰かが気づいているかもしれない。翼やジャンヌを心配させてしまうかもしれない。みんなは私を探そうとさえしてくれるかもしれない。

 そういう可能性すべてに思い至ることができていながらも、私は黙って立ち去ろうとしている。これが良いこととは思えない。他のやり方が分からないという理由だけで、私はみんなに迷惑をかけて去るのだ。

「……ごめんね、ジャンヌ。私、やっぱり良い子じゃなかったよ」

 けれども私は振り返らなかった。


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