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ジャンヌのような人たちは「ストリート」と呼ばれるらしい。門と壁で囲われた街の、路地裏を生き抜く人々。
「まず、ちょっと手伝え」
ジャンヌは私を連れて狭い道を自在に歩く。確かな足取りで、街のどこかへと。黒ずんだ壁のビルは右へ、積まれたゴミ山は左へ。私にはどこを歩いているのかまったくわからないのに、一体何を目印にしているのだろう。
私たちは中華料理屋の裏口にたどり着いた。休憩中とおぼしき男がひとり、コンクリートの階段に座って煙草を吸っている。
「お! ジャンヌか。待ってたよ」
「今日は何かあるか?」
「今とってくる」
男は素早く店の中へ消えると、三十秒と経たずに戻ってきた。鉄のドアが開いて閉じるわずかな隙間から、厨房のざわめきと調理の音が漏れ聞こえてくる。中華など食べたことがないのに無性にお腹がすく匂いだった。
「はい」
戻ってきた男はジャンヌに袋を手渡す。ジャンヌは流れるようにそれを私へ寄越した。
「持ってろ。落とすなよ」
「は、はい」
こわごわと両手で受け取る。何が入っているのだろう。遠慮がちにのぞいてみると、プラスチック容器の中に形の崩れたギョーザや胡麻団子、あんのかかった卵焼きの切れ端などが詰められていた。
ジャンヌは男と何事か話をし、再び歩きだした。
こんな調子の飲食店めぐりは他に二、三軒も続いた。パン屋では余ったパンを、弁当屋では今日の残りを。受け取った荷物はほとんど私に回ってきて、山ほどの食糧を抱えた私は息を切らせながら早足のジャンヌを追いかける。食べ物は私たち二人だけではとても食べきれないほどあった。
「あの。これ、こんなに……どうしてですか?」
「今に分かる」
その言葉から三十秒ほど後、ようやくジャンヌは足を止める。確かに大量の食べ物のわけが知れた。
「ジャンヌだ!」
「おかえりジャンヌ!」
「今日のごはんなに?」
一斉にふりかかる声に圧倒されそうになる。ぱっと目に入る子どもたちだけでも十数人はいるだろうか。
ビルに挟まれた空き地に、ブルーシートを張ったテントが寄せ集まるようにしていくつもいくつも建っている。大勢の子どもたちがジャンヌを出迎えに飛び出してきていた。
「ここ、は……」
面食らって辺りを見回す。ジャンヌが気づいて振り向いた。
「俺たちの家。俺たちは、ここで家族だ」
子どもたちに向きなおり、
「今日は大量だぞ。それから、新入りもひとりいる」
私に持たせていた食料を引き受け、年若い子たちから順に配りはじめる。最後に私の両手に渡されたロールパンは、なんだか温かい気がした。
*
ストリートの朝は早い。
「おい。おい、起きろって」
肩を揺すられて目が覚める。薄い敷布団の上で体を起こすと、横に翼がしゃがみこんでいるのに気づいた。
「翼くん。おはよう」
「呑気に寝てんなよ。もう出発だぞ」
そんなに寝てしまっただろうか。小柄な背中を追いかけて立ち上がる。サイズの大きいアノラックとズボンをなんとなく整え、私はテントの外へ出た。ジャンヌに助けてもらってから一週間も経つ頃には、私もここでの暮らしの流れに組み込まれ始めていた。
日が昇ってすぐあたりに、ストリートたちは目を覚ます。私は他のみんなと一緒に、白いゴミ袋と灰色の汚れがしみついた軍手を持ってブルーシートの「家」を出る。私たちをまとめているのは翼という男の子だ。ほとんどジャンヌに育ててもらったようなものだと言っていた。
「気づいたらジャンヌといた。え、年? 知らね。八か九くらいかな」
来し方を尋ねた時、翼は軽く肩をすくめただけで、目の前のから揚げにかじりついた。それでも翼は私が加わるまで、ジャンヌの次にこの「家族」の中での年長者だった。
私たちはゴミ袋を片手に、まだ薄暗い通りへ出ていく。通りにはまだ灯っているネオンも多く、まるで歓楽街の夢が消えかける場に居合わせているみたいだ。千鳥足の男が何人か通り過ぎていったりもする。門に面したひときわ大きい通りからは音楽も聞こえてくる。
夢の名残のなかを私たちは気配を消すようにしてそっと進み、道の端に吹き溜まったゴミを拾い上げる。ゴミは重さごとに買い取ってもらうことができる。みんなで稼いだぶんがみんなの夕食代になる。一日一日、そうやって暮らしが回っていく。
この街では一晩のうちに不思議なほど大量のゴミが出た。毎日拾ってきれいにしているはずなのに、次の日にはまた吹き溜まりができている。それだけ大勢の人がこの街を訪れているということだろう。大きなゴミ箱は一杯になり、縁石には紙屑とプラカップが集まっていて……。雨の日などは最悪で、すべて一緒くたになって濡れそぼっている。乾くまで待ちたいと思うが、そんな暇はない。ストリートはできるだけひと目に触れるべきではないようなのだ。そういう言葉にならないルールがあるらしい。確かに私も学校に行く道で、ストリートを見かけたことがないのを思い出した。
ゴミを拾っているうちに、空はどんどん明るくなっていく。次第に太陽が壁よりも高いところまで昇り、道路にも陽光が落ちてくる。私たちは黙々とゴミを拾う。
そうするうちにスーツ姿の人たちが見え始める。彼らは各々の店や職場に出勤していく。逆にシフトを終えたのか帰る人の姿も見える。
ゴミを拾い終える頃、すっかり明るくなった空に放送が鳴り響く。
「女性のみなさん! おはようございます!
今日も新しい一日が始まりました! 貴女たちは国の宝です! 今日もご奉仕よろしくお願いします! ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!」
ジャンヌは物事をはっきり伝えてくれる人だと思う。私は学校の制服のままでいるわけにはいかなかった。目立たない服を着て周りに溶け込んでいなければ、目をつけられやすくなってしまう。
食事の内容は日によってまちまちで、数個のコンビニ弁当をみんなで分け合うこともあれば、ひとりひとつ温かいものが手に入ることもあった。私の両手はゴミの黒ずみで汚れた。――すべてジャンヌが忠告し、私が了解したことだ。だから私もジャンヌに真摯に接した。やることはたくさんある。ゴミ拾い、雑誌売り、知り合いの店の雑用、食べ物集め。言われたことをなんでも手伝った。
一緒に過ごせば過ごすほど、子どもたちがジャンヌを慕い、自分たちを「家族」と考える理由が分かっていく気がする。ジャンヌは私たちを統括し守ってくれるけれど、他の領域の人たち――バーバヤーガとは明らかにやり方が違うからだ。
より多くのゴミを求めていつもより足を伸ばした時、見慣れない子どもたちが仕事をしていることに気がついた。見慣れない顔ではあるが、服装やゴミ拾いをしていることから彼らもストリートであることは知れる。私は彼らのやせ細った姿から目が離せなくなってしまった。
彼らは痩せぎすで、黒く汚れたままの服を着ていて、目に生気がまるでない。視線は足元に釘づけたまま、ゴミを見つけては機械的に拾って袋に入れる。その細い脚でひとたびしゃがみこむと、立ち上がるために力を入れなければならない子もいるようだった。
どうしてあんなことに……。
背後から翼の声が近づいてきた。
「おい。あんまりみんなから離れるなよ。そっちはよその縄張りなんだから」
横に並び、私が見ているのに気づいたようだ。口をつぐんでそれ以上は何も言わない。私はかすれた声で、どうしてなの。と聞いた。
「どうしてみんなあんなに痩せてるの。あの子たちにもごはんを分ける人がいるんでしょう」
「……ああ。バーバヤーガって呼ばれてるクソ婆ならな」
翼は周囲を気にして声を落とす。身振りに従い、私たちはバーバヤーガの「子どもたち」から距離を取った。
「最悪だって噂だぜ。元は街いちばんの美人令嬢だったとかなんとか。まあ知らねえけど。金にがめつくて、子どもだけ働かせて、金をまきあげていくんだ。それで子どもにはちょっとした飯しか買ってやらない。逃げて行こうとする奴も多いんだ。だけど縄張りを越えたら、どこでどう危険な目に遭うか分からない。他の縄張りの奴が逃げてきた子どもを受け入れてくれる保証もない――ジャンヌはできるだけ守ろうとはするけど――バーバヤーガ本人は、ストリートの中から美人なのをえりすぐって、店に売りつけたりしてしこたま稼いでるらしいぜ。ロクな店にありつけるもんだか、怪しい気もするけどな。まあ、おれらには関係ないさ、店のことなんか」
「なんだか、可哀想だね。あの子たちを助けてあげられないのかな」
「とんでもねえ。関わり合いになろうとすんな。さっきみたいにじっと見てるのだって危ないんだから」
翼は嫌なものを振り払うようなしぐさをする。
「あいつら、とにかく金が欲しいんだ。たくさん稼げばバーバヤーガが夕飯を多めにくれるかもしれないから。隣で拾ってると、襲われるぜ。ゴミを奪われる。心も痩せちまってるんだって、ジャンヌは言ってた。前にバーバヤーガのところから逃げて来た奴がひとりいたけど。目が違ったんだ。結局、いろんな奴のもの盗んで、見つかって、どこかに消えちまった。同情するのは分かるけど、おれたちができることはほとんどないんだよ。おれたちも稼がねえと。だから構ってらんねえし、構っちゃいけねえんだ。手に負えない」
それだけ言ってみんなの方へ戻っていく。私も痩せた彼らを気にしつつ後に続いた。
時折、物音で夜中に目を覚ますことがある。
初めてそれに気づいた日、私はそれが何の音なのか分からなかった。ともかくテントの外の、それほど遠くないところで響いている。私は同室の子どもたちを起こさないよう気をつけて布団を抜け出してみた。
出入り口の布を少しだけずらして、隙間から外の様子をうかがってみる。
人が倒れるのが見えた。
見慣れない風体の男。ここにジャンヌ以外の大人がいるはずはない。明らかによそ者だ。
倒れこんだ男の体に、細くしなやかな脚が追撃を見舞う。ジャンヌだった。鋭く敵意を研ぎ澄ませた横顔。いつもの無愛想な様子とはまた違っていた――私を助けてくれた時の顔。
よく見ればジャンヌの足元には、今倒れた男の他にも四、五人ほど男が倒れている。みな痛みにうめき、すぐには立ち上がれないでいるようだった。
よろめきながら体を起こすと、ばらばらに敗走をはじめる。
「覚えてろよ!」
「おい、誰だよ『悪魔』に勝てるなんて言い出した奴!」
「クソッ! 噂以上じゃねえか! ほんとに化け物みてえだな!」
口々に言い合いながら逃げていく。
敗走を見送るジャンヌの背中が、ふと少しまろやかな輪郭に変わった気がする。頬が痛みそうなひりついた空気は夜の中にほどけていった。
気づけば声をかけていた。
「……ジャンヌ」
ジャンヌは弾かれたように振り返り、
「あ。お前か」
呟くように言った。
拒む気配は感じられない。私はテントを抜け出して隣に並んだ。路地裏の向こうにはもう誰もいない。
「起こしちまったか。悪かったな」
「ううん。……さっきのひとたちは」
「ろくでなしだよ。『ハーメルン』だ」
「ハーメルン?」
「夜な夜な子どもを攫う。ろくでなし共だ。連れて行かれた子が……戻ってきたのを見たことはない。俺の家族を奪われてたまるか。だからいつも見張ってる」
「家族」
私は想像してみる。ある朝目を覚ましたジャンヌが、子どもたちが数人、消えていることに気づく。昨日の夜はいたはずなのに。何も言わずにいなくなるような子じゃないのに。
そしてそれはきっと、かつて実際にあったことなのだ。どれほど焦り、心配し、悲しんだことだろう。
街の片隅で身を寄せ合い、協力しながら生きる私たちは、家族だと確かに思う。私たちが「子ども」なら、ジャンヌは親……母、親だろうか。
「ジャンヌ」
「何だ」
「ジャンヌって、女の人だよね」
束の間沈黙が流れた。
「……違う」
「じゃあ、男の人?」
私はやや困惑して問いを重ねた。ジャンヌの体つきは引き締まった女性のものだと思っていた。サイズの合わない服を着ていようと、何となく分かってしまう。けれどもジャンヌは自分のことを「俺」と呼ぶし、動作の端々にも男っぽさを感じることがあった。
男。ジャンヌを「そちら側」に置いておくことはなぜか私を緊張させる。私はジャンヌに対して安心していたかった。安心できる相手であるともう分かっているはずなのだけれど。
「俺は。生まれる体を間違えたんだと思ってる」
ジャンヌは響きを確かめるように口を開いた。
「それとも、ただ女でいるのが嫌なだけかな。もう分かんなくなっちまった。でもひとつ確実に言える。俺は男じゃない。でもだからと言って女でもない。
昔はさ。こういうのを言い表す言葉があったんだと。俺を育ててくれた路地裏のおばあが教えてくれた。でもその言葉は消えちまった。ここには男と女しかいない。
そして女はこの街で、いやこの国で、商品でしかない。女の価値は体、それひとつで決まるのさ。忌々しいことにな。誰も俺の中身なんか――女が本当は女じゃないことなんか分かろうとしない。知る気もないんだろう。誰も守ってくれやしない。むしろ大人の手は俺を陳列台の上に押し上げようとする。
だから俺は自分で自分を守ってる。大人の汚い手から。国から」
暗闇に慣れた私の目は、ジャンヌの横顔をはっきり見て取ることができた。伏せられた目は遠い過去の泥濘をさらっている。
気がついたように顔を上げた。
「余計なことまで話しちまった。もう寝ろ。明日も朝早いんだぞ」
話は終わりだということだろう。私はうんと返事をしたけれど、すぐにはテントへ戻らなかった。
迷った末、そっとジャンヌに体を寄せる。遠慮がちにその胴に腕を回した。
「なっ……!」
「私、ジャンヌのことが好きだよ。ジャンヌがジャンヌだから好きなんだと、思う」
それからそっとテントへ戻り、布団にもぐりこんだ。
ジャンヌは時々ハーメルンたちを追い返している。




