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牲愛  作者: 久慈柚奈


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5/12

5

「卒業式」のあと、私たちは中等部へ進んだ。

 同じ学校、同じ制服。ただ経験の量だけが違っている。

 自由遊びの時間、校庭で元気よく駆けまわる初等部の女の子たちを垣間見ることがある。中等部の女の子たちは外で遊ばない。体を大きく動かしたり、歓声を上げて走りまわったりするのは「女の子らしく」ないからだ。

 遠くから彼女たちの姿を眺めていると、私は自分たちが何かを(うしな)ったような気にさせられる。

 初等部の女の子たちは何も知らない。私たちは交流し、知らせることを禁じられている。彼女たちは知るすべもなく、数年後には「卒業」を迎えるのだろう。そしてどんどん損なわれていくのだ。

 私たちは奪われる。何度も何度も奪われる。直接的に、あるいは間接的に。毎朝の「映画」の時間は「ビデオ」の時間に変わった。私たちは奉仕の作法を知らなければならない。どのように振る舞うか知らなければならない。新しい段階へ――より実践的に。私たちはその奉仕のゆえに存在することを許され、また感謝を受けることができる。ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!

 母は私の「卒業」を喜んだ。親として鼻が高いと言った。これでお店のみんなに自慢できると祝杯をあおった。

 空のグラスをちゃぶ台に置いて、母は息巻く。

「でもここで気ぃ抜いちゃダメだからね? 良い令嬢になるには良い店の内定取らないと。アタシが見極め方教えたげる。絶対、失敗しないように。これまで何人も失敗してきた子見てるんだから! 失敗すると悲惨だよ。『ストリート』に落っこちた子だっているんだから。今まで払ってきた学費をパァにしたら、許さないからね」

「はい、お母さん」

 私はすかさずグラスにビールを注ぎ足す。タイミングを誤ってはいけない。

「ほんとにねえ、大変だったんだから……」

 呂律の回らない舌で展開される苦労話に付き合う。

「それでねえ、アタシは誰にも頼らないで、ひとりであんたを育てるって決めたの。アタシだって働けるのに、男にくっついて、養われて、顔色うかがいながら暮らすなんてウンザリだもん! 自立がいちばんいいよ、うん。人に媚びるのは仕事だけで充分。おかげで街の外に暮らして、通いの令嬢でいられてるんだもんね。住みこみはとんでもないって、みんな言ってるよ」

「そうなんだ」

 蛍光灯の下で、私の意識は現実感を薄れてさまよいはじめる。母が語る無数の選択肢と、その中で彼女が通ってきた道を見渡してみる。学校を卒業しさえすれば広がるように見える可能性は、その実たったひとつしかない――すなわち、私は令嬢になるのだ。

 私は大人になっても「門」の内側へ通い続けることになるのだろうか。学校に通う代わりに店に通勤し、仕事をして帰ってくる。私が選べるのは、せいぜいどの店で働くかぐらいか。献身の道以外に開けてはいない。ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!

 高い学費と良質な教育を受け保護された私たちは、「高級令嬢」として待遇の良い店に入れる可能性が高いという。みんなは限られた噂をもとに、どの店が良いかと話題にするようになった。

「ねえ。アリスはどの店に行きたいと思う?」

 ある休み時間。レナがアリスに話を振ったのを耳にした時、私はアリスが自信たっぷりに具体的な店の名前を出すと思った。成績の良い彼女のことだから、私たちの誰も知らないような、立派で格式の高いところを引き合いに出すに違いない。

 アリスは曖昧に笑っただけだった。

「うん……どこだろうね」

 そのままふいと話の輪を抜けていってしまう。みんな驚いているようだった。

私はとっさにアリスを追いかけた。


 アリスは階段の踊り場で、横長の窓から広がる景色を眺めていた。

「アリス」

 どうしたの、と聞くところまで言葉を続けることができない。アリスの姿を見るたびに、声を聞くたびに、名前を呼ぶたびに。「卒業式」の夜に聞いた彼女の悲鳴が付随して思い出される。

 それはアリス自身も同じことなのだろうか。あの日以来、アリスは変わった。いつもひどく不安げで、おどおどしていて、誰かが何気なく肩に触れるだけでもびくついていた。もうアリスははきはきした模範生ではなくなっていた。

「なんでみんな普通にしてるの?」

 アリスは窓の外に目をやったまま問いかける。それは私に向けられた言葉なのか、自信がない。漠然と怒りを孕んでいる。

「あたし、みんなが怖いよ。あんなことがあったのに……なんでみんな前とおなじように暮らしてるの? なんでそんなことできるの? 普通に学校来て、話して、笑って……。誰もあのことを話さない。なんで? 怖かったでしょ、嫌だったよね!?」

 振り返る。すがるような目が私を見ていた。

 私はアリスのまぶしさに目を細めた。

 私はアリスのことが羨ましい。今まで誰にも損なわれることなく、安全に守られた十年間を生きてきた。幸福で大切な少女。誰かの娘。その幸運も受けてきた庇護も、あの時一気にはぎ取られたわけだけれども。

 投げかけられた問いを反すうし、私は答える。

「……でも、あれが私たちの義務なんだと思う。慣れていくしかないんだよ、きっと」

 私は慣れていこうと努力している。この三年のあいだずっと。

 アリスは打ちのめされたような顔をした。

 直後に困ったように笑う。

「……はは。そっか。慣れ……うん、そうだね。そっか……じゃああたしは駄目だね」

 この時、アリスは私にどんな返答を期待していたのだろう。

 今となっては知る由もない。その少し後で、アリスは首を吊ってしまった。


*


 それは、どこからか流れてきた噂。実際に起きたのは、アリスが急に学校へ来なくなったことだけだ。先生が「木下さんはもう来ません」と言って、それで終わりだった。遅れて噂がさざ波のように、ひそりひそりと伝わってきた。先生の目を盗んで。どこから生まれた噂なのか、どのくらい正確なものかは分からない。アリスは急に私たちの人生から消えてしまった。

「じゃああたしは駄目だね」と笑った、あの空虚な目が忘れられない。

 私の言葉が彼女を追い詰めたのかもしれない。私はなんと言うべきだった? もっと寄り添うような言葉をかけることが、私にはできたかもしれないのに。

 アリスは私と同じだったのだ。無邪気に暮らすみんなに馴染めなくなって、みんなの後ろを静かについて行く。ついていけているフリをする。私はそれをもう三年続けていて、アリスはまだ始めたばかりだった。それだけの違いしかなかった。

 取り返しのつかないことをしてしまった。

 気がつくと昇降口にたどり着いていた。自分の靴箱を開けた時、外から人声がするのに気づく。言い争っているような調子だ。辺りにはひとけがない。誰も息をひそめる私を見咎めない。

 音を殺して靴を履き替え、声の方に近づいた。声の主たちは中庭にいる。

 先生と、見知らぬ女性がそこにはいた。

「ですから! アリスは『卒業式』の後から元気がなかったんです。何があったのか尋ねても答えてくれませんし……! 一体何があったんですか。あの子が元気をなくすようなことが……死ななければならないようなことが? 教えてください!」

 詰め寄る女性の言葉で私は理解する。あの人は、きっとアリスの母親だ。

 先生はどれほど詰め寄られても淡々とした態度を崩さない。

「そう言われましても、わたしとしては思い当たることがなにもありません。本当に卒業式が原因でしょうか? 何度もご説明させていただいている通り、卒業式では学校に泊まり、学年全体で卒業を祝う、ただそれだけです。娘さんの心に傷が生じるようなことは起こりませんでした。それに、彼女も楽しんでいましたよ」

 嘘だ。

 喉が詰まる。今すぐ飛び出して叫びたいのを必死にこらえる。楽しんでいた? あのアリスが? 損なわれることを?

「じゃあどうしてアリスはあそこまで追いつめられなければならなかったんですか! 他のことはいつも通りでした! 卒業式だけがいつもと違うことだったんです!

 先生、卒業式から帰ってきたアリスは、確かにわたしに『裏切者』って言ったんです。楽しいイベントの後に言うこととは思えません。卒業式に原因があるとしか思えないんです!」

「貴女もここの卒業生と伺っています。それでしたら卒業式がどんなふうに進むかお分かりでしょう?」

 先生の声に微笑が混じる。アリスの母親は激昂した。

「だからますます分からないと言っているんです! わたしの時を思い出しても、何も思い当たらないから……! わたしが卒業してから十年は経っています、そのあいだに何か変わったんじゃないんですか。やましいことがないのなら説明してください!」

「分かったところで娘さんは戻ってはきませんよ。そんなに子どもが恋しいなら、またお生みになったら良いじゃありませんか。機会はたくさんあるでしょうに」

「なんてことを! アリスの代わりになる子なんているはずありません! わたしは……」

 口論は延々と続く。私はアリスの母親が他の先生たちに引きずられて学校を追い出されるまで、ずっとそこに座りこんでいた。耳にした言葉の断片が、無秩序に、繰り返し、思い出される。私はそれらを呑み込むまでに時間を要した。立ち上がれるようになって気がつくと、もうずいぶん日が傾いていた。

 アリスの母親は、何も知らなかったのだろう。知らされなかった、あるいは不運にも知る機会に恵まれなかったのかもしれない。もしも何が起きるか知っていたら、彼女は自分の娘を欠席させただろうか。退学させただろうか。それはアリスの令嬢としての人生にとって欠点になったかもしれない。

 それでも、優しい親だと思ってしまう。

 後から知ったことだが、確かにアリスの母親はこの学校を卒業し、クラスメイトと一晩楽しく語り明かすという「卒業式」を経験していた。アリスの母親たちは令嬢の「第二世代」であり、私たち「第三世代」とは異なる卒業式の形式を経験した可能性が高い。だからこそ彼女は、楽しい思い出へと娘を送りだしてしまった。

 この日の帰り道に、もう私の心は無意識のうちに決まっていたのかもしれない。学校と家の往復。勉強。これまで教わってきたこと。これから教わるだろうこと。新しい段階へ。より実践的に。ありがとう、ありがとう! 女性の皆さん!

 私は家路を急ぐ代わりに、街へ出た。

 ゲートパスはカバンの奥深くにしまいこんで、門の内側にひろがる街をあてどなく歩きだす。ちょうど薄暗くなってくる刻限で、私の脚は灯りはじめたネオンの明かりに吸い寄せられていく。まだ夜のはじめとも呼べないくらいなのに、街にはすでに見たこともないほど大勢の人がいた。

 それは私が何年も通ってきた街の、私が知らない姿。

 朝によく見かける、スーツ姿で通勤する人たちは一体どこへ行ったのだろう。代わりに次々目に飛び込んでくるのは、とりどりのドレスや着物で身を飾った華やかな令嬢たちと、派手な柄の入ったスーツでゆったり歩く男たちだ。時間が進むほど男の数が増えていく。光るネオンと周囲を行き過ぎる人に幻惑されて、私はもう自分が街のどのあたりを歩いているのか分からない。

 通りの向こうから女性の笑い声が聞こえてきてはっとした。

 慌てて声の方を振り返る。男と腕を組んで歩く女性がひとり、店の中へ消えていった。遠目に見えた服装や背格好こそ違うけれど、耳に入ってきた笑い声が恐ろしいほど母のそれに似ている。

 そうだ。母だ。彼女も今、この人波のどこかにいるかもしれない。いつも出掛けていく時間はとうに過ぎているのだ。

 もしこの場で鉢合わせしたらどうなるだろう。あの甲高い声で感情的に怒鳴られるかもしれない。こんな時間まで何をしてる、なんで家にいないの。早く家に帰りなさい!

 ここから逃げだしたい。見つかるかもしれない、と怯えなくて良いところ。ひとけのないところへ。

 焦って辺りを見回した私の目に、少し先の交差点が映る。その角を曲がった先は道幅が狭そうで、みんなそこに道などないかのように通り過ぎていく。

 私はそこの角を折れた。

 車一台が慎重に通れそうな、本当に狭い路地だ。向こう側にも賑わう通りがあるようで、前後を喧騒にはさまれたここだけが異様にひっそり感じられる。少し行ったところで若い男たちがたむろしている他に人はいない。

 私は母と鉢合わせる恐怖に憑りつかれていた。街の構造を何も知らなかった。だからただ闇雲にどこかへ逃げようとしていた。ひとつのところに留まっているのが、最も危険な気がする。

 俯き加減に向こうの通りへ抜けようと急いでいると、行く手に人影が立ち塞がってくる。見上げると、そこで話していた男たちだった。

「お嬢ちゃん、こんなところにひとりで来て危ないよ?」

「かわいいじゃん。いくら?」

「いく、ら……?」

 一体何を言われているのだろう。思わず後ずさると、何かにぶつかる。背後にも男がひとり回り込んでいた。完全に囲まれている。

「いえ、あの、私……」

 どう言えば良い? こういう時なんと言えば良い? 男たちは私に求めている。それは今私が必要としているものでは絶対にない。そのことだけが確かに分かる。けれどもどうすればこの場を離れられるのか、分からない。逃げだしたくても包囲を抜け出せないし、仮にどうにかして隙をついたとしてもすぐ追いつかれてしまうだろう。体格の差がありすぎる。

 もし追いつかれたらどうなるだろう? 押さえつけられ、覆いかぶさられ、そして……。

 暗い所で。次の段階へ。より実践的に。ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!

「卒業式」の光景が、「あの日」が意識に上ってこようとする。その気配だけで私は動けなくなってしまう。

 男たちは私に気づかない。

「君、可愛いし五千でどう?」

「田辺さん、値切ってきますねー!」

「店に入ったら万はいくから。フリーそうだし半額でも良い方じゃない?」

「そうと決まったら、もうちょっと静かなとこ行こうか」

 私のことが、私が何も言えないうちに進んでしまう。しまいには男のひとりが肩に手を回してきて、半ば抱きかかえるようにして歩きだしてしまった。いよいよ体に力が入らず、腕を振り払うこともできない。どうすれば逃げられるのだろう。逃げる? そもそもそれは正しいことだろうか? これも「需要」の一種ではないか?

 私は損なわれるために生まれてきたのに。

 男たちの向かう先に、さらに細い路地が口をあけていた。ここはネオンの明かりも届かず、いっそう暗い。あそこに入ったら終わりだ。何かしようとするなら、抗おうとするなら、今のうちに。

「と……」

 不意に思い出した。

「『特別天然記念物の保護および育成に関する法律』に違反する」

「はあ?」

 私の震えた反論に、男が怪訝な声を上げる。腕の力が緩み、私はなんとか抱擁を逃れることができた。

ふらつく足を気力で支え、あの保護官の言葉を思い出しながら続ける。

「私は華街の学校に通っています。保護を受けているはずです。違反したら……」

ちょっと言葉に詰まる。保護されたら、どうなるのだろう。私はこの状況を保護官に報告して、守ってもらうことができるのだろうか? 保護官に守られるということは、すなわち矯正施設に入るということか? 理由は充分にある。私は決まった道を帰らず、いるべきではない夜の街をさまよっているのだから。

 言いよどんだ私を見て、男たちは笑いだした。目じりに涙が溜まるほど。

「物知りだね! お嬢ちゃん!」

「すごいすごい!」

「よくお勉強してますねー」

 ひとりがさらに強い力で腕を掴んでくる。息が詰まった。両足から力が抜け、抱えあげられても何もできない。

「でもその話は成立しないぜ。ここには保護官なんていないから!」

「見つからなきゃセーフってわけ!」

 再び笑いが起きる。男たちは狭い路地へ向かっていく。逃げられない。体に力が入らない。それとも「需要」に従えない、私は悪い子なのだろうか? このまま運ばれていくことこそが正解なのか?

「よかったじゃん」

 母の言葉が蘇る。そうか、これは良いことなのか? それなら、このまま……。

 先頭を歩いていた男が視界から消えた。

「え?」

「は?」

 残った二人が困惑する中、私たちはようやく男の姿を捉える。

 たった一秒前まで揚々と歩いていた彼は、今白目を剥いてアスファルトの上にのびていた。

 そして男が立っていたはずの場所には、フードを目深にかぶった痩身の人の姿がある。

 その人は私を指さして言った。

「離れな。……それ、俺の連れ」

「え?」

 私は驚く。一人称こそ「俺」だったが、声質はむしろ女声に近かったからだ。

 男たちはそんなことを気にしてはいなかった。

「はあ? 何言ってんだテメエ! ふざけんじゃねえぞ!」

「よくも田辺さんを!」

 拳を握り、フードの人物に向かっていく。私には何が起きたかとても目で追えなかった。

 気がつけば男が三人、地面に伏していた。痛みに呻き、顔を歪めてすすり泣いている。とてもすぐには立ち上がれそうにない。

 呆然と立ち尽くす私に、

「こっち」

 フードの人物は短く声を投げ、さっさと歩きだしてしまう。……ついてこいということだろうか。もとより、他にあてなどない。

 小走りでその人を追いかけた。

 その人は男たちが向かっていたのとは別の角を曲がり、大通りから一本隔てたような、そこそこ明るい道を進んでいく。お礼が言いたいのに、私はついていくのに必死で声が出せない。その人はすっきりと伸ばした背筋で、スタスタと歩いていってしまうのだ。

 ようやくその人が足を止めたのは、さらに何度か複雑に角を折れた後だった。喧騒が遠いことから察するに、大通りからだいぶ離れているらしい。不思議と、この人は大丈夫だと思った。ねばつく欲望がにじみ出ていなかった。

 私は口を開きかけた。

「あの、助けてくれて……」

「なんでひとりで歩いてる?」

 私の言葉は問いによって遮られた。詰問というよりは、意思を確かめるような言い方だった。

「なんで、って……?」

「女ひとりで無防備に歩いてるのは『合意』の印だぞ。しかもそんな目立つ制服で。法律も保護官も、夜の街じゃ誰もお前を守ってなんかくれない。保護官が通りの一本一本に立ってるとでも思ってんのか。お前、誰かとやりたかったのか」

 とっさに言葉が出ず、慌てて首を横に振る。

 時間と距離が私に追いつき、あの男たちから離れたと実感できてくる。会話の空白を掴んで声が出せた。

「あ、あの。助けてくれて。ありがとうございます」

「大したことじゃねえ」

 無愛想な返事があった。私は「なんでひとりで歩いてる?」の問いに答えていなかったことに気づいた。

「……ひとり、なのは。帰りたく、ないっていうか。もう通いたく、ないって、いうか……」

 とぎれとぎれに話す私の言葉が、自分で聞いていてもひどく頼りない。

 母と先生が期待し、用意した道筋を外れようとしている私。「需要」に気づきながら逃げ出したいと願った私。そんな私は間違っているのではないだろうか。道を踏み外したまま、どんどん退路が絶たれているのではないか。

 一方、揺れ動いてせわしないのは頭の中だけで、肉体としての私は今にも座りこんで動けなくなりそうなほど、重かった。

 そんな私の述懐は要領を得ない。花のこと、門番のこと、アリスのこと。脈絡なく行き来する。それでもその人はほとんど口を挟まず、最後まで耳を傾けてくれた。

「――つまり、こういうことか。お前は何もしない学校と、お前を守ってくれない親に見切りをつけた」

「ち、違います! そんな悪いこと……」

「違わないだろ。俺にはそう聞こえたけどな」

「……違わない、かもしれませんけど。……すみません。私はやっぱり悪い子なんです」

 親を、見切る。学校を、見切る。もう信頼に足らないものとして背を向ける。私は突然自分がやろうとしていること、もうすでにやりはじめてしまっていることの非道に気づいた。今まで教わってきたこととまるきり違う。この道を行くのは単に登校拒否することではない。私のこれまでの学びと暮らしすべてを投げ捨てることに等しい。

 それでも、私はやり続けるのだろうか。もう行きたくない、まだ戻れる。どちらも同じくらい強固に思える。

「……」

 黙りこんだ私を、その人は頭ふたつ高いところから見下ろしている。

「そうだな……」

 言葉を探すようにちょっと間をおいた。

「お前が本当に悪い子かどうか、俺が見極めてやるよ。だから俺の腹が決まるまで、ここにいりゃいいさ」

「え……?」

「ただし条件」

 人差指がつきつけられる。

「働け。何もしない奴を置けるほどの余裕はない。そのかわいいお洋服は鞄にしまって、もっと目立たねえ服を着ろ。うまい飯は期待するな。お前の手は汚れることになる。――それでもやるってんなら、俺が見ておいてやる」

「や、やります!」

 すがるように返事した。ついてきな、とその人は街のさらに深みへ歩きだす。

 ジャンヌはこうやって私を救ってくれた。


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