3
「むかしむかしあるところに、夫婦が住んでいました。夫は永い間、子どもが欲しいと願っていましたが、やっとイザナミが旦那さんの願いを聞き届け、子どもを授けてくださいました。
いよいよ生まれた赤ちゃんは、美しい金髪と淡い青紫色の目を持つ、かわいらしい女の子でした。夫婦はその目の色から、赤ちゃんを『ラプンツェル』と名付けてかわいがりました。ラプンツェルは親のひいき目を抜きにして見てもたいへんかわいらしいので、隣近所の人々からもとても大切にされました。
ラプンツェルのかわいさは成長とともに増していき、父親は大事な娘を大勢の男たちの目にさらしておくのが我慢ならなくなってきました。母親はこの時、新たに弟を身ごもっていましたが、日々の暮らしで疲れ果てて、もうかつての美しさは見る影もありません。それに比べて日に日に美しくなっていく、彼の娘はどうでしょう。考えれば考えるほど惜しくなってきて、父親はついにラプンツェルを連れて家を飛び出し、二度と戻ってきませんでした。ラプンツェルは四歳でした。
父娘は森の奥の、誰にも知られていない塔の上で暮らしはじめました。その塔には梯子も、出口もなく、ただ上のほうに窓が一つあるだけでした。父親が外出から戻った時には、塔の下へ立って、大きな声でこう言うのです。
「ラプンツェル! お前の髪を下げておくれ!」
ラプンツェルは黄金を伸ばしたような、長く、美しい髪を持っていました。父親の声が聞こえると、ラプンツェルはすぐに自分の髪を窓の外に投げ出して、ずっと下まで垂らします。すると父親はこの髪へ掴まって窓まで登るのです。
十三年経って、ある時、森へ分け入った少年が偶然にもこの塔を見つけました。塔の中からは美しい歌が聞こえてきます。これはラプンツェルが暇つぶしに歌っている声でしたが、少年はこの美しい声にすっかり魅せられてしまいました。少年は美しい声の持ち主をどうしてもひと目見たくなり、塔の入口を探しますが、いくら探しても見つかりませんでした。
そのうちに父親が帰ってきて、少年は木の陰に隠れました。父親が塔を見上げて呼びかけるのが見えました。
「ラプンツェル! お前の髪を下げておくれ!」
それを聞いて、ラプンツェルが髪を下へ垂らすと、父親はそれに掴まって登っていきました。
塔を上る方法が分かりました。それで少年は次の日、また塔の下へやってきたのです。
日が暮れかかった頃で、もう明るいのは空ばかりでした。少年はラプンツェルの父親の声色を真似て、言ってみました。
「ラプンツェル! お前の髪を下げておくれ!」
すると果たして、上から髪が下りてきたので、少年は掴まって上っていきました。
ラプンツェルは、記憶のあるうちで、父親以外の男を見たことがなかったので、入ってきたのが父親ではないと分かると驚きました。しかし少年は敵意がないことを示し、丁寧な口調で、ラプンツェルの姿をひと目見たくなったわけを話しました。ラプンツェルは声のみならずその姿も美しく、少年の亡くなった母親にも似た優しさを漂わせていました。少年はラプンツェルのことが好きになり、結婚を申し込みました。ラプンツェルは、少年の誠実そうな立ち居振る舞いや整った姿を見、少年の語る外の世界での暮らしに心惹かれて、
「父さんは私を大切にしてくれるけど、私を外に出してはくれない。外へ出てみれるなら、そう悪いことじゃないかもしれないわ」
と思い、結婚の申し込みを受け入れました。けれども二人のあいだにはひとつ問題がありました。
「今すぐにでもあなたと一緒に行きたいのだけれど、私はどうやってこの塔を下りたら良いか分からないの……。こうしましょう。あなたが時々ここへ来て、少しずつ糸をもってきて頂戴。私はそれで梯子を作って、それで下へ下りることにするわ。お父様には秘密でね」
少年は了承し、二人は父親の目を盗んで、時々会うようになりました。
父親はしばらく何も気づかなかったのですが、ラプンツェルが時々夢見心地でいるのを見て、何か今までと違うことがあったと悟りました。激しく問い詰めるとラプンツェルはついに少年との逢瀬を白状しました。父親は怒りました。
「この俺というものがありながら! 俺以上の男などお前に必要なわけがない!」
そしてほとんど完成しかかっていた梯子をばらばらに切り裂いて、暖炉にくべてしまったのでした。
本当は梯子が完成する日でした。少年は約束通り訪ねてきて、
「ラプンツェル! お前の髪を下げておくれ!」
と言いました。綺麗な髪がいつも通り下りてきましたが、その先には父親が待ち構えていたのです。
少年が塔を登って来るやいなや、父親は少年の体を思い切り押しました。少年は何も掴むことができずに、まっすぐ塔の下へ落ちていきます。少年は地面の上で動かなくなり、もう父親の他にラプンツェルを愛する人はいなくなりました。寛大な父親はラプンツェルの過ちを赦し、一生大切にしてあげたのです。
それにしても、父親が唯一許せなかったのは、ラプンツェルが恋したあの少年が、若い頃の自分にひどく似ていたことでした」
映画が終わる。先生が機械の電源を落とす。先生の今日のネクタイは赤い。
私たちは静かにしていた。勝手に発言することは許されていなかったし、なんと言えば良いのかも分からなかったのだ。
先生が私たちに向きなおり、物語をしめくくる。
「そうしてラプンツェルは、塔の上で末永く幸せに暮らしました。ラプンツェルは今ある幸せを壊そうとした、自分の愚かさに気づかされたのです。父親がまだ彼女を愛しているうちに、それに気づけたのは幸運でした。少年は美しいラプンツェルをそそのかしにやってきた、悪魔になぞらえられている……という見方もできますね。みなさんも身の周りにある幸せについて考えてみましょう」
「はい。先生」
チャイムが鳴る。自由あそびの時間になった。
テーブルクロスが風に揺れている。女の子たちの歓声が校庭に満ちている。先生が窓辺から私たちを眺めている。今日の紅茶はウバという種類のものらしかった。私はこわごわとシュガーポットを開け、白い角砂糖をひとつカップに入れる。ミルクは恐くて触れなかった。前にこぼしてしまって、アリスに笑われたことがあったから。
今日の三段トレイには水色の夏めいたゼリーが載っている。あれなら簡単に食べられそうだ。
アリスがケーキを、私がゼリーをトレイから取る。花だけが浮かない顔をうつむきがちにしたままだ。いつもはお菓子に手を伸ばすのに。今日は花が好きなはずのチョコレートだってあるのに。
「なあに、花。食べないの?」
ケーキを口に運び、アリスが話を向ける。「うん……」花の返事は考え事のかたわらに発せられていた。
迷うように黙し、それからおずおずと私たちに問う。
「……もし、ラプンツェルが少年の方についていっていたら。ラプンツェルは、本当に幸せにはなれなかったのかな」
「なれないでしょ。ムリ、ムリ」
アリスは断じる。花は一度上げた顔をまた俯かせてしまった。
無言の時間が流れる。話題が区切れてしまった感がある。けれども花はまだ話したがっているようだ。
「でも……」
「あの子はお父さんといて幸せなんでしょ。だったらそれで良いんじゃないの? なんでわざわざ他所へ行こうとなんか。わ、ケーキおいしい!」
「お父さんがラプンツェルに何してると思ってるの? それは本当に……幸せなことなのかな」
「何、って?」
「……なんでもない」
花の声がいっそう曇る。私は花を見つめた。
顎のあたりで揃った黒髪に縁取られた花の顔は、なぜか私よりずっと気だるげで大人びて見える。何かを憂えている。
言葉が口をついていた。
「……なんでかは、分からないけど。どうしてラプンツェルと一緒にいるのがお父さんじゃなくちゃいけなかったのかなとは思う」
花が息を呑む。アリスは金色の眉をひそめる。私は話し続けている。
「少年と一緒じゃラプンツェルが幸せにはなれなかったって、どうして言い切れるんだろう。ラプンツェルは少年と一緒に行けなかったんだから、どうなっていたかは誰にも分からないでしょう。それなのにどうして――」
「ちょっとちょっと。あんたまで何言ってんの、やめてよ」
アリスの声で我に返った。
「なんでそんな暗い話するわけ? 映画にそこまでムキになって、おかしいよ。お父さんとラプンツェルは末永く幸せに暮らした。それで良いじゃん。みんなそう言ってるんだから」
アリスの声に混ざる糾弾に母と似た調子を聞き取って、私ははっとする。自分が今何を言ったかに遅れて気がつく。私は、言わなくて良いことを口に出したのではないか。
「……ごめん」
苦笑いで誤魔化した。
花は私をじっと見つめていた。
*
校門を出ようとしたところで、画用紙を教室に忘れてきたことに気づいた。私はひとけのない校舎を戻りはじめる。
放課後の廊下は静まりかえっている。傾きかけたオレンジ色の日光が窓枠の影を白い床に斜めに映じていた。私は自然と息をひそめてしまう。均一な影絵とまっすぐ延びた廊下が、果てしなくつづくのではないかと錯覚した。
それでも私は私の教室にたどり着く。ドアの上にさがったプレートにセキレイの絵が描いてある。私たちはこの鳥の絵によって自分たちの教室を見分ける。
誰もいないと思って無遠慮に引き戸を開けると、薄暗くなっていく室内で動く影があってひどく驚いた。席の場所と髪型から、その影が花であると気づいた。
「あれ、花」
「あ。ど、どうしたの? こんな時間に。珍しいね」
花は取り繕ったように愛想の良い声を出す。何かを机の中にしまいこむ手先が見えた。
「うん。画用紙をね。今日こそ、何か思いつけるかもしれないから」
卒業制作として私たちに課された「愛」の絵。画用紙を配られてからすでに三十日が経っている。みんなが進捗を知らせ合う中、私の画用紙は未だ真っ白なままだった。私たちの制服と同じ白色。純潔の色。いっそこのまま提出してしまおうかと思う。愛は純潔のことだと思います、などと理由をつけて。けれども否定的な印象を持たれたら怖いから、やはり私は何かをひねりだして描くだろうと思う。その「何か」すらまだ思いつけないのだけれど。
私は気休めのように、画用紙を家から学校まで持ち運ぶ毎日を続けていた。今日こそ何か思いつけるかもしれないから。
そういうことを、言い訳がましく、かいつまんで述べる間、視界の端には常に落ち着かなげにしている花がいる。何も聞かずに立ち去ろうと思っていたのも最初だけで、いよいよ理由が気になりだしてしまった。
「何、してたの?」
「え!?」
「こんな時間まで居残りなんて、珍しいなと思って。花は成績も良いみたいだし、補習もないでしょう。もう帰ったと思っていたから、びっくりした」
「ああ……」
下校時間になると、校門の前には黒塗りの車がたくさん並ぶ。みんな誰かの家のお迎えだ。アリスも、花も。「壁」の中に住んでいる女の子たちは優雅に家に帰っていく。それ以外の子はバスに乗る。さらにそれ以外の子は、歩く。
夕日の中を歩いて、金髪が光って、そして……。
花は目を伏せた。
「あ……。ううん、なんでもないんだ」
迷うように、言葉の響きを確かめるようにそう言う。やはり話したくないのだろう。無理に聞き出すのも気が引けた。
そう、また明日ねとだけ言って教室を出ようとした私を、花は思い直したように引き留めた。
「待って! ……あのね、うん。貴女になら言って良いはず」
心を決めるように少し俯き、それから顔を上げる。
「私ね、字が読めるんだ」
字。花の口から発せられた「じ」という音が「文字」「文章」を意味していると理解するまでに、私は数秒を要した。
「その『じ』って……男の人たちが読み書きしてるっていう、あの『字』のこと?」
「そう」
私たちは字を習わない。私たちには必要のないことだから。女の子に必要とされているのは、お茶と、ダンスと、ピアノと、料理……その他「かわいらしい」ものすべて。そこに文字は入っていない。
文字の要るような難しくて複雑なことは、すべて男がやることになっている。
「どこで習ったの」
興味をひかれて聞き返すと、花はなぜか少し体をもぞもぞさせた。
「……お父さんに。……夜、お仕事が終わって早く帰ってきた日。お母さんは夕飯の片づけで忙しくてね、私がおはなしを観てると、お父さんが呼ぶの。『花、花。宿題を見てあげよう』ってね。宿題がない時でもそう言う。それは『お勉強』の合図なの。
お父さんの部屋に行って、扉を閉めて……。そのあと、文字を教えてくれるんだ。文字の、お勉強なの。そう。
お父さんの部屋には背の高い本棚がいくつもあって、本がぎっしり詰まってる。本て、ほら。あの紙がたくさん束ねられたやつ。先生が時々持っているでしょ。あれより大きかったり、小さかったり、分厚かったりするのがたくさん並べてある。お父さんはなんでも好きなのを読ませてくれるんだよ。私はまだゆっくりしか読めないけど、ちゃんと読めるとお父さんに褒めてもらえる。自分の名前だって書けるんだ」
話が進むほど、花の口調は誇らしいものになっていく。私はひそかに納得した。話しづらそうで、けれども話したかったのは。
花は机の中から紙と鉛筆を取り出した。きっと、私が入ってきた時に慌ててしまいこんだのはこれだろう。紙には幾重にも折りたたまれたシワがついていて、びっしりと鉛筆で不可思議な点と線が書きつけてある。これが「文字」だろうか。私は文字というものを初めてじっくりと見た。
花は比較的大きくあいている余白を見つけ、覆いかぶさるようにして鉛筆を走らせる。鉛筆が紙を走る音は聞き慣れているのに、絵を描く時とは違う響き方をした。
「ほら、できた!」
花は体を起こす。紙の向きを変えて、書きあがったものを見せてくれた。
「これが『は』で、こっちが『な』」
「わあ……。あの、もしも、だけど。私の名前を書いたら、どうなるの?」
「ええっとね」
紙の向きが再び戻り、少し書き足されてまたこちらへ差し出される。
「こうかな。ひらがな教わったばかりだから。合ってるか分からないけど」
私は示された文字をじっくりと眺めてみた。何も知らない私には、彼女の書いたものの正誤も、巧拙も判断できなかったけれど。
花はひとりごとのように話した。
「時々、補習のふりをして居残って、書く練習をしてるんだ。こうやってね。家だといつもお母さんの目があるからなかなかできないし、お父さんの部屋に気軽に入るなって言われるし。でもこっそり練習してうまくなって、次の『お勉強』の時にお父さんをびっくりさせたいの。きっと喜んでもらえると思うから」
「そっか。がんばってね」
「うん。だからこのことは、みんなには言わないで。ばれたら怒られちゃうだろうし」
「分かった」
私は約束した。この小さな秘密が重大な結果を招くなどとは思いもよらなかった。
*
「愛って、なんだと思う?」
夕暮れの教室。私と花はまた居残っている。花は文字を書き、私は真っ白な画用紙の前で鉛筆をもてあそんでいた。私たちは机を向かい合わせて作業していた。
「どうしたの、急に」
花がしばし筆先を止める。少ししたらまた書きはじめる。紙は多少張りのある新しいものに変わっていて、彼女は今日あったことを文章で書き残しているのだと言った。「日記」というものらしい。
私は花の問いかけに答える。
「ひとりで考えていても分からないから」
私は宿題に悩まされている。期限はもう間近だ。
毎朝、必ず誰かが宿題を提出する。先生に手渡す時、その子がどんな絵を仕上げたか垣間見えることがあった。「愛」を描いた画用紙の中には美しい色彩が踊っていた。紙を巻いたまま提出して、内容が見えない子もいたけれど、その子もきっと綺麗な色を使っているのだろうと思う。つまり、愛は綺麗なものなのだろう。
愛。イザナミとイザナギが抱いたもの。
愛。イザナミが世界に分け与えようとしたもの。
愛。父親がラプンツェルに抱いたもの。
愛。ラプンツェルと少年が感じたもの。
愛。薄暗い場所で囁く湿った息。
愛シテル……愛シテル……愛シテル……。
愛が綺麗な色彩によって表現されるものなら、私が見舞われたあの行為も「綺麗」なのだろうか。確かに夕日に輝いた金髪、あれは綺麗だった。私はそう思えてしまう自分が忌々しい。いっそ「愛」にまつわる記憶すべてが汚らしかったらよかったのに。
「愛」という言葉を聞いた時、私がまっさきに思い起こすのは暗闇だ。黒だ。ありとあらゆる濁った色。それからほんの少しの夕暮れの色。私はそういうもので画用紙を埋めつくしたい。けれども、それは期待された答えではないと知っている。私の画用紙は白いままだ。
初めて夕方の教室で話して以来、私と花は時々一緒に居残りをする。花は「大丈夫? お母さんに心配されちゃうんじゃ……?」と気遣ってくれたが、そんなことは起こりようもなかった。私が帰るころ、母は華街に出勤する時間で、私の所在を気遣う余地などないからだ。
日が傾いていく教室の中で、私たちはそれぞれやるべきことをやっている。思い立った時だけぽつぽつ話をする。一緒に過ごす時間は増えたけれど、私たちはいつまでもそのままだった。それがなんだか心地よかった。お茶会のテーブルにつくと何か話さなければと思ってしまうけれど、ここではおしゃべりが主ではないから。
愛について、花に尋ねた。花はうーんと言ったきりしばらく考えこんで話さなかった。文章を書く手も止まっている。
ようやく口を開いたかと思えば、
「宿題がんばってるんだ。えらいね」
やや的外れなことを言う。
「じゃあ、花は宿題を手抜きしてるの?」
「ううん。ちゃんと描いたよ。でもまだ完成じゃないの。大事な仕上げが残ってるから」
「仕上げ?」
花がカバンを探り、「これ」と雑誌を一冊取り出した。開かれたページには無数の文字が並んでいる。花の字を何度も見てきたおかげで、読めこそしないもののそれが文字であることが私にも分かるようにはなってきた。
しかしそのページに散らばる文字たちは、これまで見慣れてきたものとは少し違って見える。点や線は波型や円にそれぞれ変形し、「文脈」も「行」もあったものではない。
困惑が伝わったのかもしれない。花が「そうだよ。これが仕上げなの」と変形した文字を指さした。
「画家としてのサインを考えてるの。作品に書き手のしるしを残したくて」
「サイン?」
「いろんな絵画に残ってるんだよ。ほら、絵の隅とかに、こういう模様が書かれてたりするでしょ。あれは、崩した文字なの。絵を描いた人が、これは自分の作品ですって示すために入れるんだって。かっこよくない? 私も何か欲しいなって考えてて」
候補だと言って、花はいくつかサインを書いて見せてくれた。
ひとしきり話した後で、花はぽつりと言う。
「愛ってね、信じることだと思うよ」
「信じる?」
考えてもみなかったことを言われた。
「うん。好きで、幸せになってほしいと思うこと。大好きな人が幸せになれると信じること。
幸せになってほしいから、じゃあ相手のために何ができるだろうって考える。幸せになれるって信じるから、遠くからでも見守ることができる。
……だからね、私は。お父さんと一緒にいるラプンツェルは、幸せじゃなかったと思うんだ」
何十日も前、お茶会の時に同じような話をしていたと思い出す。
「あのお父さんは言葉だけで、本当はラプンツェルのことなんて愛していなかったんじゃないかな。ずっと自分のところにいさせたがってた。それはラプンツェルのことを、ラプンツェルが持っている『幸せになるための力』を信じていなかったからだよ。やっぱり私は、ラプンツェルと少年が一緒になっていたらよかったと思う」
「……」
「もっと信じてもらえたらいいのにって思う。もっと離れたところにいてくれたら……。もっと大事に思えるはずなのに。
愛って、目に見えないから。嘘つけちゃうんだよね。なんにでも愛の皮をかぶせて、断りづらい形にしてさしだしてくる。私たちは愛を綺麗だと教わってるから、綺麗な色を使って愛を描こうとする。何か変だなと思っても、分からないの。どこが、どうして変なのか。変だと思う私が変なのか」
「……それ」
私はじっと聞き入り、息を呑む。心なんて読めないはずなのに、花は私が話したくて言葉を与えられなかったことをすらすらと声に出してしまえる。
俯き加減で、自分の思考に埋没しながら話す花の姿は、夕日に照らされて綺麗だった。「あの日」とは違う綺麗さ。
ああ。これを描こう。
「ありがとう、花。描くもの、決まったと思う」
「そう。良かった」
私は花に幸せになってほしいと思った。花がいつか幸せになれることを願った。その願いを信じた。花が「少年」と出会い、丁寧に編んだはしごを下りていく日がくることを。私は夕日に浮かびあがる、綺麗な女の人の影を描いた。
*
翌日教室に入ると、花の席に女の子たちが集まっている。そっと自分の席に落ちつこうとすると、花が私に気づいた。
「おはよう!」
人混みを分けて近づいてくる。色白の顔は達成感に満ちて輝いていた。
「宿題の進みはどう?」
「うん。下書きができたところ。これから色塗りをするの。花は?」
「あのね……完成したんだ」
私の前で画用紙が広げられた。
花は、「絵が」完成したとはあえて言わなかった。私は花が本当に見てほしいものを感じとった。
花の絵はラプンツェルを主題にしていた。ラプンツェルと思しき金色の髪の女の子と、少年が隣り合って過ごしている。画用紙の右下に、細い筆で白くサインが入れられている。候補のひとつとして見せられた形と同じだったのでそれと分かった。
こうして絵の中に組み込まれると、それはまさしく芸術家の作品そのものに見えた。意味は分からないし、読めもしなかったけれど、今までいろんな絵の中に見てきたのと同じもの。この絵は花が考える愛であり、花の主張の顕現なのだ。間違いようもなく。
みんなも花のサインで盛り上がっていた。
「ねえ花、そのサインっていうやつかっこいい! 私にも作ってよ!」
「私も絵に書き足したい! 一回、先生に頼んで絵を戻してもらえないかしら?」
花の前に無数の手が紙と鉛筆を差し出して、花はひとりひとりにお洒落なサインを与えていく。みんなはしきりと、どうしてそんなにもすぐにかっこいい形を思いつくのか知りたがっていた。花はにこやかにサインを渡すだけで、はっきりとは答えない。遠目から見る私だけが、きっとそれは文字を崩したものなのだと知っている。
予鈴が鳴り、先生が入ってきた。
「おはようございます。席につきなさい。宿題が仕上がった人はいますか? 期限まで残り七日ですよ。遅れないように」
教卓の前で待ち構える先生に、女の子が三人近づいていく。最後尾に花がいた。
先生は受け取った絵をひとつひとつ広げては眺め「よろしい」とか「素敵ですね」とか呟きながらしまいこむ。しかし花の絵を受けとり隅々まで眺めた瞬間、目つきが険しくなった。
「西條さん。これは一体なんですか」
先生の声は硬い。教室の空気が張りつめた。あの花が、何か先生の気に障ることをするだろうか?
花は臆さなかった。
「ラプンツェルと少年です。私が考える愛です」
「違います。先生が尋ねているのは右下のものです」
「それはサインです。芸術家は絵に自分の印を入れると知って、私も私を表す絵をひとつつくってみました」
淀みない返答は、事前に考え心づもりされたものなのだろうか。私たちはつい息を詰め、問答の行く末を見守る。
先生はまず感心してみせた。
「なるほど、サインというものがあるのですか。それは知らなかった」
嘘だ。私はその言葉を嘘だと思う。隠そうとしても隠し切れない、あまりにもしらじらしい言い方。先生はこれが文字であることを確信していながら、花に言わせようとしている。
「貴女はどこで、何故こういうものがサインであると思ったのですか。誰かに教わったのですか」
「いいえ」
「西條さん。先生は今チャンスをあげているのですよ。ここを黄色く塗りなさい。まだ目立たないようにできるでしょう」
「嫌です。それは私が描いた絵なんです。私が描いた印をつけておきたいんです」
花は先生の意図を汲まないし、決して意見を曲げない。この問答を何分続けても、きっと変わらないだろう。
沈黙のうちに、先生もそれを悟ったのだろうか。
「……そうですか」
先生は言葉でだけ引き下がる態度を見せた。
「ひとまず、この絵を預かります。後で職員室に来なさい」
「……分かりました」
花は素直に頷いて自分の席に戻った。
その日はぎこちなく始まった。授業が区切れて自由あそびの時間になると、先生は私たちに教室で待っていなさいという。
「遊ぶ前に、やらなければならないことがあります」
そうして花を連れて教室を出て行った。
一体どれくらい時間が経っただろう。他のクラスの子たちは校舎のあちこちで遊んでいるのに、私たちだけは教室に取り残されたままだ。
長い。長すぎる。あの花が一体何をしでしかしたというのだろう。まるで見当もつかず待たされる女の子たちは、憶測をあれこれ囁き合ったり、静かに本を読んだりして先生を待った。
「なんで『サイン』がだめなんだろう」
「こんなにかっこいいのにねえ」
「サインより、ダメだったのは絵の方じゃないの? ラプンツェルはやっぱりお父さんといるのが正しいんだよ。間違ったことを描いたらダメだよ。やり直しさせられてるんじゃない?」
ラプンツェルの結末にこだわる、アリスの声がひときわ大きく響いた。
先生はひとりきりで戻ってきた。
「西條さんはもう戻りません。悪魔に魅入られたからです」
教卓の前に立ち、私たちに告げた。
悪魔。不穏な響きの言葉に私たちは緊張する。
「西條さんは悪魔に魅入られ、得てはいけない知識を得てしまいました。そして怪物になってしまいました。ですから悪魔を祓い、正しい道に連れ戻してくれるところへ行きました――保護官と一緒に『矯正施設』へ。彼女は貴女たちをも堕落の道へ誘おうとしていたのです。
彼女のことは忘れましょう。また彼女から類似の『サイン』を受けとった者は、今この場で先生に渡してください。それは持っていてはいけないものです」
教室が静まりかえる。窓の外では自由あそびの時間が終わり、校庭から人がはけていく。
ためらいがちに立ちあがる音が聞こえはじめた。
ひとり、ふたり。手に小さな紙切れを握りしめて先生のもとへ向かう。おそるおそる差し出した。紙を受けとった先生は内容を一瞥し、そこに書いてあるものを――絵に擬態した文字を確かめる。先生の腕の筋肉に力が入り、紙は握りこまれた手の平の中に消えていく。すべては片手でやすやすと行われたことだった。私たちが両手を使わなければできないこと。
気配のように漂っていた懸念が確信に変わる。嗚呼、花は本当にいけないことをしたのだ。
そして私たちもそれに加担するところだった。
「先生。わたし『サイン』を受けとってしまいました。悪いことをしてしまいました。どうしたら、どうしたら……!」
列が進み、先生の前にたどり着いたころ、リンがこらえきれず泣きだした。紙を受けとった先生は優しくリンの頭を撫でる。
「大丈夫ですよ。貴女は何も知らなかったのですから。ここで正直に名乗り出たことで罪は相殺されています。貴女は何も悪くないんですよ……そしてここにいる全員に、同じことが言えます。あなたたちは今悪魔の誘惑に打ち克っているのです。立派なことです。だから気に病むことはありません。正直に名乗り出ることで、罪は赦されます」
列は進む。だんだん短くなる。私は、立ち上がらなかった。何も持っていなかったから。花は私の名前を書いて見せてくれたけれど、私に手渡すことはなかった。すぐに消してもくれた。「念のため」と言って。
あの文字は私の中にだけあるものだ。
列が途切れる。先生が「これで全部ですね」と言いかけたところで、アリスが唐突に声を上げた。
「鏡子も、もらってたよね」
全員の視線が一人に――窓際の席についた鏡子に集まる。鏡子は狭い肩を縮こまらせていた。ただでさえ白い肌がいっそう青白く見える。
「えっ、わ、私……。もらってない。ただ眺めてただけ。花ちゃんの絵を」
嘘だった。私たちはそれが嘘だと知っている。教室にいるほとんど全員が、鏡子も彼女のサインを受けとっていたところを見ている。
先生もじとりと鏡子に目を留めた。
「そうなのですか、中村さん。では彼女から受け取ったものを出してください」
「……持っていません。ありません」
「嘘。もらってたでしょ。なんでそんな嘘つくの。出しなよ」
アリスも追い打ちをかける。鏡子はかたくなに首を振った。
「ない、ない、ない。持ってない。ないよ、そんなの」
「中村さん。受け取ったものを先生に渡しなさい。隠匿は重罰になりますよ。悪魔に誘惑されたままでいるのですか」
「ありません。何も持っていないんです」
言って、膝の上でいっそう強く拳を握る。その手の中に紙が握りこまれているのではないかと思えてならなかった。押しつぶして見えないようにするためではなく、決して手放さないために。
アリスが激昂して立ち上がった。
「あんたこの期に及んでなに言ってんの!? あたしたち全員見てるんだよ? それなのにあんたは花の味方するってわけ! この裏切者!」
裏切者。強い言葉が教室に甲高く反響し、私たちの上に降りそそいだ。
「そうだよ。裏切者」
「裏切者」
裏切者。裏切者。裏切者。
糾弾の言葉が口をつく。隣の者に伝播する。私たちは立ち上がり、鏡子を壁際に追い詰める。鏡子は責め苦の中にとらわれる。
裏切者。裏切者。裏切者。
私も黙っているわけにはいかなかった。みんなと一緒に席を立ち、糾弾の輪のふちに加わる。口の中でくぐもらせながらも「裏切者」と繰り返す。さもないと私こそが裏切者になってしまう。
自衛の生存本能が私たちを連帯させる。私たちは手を取り合って、教室から悪魔を追い出さなければならない。正しくあるために。純潔なままでいるために。
鏡子の拳が震え、ついに立ち上がって私たちに向かった。
「別に良いでしょう!? 持っていたいの! とても素敵なんだもの! 嬉しかったんだもの。手放したくない!」
悲痛な訴えは「裏切者」の言葉の前に霧散した。誰も反応しない。誰も何も言わなかったかのように、糾弾の言葉だけが繰り返される。鏡子の目に涙が盛り上がり、頬を伝って流れおちた。
先生が鏡子の前に立ちはだかった。
「中村さん。渡しなさい」
手をさしだす。鏡子ははじめ首を振った。
先生はさらに言った。
「西條さんと同じ目に遭いたいのですか? 『矯正施設』に行き、二度とクラスに戻ってこられなくても良いのですか。たった一枚の紙切れのために、貴女をこの学校に入れてくださったご両親の期待と愛情を裏切るのですか」
今や教室は静まりかえり、問答の行く末を見守っている。無言の視線が鏡子を圧する。拳は力を失って体の脇に垂れ下がり、鏡子にはもうほとんど力が残っていないように見えた。
鏡子のすすり泣きが聞こえる。レナが鏡子の手から紙をもぎ取り、先生に渡した。
澄んだ印象を与えるサインの片鱗がちらと私の目に映る。本当に、鏡子らしい形だった。
それも先生の力の中に消えた。
「よろしい。中村さん。悪魔から救ってくれたみんなに感謝しなさい。少し遅くなりましたが、このクラスだけ自由あそびの時間としましょう。好きに遊んでいらっしゃい」
椅子の動く音が教室に満ち、女の子たちは解き放たれたように外へ出て行く。アリスが私の腕を引いてお茶に誘うので、私も引きずられるように教室を出ることになった。
みんな、異様なほどいつも通りだ。クラスから逸脱した人なんて誰もいなかったし、サインなど最初から一枚もなかったというように。
教室には鏡子のすすり泣きだけが残されている。先生が鏡子に近づいていくのが見えた。
私とアリスは日差しの下に出る。私たちのために遅れて用意されたお茶会のテーブルからは、正門を遠目に見ることができた。私は正門をゆっくりと出ていく黒塗りのバンを目にする。車体の脇腹には市松模様の紋章が貼られていた。
*
少しして、廊下には私たちが提出したたくさんの「愛」の絵が貼りだされる。私が描いた夕日の絵もその中にあった。
課題が出された直前の授業に影響を受けたのか、ラプンツェルを描いた絵が圧倒的に多い。壁一面に踊るあたたかな色彩の集合。けれどもその中に、花が描いたはずのラプンツェルと少年の絵だけが見つからない。
誰も花のことを話題にしない。
ある日自由あそびから戻ると、いつの間にか教室に花の机がなくなっていた。
「気にしないことだよ。あの子は自分でこういう道を選んだの。全部あの子が悪いんだよ」
アリスはそう言ったきりで、あとはこの話に取り合おうとしなかった。




