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牲愛  作者: 久慈柚奈


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2

 布団の中でまどろんでいると、放送を聞くことができる。爽快さを押し付けてくるようなラッパの音。

「女性のみなさん! おはようございます! 

今日も新しい一日が始まりました! 貴女たちは国の宝です! 今日もご奉仕よろしくお願いします! ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!」

 明るさを前面に出した男の声が、「壁」の中に設置された無数のスピーカーから発せられる。声は「壁」そのものと、寄せ集まって建つビルの隙間に反響して混ざり合う。「壁」の外に漏れ聞こえてくるころには一部聴き取りづらいところも生まれているが、私は彼の言っていることをすべて理解することができる。何度も何度も耳にしてきたからだ。

 放送を合図に起きだして、学校へ行く準備を始める。

 母はまだ寝ている。彼女を起こさないように、古くて軋むアパートの床を爪先立って歩いた。

 洗面を済ませ、制服に袖を通した。白に水色のラインが入ったセーラー服。スカートの丈は(もも)の真ん中、靴下はひざ下、下着は白。私は制服の規範を頭の中で思い返す。

 校章が刺繍されたカバンを背負って、家を出た。

 私が外を歩く時間、周りの住宅街はひっそりしている。男は仕事でもう留守にしているし、妻たちは静かに家を整えているし、子どもたちはもう学校に行っている。

「壁」の外の学校は、もっと早い時間に始まるらしい。外の学校に通う子どもたちは、私にあまり会いたくないようだった。帰る時間が重なる機会があると、彼らは汚いものでも見るように私を避ける。家々の窓から私を覗く妻たちも私を同じ目で見る。子どもたちのあれはきっと母親から受け継いだ態度だろう。

 母は、妻たちは劣っているとしきりにけなす。一方の妻たちだって、こちらをけなしているかもしれないと私は思う。

 誰も本当のことなんて分かっていない。私は通いの令嬢の娘にしかなったことがなく、妻たちは令嬢になる前に結婚したか、結婚に伴って令嬢から「足を洗った」のだ。決まった相手がいて、その人の家を守ること。その人の子を産み育てること。あたたかな家庭を築くこと。それは私たちが目指すべき、理想の人生とされる。

 けれども母はよくこう言った。

「ああやって家に閉じこもってるだけの妻よりねぇ、アタシたちの方が偉いのよ。絶対。そうに決まってる。ね。あんたもそう思うでしょ?」

 ひどく酔って()(れつ)の回らない舌で、ね、ね、と聞き返してくる姿を思い出す。夜の蛍光灯の明かりがまぶしくて、部屋は母が吐き出す酒臭い紫煙(しえん)でかすんで見えた。

 母によれば、令嬢たちを上位たらしめているのは経済力だという。

「たとえばよ、ほら、このビールだってそうじゃぁん?」

 母は缶ビールを煽り、缶を軽く振って見せた。

「アタシが誰かの妻だったら(そんなのクソ食らえ!)今これ飲めてないからね? いちいち旦那に『買っていいですかぁ?』って猫なで声でお伺い立てて、いいよって言われてからじゃないと買えないの。信じらんないよねぇ! ストレス発散にも許可がいるって? マジありえない。それに比べてアタシは自由。令嬢はね、自立してるからこういうことができるの。自分で稼いで、自分で使う。ハハッ! サイコー!」

 母の機嫌を損ねないように、私は眠いのを我慢して肯定的な相槌を打った。

 母は誰かの妻になったことはないらしい。親の家を飛び出し、令嬢のひとりとして働き――私が生まれた。母の語る妻に対する印象が、どこまで正確なのか分からない。偏見か、母の母を見て育った上での持論だったのだろうか。私に確かめるすべはない。家族のことを尋ねると、母は途端に不機嫌になる。

 私は大通りに出て左に折れ、そびえたつ「壁」に向かって歩いていった。

 壁は空を削り取っているかのように高く、そして分厚い。灰色の壁はネオンに輝く「華街(はなまち)」をぐるりと取り囲み、華やかさと日常とを隔てて華街を特別にしている。

 私は壁にいくつかある門の一つに近づいていき、華街に入るための検問を受ける。

 検問に並ぶ人は少なかった。隣には車のためのレーンがあり、紺色の車体に校章を描いたスクールバスが順番を待っている。前に並んでいたスーツの男が通行を許可され、私の番が回ってきた。

 今日の門番は若い男だった。紫色の制服を着ている。おはようございますと言って私は通行証――学生用ゲートパスを見せた。

 検問は怪しい人間を見つけるために敷かれているという。私が止められたことは一度もないし、怪しい人間の方もまさか十歳の女学生に変装などしないだろう。この検問は私にとってほとんど形式的なものだった。

 門番はゲートパスの顔写真と実物の私とをしきりに見比べている。いつもより時間がかかっている。門番は困ったように首をかしげた。

「うーん、お嬢さん。このゲートパスではここを通せないね」

「え!?」

 耳を疑う。にわかに背に汗がにじんだ。

「そんな。昨日まではちゃんと入れたんです。通れないと学校に遅刻してしまいます。おねがいです、もう一度ちゃんと調べてください」

 食い下がる。門番はなぜか笑みを浮かべ、とびきり甘い声を出した。

「何とかしてほしい? お嬢さん」

「はい!」

「じゃあちょっと事務所の方まで来てもらおうか。ちょっと良いことしてくれたら、すぐにここを通る方法を見つけてあげるからね……」

 そう言ってゲート脇の建物へ歩きだそうとする。私がついていこうとするよりも早く、門番の進路を別の男が塞いだ。

「君。そのゲートパスをわたしにも確認させてくれないか?」

 硬質で淡々とした話し方をする。男の真っ黒なスーツが、男が門番に対して放つ威圧感を増して見せていた。胸元に市松模様のバッジが光っている。

門番は突然慌てたようになった。

「え! いや、あの……。いえ、これは我々の仕事ですから。あなたのような方のお手を(わずら)わせるほどのものでは」

「煩わしい仕事かどうかは、我々保護官が決めること。候補生である君はただそのゲートパスを見せればよいのだ」

 保護官というらしい黒い制服の男は、有無を言わさない。門番は観念したようにゲートパスを渡した。

 保護官はパスを一瞥(いちべつ)するなり、私に返す。

「これは正規のゲートパスだ。怪しいところなどどこにもない。通行を許可する」

「あ……ありがとうございます。あの、いいんですか?」

「問題はない。行きなさい」

 何が起こったのか分からないまま、私は門を抜けて「壁」の中に入っていく。振り返ると、保護官は門番を叱りつけているところだった。

「君が何を考えていたかは容易に想像がつく。節操(せっそう)のない馬鹿者め。君がやろうとした行為は『特別天然記念物の保護および育成に関する法律』に違反する。華街の学校に通学する学生は未来の高級令嬢として保護されているのだぞ。我々が誘惑して良い相手ではないのだ。官吏である君が知らないはずはあるまい。よりにもよって君のような者を取り締まることになろうとは……」

「す、すみません! ほんの出来心だったんです!」

 私は学校を目指して歩き続ける。二人の話し声は遠ざかる。

 この日以来、私はこの若い門番を見ていない。


*


 先生は、白は純潔の色だと言った。何者にも染まらない色。あるいはいつか出会うだろう、運命の男ただ一人の色に染まるまでの色。それゆえ白は特別な色であり、幸せの象徴だ。白い制服を着た私たちは幸せだ。白で統一された学校は、幸せな場所だ。

 白い制服。白い校舎。白い廊下と白い教室。私は、まだ白いだろうか。

 初夏の風が白いカーテンをふくらませ、教室の中を通り過ぎていく。私たちは映画を観ていた。


「むかしむかしあるところに、心優しい女神様がいました。その女神様は『イザナミ』と呼ばれていました。

 イザナミの目に見える世界は荒れ果てていました。男たちは少ない食料をやりくりしなければならず、いつも寒さに震え、体が弱くて長く生きていることができませんでした。人はどんどん減り、新しい子どもはなかなか生まれませんでした。

 慈悲深いイザナミは世界のことをたいへん心配し、男たちを助けたい、世界を救いたいと思いました。そこでイザナミはイザナギを夫に迎えると、その豊かさと生命を分けてやりました。

 イザナギは癒され、力をもらいました。

 次にイザナミはその身を大地に横たえました。男たちがイザナミと触れ合うと、イザナミの持つ豊かさが男たちにも移っていきました。男たちは次々と健康になり、寒さに打ち克てる強い体を手に入れて、子どももたくさん生まれました。

 次第に男たちは派閥をつくり、イザナミを奪い合うようになりました。戦いが起きました。イザナミは自分のために誰も死んでほしくはありませんでした。それで混乱した戦場に自ら飛び込んでいったのです。

 イザナミは剣と剣をぶつけあっているふたりのあいだに割って入ろうとしました。そこへ一本の矢が飛んできて、イザナミの背中に刺さってしまいました。

 イザナミの体は戦場の真ん中ではじけました。

 そこから世界に向かって飛び出していったのは、無限の豊かさと生命。イザナミの血からたくさんの女の子が生まれました。 戦争は意味を失い、男たちは武器を捨てて豊かさを楽しみました。

 妻を(うしな)ったイザナギは嘆き悲しみ、遥かな地獄までイザナミを取り戻しに行きました。しかしイザナミの資質は女の子の間に息づいていて、もうイザナミとしての姿はとりません。黄泉の国の女王は代わりになんでもない死者を連れて帰らせようとしましたが、約束を破って黄泉の道の途中で振り向いたイザナギは、賢くも女王の思惑を悟りました。

 イザナギは命からがら地上までたどり着き、死の穢れを払うために(みそぎ)をしたのです。

 そういうわけでイザナミの血から生まれた女たちはすべて、女神の資質を受けついだ慈悲深い存在です。生まれた時から豊かさをその身に秘め、奉仕の気持ちを持っています。

 イザナミの娘たちの献身によって、今日も世界は平和であり、みんなが幸せに暮らしているのでした……」


 おはなしの映画が終わる。先生は機械を操作して映写を止めると、私たちに向きなおった。今日のネクタイは青い。

質問が投げかけられた。

「皆さん、どうでしたか? この『イザナミとイザナギの物語』は、毎年必ず観るものですね。去年と感想は変わりましたか。去年と違うところに気づいたりしましたか。イザナミはどうして戦争に飛びこんでいくことができたのでしょう。分かる人は話してみましょう」

 先生の言葉が終わってすぐ、教室の一角でさっと手が上がる。見なくても誰か分かる。アリスだ。今日も金色の長い髪が美しく、背筋はぴんとのびている。全身から自信がみなぎっていた。先生はアリスを指名した。

 アリスはいつもどおりはきはきしていた。

「はい。今年もこの物語を観て、やっぱり良い話だなと思いました。私もイザナミの資質を発揮して、慈悲深い存在でいられるようになりたいです。

 イザナミは、愛を持っていたのだと思います。すべての人を大切に思っていたからこそ、争ってほしくない、なんとかして止めたいと思ったんじゃないでしょうか」

「良い答えですね。アリス」

 先生から褒められて、アリスは満足そうに隣の子と顔を見合わせる。見慣れた光景だ。私は授業への興味が失せていくのを感じた。いけない、集中しなければならないのに。

先生が問うことへの答えは決まっている。それを誰が答えるべきかも、決まっている。私たちはその流れに従い、分かっているように振る舞うだけだ。この白い部屋で誰が目立てば良いのか。誰が答えれば良いのか。誰が褒められれば良いのか。それ以外は、ただ教室を飾る無数の「誰か他の女の子」であれば良い。

アリスは母子二代でこの学校に通う、歴史ある家柄の子だ。アリスは自信に満ち、もてはやされ、優秀であらねばならない。私たちは彼女をそう見せるべきなのだ。彼女は私たちのだれよりも良い令嬢になるだろう。明るい未来が約束されている。もしかしたら、幸せな結婚まで含めて。

先生はアリスの回答に続けて言う。

「愛情は尊いものです。すべての女性たちが生まれつき持っているものです。みなさんも慈悲を惜しみなく分け与える人になりましょう」

「はい、先生」

 私たちは揃って良い子のお返事をする。授業の終わりを告げる鐘が鳴ったが、先生はもう少しだけ話すことがあると言った。

 教卓の上に白い画用紙が取り出される。それらは前から後ろへ回されて、教室の全員に行き渡った。

「みなさんの『卒業』の時期が近づいてきました。つまり初等部を終えて、中等部に進むということです。卒業を記念して、ひとり一枚、絵を描いてみましょう。いつもは鉛筆でのスケッチだけですが、今回は色も塗ってもらいます。テーマは『愛』です」

 私は真っ白な画用紙を見つめる。愛。暗闇の中からせり上がってこようとする、湿った囁きを忘れようとした。

 愛シテル……。

「はい」

 返事に乗り遅れてしまう。

「今から九十日後までに出してください。みなさんの素敵な作品を楽しみにしています」

「はい」

 今、私は学校にいる。夕日の道を帰ってはいない。ここは教室で、先生が宿題の話をしていたところで。私はすがるように追いついて、なんとか返事を声に出す。

 授業は終わり、自由あそびの時間になった。


*


「あんた今朝、門のところで足止めされてたでしょ」

 テーブルクロスがそよ風に揺れている。紅茶とお菓子の載った三段トレイが届くとすぐ、アリスがテーブルの向こうから身を乗り出してきた。

「ど……どうして知ってるの」

 歯切れの悪い返事をしてしまう。保護官は私を通してくれたのに、私は悪くないはずなのに、ひどく居心地が悪い。

 アリスは勝ち誇ったように声を弾ませた。

「ほのかが見たって言ってたの。あれ絶対、あんただってね。そもそも歩いてくる子も少ないし。バスに乗れば良いんだよ、必ず通してもらえるじゃん。まあそもそも? 『外』から来るから検問なんか通らなきゃいけないわけだけど」

「アリス。そういうのよくないよ」

 一緒にテーブルについていた花がアリスを(いさ)める。つやのある黒髪のボブヘアが今日もきちんと整えられ、清楚な制服に似合っていた。

「うん、いいの」

 私は気にしていない、と首を振って見せる。

「大した話じゃなかったんだ。最後は通してもらえたし。黒い服の保護官って人がいて、通してくれた。最初に検問してた候補生っていう人は、怒られてたみたい」

「ふうん? なんで?」

「よくわからない」

「へえー」

 私たちはティーカップに口をつける。アールグレイの、きりりとした香りが鼻腔をのぼった。いちはやくアリスのカップが空になると、そばに控えていた燕尾服の執事がすぐにおかわりを注いでくれる。花は三本指でピンク色のマカロンを上品につまみ、口に運んだ。辺りは女の子たちの声で満ちている。

 校舎の一階には広いテラスがあり、自由あそびの時間になるとそこに二十卓ばかりのお茶席が設けられる。私たちは繊細なパラソルによって守られながら、三、四人で丸テーブルを囲んで紅茶を飲むのだ。自由あそびの時間なので、実際にはもっと他のことも楽しめる。テラスから校庭に目を向ければ、白いTシャツとブルマに着替えて運動をしている子、イーゼルを持ち出して絵を描いている子などが目に入る。音楽室の方からはピアノの音が流れていた。私とアリス、そして花の三人でお茶の席を囲むことが、いつからか日常に組み込まれている。

 ただし私は、もっぱら相槌を打っているだけだ。

 隣のテーブルの会話が聞こえてくる。

「ねえ、昨日の『華街たんけん』観た? あのケーキおいしそうだったよね」

「パパがわたしの執事をクビにしちゃったの。なんでもパパのお気に入りの令嬢と、執事がお気に入りの令嬢が同じ人だったからなんだって」

 私の家にはテレビも、執事も、父親もいない。豪華な家も、放課後に学校まで迎えに来てくれる運転手つきの黒い車も、ない。アリスと花も、なにやら難しい名前の音楽の話をしている。

 背伸びをさせられているなあと思う。すぐにその考えを打ち消す。

 これは、すべて私のためなのだ。私の将来のことを考えて、母が整えてくれた環境だ。母の言葉を複写するように、私は自分に彼女と同じことを言い聞かせる。

 私はここにいる女の子たちとは違う。けれど家の周りに住んでいる子どもたちとも違う。私は「こっち側」になるのだ。それが良いことなのだ。

 けれどもしも、私が他の子と同じように外の学校に通っていたら……。

 普通の服、普通のランドセル、普通の靴。壁の外の普通になじんでいられたら、私は目立たなかったのではないか。私が目立ちさえしなければ、あの日、あの金髪の男は私に気づかないでいてくれたのではないか。

「愛シテル……愛シテル……」

 短い息遣いの間から繰り返された呟きが、息が耳にかかる感覚がまた襲いかかってくる。私は知らず身震いしている。この制服を見るたび、鞄を背負うたび、布と布がこすれる音を聞くたび、同じ道を帰るたび、綺麗な夕日をみるたび。思い出す。あえて思い起こそうとしなくても、私は何度も「あの時」に連れ戻されてしまう。

 あれは、愛を分け与える行為だったはずなのに。慈悲深くあるべき行為だったはずなのに。

 私は……そう在ることができなかった。

 これは、きっと罰だ。私がうまくできなかったから、何度も何度も失敗を突き付けられている。イザナミが怒っているのかもしれない。きっとそうだ。

 私は自分を責める。うまくできなかった私は駄目だ。本当はこんなところにいてはいけないのではないか。他のみんなは自由で、伸びやかだ。自分たちのやりたいことを楽しんでいる。みんなはきっとまだ失敗していない。だからああやって楽しそうにできる。比べて私は……。

 校庭に放送が鳴り響いた。

「生徒の呼び出しをします。篠原ウテナさん。篠原さん。理事長室まで来てください――」

 広い校庭のあちこちで、みんながちょっと動きを止める。自分に関係のない放送だと分かると、また自分たちのしていたことを続けた。体操着の女の子が一人、校舎に駆け戻っていく。あれが篠原さんだろうか。

「どうしたんだろう。理事長に呼び出されるなんて」

「あんた、野暮だね」

 呟きが声に出ていたらしい。アリスが呆れたように青い目をぐるりと回した。

「ウテナが今、ほら、理事長のお気に入りだから」

 この学校に通う私たちは、幸せだ。


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