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牲愛  作者: 久慈柚奈


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17/18

17

 ジョバンニが立ちあがる。嗚呼、あと少しだ。あと少しで私は自由になれる。胡蝶姐と同じように、あるいは胡蝶姐に先んじて。体が地上をはなれてしまえば、もう何も心配することはない。あと少し、あと少しだ。

 ゲートが、通路が、機内が、旅立ちの興奮で浮き足立っている。おのおの動き回っているすべての人たち――荷物をしまう、席に着く、自分の席を探す、お気に入りの本を開く、アイマスクを取り出す――が、高揚を体の内に押し込めながらも努めて普通に振る舞っているように見える。だから私も普通に振る舞う。ただの、旅慣れない男の子みたいに。

 ジョバンニは外の国の言葉に切り替えて話す。

《あそこだ。君が窓際に座りなさい、退屈しないから》

 頷いて、言われた通り窓際へ座る。ジョバンニは私を周囲から守るように通路側に落ち着いた。

 ひっきりなしに人が乗りこんでくる。狭い空間に人がひしめいているというのに、筒形の機内はとても静かだ。みんながすぐそばの他人の存在を認めながらも、自分だけの領域を守って関わり合わないようにしている。親密でよそよそしい。

 緊張を無視しようとして窓の外に目をやった。オレンジ色に染まった滑走路に、今一機着陸する。すごい速さだ。数分後の私たちもあの速度で、この国を飛び立っていくのだろう。

 静寂のうちに座席は着々と埋まっていく。エンジンが動き出したのだろうか、シートの下から小刻みな振動が伝わってきはじめた。窓の外で荷物を積んでいた車も遠ざかっていく。いよいよだ、もうすぐだ。近づいてきた。

 もう何も怖がらなくてよくなる――。

「この飛行機を離陸させるわけにはいきません」

 有無を言わせぬ声が旅立ちの高揚を凍りつかせた。

 機内に緊張が走る。前方に黒いスーツの男が二人現れた。手荷物らしきものを持っていない。なにより彼らの纏う近寄りがたい雰囲気そのものが、彼らが旅行者ではないことを知らせていた。胸元に市松模様のバッジが光っている。客室乗務員の青年は彼らの前で静かにしていた。

 彼らは身分証のようなものを掲げる。

「文化財保護官です。この機体に、我が国の天然記念物――令嬢がひとり乗り込んでいると通告を受けました。ただいまより捜索いたします。天然記念物の国外への持ち出しは、許可されていません。密輸、またはその未遂が発覚した場合、懲役刑や罰金が科せられることがあります。自首によって減刑が可能です。何らかの情報をお持ちの方も、我々にご協力いただくことを願います」

 決まった言い回しなのだろう、保護官のひとりが淀みなく述べると、彼らは二列ある通路をゆっくり進みはじめる。乗客ひとりひとりの顔を確かめながら――私とジョバンニの方へ向かって。

 呼吸が止まった。

 どこでしくじったのだろう。私はどこでばれたのだ? 誰が通告した? 飛行機に乗ってからは一言も話さないようにしていたのに。では、それよりもっと前か。ゲートで待つあいだの会話を誰かに怪しまれた? 佐藤がしくじった? 裏切った? 私たちの怪しい姿がどこかのカメラに映っていた?

 分からない。どこで失敗したか分からない。それがとてつもなく私を悔やませる。どこでうまくやれば良かったのだろう。嗚呼、何をどう考えなおしても今さら遅い。私が終わりの淵に立っている事実は変わらない。私は胡蝶姐と同じところへ行くのだ。

 保護官が近づいてくる。機内放送が流れている。

「ご搭乗の皆さま。現在、保護官の査察により、離陸の時間が遅れております。終了まで今しばらくお待ちくださいませ」

 保護官が近づいてくる。

 両手をきつく握り合わせる。ジョバンニの手を握りたかった。触れ合える最後かもしれないから。けれど状況がそれを許さない。あからさまに不安なそぶりを見せればますます怪しくなる。なぜそれほど不安なのか? ――まさに私が探されている令嬢だからだ。

 機内は緊張というより苛立ちで満ちている。密航を迷惑がる声は小さな溜め息や動作に過ぎないのに、どこからか「裏切者」の合唱とともに私を責め立てる。裏切者。裏切者。

 保護官が近づいてくる。私たちのあいだにはあと五席しかない。

 あれほど乗客たちの顔をじっくり確かめていては、きっと私の変装を見破られてしまう。逃げ場はない。逃げれば逆に目立ってしまう。こんなにも逃れたいのに。

 佐藤が言っていた。静かにしてろ。今頼れるのはその助言だけだ。とにかく(すが)るものがほしかった。何か――私がここにじっとしていることが間違っていないと思わせてくれる何か。

 保護官が一列進んだ。あと三席。二席。

 前方でカーテンが動いた。

「主任! 発見しました!」

 もうひとり、別の保護官がカーテンから顔を覗かせている。呼びかけられ、私のそばまで迫っていた保護官がそちらを振り向いた。

「いたか」

「はい。ビジネスクラスの席に紛れていたみたいです」

 主任と呼ばれた保護官が背を向ける。私から遠ざかっていく。それと重なるように、カーテンが大きく揺れて少女が姿を現した。両腕を二人の保護官に拘束されている。

 客席に無数の息を呑む音が響いた。彼らは壁の外にいる令嬢を初めて見たのだろう。

「やめて! 放してよ!」

 私も息を呑んでしまう。今連れて行かれようとしているのは、私と同じくらいの女の子だったからだ。

「放して! 嫌! 行かせて! このまま乗せてよ! なんでこうなるの!? 前金だってちゃんと払ったじゃない!」

 あの子を発見したらしい保護官が、主任に状況を報告している。

「乗客を確認していたところ、急に立ち上がり逃走をはかりました。この者で間違いないと思われます」

「よろしい。引き上げるぞ」

「嫌! 連れて行かないで! 矯正施設なんて入りたくない!」

 彼女は茶色い巻き毛を振り乱して抵抗している。保護官と彼女の体格差では、何の意味もなさない抵抗を。私はそれを遠目から眺めている。

 ふと思う。

なぜ華街はできてしまったのだろう。

 なぜこの国はこんな形になってしまったのだろう。

 ジョバンニが遠い海の向こうから見つめてきた数十年間、人々は唯々諾々(いいだくだく)と変化に従っていたのだろうか? ジャンヌや胡蝶姐。そして今連れもどされていくあの子のように、世間になじまず、疑問を持ち、抗おうとした人はいなかったのだろうか。

 きっといただろう。私は確信する。

 私たちはいつの時代にもいた。どこかで声を上げ、逸脱を止めようとした者が無数に存在したはずだ。彼ら彼女らは聞き届けられなかったのではないか。あるいは単に迷惑そうな視線を向けられて、無関心の中で取り除かれていったのではないか。離陸を遅らせている彼女のように。

 私も一時的に男たちに混ざり、迷惑がっているふりをしなければならない。そのことを罪深いと思う。できることなら彼女を乗せたまま飛び立ってほしかった――このときの私にはそうするなんの力もなかったのだけれど。

 彼女はわめき続けている。甲高い声が機内で反響する。主任が迷惑そうに手を振った。

「おい、黙らせろ」

 指示を受け、別の保護官が何かを彼女の腕に突き刺した。(かしま)しい声はやみ、機内はおかしなほど静かになる。

「まったく。積み荷の規制を厳しくしたら今度は変装か……。手間のかかる。さて、査察は終了だ。離陸してよろしい」

 保護官たちは乗務員に形ばかりの会釈をし、連れ立って飛行機を降りていく。ほどなくして扉が閉められ、エンジンが音を大きくした。

 秩序だった静寂が戻ってくる。何事もなかったかのように。

「大変お待たせいたしました。当機は十三分遅れで離陸いたします。ご迷惑をおかけし、申し訳ございません」

 何もしていないのに、乗務員が謝罪する。再び迷惑そうな溜め息が機内に満ちた。

 離陸前の放送が流れはじめる。窓の景色がゆっくり流れ出す。もう地上はほとんど真っ暗になっていて、白い誘導灯が二本の線を描いている。機体がゲートを離れて滑走路にたどり着いた時、ジョバンニがようやく長い長い息を吐いた。

 握りしめたままだった私の両手に、ジョバンニの手が重ねられる。そっと撫でられる。こわばった両手が思い出したように力を抜いた。ようやく手を解くことができた。

 自然と笑みがこぼれる。ジョバンニも笑っている。

 飛行機が速度を上げる。エンジンがうなる。浮いた、という感覚はよく分からなかった。

けれど外を見やれば地面が高速で行き過ぎていって、しかもどんどん眼下に遠ざかっていく。私はそれを見て初めて、あ、飛んだのだと思った。

 空港が、建物が、線路が、町が遠ざかる。ひときわ明るく見えたあそこは華街かもしれなかったが、宵闇に沈んでいく視界の中では判然としなかった。ぽつぽつ明かりのつきはじめた家の一軒一軒に誰かの暮らしがあり、窓のひとつひとつに令嬢たちがいる。

 けれどその人々の誰も、私は知らない。彼らも私のことを知らない。今後会うこともないだろう……何も知らないうちに、私は知らない国を去っていく。

外の暗さに合わせてか、機内も照明が消えて薄暗くなった。明かりの必要な人たちだけが、ところどころで読書灯をつけている。

雲の上に出ていた。

灰青色に続く雲海。今日は月が出ていないらしい。濃紺の空に白っぽい星が無数に瞬いていた。私は窓にできるだけ顔を近づけて、空いっぱいの星を感じようとしてみる。ネオンの派手な光に殺されて、今まであるとも知らなかったたくさんの星に囲まれる。

 ――綺麗だ。

 この夜が明けるころ、あるいは日が高く昇った頃。私はきっと()の国にたどりついているだろう。ジョバンニと一緒に、見知らぬ国、見知らぬ街へ。

 星空が続く世界のどこかで、いつかまた出会いたいと思う。胡蝶姐や、花や、アリス。そして、ジャンヌに。彼らが穏やかでいたらいいと願う。記憶のひとつひとつに、自然と感謝がわいてくる。

 もっとも、言葉にすることはできなかった。こんなに深い感謝なんて。私たちはあまりにも感謝を浴びせられすぎてきたから、きっと押しつけがましく聞こえてしまう。言葉に乗せた瞬間に陳腐なものになってしまう。

 私は星を見つめ続けている。







“This is everything what I experienced.”(これが、私が経験したことのすべてです。)

 話を締めくくり、口をつぐむ。会場の静けさが私に押し寄せた。大きな講堂に詰めかけた人々は、ただ私を見つめている。私も彼ら彼女らを見つめ返す。人権委員会の人々は呆然とし、ショックを受け、また今聞いてきたことを必死に呑み込もうとしているように見えた。

 司会者が頃合いを見て、マイクに顔を近づける。

“Do you have any questions?”(何かご質問は?)

 真っ先に一本の腕が頭の上に飛び出した。委員のひとりだ。スタッフがマイクを持っていくと、委員は私に尋ねる。

“It was... so shocking story. I` ve never thought such terrible things are happening.

By the way, how Giovanni does do? Are you still be with him?”

(とても……衝撃的なお話でした。それほどの状況になっているとは思いもよりませんでした。

 ところで。ジョバンニさんは現在どうされているのですか? まだご一緒におられるのですか?)

 問いかける委員の目は、しきりと舞台袖の方を気にしている。そこに(くだん)の男性がいると思っているのだろう。

 私はそちらの方を見ない。

“I had broken up to him 6-7 years ago. He is not my therapist at all. I'm just appreciate him.”

(彼とは、もう六、七年ほど連絡をとっていません。彼はもう私のセラピストではないんです。彼には、ただ感謝しています。)








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