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「イライザは大丈夫だ。また学校にも通い始めた。君を置いていくことになってしまって、本当にごめんね。
娘をケアするあいだに、君を安全に連れて行く方法を考えていたんだ。ぼくの手が届くかぎり、ありとあらゆることを調べたよ。
まず分かったのは、君を連れ出すのはとても難しいということ。そもそも許されていない。ぼくたちは国から国へ行き来する時にパスポートというものを持ち歩くのだけど、君たちは……この国の女性たちは、合法的な手段でパスポートを入手することはできないようだ。
でも方法はある。出られないところから出たい、出せないものを連れ出したい――そう思う人間がいることに商機を見いだす人たちもいるんだね。彼らは密航屋と呼ばれている。
僕も今回、密航屋に依頼することにした。いろんな質の集団があるようだけど……。きっと信頼に足るところを見つけられたと思う。手筈はすべて整えてくれた。ぼくたちは言われた通りに行動すれば良いだけだ。
……大丈夫、きっとうまくいくよ。何があっても、僕が君を守るからね」
薄暗い四〇三号室。私たちは布団の陰に隠れるようにして言葉を交わす。壁を透かして隣の部屋から声が漏れてくる。それが聞こえるくらい静かな夜だった。
部屋の暗さに既視感を覚える。三ヶ月ばかり前、まさにこういう静かな時に「一緒にこの国を出よう」と言われたのだった。
ジョバンニと再会できてしまうと、一度別れてから今日までが一瞬で過ぎ去ったかのように錯覚してしまう。けれどもそんなことはない。このあいだにいろいろなことがあった。本当にいろいろ。
ジョバンニが分かっていることは、私にすべて説明してくれた。それでも不安に押しつぶされそうになる。私たちはあまりにも危ない橋を渡ろうとしているのではないか。引き返すなら今しかない。何も聞かなかったことに、気づかなかったことに、思いつかなかったことにできる。私たちは元に戻る――ただの令嬢と客に。
そんなこと、できるわけがない。
「大丈夫そうかい?」
「うん……」
私はとび色の目を見つめて頷いた。どれほど危険でもいい。私はここを出て行く。これまで誰かがやってきたように、胡蝶姐がやったように。
でも、もしも失敗したら? 漠然とした希望は身近な不安の侵入を許してしまう。
国を出ないことも恐怖なら、国を出ようとすることもまた恐怖に結びつく可能性がある。決まりを外れるということは、見つかった時保護官の世話になるということだ。ジョバンニは、お咎めなしかごく軽い罪で許されるかもしれない。けれども私は、矯正されるだろう。理想的な令嬢へ。
恐怖に耐えられる麻痺した精神など、押し付けられたくない。
思いつく限りのありとあらゆる可能性と、その先に待つ私の人生を考える。楽観的に、今度は悲観的に。確かなことなど何ひとつない。けれども恐怖から脱却できる可能性を持っているのは、密航する道ただひとつだけだと思った。
「ジョバンニ」
「なんだい?」
緊張が喉を圧す。それでも私は声に出してみた。
《私は貴方についていきます。私を外の世界に出してください》
息を呑む音。ジョバンニは微笑んだ。
《もちろんだよ》
私もほっとして笑う。ジョバンニの国の言葉が、ジョバンニに通じた。この三か月間の私は報われた。
朝日が昇る。私たちは出立の準備をする。表向きは、前と同じ外出のように。
フロントを横切って外に出る時、仁科さんが私たちを見送ってくれた。
「どうぞ、行ってらっしゃいませ」
自動ドアを抜けた先では、放送が鳴っている。
「女性のみなさん! おはようございます!
今日も新しい一日が始まりました! 貴女たちは国の宝です! 今日もご奉仕よろしくお願いします! ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!」
何もかも、今日で最後だ。
*
「さて。フライトの予定は夕方だ。少し時間のゆとりがあるけれどどこか行く?」
大通りを歩きはじめて少し経つころ、ジョバンニが声をかけてくる。私たちの後をスーツケースが転がる音がついてくる。ジョバンニは大きなスーツケースを引いていた。
「どこかと言われても……」
私は口ごもる。行きたいところも特になかったし、何をしても身が入りそうにない。
ジョバンニとて同じようだ。
「……そうだよね。当たり前だ。それじゃあ、少し歩くのはどうだい? この街には公園がひとつあったはずだ」
私たちは通りの角を曲がった。
広い広い公園の遊歩道を、私たちはあてもなくただ歩きまわる。他愛もない話をいくつもした。小腹が空いたら近くにあったキッチンカーでサンドイッチを買い、ベンチに並んで食べる。
遊歩道沿いに時計が立っていた。時間は時計を見上げるほどのろのろと、気にせずにいるほど飛ぶように過ぎていく。午後を少し過ぎたころ、私たちは連れ立って公衆トイレへ向かった。
新しく作られたらしいトイレには、広い個室が備えてあった。私たちはそこに入り、ジョバンニがドアを閉めてきっちりと鍵をかける。
「――よし、ここなら安全だろう」
ジョバンニはスーツケースを開けた。
スーツケースを引いたジョバンニがトイレを出てくる。スーツケースが遊歩道の上を転がっていく。ジョバンニは最短の道を選んで公園を抜け、道に出たところでタクシーを捕まえた。
「空港まで。急ぎでお願いしたいのだが」
「善処しましょう」
落ち着いた声の運転手が答える。タクシーはジョバンニとスーツケースを乗せて走りだした。
エンジンの振動を感じる。私はまばたきをしてみる。すごい。目を開けていても閉じていても、見えるものが変わらない。闇だ。意識を隅々まで張り巡らせていなければ、私の体の感覚まで黒の中に溶けだしてしまう。私は曲げた両膝や、膝を抱えた腕の感覚に対して集中と分散をくり返した。
車は進み、少しすると止まる。そのたびに私は息をひそめる。この停車は信号か? それとも「門」で待ち受ける検問か。トランクと、スーツケースに囲まれた私には知るよしもない。
昨晩、ジョバンニは言った。
「最初の関門は、文字通り華街の『門』だ。君を壁の外に出さなければいけない」
「どうやるの。私、もうゲートパスを持ってない」
大事にしろよ。
ゲートパスのことを考えると、いつもジャンヌの声がくっついてくる。私はジャンヌの言葉を守れなかったと思う――それとも、この店にいたからジョバンニと出会えたのなら、無駄ではなかっただろうか。
「君にはちょっと窮屈な思いをしてもらわなければならなくなる」
ジョバンニはそう言って、部屋の隅に寄せてあったスーツケースを指さした。
「密航屋によると『門』を見張る保護官や候補生たちは、主に人を見ているんだそうだ。変装は見破られる。だが、荷物は入念なチェックをかいくぐりやすいという。だから、あれに入ってもらいたい。窮屈だろうけど、君が入れて多少はゆとりもありそうなのを持ってきたつもりだ」
車は快調に走っている。……止まらなくなった。いつの間にか検問を抜けたのだ。華街を出て、空港に向かう高速道路に乗ったのに違いない。
想像してみる。華街を出て、遠ざかっていく高い灰色の壁を。車窓から景色を眺めて、ジョバンニは何を思っているだろう。上手く装って検問を抜ける時、どんなにか緊張したことだろう。
ゆっくりと速度が落ちていく。タクシーは空港に着き、ついに停車した。
ジョバンニは下ろしてもらったスーツケースを引いて、まず空港の横手にまわる。ひとけのない外壁のふもと。パチンと、スーツケースの鍵が開けられる音がする。
「乗り物酔いはせず済んだかな」
蓋の隙間から光がさしこむ。傾きかけた日差しは存外に鋭い。光は視界いっぱいに広がり、私は眩しさに痛む目を覆いながら起き上がった。
「うん。なんとか……」
立ち上がろうとして、足が思うように動かない。ふらついて転びかけたところをジョバンニに支えられた。
「きっと足が痺れたんだね。少し休んでから行こう。ちょっとすれば落ち着くだろうから」
ジョバンニはスーツケースを閉じて、その上に座れるようにしてくれる。腰かけて一息ついた私は、思い出したように帽子をかぶった。
長い髪はまとめて帽子の中に入れてしまう。どこにでも売っていそうなアノラックと、ごくありふれたズボン。胸にさらしを巻いた上にサイズの合わない服を着て体形を隠した私は、ジョバンニの言った通り「男の子に見える」姿をしていた。
公園のトイレで着替え、スーツケースに隠れる。これも密航屋が教えてくれた手順だという。もともと着ていた服は畳んで袋にまとめれば、スーツケースに収まった荷物に見えて怪しまれない。
足に感覚が戻ってきた。
「大丈夫、歩けそう」
「じゃあ行こうか。ああ、そんなに急がなくても大丈夫だよ。時間にはまだ余裕があるから」
駆けだそうとした私にそんなことを言う。
「でもタクシーでは『急ぎだ』って言っていなかった?」
「そりゃ当然さ。嫌なところはさっさと通り過ぎたいよ。例えば『門』とかね」
そう言って片目を瞑った。
連れ立って自動ドアをくぐり、空港に足を踏み入れる。銀色で、だだっ広くて、清潔な空間。
どこかへ向かっていくジョバンニは、私に向けて声を落とした。
「良いかい。今からぼくたちは親戚同士だ。海外旅行に来ていて、これから帰るところだ。君は十二歳の男の子で、目を離すには少し心もとない。だからぼくと一緒に行動するし、隣同士の席に座る。君は人見知りで、あまり人前で喋らない。……さすがに男の子だとしても声が高く聞こえてしまうから。いいね?」
「はい。ジョバンニ……叔父さん」
口ごもってしまったことがきまり悪い。帽子に隠れるように俯いた。
ジョバンニは空港の端のほうへ向かっていた。そこには数台の自動販売機と公衆電話が並んでおり、アロハシャツを着た男が飲み物で悩んでいる。
ここが、密航屋と落ち合う場所であるらしい。
ジョバンニも足を止め、自販機を眺めはじめる。男と三歩ぶんくらいの距離があいている。
独り言のように声を発した。
「『珍しい蝶を探しているのですが』」
しばらく無言の時間が流れた。がさついた声で答えがあった。
「『良い場所を知っている』。佐藤だ」
佐藤と名乗ったのがアロハシャツの男だと気づくまでに少し必要だった。私はジョバンニ越しに佐藤に無遠慮な視線を向けてしまう。
これが、密航屋。
佐藤は装うことを完璧にものにしていた。動作も雰囲気も私たちが来る前と何も変わらない。声だけがこちらに向いている。
「……で、その子か」
「そうだ。安全に連れ出したい」
ジョバンニの声にもさすがに緊張が混じっている。ジョバンニによれば、佐藤と顔を合わせるのはこの瞬間が初めてで、これまでは電話やメールのみのやりとりだったらしい。
初めて佐藤が動いた。横目で私を見やる。
「ふうん。じゃあ少しこっちへ。最後の仕上げをしよう」
佐藤に連れられ、自販機横の空いた壁に近づいた。絵でも飾れば映えるだろうに、何もない無機質な壁がある。
「写真を一枚撮らせてくれ」
私は言われた通り壁を背にして立ち、真面目な顔をした写真を撮られる。私の写真を手に入れた佐藤は私たちに背を向けて何やら作業を始めた。再びこちらを向いた時、その手には黒っぽい表紙の手帳が握られている。
「ほらよ」
受け取ると、思いのほか薄っぺらい。使われている紙は立派で、模様で埋め尽くされたページの最後に、私の顔写真と偽の名前などが入っている。佐藤は言った。
「お前のパスポートだ。ここを出るために必要なんだから、大事に持っとけよ」
大事に。
「はい」
大事に。パスポートを持つ手に力が入った。
「それから、これだ」
佐藤は別のポケットから、白くて細長い紙を取り出す。受け取ったそれは飛行機の搭乗チケットだった。
「よし、必要なもんは渡したな。じゃあこちらも対価を受けとろうか?」
今度はジョバンニに向かって空いた手をさしだす。事前に取り決めてあったのだろう。ジョバンニは手提げカバンの底から茶色い封筒を取り出し、佐藤に渡した。分厚い封筒だった。
軽く中身を確かめて、佐藤は満足そうにうなずく。
「確かに受け取った。では、良い旅を」
「ちょっと待ってください!」
立ち去ろうとした佐藤を私は引き留めている。「あ?」佐藤は無愛想に振り向いた。話を聞いてはくれるようだ。私は尋ねておかずにいられなかった。
「あの。最近、胡蝶という人を手引きしませんでしたか」
「あ?」
佐藤の太い眉が怪訝そうにひそめられる。
「そういう名前の奴は知らねえな。それに、俺たちは名前を聞かねえんだ。今お前の名前を知らねえように。なんだ、知り合いか?」
「はい。一か月前に、店からいなくなったんです。……外の国に行くって、言ってました」
「知らない、としか言えねえな。そういう奴は大勢来るんだ。ひとりひとり覚えちゃいらんねえよ」
「……そうですか……」
「それに、この仕事してるのは俺らだけじゃねえしな。俺たちの仕事が丁寧なのは保証するが、中にはテキトーなことだけして金だけむしり取ってく奴らもいる。女から金を受け取って一儲け、その女を保護官に通告して懸賞金をふた儲けってわけだ」
「見つかった人は……どうなるんですか」
「さあな。噂程度のことしか聞いたことねえ。多分、男なら刑事罰。女なら……文化財保護官のみぞ知るってところだろうな。刑務所の慰安部屋で知った女を見た気がする、なんて話を聞いたことがある」
「……」
「ひとつ言えることがあるとすれば。――静かにしてろ。普通に振る舞え。不安そうに辺りを見回したり、警備員からあからさまに隠れようとしたりするな。パニックになって逃げ出すな。
慌てれば慌てるほどお前の寿命は縮むと思いな。無事にここを出たかったらな」
腕時計に目をやり「次の約束がある」と言う。私たちは遠ざかるアロハシャツの背中を見送った。
立ち尽くす私をジョバンニが促す。
「じゃあ、行こうか」
「……うん」
受付へ歩きだす。佐藤のくれた搭乗券は無事に私をゲートまで進ませてくれた。
離陸までまだ時間がある。私たちは待合席に座ってぽつぽつと話をした。
「君の他にも、出ていこうとする子がいたんだね。知らなかった」
「私も。知らされたのは直前で。きっと貴方のことがあったから、胡蝶姐は話してくれたんだと思う」
「僕が?」
私は頷いた。
「貴方がわた……ぼくに教えてくれたことが、彼女にとっては見直しのようなものになったのだと思うから。今まで知ろうとしてきたことの。親近感を持ってくれたんじゃないかな」
「そうか……。その子とも話をしてみたかったものだ。君が大切に思うのだから、きっと頼れる優しい人だったのだろうね」
「そうだよ」
今となっては過去形で語らざるを得ないことがひどく悲しかった。だって生き死にも分からないのだ。どこにいて、何をしているのだろう。胡蝶姐がやっていることが、ずっとやりたいと思っていたことだといいなと思う。
ジョバンニはますます顔を俯けた。
「……君と一緒に行く方法を探している時にね……いろんな密航屋がいることを知ったよ。ほら、さっき佐藤も言っていただろう。いい加減な仕事しかしない者もいる、と。悪い噂はどこからか広まるものだ。そのお姐さんが、善良な業者に繋がれていることをぼくも祈るよ」
「うん」
祈る。私たちにはそれしかできないのか。力強いようで無力な行い。それとも目に見えないだけで、祈りは実際に力を持っているのだろうか。胡蝶姐の行く先をよりよいものにし、私たちを無事「向こう」へ送り届けてくれる力を。そうであると信じたい。
前に誰かが言っていた。愛とは信じることだと。祈ることが信じることと近いなら、私は胡蝶姐を愛している。幸せな胡蝶姐を愛している。愛と祈りと信じることはひとつにつながる。
胡蝶姐は見事に密航を果たして、見知らぬ街を身軽に歩いているところかもしれない。おしゃれな街角を、おしゃれな服を着て歩いている。
もしかしたら遠い将来、私たちは偶然の再会を果たすかもしれない。お互いあまりにも雰囲気が変わりすぎていて、最初は互いが分からないかもしれない。それでもじきに気づくだろう。私たちは自由になったのだと。
それとも胡蝶姐は見つかってしまったかもしれない。保護官に両腕を掴まれて、空港から連行されていったかもしれない――底知れず恐ろしい矯正施設へ。きっと花が行き、戻ってこなかったところ。身の丈に合わない知識を得て「悪魔」に堕ちてしまったらしい女の子たちが行くところ。
胡蝶姐は脱出への期待に胸躍らせていたかもしれない。刻一刻、近づく脱出の瞬間と、雲の向こうに待ち受ける自由を夢想したかもしれない。それが打ち砕かれた時、どれほどの絶望に襲われたことだろう。私は自分がいる搭乗ゲートを見渡す。あの華街から最も近い空港は、ここだ。それならばまさにこの場所が、胡蝶姐の未来が潰えたところかもしれない。
ふたつの可能性は矛盾している。同時に実現することはありえない。私はありえない可能性の実現を、同じだけの確実さで信じている。
放送で搭乗開始が告げられた。私たちの便だ。
「行こう」




