15
決意したのに、まだ控えの間にいる。
呼び出しの放送が鳴っている。呼ばれたのは、私だ。
「ご指名です」
部屋には私の他にゆめ姐とるか姐が待機していたが、みんな珍しそうに天井を見上げた。
姐さんたちの目が私に移る。
「……行かないの?」
「え」
言われて初めて、自分がまだベッドに腰掛けたままであることに気づく。早く支度をして「仕事」に行かなければ。
行かなければ。
「……」
体が動かない。
立ちあがれない。どうして。
「ねえ、ちょっとどうしたの? 早く行ってきなよ。お客さん待たせてるんだよ」
ゆめ姐が見かねて声をかけてくる。私はゆめ姐のほうを見ようとした。できた。ずいぶんぎこちない動きだけれど、首を動かすことはできる。声も出せた。
「うご……かなくて」
「は?」
「立ち上がれ、ないんです」
「何言ってんの?」
姐さんたちは最初、私が冗談を言っていると思ったらしい。だが私が実際に座り続けているのを見て、どうも本当らしいと感じてくれたようだ。
すでに「仕事」が始まっていてもおかしくないくらいの時間が経っていた。私はお客を待たせている。こんなことあってはならない。
るか姐が呆れた様子で近づいてきた。
「なあに? 指名にびっくりして腰でも抜けちゃった? ここにはお姫様抱っこしてくれる王子様なんていないんだけど。ほら、手貸して」
手を取られ、強く引かれる。それでも私の体は動かない。
「どうなってんの? ちゃんと立つ努力してる?」
「ごめんなさい。やってるつもり、なんですけど」
ゆめ姐も加勢して背中を押してくれるが、状況は変わらなかった。私は立ち上がれない。
鉄扉がノックされ、仁科さんが入ってくる。
「どうしたの。お客さんから令嬢がまだ来ないって電話きたんだけど」
「仁科さーん。この子が、なんか動けないって」
「え?」
仁科さんも近づいてきて、私の腕を引こうとする。仁科さんが触れる寸前、私の体はさらにこわばった。
「よっ……と。さ、早く用意して」
男の力でもってようやく私は立ち上がれた。しかし立ち上がった姿勢のまま、やはり動くことができない。
「用意……」
必要なことは知っている。仕事に行かなければならないことも分かっている。それなのに、なぜ。
仁科さんの決断は早かった。
「うん、これは仕事ができる状態ではないね。ゆめちゃんか、るかちゃん。代わりに入ってもらえないかな」
「はーい」
「どっちが行く?」
「いっそお客さんに選んでもらう?」
ふたりは軽やかに話し合いながら控えの間を出ていく。仁科さんは私をベッドに座らせなおし、言った。
「君は少し休んでいなよ。きっといろいろあって疲れてるんだよ」
「……すみません」
「大丈夫。早く回復することが大事だよ」
仁科さんも忙しいのだろう、無駄のない動作で控えの間を後にする。私は部屋にひとりぼっちになった。いつも通りだ。
少し体の自由がきくようになっている。今日買ってきたばかりのテキストを取り出してみる。
仁科さんのいたわりを素直にうれしいと思った。けれどかけられた言葉はどこか空虚に聞こえてしまった。仁科さんが想定する「いろいろ」の中には、胡蝶姐のことしか入っていない。
誰も知らないし、きっと理解もできない。私の恐怖心なんて。
アリスもこんな気持ちだったのだろうか。すがるように私に話したのだろうか。
もし胡蝶姐がいたら、私はここまで重々しくならずに済んだだろうか。
全部推測に過ぎない。テキストの中身は頭に入ってこない。
ぽつぽつと、今日の仕事を終えた姐さんたちが部屋に帰ってくる。みんな至っていつも通りなのに、控えの間の空気はぎこちない。みんながみんなの様子を伺って「いつも通り」の演技を続けようとしているかのように。
みやこ姐は繰り上げで売上一位になり、部屋から部屋へ持ち物を移動させている。始終いらいらしていて近寄りがたかった。小さな引越しを手伝っている他の姐さんたちを、些細な理由で怒鳴りつけたりしている。そしてみんなが、つい扉の方をちらちら見ている。令嬢たちはみんなここにいる。それなのに見てしまう――胡蝶姐が何も変わらない姿で「おつかれー!」と戻ってくるような気がしてしまって。
そして本当に扉は開いた。
「お疲れ様!」
快活な男声が響きわたる。入ってきたのは胡蝶姐、ではなくオーナーだった。何人かの姐さんが、期待を裏切られた目を伏せた。
「やあやあみんな。今日もお疲れ様。頑張ってるね!」
部屋中にねぎらいの言葉をふりまきながら、私の方へやってくる。肩に大きい手が置かれ、私は強烈な眠気に耐えた。
「少しお話できるかな?」
「……はい」
「では廊下のほうで」
私がしたはずの返事は聞き取れないほど小さくかすれていた。オーナーの手に引き上げられるようにして、私は立って歩くことができる。
控えの間を出て、食堂に向かう廊下を曲がったあたりでオーナーは足を止めた。振り向いて私と向き合う。
「仁科くんから聞いたよ。今日、仕事に出られなかったんだってね。勿体ないじゃないか、久しぶりの指名だったのに」
「はい。そうですよね……。すみませんでした」
「体の具合が悪いの」
「いえ、多分元気、なんですけど」
煮え切らない返事しかできない私に、オーナーが怒りださないかと心配になる。この柔らかい物腰がいつの瞬間に崩れ、激しい叱責が飛んできても文句は言えない。
私は怒られてばかりでここまで来た気がする。母に、みやこ姐に。そして今オーナーもそこに加わるかもしれない。
オーナーは私を叱らなかった。
「まあ、胡蝶さんのことがあって、君たちが動揺するのも分かる。急なことだったからね。まずは一晩ゆっくり休んで、早く復帰できるようにしなさい」
「はい……」
怒られなかった。
懸念と緊張が両肩から抜けていく。その場に座りこんでまた動けなくなりそうなのを、なんとか力を入れて支えた。もう話は終わったのだろう、オーナーは私に背を向けて立ち去ろうとしている。
今思えば、なぜ聞いたのか分からない。
「オーナー」
「なんだい?」
気づくと私はオーナーを呼び止めていた。
「あの。もしも、仮になんですけれど。指名を断ることってできないんですか」
「……それはどういうこと?」
オーナーの顔が曇り、声が先ほどまでとは違う種類の真剣みを帯びる。
「ですから、嫌なお客さんから指名が入ったら断る、とか」
「それは、お客様をえり好みするってこと?」
「いや……」
オーナーから柔和さが消えた。
「そういうことだよね。君は自分にそんな権利があると思っているのかい。成績が良いわけでもないのに? そもそも成績の問題ではないけれどね。君たちは令嬢なんだから。生まれ持った奉仕の特質に従わないのかい?
もし君がそういう女性らしくない振る舞いをしようとするなら、もうここに君を置いてあげることはできなくなる。不誠実な令嬢を世話するためにあるんじゃないんだよ、ここは。通告してあげるから、矯正施設に行ってきたらいい」
「ほ、保護されるってことですか」
「君に働く気がないのならね。そうするしかない。君のためを思って言ってるんだよ。ここにいたいなら働く。働かないなら出て行く。働くなら、お客様全員に奉仕する。それがルールだこの店の、この国の」
「……そんな……そんなつもりで言ったわけではないんです」
声が、脚が、両手が震える。私に注がれる冷えたまなざしから早く逃れたい。なぜ、なぜ、私はこんなことを聞いているのだろう。返答は予想できたはずではないか。自分の立場を危うくするだけだと?
私は女だ。令嬢だ。需要にまみれた存在だ。いくら恐怖したところで、そこから逃れられるわけもないのに。
「すみません。変なことを聞いてしまいました、お忙しいのに」
「そう? なら良いんだけど。今日のところは忘れてあげよう」
オーナーは気軽な口調に戻る。立ち去る前に言い添えた。
「明日から欠勤は許さないからね」
そうして廊下を曲がり、姿が見えなくなる。
足音がエレベーターに乗って消えてしまうまで、私は動くことができなかった。
*
暗い。
私は暗いところにいる。近づいてくる。規則正しい息遣いと服の擦れる音。
「愛シテル……愛シテル……」
耳にかかる湿って不快な囁き。振り払おうとした私は、腕が動かないことに気づく。顔を背けるように腕を見やれば、無数の手が絡まり合って私の動きを封じている。叫ぼうとした。口を塞がれて声が出ない。
無遠慮な手たちは私を這い上り、呑みこみ、征服しようとしている。
逃げられない。嫌だ。嫌なのに。その事実だけが私の意識をここへ縛りつけてしまう。どこへも行くことができない。
私の体は今私のものではない。私のものだったかもしれないもの。そうであるはずだったもの。私の存在と人格を握りしめておこうとするほどに、このままならない状況に説明がつけられずに呆然とする。
私が私のものであったはずなら、なぜ私はここから逃げられないのだろう? それ以上に。なぜ、他の女の子たちは平気な顔でいられるのだろう。
なぜ嫌なことを嫌だと言ってはいけないのだろう。
なぜ不本意なことばかり強いられてきたのだろう?
なぜ抗ってはいけないのだろう?
それ以上に。なぜ、他の女の子たちは平気な顔でいられるのだろう。
くぐもった絶叫が私の口をついている。
静寂が耳を圧す。常夜灯だけが部屋を照らしている。乱立する二段ベッドの鉄柱。
私は、控えの間にいる。
口に毛布が突っ込んであった。眠りながら自分でやったのだろう。健気なことだと思った。三日前に叫び声で姐さんたちを起こしてしまったから、無意識のうちに声を殺そうと思ったに違いない。
あの夢は、毛布のせいで息苦しかったから見てしまっただけ――そう思いこんでおきたかった。
それでも両腕の自由を確かめずにはいられない。
体を起こして全身を視界に収めようとする。私の体は二段ベッドの下段に収まっていて、きちんと布団をかけている。部屋の中では姐さんたちがそれぞれ寝息を立てている。ここは、今は安全だ。
ようやく長い長い息を吐くことができた。けれどもそれも一度だけで、再び体を横たえた私は夢の残滓に捕らわれこわばってしまう。
怖い。脳内はその言葉で埋め尽くされる。怖い。あるいはその言葉に縋りつくことによって、不快な出来事たちの仔細を思い起こさないようにする。
最近、よくあの夢を見る。記憶に残らないほど些細な夢のどこかに損なわれる不穏が忍び込んできて、私を固めてしまう。身動きがとれなくなる。どこにも逃げられない。あれとは力の差がありすぎるから。
ハーメルンたちに囲まれるジャンヌの姿が脳裏をちらつく。もしかしたらあれが、私たちの本来あるべき姿。服従し、奉仕し、損なわれ続ける。
ジョバンニ。華街は楽園ではなかったの。楽園に在れば人は幸せになれるはずではないの。
私は。私だけが、幸せになれない。
ジョバンニはいつ戻ってくるのだろう。
日付は日一日と経っているはずなのに、店は毎日営業しているはずなのに、私は最近のことをよく思い出せない。
気がついたら恐怖に駆られて目を覚ましたところだったり、食堂で食事を口に押し込んでいたり、指名を待ってベッドの上で寝転んでいたりする。けれど決して眠らない。眠りたくない。またあの夢を見ることが分かっている。あまりに疲れすぎて気を失うように翌朝になるくらいが丁度良い。うまく思い出せなくても「仕事」に出たことは分かるのだから――重だるさと鈍痛によって。
ジョバンニはいつ戻ってくるのだろう。そればかりを考えている。日によってはジョバンニが存在したのかというところから自分を疑ってかかる。
ジョバンニなんて最初から存在していなくて、私は幻の「誰か」を支えにしているだけではないか。
では、シーツの下に隠した「ラプンツェル」はどう説明する? 財布に入ったたくさんのお金は? 私はなぜ外の国の言葉を学ぼうと思った? ラプンツェルの横顔を眺めながら、そればかり考えてやり過ごす。
ジョバンニはいつ戻ってくるのだろう。
*
「ご指名です。四〇三号室にお入りください」
仁科さんの声で放送が入る。顔を上げると控えの間には誰もいない。嗚呼、いつの間に開店時間を過ぎたのだろう。私は苦もなく立ち上がれた。
重さがなくなったわけではない。体がこわばらなくなったわけでもない。私が普通を装って動き続けられるのは、ただ考えないようにしているからだ。そうしなければ、ここにいさせてもらえない。私はジョバンニを待たなければならない。そのためには、こうしているしかない。
エレベーターを四階で降り、四〇三号室のランプが光っているのを見つける。久しぶりだ、と思った。
ジョバンニが発ったあと、私はあの部屋へ呼ばれていない。今日まで客が入りもしなかったかもしれない。私の中でもはやあの部屋は、ジョバンニのものだった。嗚呼、ジョバンニ。あの中にジョバンニではない客が入って私を待っているなんて。
今考えるのはよそう。頭を鈍らせておかなければならない。「仕事」をやりすごすために。
「失礼します」
一声かけてドアを開ける。久しぶりに見た狭い玄関スペースが目に入る。客は先に入っているようだった。手入れされ、上品な艶を帯びた革靴がきちんと揃えて脱いである。その先のドアを開けた瞬間、紅茶の匂いが鼻をついた。
客がつと顔を上げる。
「お待たせ。長くかかってしまって」
ジョバンニはそう言って微笑んだ。




