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「いらっしゃ……」
ガラス戸を押し開けて中へ入る。カウンターの奥にいた男が顔を上げ、私の姿を見て挨拶を途切れさせた。
「おはようございます」
私は何食わぬ顔で挨拶を返し、店内に目を移す。
嗚呼、入ってしまった。
心臓が早鐘を打っている。両手に汗がにじんでくる。もう後戻りはできない。ここまできたら、本を買うまでやりきるのだ。
初めて入る本屋の中は、ぱりっとした匂いを漂わせていた。新しくて綺麗な紙に、インクの乗った匂い。店内は広すぎず、入口からでも全体をざっと見回すことができる。私は棚と棚のあいだを歩き回り、「語学学習」のコーナーで足を止めた。私の動作のひとつひとつに、店主の視線がついてまわる。
本の量に圧倒される。棚を埋め尽くす本の山。そのすべてのページが文字や絵で埋まり、まだ見ぬメッセージを秘めていると思うとめまいがしそうだった。私がこれまで手にしたことがある本と言えば、ジャンヌたちと一緒に売っていた雑誌か「ラプンツェル」だけだ。そういえばあの雑誌には何が書かれていたのだろう、今なら分かるはずなのに。
目の前の棚には様々な国の言葉のテキストが並んでいた。ジョバンニの国の言葉は何語と言っただろう。耳にした記憶はあるだろうか。私はひとつひとつ棚から抜き出して、表紙を眺めて確かめていく。国旗、文字の響き。何かの手がかりを得ようとした。
五冊目か六冊目で見覚えのある国旗にあたった。これだ、これを買って帰って、姐さんたちのいない間に勉強しよう。次に会った時私が話せるようになっていたら、ジョバンニを驚かせることもできるかもしれない。嗚呼、花も父親のためにこっそり文字を練習していたっけ。
テキストを持ってカウンターへ近づく。店主の男は私の動きを始終見つめていたはずなのに、私が本を買おうとしているのを見てさらに驚いていた。
私はその反応の一切に、気づかないふりをする。
「おねがいします」
買い物する時のジョバンニを真似て一言添えた。
「ああ……お預かりします」
店主はテキストと私を見比べながら、いぶかしげに会計を進めていく。
「お勉強かい? お嬢さん」
「ええ、まあ」
「文字が読めるの?」
「さあ」
画面に金額が表示される。財布の中から小銭を探し、支払った。店主は嫌にのろのろと私の本を紙袋に詰めている。
本はカウンターの上に置かれた。
「ねえ、お嬢さん」
紙袋の上に、軽く店主の手が載せられた。カウンターの上で、私の本は両者の中間というより、やや店主の側にある。
店主は両の指先を軽く合わせた。
「これも商売だからね、請われたものは売るよ。もちろん。でもこのテキストは……君にはちょっと、難しいんじゃないかい? それともかわいい令嬢たちのあいだでは、難しい本を持ち歩くことが流行ってでもいるのかな? 中身も読めたらかっこいいと思わないかい? おじさんが君のお勉強を手伝ってあげるよ。今は店も空いているから、時間はたっぷりある。今からほら、あっちの奥の部屋で。ね、どうぞ」
私は店主が求めていることに気づいた。
私の体の上をせわしなく行き来する目。落ち着かなげになっていく呼吸。禿げかけた頭は数秒前よりつやを増して見える。私は求められている。
需要。
その言葉が頭をよぎった瞬間、私はカウンターの上から私の本をひったくっていた。
芯から震える。震えを抑えようとして本をきつく抱える。こわばった腕を引いた勢いで肘がコイントレーにぶつかり、代金が床に散らばった。
私と店主とはカウンターによって隔てられている。手を伸ばしても容易には届かない距離にいる。私は触られない。言い聞かせても皮膚の粟立つ感覚は残り続ける。おぞましい、おぞましい。
夕日が綺麗だった「あの日」も、ジャンヌがハーメルンたちに囲まれた時も、本当ははっきり言えればよかったのに。
「嫌です。お断りします」
私は足早に歩き、体当たりするようにしてガラス戸を抜けた。
振り返らない。早足のまま歩いて、角をひとつ曲がってから小走りになる。そのまま店の裏口まで戻ってきた。壁に背をつけ、来た道を振り返る。
誰も追いかけて来てはいない。ようやく深い息をひとつ吐いた。
両足の感覚がおぼつかなくて立っていられない。壁伝いにしゃがみこむ。本をきつく抱えたままの両腕はこわばっていて、少し角度を変えるだけでも痛かった。紙袋はあまりに力をかけすぎて濃いしわが寄っていた。
「うっ……」
努めて規則的にしていた呼吸が乱れる。息が詰まる。私は吐いた。
怖い。
怖いこわいコワイ怖いこわい怖いコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわい怖いコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわい怖いコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわい怖いコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわい怖いコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわい怖いコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖いこわい私はずっとこんなところで怖いこわいコワイ怖いこわいコワイ怖い。
これが、この嫌悪が、「怖い」ということなのか。
知ってしまった。私は「怖い」を知ってしまった。
さっきの私は、運が良かった。単純に運が良かった。それだけだ。もしも紙袋を引っ込められていたら? ガラス戸を抜ける前に腕を掴まれていたら? あの男が外まで私を追いかけてきて、引き戻していたら?
何が起こっても私はここまで帰ってこられていなかった。私は力の前にねじ伏せられ、組み伏せられ、手にしたかったものを餌にあの男の言葉に従うしかなくなっていた。ジョバンニのことを思ってした行いが汚れてしまったら、きっとジョバンニへの気持ちも汚されてしまう。けれども従うしかないのだとしたら、私は汚されていく瞬間に立ち会うしかない。逃げられない状況にあっては、私の命すら私のものではなくなってしまう。
それにあの状況を告発しても、断罪されるのは私だ。
応じなかった私が悪い。礼儀を逸脱しなければこんなことにはならなかったのに。そもそもどうしてひとりで出かけたりした? 不相応な店に入った? もっと目立たない服を着ていたら目を留められなかったかもしれないのに……?
怖い。こわい。こわい。怖い。この感情には「恐怖」という名前がついている。私は恐怖を知ってしまった。気づいてしまった。私は、ずっと怖かったのだ。ここに存在する屈辱と浸蝕。尊重されないことすべてが。
アリスは気づいていた。私はやっとそのことに気づいた。アリスはちゃんと怖がったのだ。だからこそ、ここにいられなかった。アリスができる方法でここから立ち去ることを決めた。
ごめんなさい、アリス。慣れていくしかないなんて嘘だ。
私もこの国を出たい。




