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牲愛  作者: 久慈柚奈


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 口の中が乾ききっている。投げたかった「どうして」の問いかけは、かすれてほとんど意味の通じない音にしかならなかった。

 胡蝶姐は私の疑問を察してくれた。

「ずっと出たかったの。そのために働いてきた。こっそりお金だって貯めた。

 密航屋、っていうのがいるの。あたしたちみたいな令嬢を、外へ逃がしてくれる人たち。お金はかかるけど、用意さえすれば手引きしてくれる。やっと必要なぶんが貯まって、依頼できることになった。出発まで七日もない。この国に後悔なんてほとんどないけど、あんたにはちゃんと伝えておきたかったの。一緒にいられて楽しかった。あたしが急にいなくなっても、心配しないで」

「で、でも。危ないんじゃないんですか。それって。それに、どうやって。私たちは門から出られません。パスがないんですから」

 ジャンヌの顔が思い出される。密航する令嬢を見送る横顔。ジャンヌのもとから歩き去った彼女の後姿が、胡蝶姐で想像される。

「そりゃ、危ないよ。禁じられたことをやろうとしてる。でも、それでも、ここから出たいの。密航屋がどうやって令嬢たちを密航させてるのかは、知らない。バレないように、直前まで方法は知らされないんだって。あたしは決行の日、言われたことを、言われたようにやるだけ」

「もし失敗したら……?」

 胡蝶姐は肩をすくめる。

「さあ? 調べようとしたんだけど、よく分からないの。でも規律を乱した女の子たちが辿り着く先は決まってるでしょ。矯正施設だよ、たぶん。悪い娘たちは清められる――黄泉の国から戻ったイザナギが、穢れを水で清めたように、ね」

「……」

 それ以上、何も言えなくなってしまう。止めるつもりも、そんな力もない。私はただただ胡蝶姐を心配していた。そして心配することしかできない自分がなぜだか嫌だ。

 そのうちに胡蝶姐は立ち上がり、ドアへと向かう。

「とにかく、そういうことなんだ。今までありがとう。あんまりこもってると何か言われそうだし、そろそろ戻ろ」

「はい」

 胡蝶姐がドアを開ける。その瞬間放送が入って、胡蝶姐の名前が呼ばれた。

「あ、ほら行かないと。今日はこれで最後かな」

「胡蝶姐」

「なあに?」

 思わず呼び止める。

 言いたいことが喉を渦巻いて、詰まった。この限られた数秒のあいだで、伝えられるのはきっとひとつだけだ。

「ご無事で、いてくださいね」

 声を落として言うと、胡蝶姐は張りつめたようだった目元を崩して笑う。それ以上話し合っている時間はない。


 三日後、胡蝶姐は私たちの前から姿を消した。


*


 形のない夢の中に、女の子たちの慌ただしい声がすべりこんでくる。

 振り払えないうちに目が覚めてしまうと、姐さんたちが差し迫った様子でささやき合っている。混ざる声の中から断片的に聞き取れた。

「胡蝶姐が」「姐さんが」「どこにもいない」「なんで」「どうして」「通路は探した?」「食堂は?」

 嗚呼、みんなに広まったのだ、と思った。

 天井のスピーカーから放送が流れる。

「従業員の皆さん。至急、食堂までお集まりください」

 雑多な足音だったものが、ひとつの方向目指して進みはじめる。ゆめ姐が布団に入ったままの私を見つけて、

「起きて。食堂に集合だってよ」

 と声をかけていってくれた。私ものろのろと人波に加わった。

 食堂にはスタッフがほとんど全員集まっていた。令嬢、食堂の人、黒服たち。まるくできあがった人垣の真ん中に、ふっくらした体つきのオーナーが立っている。つやのある顔は汗によってよりいっそう蛍光灯をはね返していた。

「皆さんを動揺させるかもしれないお知らせをしなければなりません。どうか落ち着いて聞いてください――胡蝶さんが、失踪しました」

 人垣をざわめきが駆け抜ける。

 オーナーの話は続く。

「今朝、どこを探しても姿が見つからず……。彼女の部屋に書き置きが残してありました」

 みんながささやき交わす中、私だけが落ち着いてオーナーの話を聞いている。なぜならその書き置きを、最初に見つけたのはきっと私だろうからだ。

 密航の企てを知らされたのが、胡蝶姐と二人だけで話せた最後の瞬間だった。私は改めて話をしたかったのだが、ついぞその機会は訪れなかった。

 胡蝶姐のことや、「一緒にこの国を出よう」と言ったジョバンニのこと。落ち着いて話したいことがいくつもあった。

 だから昨日の夜、みんなが寝静まった後に胡蝶姐の部屋をノックした。ドアについた細長いガラスの向こうは暗い。胡蝶姐も眠っているのだろう。

 ドアを開けた先には誰もいなかった。

 遠慮がちに机の上のランプをつけてみる。部屋は整頓されていた。明かりの中に浮かんだ机上に、白い紙が重ねられている。うすく罫線の引かれたその紙が、びっしりと文字で埋め尽くされていて驚いた。直線的で端正な印象の文字が、胡蝶姐の姿と重なる。私にはそれで充分だった。これは胡蝶姐が残した文字だ。

 書き置きは数枚に渡っていた。

「このような形でしかごあいさつできないことをお許しください。オーナーには大変良くしていただきました。今までお世話になりました。

 けれどもわたしは、この国を出て行かなければなりません。そうしたいのです。危険でも、迷惑をかけることになっても。

 少しわたしの話をします。

 まだわたしが幼い頃――母が死に、ハーメルンがわたしを引き取りに来るよりも前――に、わたしは文字を教わりました。母が、母の母から教わった、断片的な文字たちを。今この手紙を書き残せているのは、わたしが独力(どくりょく)で続けてきた学習の結果です。

 オーナーのことも、一緒に店で働くみんなのことも大好きですが、わたしはこの国が嫌いです。この国を動かす仕組みを、構造のかたちを、華街という場所を憎悪します。わたしはこの華街しか知らないけれど、きっと他もこのようなのでしょう。わたしがわたしのやりたいことをやるためには、この国を出なければならないことを知りました。

 わたしは本当はケーキを作る人になりたかったのです。令嬢ではなく。

 この願いは、ここにいる限り叶えようもありません。この国ではわたしが令嬢以外の道へ進むことはどこからも望まれていません。わたしが読んで書くことは望まれていません。女らしくないわたしは、望まれていません。

 女は生まれた時から令嬢であり、そのように生きなければならないと方向づけられているかのようです。こっそり持ち込んでもらった新聞や雑誌を読みふけるわたしを、物珍しそうに、時に不快そうに見つめた客たちのまなざしを、決して忘れないでしょう。だれもわたしを密告しなかったのは奇跡だと思います。

 黙って出て行く。今のわたしには、これしか折り合いをつける方法を見つけられませんでした。もっと円満で、合法で、迷惑の少ないやり方が整っていれば良かったのにと思います。

 どうぞお元気で。


胡蝶」

 私は便箋(びんせん)の末尾に刻まれた、胡蝶姐の名前をまじまじと見つめる。「胡蝶」という名前の中から、胡蝶姐の姿そのものを浮かび上がらせようとするように。けれどもそんなことは起こらなかったし、私は長く胡蝶姐の部屋に侵入しているわけにはいかなかった。

 便箋を元の位置に戻し、そっとランプの明かりを落とす。


 そういうことがあったので、私はみんなほど胡蝶姐の失踪に驚いてはいなかった。みんなの動揺を見るに、胡蝶姐は本当に黙って旅立ったようだ。みんなから慕われていたのに。私だけに秘密を打ち明けてくれた。

 どうして、私だったのだろう。

 胡蝶姐からの信頼を誇らしいと思ったが、誇ることが正しいのかはついぞ分からない。私はオーナーの反応を見守った。

 オーナーは言葉を選ぶように俯き加減で黙りこんでいる。やがて言葉をしぼりだす。

「胡蝶。彼女は禁じられた知識を得た悪魔でした。わたしは書き置きによってそれを知りました……見抜けなかったことを恥じています。悪魔をたたえ、お手本にするようにとみんなに言ってしまいました。

……彼女のことは保護官たちに通報し、探してもらっています。みんなで彼女が無事見つかることを祈りましょう。そして彼女の冒した過ちが矯正され、清められることを願いましょう」

 言われるままに私たちは祈った。目を閉じ、ほんの少しだけ頭を垂れて。彼女たちの中で私だけは、胡蝶姐の旅の無事を祈っている。

 本当ならもう少し寝ていても良い時間だ。解散が告げられると、みんなはぞろぞろと控えの間に戻りはじめる。姐さんたちに先を譲った私は、食堂に居残ったオーナーと黒服たちが話し合っていることに気づく。特段声を潜めてもいない。

「困ったなあ……。よりにもよって胡蝶ちゃんにいなくなられちゃあ。クレームの嵐だよ、きっと。店の評価も下がるかもしれない」

「それも字が読めることを今まで黙ってたなんて性質(たち)が悪い。とんでもない裏切りだ。気持ち悪いよ」

 私は押し黙って食堂を後にした。

 控えの間に戻る。みんなは形ばかりそれぞれのベッドに戻っていた。だが眠っている者などひとりもいない。部屋は興奮したささやきで満ちていた。悲嘆と憶測の混ざった音の波。

 私も布団にもぐりこんだが、到底眠れそうにない。服を着替えて外に出ることにした。誰も私を見咎めなかった。

 行き先は決まっていない。まだ放送が鳴る前の街を遊歩する。外出する時は持ち歩くのが癖になっている、ささやかにお小遣いを入れた財布をポケットの中で握りしめた。

 胡蝶姐の文字が繰り返し思い出される。

「わたしはこの国が嫌いです」

 あれは他の部分と変わらない、端正な文字に過ぎない。それなのに強く伝わってくる気がする、心からの嫌悪を受けとれるのはなぜだろう。

 何度も何度も同じ言葉を思い返してしまう。文字はいつしか胡蝶姐の声を持ちはじめる。

「わたしはこの国が嫌いです」

 胡蝶姐はなぜ私にだけ密航を伝えてくれたのだろう? あれこれと目をかけてもらいはしたが、打ち明け話をするに足る信頼をどこで勝ち得たのか分からない。

 ふとジョバンニの顔が浮かんだ。

「一緒にこの国を出よう」

 真剣な顔と声を思い出す。

 もしかして胡蝶姐が私を選んだのは、ジョバンニがいたからではないか。

 私がジョバンニから教わった話を披露したあの時、胡蝶姐は確信したのかもしれない。これまで自分が集めてきた知識や経験が間違いではないことや、見通せる将来が、胡蝶姐にとって暗澹(あんたん)としていることに。そうして同じ情報を持つ者を――私を、打ち明ける相手として選んでくれたのではないか。

 足が止まる。愕然とした。私の周りでどれほど多くの出来事が、私の目に見えないうちに起こっていることだろう。私には、誰の真意ももはや問うことができない。先生に怒られた花はなぜ自分の意思を曲げなかったのだろう。アリスは何を考えていたのだろう。ジャンヌは私のせいでやってくるハーメルンたちをどう思っていた?

そして、胡蝶姐は。

胡蝶姐も遠くに行ってしまった。密航がうまくいけば(うまくいくことを強く祈るしかできない)、胡蝶姐は外の世界で暮らすのだろう。見知らぬ場所で、見知らぬ言葉を話して。胡蝶姐は綺麗だから、映画の中で観たような衣装がきっと似合うに違いない。お洒落な服に小粋な帽子をかぶり、石造りの街を歩くのだ。壁で仕切られていない街を、どこまでも。

そして私もジョバンニの言う脱出が上手くいけば、その仲間入りができるかもしれない。見知らぬ場所、見知らぬ言葉。胡蝶姐がいるところ。

決して他人事ではなかった。これは胡蝶姐が()した事件であり、私が辿る未来でもある。ジョバンニが戻ってきたら動き出す未来。もしかしたら私と胡蝶姐、どちらが先かの違いしかなかったのかもしれない。

 気がつくと足が震えそうになった。私もこれから外の世界に向かうことになるのだ。スクリーンの向こうに片鱗を覗いたことしかない世界。

 なにか、なにか心づもりをしておけることはないか。脱出のためにやっておけるなにか……。

 歩きだそうとして顔を上げる。道路を渡った先の店がシャッターを押し上げているところで、ガラス戸にかかった札を「開店」にひっくり返していた。

 そこは本屋だった。

 前面すべてがガラスで見通せる棚には、種々の雑誌や新刊のポスターやらが飾られている。その中に、こんな言葉を見つけた。

「あなたの語学力を底上げする! 最強の一冊」

 大きな文字の下には様々な国旗が描かれていて、中には見覚えのある旗があった。ジョバンニが「僕の国の国旗だよ」と言っていた模様だ。

 ジョバンニは「ラプンツェル」を読んでこの国の言葉を覚えた。ならば私にも、本によって言葉を習得することができるのではないか。

 見知らぬ場所と見知らぬ言葉が、見知らぬ場所とわかる言葉になったら、少しは安心して脱出できるかもしれない。

 それにこの時の私は大胆になっていた。胡蝶姐がやり遂げたことの大きさを漠然と感じとり、後に続くことになるだろう私も何かをやらなければという気にさせられていた。本を買うお金なら、ジョバンニがくれた。私がやるのはただ店に入って行って、目当ての本を買うことだけだ。

 私は急ぎ足で道路を渡った。


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