11
ジョバンニが開けてくれたガラス戸をくぐる。店内を突っ切ってカウンターへ向かう、私の足取りは多少自信のついたものになっていた。
「カフェオレとシナモンロールください。それから……」
「ブレンドとハムチーズサンドを」
あとからジョバンニが追加する。会計してくれているあいだに、私は席を探した。落ち着いて話しやすそうな、壁際のソファ席を確保する。
ジョバンニがトレイを持って追いついてくる。トレイからテーブルへ。注文したものをめいめい分けて席に落ち着いた。
「さて、今日は。なかなか勢いのある映画だったんじゃないかい?」
「そうだね。謎が解けていくのはすっきりした。……自分ではひとつも分からなかったけれど」
「ああいうのは見抜かれないように作られているものさ。すぐに分かったら観ている人が飽きてしまうからね……」
解説の合間に、ジョバンニはコーヒーを一口飲んだ。
具体的な日数はいつからか数えそこねてしまった。ともかく数週間、私たちはこうして娯楽を摂取しては感想を交換する日々を過ごしている。
開店時間とほぼ同時に、私はジョバンニが逗留する四〇三号室へ行く。そこで華街のガイドブックとにらめっこしながら、今日行きたい場所を決めるのだ。
私は『門』の外に出られない。けれど華街の中でならどこにでも行ける。私たちはほとんど観光客のようなものだった。
開かれたガイドブックには写真がたくさん載っている。私が魅力的な写真を見つけると、ジョバンニが紹介文を読み聞かせてくれる。簡単そうな文章なら「読んでご覧」と渡されたりもする。そうやって私たちは華街を探検し続けた。
行きたいと思えて、私が入って良い場所には全部行った。映画、演劇、疑似動物園、美味しいスイーツのある喫茶店。
ジョバンニが私にしてあげたいと思ってくれたこともすべてやった。百貨店でいくつも服を買うことだとか、新しい靴を試すことだとか、髪を整えることだとか。私は差し出されるものすべてを、望まれそうな態度で慎ましく享受した。
ここには数えきれないほどの娯楽がある。ジョバンニが言うように、世界中の楽しいものが集まっているのだろうか。私はガイドブックの中に「地上の楽園『HANAMACHI』」の記述を見つけた。どうやらここは楽園だ。時間がいくらあっても足りない。
娯楽から娯楽へ渡り歩いて夜も深まってくると、私たちはいつものカフェに入って少しおしゃべりをする。それから店へ帰って、それぞれのベッドで休むのだ。
時には、四〇三号室まで一緒に上がることもある。
「そろそろ、だいぶ読めるようになってきたんじゃないかい?」
誘われて部屋に入ると、ジョバンニが楽しそうに尋ねてきた。もちろん、文字のことを言っている。
私は頷いた。
「そうだね……ひらがなは、だいぶ」
五十個のひらがなと、カタカナを少し。今の私が識別できる文字たち。私は画数の多い「漢字」と呼ばれる文字のあいだに挟まった「の」や「と」に気づくことができる。カフェのメニューに使われているカタカナは、店員に怪しまれないように判読の練習中だ。
漢字のいくつかも見慣れていないわけではなかったが、私が読めるのはジョバンニに教わった、いつも同じ場所に出ている看板などの文字にすぎない。場所と読みを関連づけて記憶してしまっているので、他の場所で同じ文字を目にしてもすぐには読むことができない。それは「読める」のうちには入らないと思う。
今、私は花が書いた字の巧拙を思い返すことができる。小さな紙切れに大切に練習された無数の文字たち――あそこには漢字も含まれていた――書いて見せてくれた「はな」の名前。あの文字は丁寧だったと思う。綺麗だったと思う。自信と誇りに満ちた字だった。花の書く文字から香っていたあの自信は、他の誰の力を借りなくても読み書きができるという、力に対するものだったのだろうか。
花がまだ話のできる場所にいたら、今私たちはどんな話ができるだろうと考えるようになった。花がまだ文字の勉強を続けられているとしたら、今どれほど上達していることだろう。きっと難しい漢字も含めて、すらすらこなしてしまうに違いない。もしかすると新聞だって読めるかもしれない――男たちが情報を得ようとするのと、まったく同じ様子で。
ジョバンニは私の進歩を喜んだ。
「うん、うん。ひらがなが読めるのは、すごいことだよ。なにせ五十個もあるんだからね……僕の国には文字が二十六個しかないっていうのに。そうしたら。そろそろこれが読めるんじゃないかと思うんだ」
ジョバンニはスーツケースをがさごそやって、一冊の絵本を取り出した。私は息を呑んだ。
本。紛れもない本だ。初めて触れるもの。
こわごわ両手で受け取った時、柔らかい紙の感触にはっとする。
何度も人の手が触れ、なんども開かれてきた本なのだろう。表紙に書かれたタイトルはカタカナだった。
「ラ……フ……ソ……いや、ン。ラフン……」
「ラプンツェルだよ。髪の長い女の子の話さ」
「あ。ラプンツェル」
改めてタイトルを見下ろす。これで「ラプンツェル」と読むのか。
「知っている話?」
「うん。……学校で……観たことがあるから」
「そうか。話を知っているなら、なおとっつきやすいかもしれないね」
ジョバンニは大切なものを見る時の目で、私の手の中にある本をなぞる。
「これはね、僕がこの国のことばを勉強したくて買った絵本なんだ。もう何十年も前のことだけれど……。思い出深くて、なかなか手放せなくてね。もしかしたら、今度は君の学びの役に立つかもしれない。君にあげるよ。君が持っておいて、読んでみてくれたらうれしいな」
「大事にするね」
ジョバンニは私の反応を気にしつつ、そっと私を抱き寄せる。まるで炉端に集まった家族が抱き合うように。映画で観た一場面。気軽なふれあいだけが私たちの間で許容されている。嫌悪を感じたら接触を断っても良いと約束もしてある。とはいえ私がジョバンニに対してそのように感じたことは、この時一度もなかったのだけれど。
表紙のラプンツェルは金色の髪を長く長く流し、祈るような横顔を見せている。
*
控えの間に戻ると、姐さんたちはもう眠っていた。部屋は小さな常夜灯が灯っているだけで暗く、私は足元に気を付けながら、奥に移動した自分のベッドまでたどり着く。
布団を頭からかぶり、枕元に置いた懐中電灯をつけた。ラプンツェルの横顔が黄色っぽい光の中にまるく浮かび上がる。
私は読んでいく。ページを繰るごとに目が離せなくなっていく。文字をひとつずつ読み解いていくごとに「なぜ?」をさしはさみたくなっていく。
奥付までたどり着き、この絵本がいつ作られたものかを確かめた。それからジョバンニとの会話を思い起こし、今が何年かを考えた。
なぜラプンツェルはこんなに変わってしまったのだろう。
ラプンツェルが「ラプンツェル」という名になったのは妻が隣の家の野菜を盗んだからで、ラプンツェルを連れ去ったのは隣の家の魔女で、塔から落ちた王子は目を傷めてしまうけれど、愛し合うふたりは遠い砂漠で再会する。ラプンツェルには双子の子どもさえ産まれている。
そよ風とお茶の香りが蘇る。
「……もし、ラプンツェルが少年の方についていっていたら。ラプンツェルは、本当に幸せにはなれなかったのかな」
文字が読めた花は、このラプンツェルのことを知っていただろうか。
なぜラプンツェルはこんなに変えられてしまったのだろう。
*
カウンターでカフェモカを注文する。
男性店員が準備のために私の向かいを離れたのを見計らって、カウンターの上に広げられたメニューをじっくり眺めた。だいぶ、読めるようになってきている。メニュー名の横に書かれたカップのイラストは、その飲み物に何が入っているかを表していた。そうか、カフェモカはチョコレートが入っているから甘いのだ。
「お待たせしました」
品物を受け取り、ジョバンニと連れ立って席へ向かう。今日はいつもと違う席に座ろうと言って、大きな窓ガラスに接するテーブルについた。
「今日の映画は……」
ジョバンニが口を開く。私は景色から目を戻した。
「どうだったかな? クラシカルな作品だったけれども」
「……すっきりしない終わり方だったかもしれない。どうしてお姫様とあの人は別れ別れで終わっちゃったんだろう。男の人はそれで満足そうだったけど、全然分からない」
「君がそう言うのを聞けてうれしいよ。まったく同感だ」
ジョバンニは明るい声になった。
「どうしてあれはハッピーエンドじゃないんだろうね。『王子様とお姫様は、結婚していつまでも幸せに暮らす』ものじゃないか、そういう終わり方でも良かったんじゃないかと考えていたんだ」
「うん」
「友達は、身分違いの恋は難しいし、王室は注目もされているから、ふたりが結ばれたら大変な道のりを歩むことになっていたと思うなんて言っていたんだけれど」
「それでも……ハッピーエンドでも良かったんじゃないの?」
「やはりそうだよね。僕もそう思う」
ジョバンニが深くうなずいた時、私たちのあいだに音楽が割り込んできた。店のBGMではない。電子的な音は落ち着いた店内に不釣り合いだった。
ジョバンニが怪訝な顔で上着の内ポケットを探る。
「あれ。珍しいな。……ちょっと失礼」
携帯を取り出して画面を見、私に一言断ってから耳にあてがう。私はそれをまじまじと見た。電話に出る人を初めて近くで見た。
ジョバンニは椅子に斜めに腰掛け、電話の向こうの相手と話している。急に私の知らない言葉を話しはじめるのが奇異に思えた。きっと「向こう」の言葉だろう。ジョバンニが来た国の、二十六個の文字でできている言葉。
ジョバンニの眉間にしわが寄る。声が不穏な響きを帯びる。私に「少し待っていて」と手振りで示すと、店の外へ出て行ってしまった。
手持ち無沙汰になって、私は漠然と窓の外を眺める。ガラスに切り取られた景色の端にジョバンニが立っていた。深刻そうな表情で話しこんでいる。
電話によって破られる平穏。私は今まで観てきた映画の情景を私たちに重ね合わせようとしていた。もっともこの街は石畳ではなくアスファルトに覆われていて、ゆらめいて頼りない街灯の明かりも、ロマンチックな電話ボックスもないのだけれど。
気づけば往来を行く人たちは、この一か月ですっかり冬の装いになっている。上着、マフラー、手袋。暗めの色が多いせいで、人々の固有性は夜の暗がりの中に埋没してしまいそうだ。
けれどその中でジョバンニは目立っている。他と同じように落ち着いた色合いの服を着ているのに、他より素敵に見えるのはなぜだろう。私にはうまい説明を見つけることができなかった。肘当てのついた、長く着ているというセーターが体に合って見えるからかもしれない。
ジョバンニは電話を終えて戻ってきた。消沈した顔は隠しようもない。
それでも努めて明るい声を出す。
「……やあ、待たせてごめんね」
「どうしたの。……大丈夫」
聞いても良いだろうか。迷ったが、沈んだ顔に気づかなかったふりをするすべを私は知らない。
ジョバンニは両手をあれこれ組み合わせ、どう話したものか迷っているようだ。しばらくのあいだ、私の耳にはBGMがよく聞こえた。
長い長い息を吐く。とび色の目が私に向いた。
「家族が倒れた。急な病気かもしれない」
「……」
絶句する。首元が冷えていく。カゾク、家族、かぞく。
つまりは父や、母や……もしかして妻や、子どもがいるということ。
ジョバンニにも家族が、私以外の気遣うべき大事な人があったのだ。
私の硬直した無言はどのように受け取られたのだろう。ジョバンニは会話の空白を埋めるように話しだす。
「娘がいるんだ。イライザっていって。今ハイスクールに通ってる。電話は妻からだったんだけれど。イライザは滅多に病気になんてならない子で……。病院に運ばれて、手術になるかもしれない、と。……嗚呼、どうして急に」
病院、手術。ああ、あの綺麗な白い施設のことか。映画で観た。
「妻に帰ってくるよう頼まれたんだけれど……。予定の滞在期間はまだ残っているし、君を残して行きたくない。けれどイライザのことも心配だ……嗚呼、どうしよう」
話の途中から彼は私を見なくなり、言葉はだんだん独り言の気配を増していく。私は突如目の前のカフェモカを彼の頭の上にぶちまけてやりたい衝動に駆られた。
ジョバンニは呆気にとられ、ようやく私のことを見るだろう。甘いチョコレートソースとエスプレッソのせいで、彼の自慢のセーターはべたついた不快な毛糸の塊になるだろう。とはいえその塊も、肘当ても、彼の妻がこしらえたものかもしれないのだ。
顔も知らないジョバンニの妻。きっと胡蝶姐のように美人で、大人びていて、教養に溢れた人なのだろう。私とは比べ物にならないくらい、ジョバンニの隣にいるのにふさわしいような……。
「どうして……。家族がいるって私に言ってくれなかったの? このことがなかったら、ずっと黙っているつもりだった? これって、映画に出てきた……『不倫』っていうやつだよね」
「まさか! いつか、そう遠くないうちに、伝えるつもりだった。そのことで君を不安にさせてしまったのなら謝るよ。……僕は自由な姿で君といたかったんだ。何も持ってない頃に君と出会っていたらどんなふうだったかを、たとえ疑似的にでも体験したかった……。僕が結婚する前、家族ができる前に君と出会っていたら、って」
対立する要素を秩序立てようとするジョバンニの前に、私は暗澹としてしまう。不意に現れた「ジョバンニの家族」という存在たちを、私の心のどこに位置付ければ良い?
ジョバンニは再び腕を組んで煩悶しはじめてしまう。私も穴だらけの印象をつなぎあわせて「家族」というものについて考えてみた。私に不快そうな目を向けてきた近所の子どもたち、家を整える妻……。
「……家族、が、いるなら。大事にしてあげない、と」
意図しない言葉が、ぎこちなく私の口をついていた。ジョバンニは呆気にとられて私を見ている。けれど、私はこう言わなければならないと思っていた。
だって、結婚は幸せなものだ。ジョバンニの妻にとってジョバンニは、たったひとりの、自分を幸せにしてくれる夫。妻は家を守り、子どもを産んで育てるのが仕事。妻が夫に尽くすなら、夫も妻やそのほかの家族を気遣うべきではないか?
私は気づけば早口になっていた。
「奥さんも娘さんも、ジョバンニがいなくてとても心細いんじゃないかな。帰ってあげなよ。私は……ほら、ひとりでも大丈夫だから」
いつかの映画で観たように、ちょっと肩をすくめて見せさえしてしまう。そういえばあのシーンでも、こういう本音を呑み込んだ会話をしていなかっただろうか。私はこのあと孤独に耐えることになるだろう。そうならなければいいのに。
「……君が、そこまで言ってくれるのなら」
ジョバンニは考え深げに返事を始めた。
「僕は一度、向こうへ帰ろうかと思う。君とちょっとでも離れているのはこの身を裂かれるほどつらいけれど。……誤解がないように言っておくとね、妻のことは、はっきり言ってもうどうでもいいんだ。君と出会うまで待てなかった。それだけで結婚してしまった相手だ。彼女との結婚は失敗だった。僕は『普通』になろうとして……なれなかった。それらしい人生の形を整えることはもしかしたら出来ているかもしれないけど、心の充足には程遠いんだ。やはり、君がいなければ。
それでもイライザは大事だ。一人娘だし、やはり自分の子どもというのはかわいいんだよ。無関心でいるなんて、やはりできない。君の言う通りだよ。彼女の一大事には、そばにいてやらなければね。まだ若いんだし」
私だっておそらく若いほうの部類に入る世代だが、そのことは言わずにおいた。
ジョバンニはテーブルの下でそっと私の手を握る。振り払いたかったような気がする。体は動かなかった。
「必ず戻って来る。娘の様子を確かめたら、すぐに。約束するよ。だから、少しだけ僕を待っていてくれ。我がままを言うようだけど……」
私はとっさに是とも否とも言うことができなかった。私たちは飲み物を残して店へ帰った。
*
寝返りを打った気配。
「ねえ」
薄暗い部屋で名前を呼ばれる。ジョバンニが私の顔を覗きこんでいた。
「起きている?」
「うん」
ジョバンニの方へ体を向ける。きっと、零時を少し過ぎた頃。回転する時計の針の読み方を、私はすでに教わった。
私たちは大きなベッドに収まっている。もはやなじみ深くなった四〇三号室で。いつも通り少しおしゃべりをしてから部屋を辞そうとした私を、ジョバンニが引き留めたのだ。「今日は一緒にいてくれない?」と言って。
私たちは並んで眠った――本当に「眠る」だけ――ジョバンニは決してこちらに手を伸ばさない。
そのうちに私は寝入ってしまったようだった。一方のジョバンニは、だいぶ前から起きていたようにしっかり話す。聞き違いようがなかった。
「一緒にこの国を出よう」
誘いは唐突だった。まるで映画のどれかで観た場面。薄暗い部屋とジョバンニの声に、効果的に演出されたスクリーンがオーバーラップしていく。
「出て……どこへ行くの?」
国を出る。その言葉が持つ重みを、私はジョバンニほどには感じられていなかったと思う。ここではないどこかに暮らす想像が、私には上手くできない。
「僕の国へ来たらいい。一緒に飛行機に乗って、遠くへ飛んでいくんだ」
「でも。貴方には家族がいるんでしょ。そのために帰るんでしょ。私なんか」
「君を置いていけない。君は僕の運命の人だ。放したくないよ。君をこんなところに留めておきたくなんかないんだ。ずっと一緒にいよう。君が僕の国で安心して暮らせるようにする。必要なものは全部用意するから。
今すぐ……は、さすがに危険すぎる。だから準備を整えて、必ず帰ってくる。できるだけ早く。すぐに、きっと。だから、どうか待っていてほしい。どこにも行かないで、ここで、僕の為に」
ジョバンニは真面目だった。そもそもこのような場面で冗談を言う人ではない。私はそれを知っている。それくらい一緒にいる。いてしまった。
懸念が胸元で渦を巻く。けれどもこれ以上口に出して問い詰めるほど、私には勇気がなかった。ひどく久しぶりに思い出したけれど、私は令嬢なのだ。
自分の立場を忘れてはいけない。ジョバンニは客、私は令嬢。ジョバンニが私を持ち去りたいのなら、私は。
「分かった」
ひとつ頷く。ジョバンニの目が感動でうるむのが、薄暗い中でもはっきり見えた。
「嗚呼ありがとう……! ありがとう……!」
次の朝、ジョバンニは荷物をまとめて行ってしまった。気軽な頬への口づけと、身の回りの大金を私に残して。
私は「ラプンツェル」の絵本と手にしたこともないほどのお金を、そっと自分のマットレスとシーツの間にすべりこませた。




