10
私が話し終えると、周りで聞き入っていた姐さんたちは拍子抜けしたように見える。おいち姐が目をしばたいた。
「え……それだけ?」
「はい。こんな感じでした」
「三日もあったのに?」
ざらついた沈黙が下りる。通りすがったみやこ姐が声を投げた。
「みんなー。そろそろ寝る時間。もうベッド入ろうよ」
心なしか姐さんたちの顔が安らいだ。
「そうだね」
「ねむー」
「あたし難しいことわかんない」
「だから言ったでしょ。どうせあの子からロクなこと聞けないと思うよ、って」
みやこ姐がみんなを連れて控えの間に消えていく。私は食堂で急にひとりぼっちになった。空いた両脇を冷えた空気が通り過ぎていく。
話すのに忙しくしていたせいで、目の前の朝食はほとんど減っていない。私も早く休みたい。
「ねえ」
フォークを持ち直した時、横から声がかかる。見上げると胡蝶姐が立っていた。
「あ。胡蝶姐。お疲れ様です」
「さっきの話。本当に居続けのお客さんから聞いたの?」
いつになく真剣で鋭い問いかけ。私は雰囲気の違いに気圧される。
「はい……そうです、けど」
「そう」
胡蝶姐はひとつ息をついた。
「これからはあまり言わない方がいいよ」
「どうしてですか?」
「矯正施設に送られたくなかったら、そうして」
それだけ言うと、胡蝶姐はさっさと食堂を出て行ってしまう。呼び止める間もなかった。
*
約束通り、ジョバンニは夕方に店が開くと同時にやってきた。
初めて放送でいちばんに私の名前が呼ばれ、再び四〇三号室に向かう。ドアを開くとジョバンニが紅茶を淹れていた。香りが違っている。
私が来たことに気づくとちょっと目を上げて、
「紅茶は僕にとってお守りのようなものなんだ。これまで何カ国も旅行に出た経験があるけれど、いつも持ち歩いている。もしもホームシックになった時に、安心できるようにね。もっともそうなったことはないのだけれど」
部屋の隅には大きなスーツケースが増えている。僕の全財産だ、とジョバンニは言った。そうして、佇んでいる私をソファへ誘う。三日前とまるきり同じように。同じ部屋、同じ客。それなのに私たちはすでに知り合っていて、三日間ほどを共に過ごした後なのだ。共通点と差異とが絡み合って混乱しそうになる。
ジョバンニの隣に座った。受け取って飲んだ紅茶は香りのみならず風味も違う。紅茶にも種類があるのだと、この時に知った。
「しばらくここに滞在したいと思っているんだ。ちょうどホテルを変えなければいけないところでね」
そう言って壁際のスーツケースを指さす。私はジョバンニの逗留に肯定的な返事をした。ジョバンニがそうしたいのなら、それは受け容れられるべきだろう。
ぼんやりとスーツケースを見つめていると、ジョバンニも私の視線を追う。
「少ない荷物だと思うかい、僕の滞在予定にしては? 限られた数の持ち物でやりくりするのが好きなんだ。身軽だし、それこそ旅の醍醐味という感じがする。自宅に戻れば持ち物はたくさんあるのだから。
スーツケースにゆとりがあれば、その空いた部分に新しい魅力的なものを入れて持ち帰ることができる。新しいものに出会うかもしれないこと、その可能性にまずわくわくしないかい?」
「そうですね」
私はコンビニの期間限定デザートを思い浮かべながら同意した。店内放送を耳にしてしまった時の渇望。湧きあがる好奇心。私には手が届かない値段であることが多いけれど、前に何度か胡蝶姐がごちそうしてくれたことがある。あの貴重なものの味は期待通りであることも、張り切りすぎてバランスを崩していることもあったが、口にした後豊かな気持ちになったことだけは共通していた。
ジョバンニがティーカップを置く。
「それで。今日は何をする?」
「何、って……」
「楽しいことをしようよ。外出ってできる? 街に出よう。映画を観るとか、カフェに行くとか」
「ああ、外出。追加料金がかかってしまいますけど。『門』の内側ならどこにでも行けますから」
「それじゃあ早速行こう。このあたりにおすすめのお店があったりするかい?」
いそいそと外出の用意を始めるジョバンニと共に、四〇三号室を後にした。
*
外出の手続きを済ませ、並んでフロントを後にする。
「どうぞ、行ってらっしゃいませ」
仁科さんの声に見送られて、夜の街に繰り出した。開いた自動ドアの隙間を押し広げるように、夜の空気と雑踏が流れ込んできて私たちを取り巻く。すぐに私たちもその空気の一部になった。
いつの間に雨が降ったのだろうか。道路はしっとりと黒さを増し、ところどころにある水たまりがネオンの色を映している。逆さまの街を踏んで何食わぬ顔で往来する人々は、まるで無限に続く街の中を彷徨っているようだ。
「さて。どこに行こうか」
行き先の希望を聞かれるも、私はとっさに答えることができない。夜の街は昼間とずいぶん見え方が違う。夜に外出するのは本当に久しぶりだった。最寄りのコンビニへの道のりさえ心もとない。
正直に心当たりがないことを告げると、ジョバンニは気を悪くしたふうでもなく進路を定める。
「じゃあこっちに行こう。カフェがあったはずだから」
めまぐるしく行き交う人の群れに混ざっていく。はぐれないよう、ジョバンニの左後ろをついていく。気づいたジョバンニがそれとなく声をかけ、私の手をそっと握った。私は通り過ぎる街を眺める。
華やかな街。思えば夜の大通りを堂々と歩くのは、家に帰ることをやめた日以来だった。目立つ制服姿だった私に注がれた、無数のまさぐるような視線を今は感じない。今の私は「合意」の対象ではないからだと気づいた。ジョバンニと一緒に歩いているから。
夜の途中に、温かな黄色っぽい明かりを閉じこめた店が現れる。ガラス張りのそこが、ジョバンニの言っていたカフェだった。店からそう離れてはいないのに、ここにカフェがあることなど今まで知りもしなかった。
「さ、どうぞ」
ジョバンニがガラス戸を押し開け、私を先に通してくれる。店内に足を踏み入れた途端、苦くて香ばしい匂いと柔らかい音楽が私たちを包んだ。何組かのお客が席について談笑している。
来慣れた店なのだろうか。ジョバンニはさっさと店内を縦断し、奥のカウンターへ近づく。
「ブレンドコーヒーとハムチーズサンドひとつ。それから……君も好きなのを頼んで」
半歩よけて私を手招く。カウンターに近づくと、卓上にメニューが広げて置いてあった。
「ええと……」
飲み物だけで品数がとても多い。カップと思しき絵と、読めない品物の名前が並んでいる。値段らしい数字がそれぞれ三つずつ書いてあるのは、どういう意味なのだろう?
「……」
どれを選べば良いか分からない。そもそもいちばん安いだろう表示の値段すら、私の小遣いでは届かない。なんと高価な店に入れてもらったことだろう。
黙りこんでいると、ジョバンニがそっと尋ねてくる。
「どれが良いか決めづらいかい?」
「メニューが読めない、というか」
「あ。そうか」
今朝のやりとりを思い出したらしい。
「じゃあコーヒーは飲める? 甘いものの方が好きかな?」
結局ジョバンニに助けてもらいながら、ココアとチーズケーキを頼んだ。店員が忙しそうに用意を始める。
「なんか……すみません。こんな高いところに」
頼んだものを受けとって、角の席に落ち着いた。おしゃれな形のソファに座るなり、謝罪の言葉が口をつく。
「高い? 気にしないでよ。遠慮せずもっと食べたって良いくらいだ。
それにしても。なかなか興味深い眺めだね……男性スタッフしかいないとは」
ジョバンニにとっては店の価格帯よりも、働くスタッフの方が関心のあることらしい。店内を眺める目がおもしろそうにきらきら輝いている。私も真似して観察しようとしてみたが、どこがどのように「興味深い」のか分からなかった。
「このカフェチェーンは他の国にもあってね。僕のお気に入りの店なんだ。まさか華街の中にもあるなんてね。嬉しい驚きだ。
でもこの店が他国のそれと違うことがひとつだけある。それが女性スタッフがいないことだよ。たぶん、どの時間帯でもそうなんだろうね。それにお客の中にも女性が少ない。僕が見たところ、この国のあらゆる店が同じ状況なようだ。珍しいことだよ」
「それはたぶん、そういうのは女性の仕事じゃないから……じゃないでしょうか。求められていることではないんです」
私たちに求められていること。受容。奉仕。献身。ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!
私は想像してみた。ガラス張りの店内で、女性スタッフがコーヒーを淹れている。今あそこで男性スタッフがそうしているように。彼の、背筋が伸びて自信に満ちあふれているさま、楽しそうに働いている姿を、そのまま女性の姿に置きかえてみる。見慣れないものへの違和が拭えない。とはいえ、物珍しくはある。この店は人気になるだろう。見物人であふれるだろう。みんな彼女の接客を受けたがるだろう――そしてついでとばかりにメニューにないことさえ頼もうとするだろう。
ふと思い出したことがあった。
「お母さんの友達が、壁の外のカフェで働いたことがある、って聞いたことがあります。カフェの給料だけではとても暮らしていかれないから、壁の中でも仕事をしてるって言っていました。お母さんと同じ店にいる人だったかな。でもそうすると寝る時間が取れなくなって、疲れすぎてしまって、カフェの方は辞めることになったらしいです。カフェで働くのが夢だったらしいんですけど」
「そうか。そのお友達はとても頑張っていたんだね」
ジョバンニは手元の携帯端末を見て寂しそうな顔をする。察するにカフェ店員の月給でも調べたのだろう。
コーヒーを一口含み、思い出したように、
「君は不便じゃないのかい? 文字が読めなくて?」
「不便……? ええ、特には。数字は分かるので値段は読めるし、私たちが知るべきことは、数字や図や絵で教わるから」
「じゃあ逆に言えば、君たちは知らなくて良いと考えられていることが、文字でやりとりされているんだね?」
「……それは」
なぜかジョバンニの言葉を警戒している自分に気づいた。身を引いて、自分を何かから守ろうとしている。攻撃されたわけでもないのに。ジョバンニの言葉はその何かに深く切り込もうとしている――触れてはいけないことになっている何かへ。
一度だけ文字を見た時のことを思い出す。花。文字を知ったから姿を消してしまった人。
「だからこのことは、みんなには言わないで」
私にだけ打ち明けてきた顔と声。
先生は絵にサインを刻んだ花を叱った。そうして花はいなくなった。文字を知ることは悪いことだ。私たちはそれを見て知っている。悪いことをしていなくなった者は、その存在すら消えてしまう――机も、話題も、何もかも。
私も罪の一端に触れた。そして花のことを未だ記憶しつづけている。先生が「忘れなさい」と言ったのに。これは、悪いことだろうか。私がまだここに居続けられるのは、花とアリスと違うのは、きっとただ運が良かったからだ。私たちは互いに入れ替わる可能性があったと思う。
ジョバンニは内緒の話でもするように身を乗り出す。
「僕は、君に教えてあげられる。自分で読み書きできるようになったら、知りたいと思うことを、自分の力で好きなように学べるんだよ。君には本質を見抜く力がある。昔持っていた力。いろんなことを知りたいと、本当は思っているんじゃないかい? 僕に教えさせてくれないか」
ジョバンニの目は真剣だ。彼は私に文字を与えたがっている。花が見せてくれ、持ち去っていったもの。本当は触れてはいけないもの。
けれど、これは客からの要求でもある。ジョバンニは私に文字を教えたい。私はやってくる要求に奉仕する。これは仕事だ。ありがとう、ありがとう! 女性のみなさん!
あるいは、そう理由づけただけの渇望。
*
エレベーターで、地下へと降りていく。ジョバンニとはフロントで別れた。「明日もまた、ここで」という約束だけ交わして。
灰色の廊下を歩き、控えの間へ向かう。重い鉄扉を開けると、控えの間でおしゃべりしていた姐さんたちがこちらを見やった。入ってきたのが私と分かると、
「あ! 帰ってきた!」
「おめでとう!」
「大出世だね!」
五人がかりで集まってきて口々に祝福の言葉を述べる。あかり姐がまごつく私の手を引いた。
いつもは足を踏み入れない、部屋の奥まで連れて行かれる。あかり姐はある二段ベッドの前で止まった。
「じゃーん! ここがあんたの新しいベッドだって!」
「しかも上段!」
「え……」
言われていることをすぐには呑み込めない。私は思わず、今朝まで自分の居場所だった入口に近いベッドを振り返ってしまった。
あかり姐は言う。
「さっきオーナーと仁科さんが来てね。ベッドの割り当てを変えていったの。あんたに伝えておいてって言われたんだ。今までこんな大移動、見たことないよ! あんた一気に売り上げてるから、ここになったんだって」
「すごいね。良いお客さん捕まえたね!」
「しかもずっと予約し続けてるらしいじゃん? あんたのこと!」
「上の階に泊まってるってね。すごすぎ!」
「オーナーもびっくりしてたよ。あんなに嬉しそうなの初めて見たかも」
「嗚呼……そう、なんですね」
これは私の功績として語られて良いものなのか。私が私のこととして喜んで良いことなのか、反応に困る。すべてジョバンニの胸ひとつで、どうにでもなってしまうことがらではないか?
「お疲れー」
鉄扉が開く音。私たちはつられてそちらを見やる。林立した二段ベッド群の向こうから、胡蝶姐が近づいてくるところだった。珍しく、営業時間中に体が空いたのだろうか。胡蝶姐の部屋は控えの間のさらに奥、扉で仕切られたところにある。
「お疲れ様です」
「胡蝶姐! すごいの。この子大出世なんだよ!」
あかり姐が嬉々として私の「大出世」を知らせる。すごいじゃん。胡蝶姐は形の整った目を見開いて、晴れやかな顔をしてくれた。
「長く贔屓にしてくれそうなお客さんかな? 大事にしなよ……なーんてね。悠長にアドバイスしてるあいだに、あたしもさっさと追い抜かれちゃうかもしれないからな」
「まさか、そんな。私が一位だなんてとても」
胡蝶姐は優しく私の頭に手を載せる。
「いや、ほんとに。あたしんとこ目指すくらいのつもりでいなよ。いつか本当にてっぺん取るかもしれないんだからさ。あんたには期待してるんだよ。すごいことやってくれるの」
軽く頭を撫でる。ほどなくして放送が鳴り、胡蝶姐は指名を受けて出て行った。
大事にしなよ。胡蝶姐の言葉を思い返す。意図するより先に、ジャンヌの声と重なった。
大事に。
もう私の手元にないゲートパス。私を贔屓にしてくれるジョバンニ。
私は、また大事なものを抱えたのだろうか。




