序
かつて太陽は、こんなに偉大な価値ある大義を照らしたことはなかった。
それは一日、一年、いや一時代の問題ではない。子供は事実上この争いに巻き込まれている。そして現在のやり方いかんによっては未来の果てまで、なんらかの影響を受けることだろう。
『コモン・センス』
私が初めて犯されたのは、七歳の時だった。
「……ただいま……」
アパートの玄関を入ると、西日に母の姿が影になって浮かびあがっていた。姿見に向き合う横顔は、出勤前の最終チェックに余念がない。体の線を強調するような丈の短いドレスに、両耳に揺れる大ぶりのイヤリングをつけ、仕上げに真っ赤な口紅を引く。その光景は破りがたい神聖なものに見えた。
私は縮こまったままの喉から声を絞りだした。
「お母さん。さっき、知らない男の人が……」
思わずその先を口ごもる。私はあれを何と言ったら良いのかまだ知らなかった。私は学校から帰っているだけだった。
道の向こう側から金髪の男が歩いてきた。
夕日に金色がきらめいている。ぼんやり「綺麗だな」と思った。
光に見とれていたせいで、ほかのことに気づくのが少し遅れた。
彼は黒い大きなリュックを背負っていて、その大股の歩みはまっすぐ私に向かっていたのだ。
「――それで? その男がなんだって?」
母は話の先を急かす。仕上がりが気に入らなかったのだろうか、髪を結い直している。私にとってはそのやり直しがチャンスだった。焦る。早く、早く伝えなければ。こんなに聞いてもらえることは珍しいのだから。今のうちに。
「それで……それで……」
間近で聞こえる荒い呼吸音。私の両足はいつの間にか地面をはなれて、薄暗い場所に連れて行かれていた。
それで。それで。あれは一体、なんだったのだろう。
私にはあれを説明する言葉がまだない。とにかく私は触られ、押し付けられ、汚された。
「愛シテル。愛シテル……」
ぎこちないイントネーションで繰り返されたささやきだけが、こびりついたように耳に残っている。
気がついたら私は公衆トイレの前に立っていた。背後には終わったばかりの暗闇が口を開けていた。
男はどこにもいなかった。
「ふうん」
母の目は鏡に釘付けられたまま、結い上がった髪をいろんな角度から検分している。
「良かったじゃん。それって需要があるってことだよ」
「え」
「ナポリタン作ってあるから。じゃ」
支度を終えた母が、狭い廊下を玄関へ向けて進んでくる。私が立ち塞がっている方へ。いつもの癖で、私は脇へよけてしまう。異常が起きた後なのに。まるでいつもと変わらないように。
玄関のドアが開いて閉まる。高らかなヒールの音とともに母は仕事に出かけていってしまった。
廊下に立ち尽くす。崩れ落ちるように座りこんだ。
「需要」がある……。
あれは、良いことだったのだろうか。
良いことなら、もっと楽しいと感じるはずではないのか。それとも楽しいと思えなかった私が悪いのだろうか。……そうなのかもしれない。
汚された。ついさっき自分で思い浮かべた言葉を考える。汚れたなら、お風呂に入らなきゃ。
頭をよぎった考えを、私はすぐに打ち消した。だって私の体はどこもきたなくないのだから。
その汚れはもうしみついてしまって、どれほどこすってもきっと完全に取り去ることはできない。
あの瞬間、何かを持っていかれた気がする。目には見えないけれど、確かに私が持っていたはずのもの。損なわれた衝撃と喪失が永遠に続くもの。
唐突に私は悟る。
私は損なわれるために生まれてきたのだ。




