03.ケセラセラ〜勘違いだらけの午後〜
「かわいい……」
昨日の湖で聞いた彼の言葉と、柔らかな笑顔が、頭の中で何度もリフレインする。
目を閉じると、頬をかすめた木陰の風の感触まで思い出して、胸がキュンと熱くなる。
(ふふっ、まさか私がこんなにドキドキするなんて……)
思わず小さく笑ってしまう。婚約破棄で張りつめていた心は、もうすっかり雪解けね。
「お嬢様? 何か勘違いしていらっしゃいませんか?」
「え?」
アメリアの言葉の意味が全く理解できない。
「その顔……本気で分かっていないんですか!?」
「だって、彼が私を可愛いって言ったのは、本当だもの」
アメリアが深いため息をついた。
(アメリアは、私だけが可愛いって言われて、嫉妬してるのね?)
「モテない女の僻みや嫉妬は見苦しいわよ?」
「はぁぁぁ……」
ため息二連発。私は気にせず、ふんっと顔をそむける。
そんなことより今日は、どんな表情で彼と再会できるのだろう。湖に着くと、足が自然に弾んでスキップしてしまう。
(スキップなんて、何年ぶりかしら……?)
まるで子供に戻ったみたい。よほど、ストレスが溜まっていたのね、と自分で苦笑する。
「お嬢様、そういうところが子供っぽいって言われるんですよ!」
「え? 誰に?」
「誰にって……もう!」
またもため息。今日のアメリアは、朝からずっとこんな調子だ。
でもまあいい。昨日彼と出会ったのは、確かもっと向こうだったはず。
私は細い小道を、鼻歌混じりにずんずん進む。
(まずは、お名前を聞こう! 愛称で呼びあっちゃう?)
「お待ちください」
振り返ると、アメリアが口の前に人さし指を立て、「静かに」という合図をした。
耳を澄ますと、少し先の方から男女の声が聞こえた。笑い声に混じって「可愛いな」「もう、からかわないでよ」と、どこか親しげな響きがする。
(……え?)
私は思わず息を呑んだ。昨日の彼の声に、よく似ている気がする。心臓が、ドクンと音を立てた。
木々の間から覗くと、彼が女性に声をかけていた。
(な、ナンパ……!?)
私の胸がざわつく。思わず木陰から飛び出してしまった。
「やめておきなさい! 彼、昨日は私を誘っていたのよ?」
女の子が目を丸くする。彼は困ったように眉を下げた。
「誘ったなんて人聞きが悪いよ」
眉毛を下げて、本当に困り顔。でも、そんなことはどうでもいい。
「な、何よ。また会いたいって言ったじゃない!」
「え? いや、“会えたらいいね”とは言ったけど……」
……え? それって、社交辞令? そんなはずは……。
「“可愛い”って、言ったじゃない!」
「それは……シートの上でゴロゴロ、子供みたいにはしゃいでたから」
胸の奥に残っていた熱が、冷たい水を浴びせられたみたいに一気に消えた。
(……バカにされてたの?)
「はぁぁぁぁ……お嬢様、だから言いましたよね?」
アメリアが額を押さえてため息をつく。
頬がじわじわ熱くなって、昨日の浮かれた自分を思い出す。
穴があったら入りたい。
「僕、勘違いさせるようなことしちゃったかな?」
そう言って、彼は苦笑いを浮かべた。
でも、いい。名前を名乗っていないもの。
誰も王太子の元婚約者が、振られたなんて思わない。
この恋は、最初から“夢”だったと思えばいい。
(昨日のドキドキは、夢だったのよ!)
「いえ、私にそういうつもりはないので、次に会えたらお断りしようと思っておりました」
精一杯の強がり。
私は背筋をしゃんと伸ばし、ぎゅっと扇子を握り、彼を鋭く見つめた。湖面に反射する光がまぶしい。涙が出そうになるのをごまかすように、瞳に力を込める。
身分のわからない人に、心を預けてはならないのだと学んだ。ほんの一瞬、恋しかけたことは内緒。
(さあ、もう次を見つけましょう)




