表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

彼岸の客

作者: 猫小路葵

 彼岸のこの時期になると、ある出来事を必ず思い出す。

 僕は、小さい頃に曾祖父と会ったことがある。

 もう半世紀ほど前のことだ。


 秋のお彼岸のその日、僕は母とともに祖母の家を訪れていた。

 祖母の家は古い日本家屋で、庭に面して二間続きの座敷があった。

 縁側があり、気持ちのいい風が吹き抜けていたのを覚えている。

 清潔な畳に仰向けになった僕は、両腕をTの字に投げ出して昼寝をしていた。

 すると、庭から誰かに声をかけられた気がした。

「ごめんください」

 やはり誰かの声がする。男の人の声だった。

 僕は眠くて、なかなか目が開けられなかった。

 それでも起きなきゃと思って、無理やり体を起こすと、庭の枝折戸(しおりど)の外に知らないお爺さんが立っていた。

「ごめんください。三原(みはら)と申しますが、入ってもよろしいですか」

 僕が頷くと、お爺さんは縁側の近くまでやってきた。

 ソフト帽を被り、きちんとネクタイを締めたお爺さんだった。

 背筋がピンと伸びて、とても姿勢の良い人だった。

 お爺さんは帽子をとり、僕に言った。

「お爺様は……いや、坊ちゃんからすればひいお爺様かもしれませんが、ご在宅でしょうか」

 僕がそれに答えようとしたとき、座敷の奥から和服姿の曾祖父が現れた。

「三原君か。久しぶりだね」

 三原さんは、曾祖父にお辞儀をした。

「ご無沙汰しております、平山(ひらやま)中隊長殿」

「その呼び方はよしてくれ」

 曾祖父に苦笑いされて、三原さんは黙って頭を下げた。

 かつての大東亜戦争で、曾祖父は中隊長を務めた。

 三原さんは当時の部下であり、戦友だった。

「近くまで来たものですから、もしやお会いできるかと思いまして」

「それはうれしいね。まあ、かけたまえ」

 曾祖父と三原さんは、並んで縁側に座った。

 お客さんが来たことを祖母に知らせなくてはと、僕は思ったはずだった。なのに不思議と僕は、曾祖父のそばに座ったまま動こうとしなかった。

「平山さん――」

 三原さんは遠慮がちに曾祖父に尋ねた。

沙都子(さとこ)さんには、あれから一度もお会いになっていないのですか」

 曾祖父はその名を聞いても、何も答えなかった。

「これからわたしと行ってみませんか、沙都子さんのところへ」

 三原さんそう言われて、曾祖父はようやく口をひらいた。

「馬鹿言っちゃいけないよ、三原君」

「しかし――」

「見たまえ。わたしはもうこの通り、ひ孫までいる歳だよ」

 曾祖父はそう言って、僕の頭を撫でた。

「なあ和輝(かずき)

 皺のある大きな手で撫でられて、僕が曾祖父を見上げると、曾祖父は僕を見て優しく笑っていた。

「和輝くんとおっしゃるのですね」

「そうだ。平和の和に、輝くと書く」

「いいお名前だ」

 三原さんの言葉に曾祖父は「ああ」と頷き、言葉を続けた。

「同様に、沙都子さんにもご家族があるだろう。それを今更わたしが『初恋の人に会いにきました』などと、沙都子さんを困らせるだけだ」

「そうでしょうか」

「そうだとも」

「ですが……」

 三原さんは諦めきれない様子だった。

「平山さん、これは過去への甘ったるい感傷ではありません。お互いが前に進むための区切りです」

「前に進むため?」

「中隊長殿、あなたはいつも我々に言っていたではないですか」


 ――前進!


 曾祖父は遠くの戦場を眺めるような目をして、庭を見た。

 僕は、どこかでかすかに、土を踏む大勢の靴音や銃声が聞こえた気がした。

「平山さん、沙都子さんは、もうすぐ亡くなります」

 その言葉に、曾祖父は回想から戻り、三原さんを見た。

「お願いです、平山さん。もしも沙都子さんに思い残しがあれば、沙都子さんは永久に迷ってしまいます」

 曾祖父は、少し怖い顔になって、じっと考え込んだ。

 そしてゆっくりと僕を見ると、僕の肩に手を添えて言った。

「和輝、お爺ちゃんは、ちょっと出掛けてくる。でも必ず帰ってくるから、心配いらないよ。誰かに何か聞かれたら、そう伝えておくれ」

 曾祖父が腰を上げると、三原さんも立ち上がって、僕に挨拶をした。

 そうして、曾祖父は三原さんと連れ立って、枝折戸から出ていった。


 僕は、すぐに奥の部屋へ走っていった。

 そこには寝たきりの曾祖母と、それを世話する祖母と母がいた。

 曾祖母は一日の大半を眠って過ごし、目が覚めているあいだも、夢と(うつつ)を行ったり来たりしているような状態だった。

 僕は、まだ誰にも何も聞かれていないのに、今の話をみんなに伝えた。

「でもひいお爺ちゃんは必ず帰ってくるから、心配しないでって言ってたよ」

 僕のその話に、最初に反応を示したのは母だった。

「あんた何言ってんの?」

 母は僕の額に手を当て、熱がないか確かめた。

 祖母は僕の顔をじっと見つめた。

 そのとき僕は、夢から覚めたように、唐突に思い出したのだ。

 曾祖父は、僕が生まれる前に亡くなっていたことを。

「ねえ三原さんて、あの、お父さんのお葬式のあと少しして亡くなった……」

 祖母が不安げな様子で口にすると、母が答えた。

「たしか、お爺ちゃんに会いに、時々うちにいらしてたわよね。わたし覚えてるわ。お爺ちゃんの戦友だった方でしょ?」

 僕が本来知るはずのない三原さんの名前を出したことで、僕の話は信憑性を増した。

 と同時に、それをどう解釈すればよいのかという戸惑いが室内に広がった。

「あのひとが……そう言ってたのね……?」

 そのとき曾祖母の声がして、みんながベッドの上に注目した。

 曾祖母は、半分夢を見ているような面持ちで僕にそう尋ねた。

 僕がはっきり「うん」と答えると、曾祖母はかすかに頷き、微笑んで言った。

「わかりました」

 曾祖母の、そのただ一言で、家の中の空気が落ち着きを取り戻したように感じた。

 すべて収まるところに収まるような、絶対的な安心感で満たされた。

 ああ大丈夫なんだと、僕もとてもほっとしたのを覚えている。


 そのあと、祖母と母と三人で、座敷にある仏壇に手を合わせた。

 僕がさっき昼寝をしていた、二間続きの座敷の一室だ。

 縁側からは気持ちのいいそよ風が入ってきて、ろうそくの火と線香の煙を揺らしていた。

 和服姿の曾祖父の遺影を、僕は見つめた。

 縁側で「和輝」と呼んでくれた曾祖父の優しい声と、皺のある大きな手を、僕はいつまでも覚えておこうと思った。

 曾祖父に会ったのは、この日が最初で最後だった。



「ママ、これってラップしてレンチン?」

 我が家のキッチンで、里帰り中の娘が妻に話しかけている。

 娘が子どもの頃、僕はこの話を聞かせたことがある。彼女は覚えているだろうか。

「ねえ、パパも食べる?」

 娘が僕にも聞いてくれたので、僕は「ああ、食べるよ」と返事をした。

 孫が生まれたら、その子にもいつか聞かせたい。

 その子がどう感じるかはわからないが、伝えておきたいと僕は思うのだ。

「パパ、はい」

 皿を手にキッチンから出てきた娘のおなかは、もうだいぶ大きい。

 娘も孫も、どうか無事でありますように、お守りください――

 曾祖父の顔を思い浮かべて、僕は祈った。



 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ