彼岸の客
彼岸のこの時期になると、ある出来事を必ず思い出す。
僕は、小さい頃に曾祖父と会ったことがある。
もう半世紀ほど前のことだ。
秋のお彼岸のその日、僕は母とともに祖母の家を訪れていた。
祖母の家は古い日本家屋で、庭に面して二間続きの座敷があった。
縁側があり、気持ちのいい風が吹き抜けていたのを覚えている。
清潔な畳に仰向けになった僕は、両腕をTの字に投げ出して昼寝をしていた。
すると、庭から誰かに声をかけられた気がした。
「ごめんください」
やはり誰かの声がする。男の人の声だった。
僕は眠くて、なかなか目が開けられなかった。
それでも起きなきゃと思って、無理やり体を起こすと、庭の枝折戸の外に知らないお爺さんが立っていた。
「ごめんください。三原と申しますが、入ってもよろしいですか」
僕が頷くと、お爺さんは縁側の近くまでやってきた。
ソフト帽を被り、きちんとネクタイを締めたお爺さんだった。
背筋がピンと伸びて、とても姿勢の良い人だった。
お爺さんは帽子をとり、僕に言った。
「お爺様は……いや、坊ちゃんからすればひいお爺様かもしれませんが、ご在宅でしょうか」
僕がそれに答えようとしたとき、座敷の奥から和服姿の曾祖父が現れた。
「三原君か。久しぶりだね」
三原さんは、曾祖父にお辞儀をした。
「ご無沙汰しております、平山中隊長殿」
「その呼び方はよしてくれ」
曾祖父に苦笑いされて、三原さんは黙って頭を下げた。
かつての大東亜戦争で、曾祖父は中隊長を務めた。
三原さんは当時の部下であり、戦友だった。
「近くまで来たものですから、もしやお会いできるかと思いまして」
「それはうれしいね。まあ、かけたまえ」
曾祖父と三原さんは、並んで縁側に座った。
お客さんが来たことを祖母に知らせなくてはと、僕は思ったはずだった。なのに不思議と僕は、曾祖父のそばに座ったまま動こうとしなかった。
「平山さん――」
三原さんは遠慮がちに曾祖父に尋ねた。
「沙都子さんには、あれから一度もお会いになっていないのですか」
曾祖父はその名を聞いても、何も答えなかった。
「これからわたしと行ってみませんか、沙都子さんのところへ」
三原さんそう言われて、曾祖父はようやく口をひらいた。
「馬鹿言っちゃいけないよ、三原君」
「しかし――」
「見たまえ。わたしはもうこの通り、ひ孫までいる歳だよ」
曾祖父はそう言って、僕の頭を撫でた。
「なあ和輝」
皺のある大きな手で撫でられて、僕が曾祖父を見上げると、曾祖父は僕を見て優しく笑っていた。
「和輝くんとおっしゃるのですね」
「そうだ。平和の和に、輝くと書く」
「いいお名前だ」
三原さんの言葉に曾祖父は「ああ」と頷き、言葉を続けた。
「同様に、沙都子さんにもご家族があるだろう。それを今更わたしが『初恋の人に会いにきました』などと、沙都子さんを困らせるだけだ」
「そうでしょうか」
「そうだとも」
「ですが……」
三原さんは諦めきれない様子だった。
「平山さん、これは過去への甘ったるい感傷ではありません。お互いが前に進むための区切りです」
「前に進むため?」
「中隊長殿、あなたはいつも我々に言っていたではないですか」
――前進!
曾祖父は遠くの戦場を眺めるような目をして、庭を見た。
僕は、どこかでかすかに、土を踏む大勢の靴音や銃声が聞こえた気がした。
「平山さん、沙都子さんは、もうすぐ亡くなります」
その言葉に、曾祖父は回想から戻り、三原さんを見た。
「お願いです、平山さん。もしも沙都子さんに思い残しがあれば、沙都子さんは永久に迷ってしまいます」
曾祖父は、少し怖い顔になって、じっと考え込んだ。
そしてゆっくりと僕を見ると、僕の肩に手を添えて言った。
「和輝、お爺ちゃんは、ちょっと出掛けてくる。でも必ず帰ってくるから、心配いらないよ。誰かに何か聞かれたら、そう伝えておくれ」
曾祖父が腰を上げると、三原さんも立ち上がって、僕に挨拶をした。
そうして、曾祖父は三原さんと連れ立って、枝折戸から出ていった。
僕は、すぐに奥の部屋へ走っていった。
そこには寝たきりの曾祖母と、それを世話する祖母と母がいた。
曾祖母は一日の大半を眠って過ごし、目が覚めているあいだも、夢と現を行ったり来たりしているような状態だった。
僕は、まだ誰にも何も聞かれていないのに、今の話をみんなに伝えた。
「でもひいお爺ちゃんは必ず帰ってくるから、心配しないでって言ってたよ」
僕のその話に、最初に反応を示したのは母だった。
「あんた何言ってんの?」
母は僕の額に手を当て、熱がないか確かめた。
祖母は僕の顔をじっと見つめた。
そのとき僕は、夢から覚めたように、唐突に思い出したのだ。
曾祖父は、僕が生まれる前に亡くなっていたことを。
「ねえ三原さんて、あの、お父さんのお葬式のあと少しして亡くなった……」
祖母が不安げな様子で口にすると、母が答えた。
「たしか、お爺ちゃんに会いに、時々うちにいらしてたわよね。わたし覚えてるわ。お爺ちゃんの戦友だった方でしょ?」
僕が本来知るはずのない三原さんの名前を出したことで、僕の話は信憑性を増した。
と同時に、それをどう解釈すればよいのかという戸惑いが室内に広がった。
「あのひとが……そう言ってたのね……?」
そのとき曾祖母の声がして、みんながベッドの上に注目した。
曾祖母は、半分夢を見ているような面持ちで僕にそう尋ねた。
僕がはっきり「うん」と答えると、曾祖母はかすかに頷き、微笑んで言った。
「わかりました」
曾祖母の、そのただ一言で、家の中の空気が落ち着きを取り戻したように感じた。
すべて収まるところに収まるような、絶対的な安心感で満たされた。
ああ大丈夫なんだと、僕もとてもほっとしたのを覚えている。
そのあと、祖母と母と三人で、座敷にある仏壇に手を合わせた。
僕がさっき昼寝をしていた、二間続きの座敷の一室だ。
縁側からは気持ちのいいそよ風が入ってきて、ろうそくの火と線香の煙を揺らしていた。
和服姿の曾祖父の遺影を、僕は見つめた。
縁側で「和輝」と呼んでくれた曾祖父の優しい声と、皺のある大きな手を、僕はいつまでも覚えておこうと思った。
曾祖父に会ったのは、この日が最初で最後だった。
「ママ、これってラップしてレンチン?」
我が家のキッチンで、里帰り中の娘が妻に話しかけている。
娘が子どもの頃、僕はこの話を聞かせたことがある。彼女は覚えているだろうか。
「ねえ、パパも食べる?」
娘が僕にも聞いてくれたので、僕は「ああ、食べるよ」と返事をした。
孫が生まれたら、その子にもいつか聞かせたい。
その子がどう感じるかはわからないが、伝えておきたいと僕は思うのだ。
「パパ、はい」
皿を手にキッチンから出てきた娘のおなかは、もうだいぶ大きい。
娘も孫も、どうか無事でありますように、お守りください――
曾祖父の顔を思い浮かべて、僕は祈った。