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王都の城壁が見え始めたのは、昼の手前だった。
遠目にも分かる灰色の石積みは、冬の空を受けてさらに冷たい色をしている。
リルトの城門とは比べ物にならない高さ。二度目だというのに圧迫感は健在だった。
馬車の窓から覗き込んだリオナは、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、人が多いね」
城門前の整列は、前に来たときよりも長い。
馬車は十数台、身なりの綺麗な騎馬隊、荷物を背負った商人。
色の整った一団もいれば、旅の埃をまとった隊商もいる。
青司は苦笑しながら窓から顔を少しだけ出した。
「まあ、祭事の季節でもないのにこの混み方なら、今回は中央の動きが多いんだろうな。貴族の狩猟会もあるって話しだしね」
騎士の一人――リルトから同行してきたビリーが手綱を掲げ、列の監督役へ声を届けた。
「リルト領領主家所轄より、第三騎士団への招聘案件! 通行証確認願う!」
その一声で城門担当の兵がぱっと態度を変えた。
ざわつく列の一部が動き、馬車が優先通行の案内路へと導かれていく。
リオナは目を瞬かせた。
「……前はあの列に並んだのに、なんだか悪いわ」
「今回は“呼ばれた側”だからね。呼んだ側が待たせる方が面倒だよ」
王都では肩書きや紹介状が何より早く門を開ける――前回の滞在で青司はそれを感じていた。
やがて通行証の確認が済み、馬車は城門を潜る。
石壁の影が一瞬だけ車内を暗くし、次の瞬間、喧噪と光が溢れた。
視界いっぱいに広がる王都の大通り。
色とりどりの外套、靴音、店の呼び込み、馬の蹄の乾いた音。
リルトと同じ冬だというのに、どこか肌を刺す空気が違う。
人の密度のせいか、風よりも匂いが先に届く。
焦げた肉の香り。
羊毛と薬草の匂い。
すれ違う人々の香水と墨の匂い。
リオナは肩をすくめ、青い瞳を落ち着かない様子で揺らした。
「うう……耳がざわざわする……」
青司は小声で言った。
「人混みはリオナの弱点だったな。ごめん、もう少しだから」
「……わかってる。悪いわけじゃないの。ただ、音が多いと落ち着かなくて」
ビリーが前方から声を投げた。
「先駆けで確認して参りました。第三騎士団は魔物討伐から戻られたばかりで、只今は後処理と報告書の整理に入っているそうです。部屋をご用意しておりますので、そちらでお待ちくださいとのことです」
「片付け中か。忙しい相手に悪いな……後片付けが一番大変だろうに」
青司は頭を掻く。
「セイジは片付け苦手だもんね」
リオナがふふっと笑みをうかべた。
からかうようでいて、どこか安心した空気が二人のあいだに漂う。
「……じゃあ帰ったら手伝ってくれよ」
「嫌よ、セイジの片付けは魔窟だもの」
リオナの尻尾が小さく揺れ、茶化す声音のわりに嬉しそうだった。
「軍の装備更新は、討伐明けのほうが都合が良いのです。破損や磨耗の程度もそのまま確認できますから」
ビリーは柔らかく補足するように言った。
「むしろ今こそ話を伺いたいのでしょう。お気になさらず」
馬車は王城の外郭へ向けて進んでいく。
城郭の外壁はさらに高く、門の前には槍と剣を帯びた騎士が立つ。
前回来たときより空気が固い。
だが、門の見張りの青年騎士はビリーを見ると即座に敬礼した。
「リルト領からの招聘案件、第三へ通す。控室は南棟三階を確保済みだ」
「助かります」
馬車はそのまま王城内の石畳を走り、所定の入口で停まった。
扉が開いた瞬間、冷え込んだ空気よりも先に、遠くの鉄靴の音が響いてくる。
青司は馬車から降り、王城を仰ぎ見た。
二度目でも慣れる気配はない。
緊張は薄れたが、畏れは健在だ。
ただ以前とは違うのは、自分の立場だ。
(今回は“説明しに来た”んじゃなく、“納めに来た”側だ)
たったそれだけで、見える世界の意味が変わる。
「セイジ、行きましょう」
リオナが外套の襟を押さえながら言った。
王城の中へ歩み始める二人を、ビリーが少しだけ誇らしげに見送った。
「では、案内いたします。応接室は温かくしておりますので、ご安心を」
第三騎士団の応接室へ向かう廊下は、冬の光が届く分厚い格子窓が続いている。
前を歩く案内の騎士が歩くたびに甲冑の音と革靴の音が重なり、王城特有の重たい静けさに吸い込まれていった。
魔物の討伐の片付けと聞いたためか、青司は鉄のにおいがしたような気がして、背中に泡立つものを感じていた。
そして青司はふと思った。
(クライヴさんは今、どの辺りだろうな)
王都の喧騒の中で、北へ向かう馬車の車輪音を思い浮かべる。
同じ冬でも、違う空気を吸っているのだろう。
それがなんとなく、心強くもあった。
◆
長い隊列が王都へ向かっていくのを遠く横目に見た日から、二日が過ぎた。その時は、あの隊列の中に雪獣の毛皮や魔石を積んだ馬車もあるのだろう、とクライヴはぼんやり思った。
馬車は変わらず北へ進んでいる。
外套の裏地に仕込んだ羊毛でも追いつかないほどの冷え込みで、吐いた息はすぐ白くほどけた。雪こそ降らないものの、空気は乾ききっており、頬をかすめる風は荒野の砂利のように刺さる。
「……雪になる前で助かったが、乾くな」
クライヴは小さく独り言を漏らし、揺れる馬車窓から遠くの丘陵を眺めた。
地肌の見える草原はすでに褐色に沈み、畑には刈り取った後の茎だけが並んでいる。
王都より北へ進むにつれ、景色の色合いも音も人の姿も、徐々に変わっていくのが分かる。
その日の夕刻、宿泊予定の宿場町へと馬車は入った。
馬蹄の音が石畳へ切り替わった瞬間、鼻先を掠める匂いにも明確な変化があった。
脂の匂い。燻製の匂い。乾いた獣皮、羊毛、油の染みた布。
王都の東から南にかけての湿った匂いとは違う、冬を越す土地の匂いだ。
通り沿いの商店では、もう冬商戦が始まっている。
店頭には大きな袋で積まれた キビエ(寒冷地穀物)、樽詰めの乾燥魚、塩に埋まった保存肉、ランプ用の油瓶。
油は南のオリーブではなく、北でとれる堅果と獣脂の混合らしく、ほのかに燻ったような色をしている。
その隣には、厚手の織物を扱う店がたくさんあった。
表は毛足のある防寒布、裏は綿と麻を重ねた二重仕立て。
手袋や帽子には雪獣の毛皮が縫いつけられ、胴着の襟は高く、釦も大ぶりな木製で手袋をしたまま留められるようになっている。
クライヴは歩きながら、人々の服装を観察した。
──リルトとは、あきらかに違う。
リルトの人間は厚い外套こそ着るが、基本は重ね着でやり過ごす。
対してここでは、生地そのものに断熱を求めていた。
外套は長く、裾がふくらはぎまである。
襟は立てて風を受け、肩には毛皮、足元には短いブーツではなく長靴。
色合いも王都のような染め布ではなく、灰茶や土色が多い。染料より耐久と保温が優先されているのだ。
「……南にとっての“冬服”は、ここにとっての“秋物”か」
商業人としての思考が自然に働く。
この違いは交易にそのまま直結する。
宿屋へ向かう途中、ふと目についた掲示板に足が止まった。
屋根の下に固定された板に、数多の紙片や木札が打ち付けられている。
狩猟組合の掲示板だ。
そこには獣害情報——
今年は麓の山で雪獣の出没が早いとか、子供連れでの森道通行を避けるべきだとか、免許制の罠狩りの告知が並んでいた。
リルトではまず見かけない種類の掲示だ。
そしてひときわ目を引いた一枚があった。
《グリフィン群討伐済。北への通行、本日より解禁》
宿場が北と南をつなぐ境界であることが、紙一枚で露呈している。
クライヴは思わず木札を指で押さえた。
北へ繋がる道が一本開くだけで、商いの流れは変わる。
「毛皮、脂、骨材……狩猟品が回っているのか。なら冬油の価格が王都より安いわけだ」
旅程は順調だ。
このままゆけば、あと三日で伯爵領に入れるはずだ。
宿に入る頃には、通りのランプに火が灯り始めていた。
「三騎団様のおかげで街道がようやく使えるな」
「ほんと、いつもありがたいことだ」
食堂では、商隊の男たちが第三騎士団を褒めちぎっていた。
店の灯りはぼんやりと油煙をあげ、空気にはかすかな獣脂の匂いがある。
それは“寒い土地の夜”の匂いだった。
◆
領主別邸は、市中の喧噪から少し離れた高台に建っていた。
冬の光を吸い込んだような白い壁面と深い松色の屋根。
門をくぐるだけで、街の寒さとは違う張り詰めた空気へ変わる。
応対に出た侍従に案内され、エリンと花婿、そしてクレスは長い回廊を進んだ。
花婿はリルト衛兵隊の制服をきちんと整え、緊張した面持ちで歩いている。
磨かれた石床の温もりは暖炉の熱によるものだろう。
小さく息を呑む音は、エリンが抑えようとしても抑えきれなかった緊張の証だった。
執務間の扉が開くと、領主フィオレルが机越しに彼らを迎えた。
背筋の通った青年貴族でありながら、その眼差しには余裕と計算の両方があった。
「ご苦労。そこまで改まらずとも良い。掛けなさい」
促され、三人は応接の椅子へ腰を下ろした。
まず礼を述べたのは花婿だった。
軍務で鍛えた声音は震えてはいなかったが、その肩はやはり強ばっている。
「領主様、お時間をいただき光栄に存じます。衛兵隊第三中隊所属、ロウルと申します。……本日は私事でありながら、このような機会を賜り恐縮です」
「衛兵隊ならば私の配下だ。遠慮する必要はない」
フィオレルの返しは短いが、そこで花婿側の立場に一段の正統性が置かれた。
次にクレスが静かに前へ出た。
「領主様。本日は、当商会にて務めておりますエリン嬢と、彼女の婚約者ロウル殿の婚礼についてご相談がございます」
「うむ、聞こう」
クレスは要点を崩さず並べた。
過剰な感情を混ぜず、しかし当事者の尊厳を削らない分量で。
——婚約は一年以上前に成立していたこと
——式の準備が遅れた理由は衛兵隊の忙しさによるもので、責は一方にないこと
——教会と小礼拝堂の日程調整が難航していること
——両家の面子を保ち礼を欠かない形に整えたいこと
説明は簡潔で、言外に“政治案件ではなく生活の案件である”と示している。
こうした区分をはっきりさせるのは、貴族との交渉ではもっとも重要な線引きだ。
フィオレルは途中で口を挟まなかった。
全てを聞き終え、ようやく椅子の背から少し身を起こした。
「結婚とは家の縁だ。個人の祝いであると同時に、家同士の証でもある。——ならば、商会と領主家が手を貸す価値は十分にあるな」
エリンは反射的に息を呑んだ。
政治用語めいた響きなのに、不思議と棘がなかった。
「教会へは私の名で書状を出そう。小礼拝堂も空きがあるはずだ。主教会が塞がっていても、不足はあるまい」
その一言で、式場の入り口が一気に開かれる。
続けて、フィオレルの視線が花婿へ向く。
「父君も衛兵隊の者だと聞いている。王都に客人が増える時期は負担も大きかっただろう。この件は責めるものではない。忙しさは領主の事情でもある」
花婿は深く頭を垂れた。
面子は、きれいに保たれた。
「では、婚期は——」
クレスが促すと、フィオレルは侍従に書簡簿を出させながら言う。
「私の予定と教会の空きを照らし合わせ、来月下旬の冬婚日で組めるはずだ。祝祭日ではない方が良い。招待客も動きやすい」
エリンは驚いた。
それは、彼女が憧れていた“冬婚”そのものの時期だった。
「……あの、その……ありがとうございます……!でも、本当にそのような……立派な扱いで……」
「領主庇護の式扱いにするだけだ。格式の話であって、贅沢は求めない。ただ、庇護を掲げる以上、式だけは立ち会わせてもらえるとありがたい。商会の娘があまりに質素に嫁ぐのは、かえって周りの目に悪かろう」
政治の言葉だが、棘はない。
正確には“面倒を避けてくれる優しさ”だった。
侍従が資料を持って戻ってきた頃、クレスがもう一つ切り出した。
「ドレスについては、仕立ての時間が厳しいかもしれません。領主家として推奨される仕立屋はありますか?」
「王都より一人、招致している。《ネヴィル》という仕立屋だ。王妃付きの職人の下にいたそうだ。冬婚ならば厚手素材に慣れた仕立屋が良い。価格は張るが、貸衣装も扱っている」
エリンは小さな声を漏らした。
「あの……本当に……そんな……」
「良いものを身につけることに恥じる必要はない。格式は一度きりで十分だ」
その声音には、冷たさではなく“慣れている者の淡々とした親切”があった。
面会の最後、フィオレルは結びとして言った。
「うまく進めば良い婚礼になるだろう。——家同士の面子も保たれ、教会も整い、商会も支持を示す。貴方たちは胸を張って進めば良い」
エリンは深く礼を取った。
帰る廊下で、花婿はようやく小さく息を吐いた。
「……政治って、こういうものなんだな」
その横でクレスは淡々と答えた。
「形式は硬くても、救いのある形にしていただけました。ちなみに、領主庇護といっても費用を領が持つわけではありません。式場の確保と格式の保証が庇護の本義です。費用は両家の負担で問題ありませんのでご安心を。これで両家も、市中も、誰も損をしません」
温度の違う優しさは、確かにそこにあった。




