98
夜明け前のリルトは冷え込んでいた。石畳に霧がまとわりつき、街路樹の枝先には小さな白い露が光っている。
クライヴは家の寝室で静かに上着を整えていた。王都服飾ギルド長・ダラスの紹介状、伯爵家の正式な招待状、そしてホヅミ商会から持参する美容品や化粧品、そして肌着──それらをどういう順番で収納するか頭の中で反芻しながら、手際よく荷をまとめてゆく。
暖炉の火は昨夜の名残だけが赤く残っていた。扉の向こうから控えめな足音が近づき、寝間着姿の妻が顔をのぞかせる。
「……起きてたの?」
「うん。荷を詰め始めれば、眠気なんて飛ぶさ」
クライヴは微笑みながら、革製の旅行鞄を閉じた。狩猟会は王国北部の伯爵領で行われる。王都よりさらに一週間以上も馬車で揺られる土地で、晩秋には初雪が舞うこともあるのだという。寒さを見越して厚手のコートと外套、それに防寒手袋も鞄に収めておく。
「北部はもう寒いでしょうね。伯爵家って王都よりもずいぶん北だったでしょう?」
「そうだな王都の北に馬車で一週間。……雪が降れば十日だ。凍ったら立ち往生するかもしれない。狩猟会といっても、実際は貴族たちの交流が本命らしい。縁談とか軍事演習とかな……下手に風邪なんてひいたら笑われるんだろうな」
妻は火の前に置かれた上衣を拾い、埃を払ってやる。
「あなたが笑われるなんて、まだ見たことないけど、貴族様のお相手は大変そうね」
「ギルドを辞めて商会に入ったんだ。これくらいで大変とは言ってられないさ。セイジさん達と一緒に、俺たち家族も幸せにならないとな」
そのやり取りを聞いていたのか、ととと、と小さな足音が廊下から近づき、四歳の息子が寝ぼけ眼をこすりながら立っていた。髪はくしゃくしゃ、頬はまだ温かい。
「とーちゃん……もう、いくの……?」
クライヴはしゃがんで息子の頬をそっと撫でた。
「まだだ。準備が終わったらな」
「いつ帰るの?」
クライヴは少し考えてから答えた。
「長くて三十日。雪が出たら四十日かもしれない」
息子は眉を寄せた。
四歳には、三十日も四十日も同じ“長い”でしかない。
「やだよ……とーちゃんと一緒にお風呂に入るんだから」
「そっか、とーちゃんも一緒に入りたいさ。ごめんな、仕事だからな」
息子は眉をぐしゃっと寄せ、両手で父の袖を掴んだ。
父は困ったように笑いながら、腕をひょいと持ち上げてぎゅっと抱き寄せる。
「いいか、騎士団が戦う時、鍛冶屋が剣を作るだろ?
商会も同じさ。貴族が集まる場所に、うちの品を持っていくんだ」
息子は難しい顔をして黙っていた。
クライヴは少し考えて言い換える。
「つまりな、とーちゃんが頑張ると、皆が嬉しくなるんだ。
そのかわり――帰ってきたら、一緒に風呂も入るし、甘い菓子も買ってくる」
「ほんと?」
「約束だ」
息子の眉間のしわが、少しだけ緩んだ。その小さな額に、クライヴは軽く唇を当てた。
「それに、今回は俺ひとりだ。とーちゃんはすぐに戻る。
だからその間、母さんを頼んだぞ。家の“騎士”がいないと困るからな」
息子はきょとんとしたあと、胸を張って大きく頷いた。
「ぼく、まもる! かあちゃん、ぼくがまもる!」
「よし、それでこそ。じゃあ約束だ」
妻がくすりと笑い、子どもの肩に手を乗せた。
「はいはい、勇ましい騎士様はもう寝るの。父さんは準備があるから」
息子は不満そうに唇を尖らせたが、寝室に戻り布団にもぐって目を閉じる。
その様子を見届けてから、妻は小さく息を吐き、夫へ視線を向けた。
「あんな約束して本当に大丈夫? 一週間以上も馬車移動だなんて……初めての事だから心配よ」
「ああ、息子との約束は守るさ。それに、今回は貴族相手の商談だ。ホヅミ商会が王都で存在感を持つなら、外せない。ダラス様の紹介状は重い。伯爵家の招待状なんて滅多に来ない。……セイジさんには言わないけどな、失敗はできない。俺としてはここで一つ掴まなきゃならん
そう言って上着を羽織り、ボタンを留めていく。
妻は彼の背中を見つめながら、そっと言った。
「あなたが頑張ってるのは知ってる。だから……帰ってくる時は、ちゃんと笑って帰ってきて」
「……ああ。ちゃんと笑って帰る。
それから向こうで商売の芽を掴んでくる」
その声は抑えていたが、妙に張りがある。
家族の前では余計な不安は見せたくないのだ。
やがて朝靄が晴れ、街に人の気配が戻り始める頃、クライヴは家族に見送られて玄関を出た。馬車が約束の時刻に合わせてやってくるまで、少し時間がある。彼はまずホヅミ商会へ向かうつもりだった。
商会の倉庫には、持参する品が既に整理されている。
シャンプーやコンディショナーなどの美容関連品、薬用リップや日焼け止め、化粧水や乳液といった基礎化粧品、そして開発されたばかりの新製品――ファンデーション。
さらに衣類では吸湿速乾の肌着。
どれも貴族女性の需要を見越した品目だ。
王都では既にシャンプー類や日用品の口コミが広がりはじめており、化粧品の波は遅れて次に来る。
北部にも、じき同じ潮流が届くはずだ。
(今回は“売る”ためじゃない。認知を取る。王都の貴族網に入る……セイジさんの品が、ただの噂ではなく“格式”として扱われる道を作る)
クライヴは息を吸い、肩の力を一つ抜いた。
そしてポツリと呟いた。
「……よし。狩猟会って名目だけど──俺の獲物は商機だ」
その言葉は冷たい朝空へ消えていった
◆
まだ陽が地平の上へ顔を出す前、リルトの街は薄青い空気に包まれていた。霧が石畳に薄く張り付き、人々の吐息さえも白い。
フィオレル邸から出された二台の馬車は、既に商会前に並んでいた。どちらにも領主家の紋章があり、それぞれに鎧姿の護衛騎士が四名ずつ立っている。鎖帷子の擦れる音が、静かな朝にだけかすかに響いていた。
青司とリオナが通りに姿を見せると、護衛の一人ビリーが頭を下げた。
「王都行きは準備完了です。王城の第三騎士団まで責任を持ってお送りします」
青司は軽く礼を返し、荷物を積み込む馬車の後ろ姿を見送った。ほどなくして、別の馬車の前でクライヴが鞄を肩にかけながら軽く手を振った。
「おはよう、二人とも。霧の朝は冷えるな」
「朝から元気ね、クライヴさん」
リオナが小さく笑う。
「……いや実は寝てない。緊張してな。貴族相手は胃に悪い」
「お互い様ですよ」
青司も苦笑して返した。
その背後の角から、クレスが歩いてくる。帳簿の端で手を拭きながら、三人を見渡した。
「馬車は予定どおりです。領主殿のご厚意、無駄にはできませんね」
クライヴは荷台に手を掛けながら問う。
「セイジさん達は王都までですね」
「俺とリオナは第三騎士団だ。……肌着が軍需扱いになって、医薬部門まで巻き込まれた」
「はは、相変わらず火種を拾ってきますね」
クライヴは一拍置いて頷く。
「じゃあルートは途中まで一緒ですね。王都から北へ折れる道がある」
リオナが馬車の扉に手を掛けたまま、クライヴを見上げた。
「北から来る風は痛いって聞いた。……気を付けて」
「気遣いに感謝。リオナさんらしいな」
クライヴは肩を竦める。
「俺の狩り場は森じゃなく貴族の社交場で、獲物は注文書だ」
青司は思わず吹き出した。
「じゃあ俺たちは軍人の機嫌を取りにいく。大差ないな」
朝露をはじく馬の嘶きが響き、騎士が声を上げる。
「出発の準備、整いました!」
三人はそれぞれの馬車に乗り込み、ゆっくりと城下を抜けていった。
石畳が土道に変わり、視界が開ける。東の空が金色に染まり始める頃には、街は背後に沈んでいた。
王都へ伸びる大街道は、やがて大きな分岐点を迎える。
右へ行けば王都、左は北部へ。
騎士が手綱を引き、速度を落とした。
「青司殿、ここで別れになります」
護衛騎士が告げた。
馬車の扉が開き、クライヴが降りてくる。朝の光が分岐の石標柱に当たり、白く光った。
「じゃあ、ここまでだな」
クライヴが青司へ手を伸ばす。
青司も馬車を降りてその手を握った。
握手というより、短い戦友の確認に近い。
「北部の伯爵相手はクライヴさんの領分です。王都は俺がやります」
「だったら戻る頃には商会の看板が重くなってるな。楽しみにしてる」
クライヴは次にリオナへ視線を向ける。
「セイジさんを頼みますね。王都の人混みは魔物より厄介でしょうから」
「……はい。わたし、ちゃんと護衛します」
リオナは笑いながら頷いた。
その様子を静かに眺めていたクレスが、歩み寄って息を整えた。
そして三人の間に立ち、深く腰を折った。
「ここに商機は分かれます。
北に獣、王都に軍──どちらも容易き相手ではございません。私は店舗を守ってお帰りをお待ちしております」
一拍ののち、クレスは商人の言葉で祈った。
「──御商運を」
それは誰より重い祝福だった。
クライヴは軽く笑い、荷物袋を担いで馬車に乗り込む。
「御商運を、ってのは便利なもんだな。言われると腹が据わる」
北部行きの馬車の車輪が軋み、左へ緩やかに曲がる。
その向こうには、朝の冷たい霧と遠い山脈があった。
「じゃあ、行ってくる!」
クライヴは馬車の窓から片手を上げた。
曳かれる蹄鉄が石を打ち、霧に吸われるように遠のいていった。
青司は小さく息を吐き、王都側の道を見る。
「……よし。俺たちも行こう」
リオナは頷き、馬車の扉を閉めた。
王都行きの馬車が進むにつれ、北へ向かった馬車の車輪音はすぐ聞こえなくなる。
二台の馬車を見送ったクレスがリルトの街へ帰っていった。
◆
朝の光が、リルトの街の石造りの家並みに斜めから差し込んでいた。
市場の方角では、いつも通り露店の布がばさばさと広げられ、果物の香りと人声が混ざる。
だが、ホヅミ商会の執務机では、エリンが腕を組んで難しい顔をしていた。
「……教会、予約……忘れていた……?」
昨晩、両家の顔合わせはつつがなく終わった。
婚約者の家族は礼儀正しい衛兵隊の家系で、父親は階級の低くない隊士、本人も街の巡回に入る若手。
穏やかで真面目、周囲の評判も悪くない。
ワイン商人であるエリンの父も満足そうに頷いていた。
——そこまでは良かった。
問題は、その帰り道で婚約者がぽろっとこぼした一言だった。
『あ、そういえば教会って……どこに申し込むんだっけ?』
その瞬間、エリンは目の前が真っ白になった。
王都では結婚式の予約は一年待ちも珍しくない。
リルトの街でも十二分に「忘れていました」で済む話ではない。
「顔合わせしておいて、教会の予約が無いなんて……そんな話あります……?」
エリンは机の上に置かれた赤い糸束を弄りながら、小さくうめいた。
婚約者は悪気があったわけではない。むしろ忙しさでパンクしていたのだ。
春から来訪貴族が増え、衛兵隊は昨年に比べてずいぶんと慌ただしくなっていた。
それもホヅミ商会の影響であることをエリンは理解している。
彼は日中は警備に駆り出され、夜は報告書と訓練。休日も遠征警護に当たることがある。
結婚式の段取りまで頭が回らなくても無理はなかった。
——とはいえ、それとこれとは話が別である。
そこへ、ノックの音がした。
「エリンさん、よろしいですか?」
「……クレスさん。入ってください」
扉を開けて入ってきたのは、商会店舗リオネの店長であり、商会全体を見渡す補佐として働くクレスだった。
細身の身体に淡い色の上着を羽織り、帳簿と書類を抱えている。
「顔合わせは無事終わったと聞きましたが……その表情は、祝いにしては少し曇っていますね」
「……その、教会の予約が……無かったんです」
「……は?」
クレスは一瞬動きを止め、それから目を細めて机に書類を置いた。
「それはつまり、式場が無いということですね?」
「そうなります……」
「いつ予定だったのですか?」
「来月に……冬婚の時に。王様とお妃様がされたあの冬婚と、一緒になるはずだったのに……」
クレスは思わず天を仰ぎ、小さく気を抜いた。
「はああぁぁ……」
珍しく大きな溜息だった。
「手段はあります。うちの商会は領主家の後見を受けております。ならば領主フィオレル様に、お二人の晴れの門出をお取りなし願うのが第一でしょう。確かお相手は衛兵隊でしたね? なら、なおさらです」
「そんな願い、聞いてもらえるんでしょうか……? 一衛兵のために動いてくれるんですか?」
「お相手が貴方だからです。ホヅミ商会は領主家にとっても大事な存在です。むしろ領主様も、こういう温かい題材は嫌いではないはずですよ。政治案件や商売の席より、よほど気が楽でしょう」
エリンはさらりと言い切られ、胸の奥の緊張が少しだけ和らいだ。
「では、教会は——」
「領主様に確認していただければ、街の主教会か、貴族用の小礼拝堂のどちらかを確保できるでしょう。披露宴はセイジさんたちが借りている領主別邸の庭か広間が空いているはずです。冬婚なら、深紅の“紅星花”も飾れます。星形の花苞が映えて綺麗ですよ」
想像すらしていなかった景色が一気に広がり、エリンは目を瞬かせた。
「あの……そんな大袈裟な場所で良いんでしょうか……?」
「大袈裟ではありませんよ。冬婚なら“紅星花”も映えますしね」
「紅星花……ですか?」
「冬の初めに星形の花苞をつける常緑低木です。寒気を浴びるほど葉が深紅に染まって、花のように見える。貴族の冬婚では教会の祭壇や披露宴の装飾に使われます。縁起物なんですよ」
「そんな……冬婚にぴったりの花があるなんて、知りませんでした」
「ええ。冬婚の象徴とも言われます。領主別邸なら庭にも植えられていますから、飾り付けに困りません」
エリンは息を呑んだ。
自分が思い描いていた“ささやかな式”とはまるで違う光景が胸に広がる。
「良いんですよ。ホヅミ商会は王都とのつながりもできてきていますし、領内でも評判です。領主家としても後押しする理由は十分です。こうした縁は、きちんと形にしておきたいものですから。半端な格式では、かえって見送りづらい」
そう言ったあと、クレスは書いた紙をエリンに渡した。
そこには《結婚準備チェックリスト》と題され——
【□式場(教会/礼拝堂)
□披露宴会場(領主別邸希望)
□ドレス(仕立屋)
□指輪(婚約者が用意済)
□司祭手配(領主経由で確認)
□招待客リスト(両家+商会・ギルド関係)
□料理手配(市内or領主厨房)
□音楽(吟遊詩人or教会合唱隊)
□費用計算(後日)】
と細かい項目が整然と並んでいた。
「……だいたい必要最低限はこれくらいでしょう。ドレスは用意されていますよね?最近、王都から来た仕立屋ネヴィルが売り込みに来ていましたが、今回は見送って…」
「わっ……! そうでした、ドレス……! 私も忙しくて完全に忘れてました……来月までに間に合うかしら……?」
「特急料金を払えば可能でしょうね。あとは貸し出し用のドレスがあるかどうか。ネヴィルはそういう“王都基準”を持ってそうですし」
エリンは頬を押さえ、情けないような笑みをこぼした。
「……私、人のこと言えませんね。ドレスって花嫁にとって一番大事なところなのに」
「忙しいと案外そういうものです。婚約者の方だけを責める必要はありませんよ」
エリンは小さく息を吐き、ぎゅっと手を組んだ。
「……そう言ってもらえると、救われます。ありがとうございます……けど、音楽もですか?」
「披露宴があるなら、ですね。静かな席も素敵ですが、場の空気を保つ役は必要です。吟遊詩人か、教会の合唱隊が候補でしょう。お二人の好み次第ですね」
「な、なるほど……」
「あと、仕事ですが……結婚準備中に店舗の帳簿と仕入れを両立するのは厳しいでしょう。そこでレオナルドへの一時引き継ぎ案を出しました」
「レオナルドに……?」
「はい。彼は商業ギルドで会計を学んでいるだけでなく、今は《リオネ》で実務経験も積んでいます。任せるには十分です。接客はティオにも経験させていますし、他のメンバーでも店舗は回せます」
エリンの肩から、ゆっくり力が抜けた。
「……助かります。本当に……助かります……」
「いえ。商会のためにも、エリンさんの人生のためにも必要な処置ですから」
そう言ったあとクレスはふっと笑った。
「指輪が用意されているなら、あとは晴れの日を迎えるだけですよ」
その言葉は思いのほか胸に響いた。
エリンは頬が少し熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「……はい。頑張ります」
そこへ店の扉が開き、ルーカスの声がした。
「クレスさーん、開店時間だよー!」
エリンは思わず顔を上げ、笑みを浮かべた。
式場もドレスも決まっていない、披露宴も未定、書類は山積み。
忙しさは今日も変わらない。
だが、肩に乗っていた重さは、いくらか軽くなっていた。




