97
西日が斜めに差し込み、机の上に金色の線を引いていた。
一階の店は夕方の客が途切れ、棚を整える音だけが微かに響く。
二階の執務室では、青司とクレスが帳簿と在庫表を突き合わせていた。
秋冬商品の動きや仕入れ表に印をつける時間帯だ。
「……化粧水はこの調子なら追加かな」
「そうですね。美容系と化粧系は冬婚で伸びそうですよね。備品も念のため増やしておきましょう」
リオナは湯を沸かし、静かに三人分のカップを並べた。
こういう時間は静かで、少しだけ家に似ている。
青司が帳簿を閉じて椅子を引いた、その時だった。
――コン、コン。
扉を叩く音。
「失礼します……」
入ってきたクライヴは、珍しく表情に余裕がなかった。
片手には封蝋で固められた厚い手紙が二通。
夕陽の中で、その封は妙に重たく見えた。
そして珍しく、笑わなかった。
青司が眉を上げる。
「……それは、なんです?」
クライヴは無言のまま、机の上に置いた。
ひとつは赤い封蝋に貴族家の紋章。
もうひとつは上質な白い便箋――端に「D」の押印。
クレスは反射的にそれを見るなり、短い息を飲んだ。
「……ダラス様か」
クライヴは肩をすとんと落とした。
「読みましたよ。読んだので言わせて頂きますけど……無理じゃないでしょうか?」
青司は椅子に座り直し、静かに言う。
「説明してくれないと」
クライヴはまず白い便箋を指で押した。
「王都服飾ギルド長のダラス様から。“その後の身嗜み指導が功を奏しているようで安心した。ルンドヴァル伯が開催する冬の狩猟会があるから、ご挨拶に出てこないか”って」
青司が瞬きを一つした。
「狩猟会……?」
クレスが低く言う。
「北部の社交場ですね。服飾ギルド長がこういう紹介状を出す時点で、もう正式扱いです」
クライヴは次に赤い封を押し出した。
「で、ルンドヴァル伯爵夫人からの招待状。ダラス様の紹介状と同封で届います。しかも、フィオレル様経由ですよ」
クレスは封の紋章をじっと見た。
「……これは断れません。というか、断る選択肢が送られてきてない。日時も場所も指定されています」
青司は半分呆れる。
「それ、いつの話なんだ?」
「三週間後。冬の入りを告げる狩猟会。開催地は伯爵領の外苑」
青司は喉の奥で小さく呻く。
「……本気じゃん」
クライヴは額に手を当てた。
「いや、だから言ってるでしょう……? 無理なんだですよ、これ……!
身分的にも、経験的にも、商会的にも、色々と!」
そこでクレスが淡々と切り返す。
「違う。これは“商会宛”だ」
クライヴは目を瞬かせた。
「……え?」
「個人じゃない。“ホヅミ商会代表として来い”って話です」
クライヴは手紙をもう一度見た。
宛名には確かに――
“ホヅミ商会殿”
とある。
青司は顎に手を当てた。
「……ってことは、うちの誰かが行く必要があるってことか」
「商談になる。社交も入る。ダラス様と伯爵夫人って時点で、繋がりを作れって遠回しに言ってるようなものだ」
クライヴが両手を上げる。
「で? 誰が? 私? いや私でもいいですけど!
でも私、まだ言葉遣いも身嗜みもダラス様の矯正中ですよ!?
歩き方にまで口出されてますよ!?
シャツのアイロンとか、ネクタイの色合わせまで本当に細かいですよ!?」
青司とクレスが同時に瞬きした。
「アイロンって……」
「色まで……?」
クライヴは沈痛な顔で言う。
「いや、貴族の前に出るってそういうことなんですって……ほんとに……」
しばらく沈黙が落ちた。
そこでクライヴが息を吐いて、ほんの少し声を落とした。
「……セイジさん。商会が王都に出るなら、ここ絶対避けて通れないんですよ。
でも私一人じゃ判断できない。
だから相談したかった」
青司は静かに頷いた。
「わかった。検討はする」
そこでクライヴはさらに追い打ちのように言う。
「……あともう一個あります」
「まだあるのか」
「第三騎士団の件。肌着と装備、工房が仕上げてきています。来週末までに納品予定なんです」
クレスが帳簿の束をめくり、確認する。
「間違いないですね。第三騎士団は既に代金の前金を入れている。納品遅延は絶対にまずい」
青司は頭を抱えた。
「狩猟会三週間後、納品は来週……」
クライヴは頭をガシガシかく。
「第三騎士団には誰が行きます……狩猟会に参加するなら私は無理ですね……?」
クレスは腕を組んで考えたあと、淡々と結論を言った。
「第三騎士団へは、セイジさんしかいませんね」
青司は「え?」という顔で固まる。
そこへクレスが、当たり前のように続けた。
「リオナさんも同行してください」
「えっ!?」と驚いて声が重なる。
青司は椅子を少し引き、目を丸くした。
「俺とリオナが?」
リオナも尻尾を逆立てんばかりに驚いた。
「わ、わたしっ!?な、なんでわたし!?」
クレスは指先で机を軽く叩く。
「以前の報告では、オズワルド団長はリオナさんのことを気にかけておられたと。……礼儀のある方ですし、無茶振りはされないでしょう。むしろ団長の方が礼を尽くしてくると思います。」
リオナは一瞬固まり、頬に赤みをさした。
「そ、そんなこと……ありました……かね……?」
(確かに気にしてくれる言葉はあった、と青司は心の中で思う)
そして青司の胸に、別種の焦りがかすめる。
(……副隊長のレオンさんも、礼儀正しくて印象が良かったし……いや、そういう問題じゃない)
クライヴが小さく笑った。
「貴族相手より騎士団の方がセイジさん向きかもしれませんよ。
向こうは実用主義だから、理屈の方が強い」
青司はしばらく考え込んでから、静かに頷いた。
「……わかった。第三騎士団は俺が行くよ」
クライヴは頭を軽く押さえながら言った。
「すいません……本当に助かります……。私は……どうにかダラス様と伯爵夫人の方を何とかしますので。
一応、王都に出る前にフィオレル様のところに報告をしてください」
クレスは納得したように頷く。
「役割が分かれたなら動けますね。私は店舗の方を切り盛りしますから」
そして紙を閉じながら言った。
「商会は忙しさの形が変わってきたな」
青司は窓の外に目をやる。
晩秋の風が街路の葉を揺らしていた。
(森に籠もって薬草煮てた頃と……ずいぶん違う)
そんな感慨が胸をよぎる。
クライヴは封筒を握り直し、ゆっくり息を吐いた。
「……よし。狩猟会の準備、始めないと……ここが境目ですからね。やるしかありません」
その声には、緊張と、ほんの少しの誇りが混じっていた。
◆
晩秋の風は冷たく、落ち葉を踏む音がよく響いた。
リルト領主邸に向かう時は、いつも少しだけ胃が固くなる。
貴族の屋敷は広いし静かで、商会とはまるで別の空気があるからだ。
門番に呼び止められ、用件を告げる。
すぐに通されたあたり、どうやら連絡は早く回っているらしい。
案内の騎士に従って歩く廊下は磨かれていて、足音が控えめに響いた。
青司は心の中で小さく息を吐いた。
(王城ほどじゃないが……リルトでもやっぱり緊張するな)
執務室の前でノックがされ、扉が開かれた。
「失礼します」
「――セイジ殿か。掛けなさい」
フィオレル子爵は相変わらず穏やかな声だった。
だが机の上には軍務用の書状が二、三枚積まれている。
領主というより、軍の指揮官の顔をしていた。
「突然の訪問、失礼します。第三騎士団向けの肌着と装備の納品準備が整いましたので、その報告に来ました」
青司が本題を告げると、フィオレルは軽く目を細めた。
「――そうか。第三騎士団からもせっつかれていたところだ。渡りに船だよ」
そう言って椅子に背を預けると、フィオレルは少しだけ口元を歪めて付け足した。
「実のところな、オズワルド侯爵から強く言われたのだ。“肌着は軍が優先だ。寒さが深まれば命に関わる”とな」
青司は思わず姿勢を正した。
(……そういう扱いか。生活用品じゃなくて装備の一部ってわけだ)
軍の冬装備は命に直結する。
たとえ肌着でも、それが性能品なら“軍需”になる。
「第三騎士団は盗賊と魔物、そして街道の治安維持を担う。近衛の第一や王城警備の第二騎士団と違って、外に出て動くことが多いからな」
フィオレルは指で机を軽く叩きながら続ける。
「オズワルド様は騎士に求める規律は厳しいが、守れる兵の命は優先して采配する。そのあたり、あの御仁らしい」
(……なるほど)
青司の中で、第三騎士団長の印象が少し変わる。
そこで青司は、持ってきた小箱を机に置いた。
「その件です。手土産に、傷回復薬を持っていこうと思っています。血の補充まではできませんが、裂傷と打撲の治癒を早めます」
フィオレルの眉がわずかに上がった。
「……それは軍需品扱いになる可能性があるな」
「え?」
「軍は“命を救う道具”をすぐに編入したがる。特に秋は貴族の狩猟もあって薬の需要が高い。薬は武器にも匹敵するとされる」
青司は思わず固まった。
(そういう発想……俺にはなかったな)
薬は薬、くらいにしか考えていなかった。
フィオレルは指先を組み、少し声を落として言った。
「――そこで提案だ。医療薬品については、フィオレル子爵家医薬部門との共同名義にしないか」
「……共同名義?」
「軍需編入を避けられる。“領地資産”扱いになり、軍は勝手に接収できなくなる」
青司は言葉を失った。
(そんな防衛ラインがあるのか……)
フィオレルは淡々と続ける。
「医薬は利権の渦だ。扱いを誤れば、軍か王城か中央ギルドに吸われる。
だが安心しろ。リルト商業ギルドはホヅミ商会の保証人みたいなものだ。中央や軍が横から手を出しづらい。
さらに、私が後ろに立っているのだ……王城にさえ簡単には口を出させんよ」
青司の胸に、じんわりと熱いものが乗った。
自分の商会が小さな頃は、考えもしなかった視点だ。
「……ありがとうございます。本当に助かります」
フィオレルは笑った。
「君が作るものは命を救う。それゆえに奪われやすい。だから私が壁になる」
その笑みは、どこか誇らしげでもあった。
そこでフィオレルが、机の端に置かれた別の書類を指で叩いた。
「そういえば、美容品の件だがな。王城の女官達の窓口が、第三騎士団から私のところに移った」
青司は目を瞬かせた。
「……女官の、ですか?」
「そうだ。どうやらオズワルド殿は女官達に囲まれて疲弊なさったらしい。あの男は軍人であって商人ではないからな。ただ、肌着は軍が優先と念を押されたけどな」
(ああ……なんか想像つく……)
青司は曖昧に頷いた。
フィオレルは愉快そうに肩をすくめた。
「代わりに、こちらに要望と注文と礼状が山のように届いている。仕事が増えたぞ、まったく」
言葉こそ愚痴だが、顔は笑っていた。
(……多分、ダラスさんとクライヴのあのラインがつながったんだな)
青司は気付いていた。
王都服飾ギルド長ダラス
→ 女官
→ 第三騎士団
→ 領主フィオレル
この線は偶然ではない。
「いいか、セイジ殿。王城に“穏やかに入り込む”には、女官と医療だ。どちらも貴族以上に影響力がある」
フィオレルは笑みを深め、最後に言った。
「それと狩猟会の招待が来ていたな。あれはダラスの用意した、王都への“別口”だ。
――商会はもはや小さな店ではない。自覚して動くといい」
青司は静かに頷いた。
(……そうか。もうそういう段階なんだな)
森で薬草を煮ていた頃から、確かに遠くまで来た。
「第三騎士団への納品は問題ない。
薬は子爵家医薬部門との共同名義とし、領地資産として医薬部門から給付という形にする文書を付けよう」
「ありがとうございます」
「うむ。……それと、女官達の追加分だがな――」
そこからは見積もりと納期と単価、顧客管理の話になった。
帰る頃には空は紫に染まっていて、馬車の音がゆっくり遠のいていた。
(狩猟会、第三騎士団、女官、薬、軍需……)
世界は青司の肩の上に確かに広がり始めている。
フィオレル邸を振り返りながら、青司は小さく息を吐いた。
(……クライヴの苦労、ちょっとわかった気がするな)




