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朝の薄光が窓から差し込み、家の奥の作業台だけを照らしていた。
青司は木のボウルに小さく切った芋を入れ、魔導刻印のついた石製の鉢に流し込む。
「――澱粉抽出」
低く呟く。
指先から立ちのぼった蒼白い魔力が、芋を包み込むようにして渦を巻いた。
きしり、と空気が震え、芋は瞬く間に溶けて白濁の液となり、石の表面だけが淡く光を放つ。
光が収まると、中には澱粉だけが綺麗に沈殿し、余分な繊維質は気化して抜け落ちていた。
「よし……ここまでは問題なし」
青司は沈殿した澱粉を布袋に移し替え、陽の差す窓辺で乾かす。
続いて、小さな乳鉢に茶色がかった種油を注ぎ、保湿のある草を数種入れる。
手慣れた動きで乳棒を取ると、魔力紋のラインが腕に浮かび、青白く脈動した。
「――浸出、抽精」
言葉と共に鉢の中が震え、草の繊維がほどけ、油に淡い緑が溶け出していく。
一瞬のうちに、草から水分だけが白い煙のように抜け、澄んだ植物油に保湿成分が落ちて沈殿する。
青司はその沈殿を匙で取り、先ほど乾かした澱粉と混ぜる。
さらさらとした粉が徐々に柔らかく、肌に馴染む滑らかな膏へと変化していく。
「……ファンデーションの第一段階、完成」
それは粉ではなく、練粉と乳液の中間のような質感だった。
青司は手の甲に乗せ、指で伸ばす。
――淡く色が馴染み、肌が滑らかに見える。
青司は思わず息を吐いた。
「肌の凹凸が薄くなる……きめは悪くないな。後は色と持続か」
その日の昼まで、青司は色調の調整や香りの緩和を繰り返した。
◆
次の日も同じような光景が続いたが、この日は赤みを作る調合だった。
青司は陽の光を遮るため窓を半分閉め、真紅の花弁や山林で採った小さな果実を乳鉢に入れた。
そこに蒸留水と澱粉を加え、手早く攪拌する……が、ただ混ぜるだけではない。
「――抽色、定着、析出!」
青司の掌から稲妻のような魔力が走り、乳鉢の中に刻まれた錬金術式が一瞬だけ赤く光る。
瞬間、花弁は色素だけを残して透明な薄片へと変わり、果汁も色だけを澄んだ結晶状に固まって底へ沈んだ。
青司はその結晶をすくい取り、乾燥した澱粉と保湿成分の薄油を混ぜ合わせる。
淡い桜色の粉末が、指で乗せるとすっと頬に溶けるように色づいた。
「……これなら、顔色の悪さも消えるな。エリンの結婚式には良いかもしれない」
独り言を呟きながら、青司は満足そうに表情を緩めた。
◆
三日目。
眉描きの色素だ。
青司は黒に近い、濃い褐色の樹皮を刻んで乳鉢に落とす。
タンニンに似た成分が多く含まれたそれは、通常なら日に晒して煮出して、数日かかる工程だ。
だが青司は、魔力でそれを一気に進める。
「――抽出工程、時間加速。加熱、分離、濃縮」
魔術式が乳鉢を中心に展開し、周囲の空気が一瞬止まったかのように沈む。
次の瞬間、中の液体がものの数秒で煮立ち、色素だけが干からびた塊となって底に残る。
それは炭のように黒く、粉にすれば滑らかで描きやすい。
「……よし。粉にして蜜蝋で固めれば使いやすいはずだ」
青司はふっと息をつき、ひとまず棚に並べた――
ちょうど、その時だった。
◆
ガチャ、と扉が開き、冷たい空気と獣の匂いが流れ込んだ。
リオナが大きな鹿の後脚を片手で引きずりながら顔を出した。
「ただいまー……って、うわ見事に散らかってるわね」
床には乾いた草葉、瓶の蓋、紙片。
作業台には乳鉢が三つ、乾燥中の草が五束、ついでに芋の皮まである。
リオナは鹿を壁際に立てかけながら、眉をひそめた。
「セイジ。街の時は他の人が片付けてくれてたんだろうけど……これは片付けないとダメだよ?」
青司は手を止め、申し訳なさそうに振り返った。
「……思ったより広がってたか?」
「うん、だいぶね」
「悪い。次から気をつける」
そう言いつつ青司は袖をまくり、瓶や草束を手早くまとめ始める。
リオナは少しだけ目元を緩めながら、外へ引き返した。
「まあ……成果出てるなら、いいわよ。仕方ないわね」
ぽつりと呟きながら、彼女は鹿の後脚を小屋の裏手へ引いていく。
その足元にはすでに血汚れはない。
青司は扉越しに声をかけた。
「……解体、ここでするのか?」
「ううん。もう森で済ませてきたわ。心臓も埋めてきたし」
「……埋めた?」
「命は森に還すの。心臓は大地へ。他の内臓は肉食獣の分。前に話したでしょ?」
乾いた声でそう言ったが、どこか神聖さを帯びていた。
何かの教義ではなく、もっとずっと前から続く狩人たちの流儀だと以前聞いたことを思い出した。
裏手の木枠に鹿の後脚を吊り、リオナは皮の端をつまんでナイフを滑らせる。
刃は迷わず、無駄なく、肉と皮の境目を断ち切っていく。
街暮らしを挟んだとは思えないほど潔い動作だった。
風に乗って乾いた葉が転がる。鹿の皮はたちまち剥がれ、筋を断ち、骨を外す音が淡々と続く。
しばらくして、青司が横に来て水桶と石鹸を差し出した。
「手、洗うだろ」
「ありがと」
リオナは顔を上げ、ふっと微笑んだ。
血がついた指先を洗いながら、ちらりと家の中を見る。
「ねぇセイジ」
「ん?」
「本当に散らかってるけど、楽しそうな散らかり方だね」
青司は少し照れたように鼻の頭を掻いた。
「まあ……錬金が乗ると、つい、こうなる」
「そっか。……じゃあ今日は許してあげる」
リオナはそう締めて、鹿肉の山と皮をまとめ、保存肉づくりに取りかかった。
手際よく余分な脂を落とし、肉を切り分け、塩をすり込む。
街にいた間は皆が代わりにやってくれていた仕事。
でも、リオナの狩人としての腕は、全く錆びていないどころか健在そのものだった。
「保存は後でやるから、とりあえず脚一本だけ炙ろうか?」
「賛成だ。狩りの成功に感謝だな。片付けは食べてからにするか」
青司は焚き火台を用意し、リオナは肉に少し塩を振る。
火が赤くなり、脂が落ちて煙が上がる。
しばらくして、肉の表面が焼ける匂いに、二人はほぼ同時に喉を鳴らした。
「……やっぱ、うんまい」
「狩りたてだもの」
リオナは笑いながら骨にかぶりつく。
青司も頬に赤みを帯びさせながら、噛みしめる。
鹿肉を噛むたび、リオナの耳が少し動く。
それが青司には、たまらなく愛らしく見えた。
ランプの火が揺らいでいた。
調薬の瓶がラックに並び、干した草が天井から揺れ、鹿肉の香りが家に満ちる。
「……街にいても狩りの腕は落ちてないな」
「そりゃね」
胸を張って笑うリオナに、青司も思わず笑った。
*******
【王都・第三騎士団】
秋の夜風が冷え始めた頃――
――王都、衛兵区画のさらに奥。
軍用倉庫と訓練場が広がる第三騎士団の駐屯地は、秋の空気の中でざわついていた。
槍が立てかけられる音、馬のいななき、鍛え直しの鎖帷子が擦れあう金属音。
だがその中心――倉庫前には、重い溜息がひとつ落ちていた。
「……また不足だ。包帯も薬用油も」
衛生官リュートは帳簿を抱えたまま、倉庫棚の隙間を眺めて肩を落とした。
棚には傷薬瓶の空き箱が積まれ、包帯は細巻きが数本だけ。他は茶色の紙ラベルが虚しく揺れている。
ちょうどそこに、革ブーツの重い足音が近づいてきた。
「リュート、また在庫の愚痴か?」
声の主は副隊長レオン。
蒼銀の肩章が陽に反射し、剣の柄には無駄のない飾り。
彼は視線を棚に走らせ、渋い顔をした。
「……想像以上だな」
「はい。秋の討伐は増えますし、遠征も多いし……加えて、今週から貴族方の“狩猟会”じゃないですか」
「狩猟会か。あれも毎年怪我人出るからな……」
レオンは額を指で押さえた。
「それにあちらは“名門医師”を抱えている。だが、我々はそうもいきません」
リュートは俯きながら帳簿を示した。
「包帯の洗い替えはギリギリ回りますが、消毒用の酒精も底です。
ましてや傷薬となると……“秋は不足がち”では済みません」
レオンは棚を手で払い、白い粉の跡を指先に付けた。
「……包帯の端だ。使い切るまで繋ぎ合わせたな。
去年の不足の補填はどうした?」
「……街の薬屋から買い付けました。貴族用の良い薬は王都行きで、軍用には回りにくいので」
「貴族優先か……この国らしいが」
レオンが小さく吐き捨てた時、背後から低い声が響いた。
「不足の話は聞こえたぞ」
二人が振り返ると、そこには漆黒の外套を羽織った団長・オズワルド侯爵が立っていた。
鋼のような目をしているが声は静かだ。
「衛生物資の不足、今年も変わらんか」
「団長、申し訳ありません。今年は特に顕著で……」
「戦や討伐では物資が兵を守る。剣よりもな。
包帯も傷薬も無ければ、兵は死ぬ」
そう告げる声音に、誇張も怒りもない。
ただの事実だった。
オズワルドは倉庫の棚を一通り目で追い、最後にリュートへ視線を戻した。
「王都は狩猟会で貴族が競う季節だ。
豪奢な衣装の裏で毎年、転落や誤射や馬落ちで骨を折る。
王都医術院はそちらに手を取られ、軍への供給は後回しになる」
それは嘆きではなく、仕組みを理解した者の言葉だった。
「軍医の数を増やせればよいが……薬はどうにもならん。教会から祈りの力を借りたいが、軍付きというわけにもいかんしな」
沈黙が落ちた。
秋風が倉庫入口の幕を揺らす。
レオンが静かに言った。
「……補填はどうしますか?」
オズワルドは短く答えた。
「買える分は買う。無ければ作る者を探せ。
貴族が戯れている間に兵が死ぬなど愚かだ」
その言葉にリュートが小さく息を呑む。
「作れる者……など、どこに……」
レオンは目を細める。
「街に“妙な薬屋崩れ”が増えたと聞くがな。
商会の連中が噂していた。
傷口の治りが良い薬が出回ってる、と」
リュートは驚いたように瞬いた。
「本当ですか? ……王都の医術院製ではなく?」
「ではないらしい。出所不明だ。我が家でも、手を尽くして出所を探している」
その一言が、静かに残った。
オズワルドは外套を翻し、去り際にだけ言葉を落とした。
「本当に効くものなら、出自は問わん。
戦で必要なのは“薬の家柄”ではなく“生存率”だ」
そう言い残し、団長は演習場へ向かった。
残された二人は帳簿に視線を落とし、同じ溜息を吐いた。
「……傷薬が手に入れば、それだけで秋は楽になるのに」
「狩猟会も遠征も重なる季節ですからね……」
リュートは小声で呟いた。
「――今年も不足しそうだ」
その言葉は、倉庫の静けさに染み込んで消えていった。
**************
リオナが鹿を捌き終え、最後にナイフを拭って鞘に収めると、青司の片付けはまだ途中だった。
作業台の上には粉の付いた小瓶、刷毛、陶器皿、色の違う土の塊。
床には紙片と草葉と芋の皮。
そこに薄い夕光が差し込み、散らかり具合を容赦なく照らしている。
リオナは手を洗い、風で乾かしてから青司の横に立った。
「……顔に付けるやつ?」
青司は刷毛を瓶に戻しながらうなずいた。
「うん。粉を細かくして油でまとめて……まあ基礎はできた」
そう言いながら、指先の甲に試作品をちょんと塗る。リオナはそれを覗き込み、目を瞬かせた。
「色が綺麗ね……」
「澱粉と油の配合が合ったんだろうな。
あと……眉のやつと、ほっぺに塗るやつと」
「……全部仕上がったの?」
「……ようやくだな」
青司が棚を見やると、陶器皿がずらりと並んでいる。
リオナは小さく笑った。
「ふふ……セイジらしいね」
「悪かったな。散らかして」
「そうじゃなくて、なんだか、頑張った跡って感じがして好きだなって」
さらりと言ってから、リオナは自分で言った言葉に頬が熱くなるのを感じた。
(……“好き”って言っちゃった……いや、別に……物の話だし……)
しかし青司は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
けれど顔は見せずに、瓶を箱にまとめながら低く答えた。
「……そう言われると、悪くない」
片付けは二人でやると早い。
リオナは床の紙を集め、青司は瓶の口を布で拭き、棚に戻す。
作業の音だけが続くうち、ふとリオナが口を開いた。
「……ねえ、セイジ」
「ん?」
「その……色、合うかどうか試さないと、だよね」
言いながら視線を逸らす。
青司はきょとんとしてから、少し遅れて意味を理解する。
「……顔に塗ってみるってことか?」
リオナはこくりと頷いた。
「狩りばかりで……身なりとか、疎いけど……
見られて困るのは、セイジじゃないし、エリンさんに渡す前に試した方が良いでしょ?」
そう言いつつ、リオナの声はほんの少しだけ小さくなっていた。
その理屈はどこか間違っていて、
でも青司の胸のどこかに真っすぐ刺さる。
(……俺が見るのか)
喉の奥が妙に乾く。
けれど断る理由もなく、そもそも断きれない。
青司は試作の粉を指に取り、すこしだけ刷毛に移した。
「じゃあ……動かないで。粉が落ちる」
リオナは椅子に腰掛け、背筋を伸ばした。
青司が近づく。
距離は手の甲ひとつ分。
リオナの睫毛が光を受けて揺れる。
頬に、そっと刷毛が触れた。
リオナはびくっと肩をすくめた。
「ひゃっ……」
「動くなって言っただろ」
言いながらも、青司の手元は優しい。
粉が薄く肌に馴染んでいく。
間近で見るリオナの頬は、狩人らしく白い肌が日やけして健康的で、血色の良さまでわかってしまう距離だった。
そして——青司は気づく。
(……近すぎる)
しかし離れる理由も見つからない。
ただ、続ける。
眉に淡い影を入れると、
リオナは小さく息を呑んだ。
「……なんだか、変な感じ」
「嫌か?」
「……嫌じゃ、ないわよ」
強がりでもなく、媚びでもなく、
ただ正直な声。
青司は刷毛を置き、
数歩下がって眺めた。
「……全然、違和感ないな。
上出来だと思う」
リオナは頬に手を当てた。
「……あの。見ても、いい?」
青司は木枠の鏡を渡した。
リオナは覗き込み、少し目を丸くする。
「……なんか、やわらかく、なった?」
「元の顔がそうなんだろ」
青司は淡々と返したつもりだったが、
リオナは一瞬固まってから顔を赤くした。
「……や、やわらか……?」
「表情が。
眉が薄いといつも凛々しいけど、今は……柔らかい」
説明すればするほど、
部屋の温度が上がるような気がした。
リオナは鏡を胸に抱えたまま、
視線を落としてぼそりと言う。
「セイジにそう言われると……嬉しい、わよ」
外は夕暮れ。
家の中は散らかったままなのに、
小さな沈黙だけが良い匂いをしていた。
――こうして数日は過ぎていった。




