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リルトの役所の玄関から、三人の役人が出てきた。
紺色の外套をまとった書記官、会計参事の副官、そして理容組合の書状持ち。
「……では現地確認へ。記録と実地が一致するか確かめる」
と副官が短く言い、ホヅミ商会へ向かった。
⸻
ホヅミ商会の一階リオネの店舗裏では、朝から木箱の山が積まれていた。
配達に来ていた運送ギルドの男たちの顔は疲労と熱気で赤い。
「次、ラヴィーヌさんへ三箱。薬用リップの薬草追加。あと匂い袋も十」
「ういっす!」
「こっちは王都向けの箱、紐は二重。雨濡れ厳禁です」
「王都!? また王都かよ……なんでリルト経由なんだよ……」
「経由じゃないんですよ。うちが発送元だから」
笑いながら答えた青司は、ちょうど視察組と鉢合わせた。
「失礼、ホヅミ商会様でよろしいか」
青司が驚いた顔を向けると、副官は手帳を開いた。
「市政より命で、供給品目の確認に参りました。
髪洗浄剤、薬用リップ、バス用品、日焼け止め……ここで製造又は加工されていると記録にありまして」
「……製造と加工は、それぞれの工房にお願いしています。うちは検品してから必要な店舗に発送するか、店舗で販売といった感じで」
青司は作業手を止めずに質問に答えていく。
副官は淡々と記録、書記官は震える手で図面を写し、理容組合の男は周囲を見渡したまま動かない。
(……工房ではなく“流通拠点”だ……)
「……随分と広いですね。従業者は?」
「今は商会員は私入れて五人。店舗は別ですが。あと外注の薬草筋がいくつか」
「物流は?」
「午前に街向け、午後に宿向け、夜に長距離便です。市場が混むので」
淡々とした答え。
だが書記官は目を丸くした。
(……一商会どころではない……)
副官は最後に一つだけ尋ねた。
「……ここが“起点”である、という噂は本当ですか?」
青司は手を止めた。
「起点かどうかは分かりません。ただ、頼まれるから作ってるだけです」
その言葉は偽りがなく、淡々としていた。
視察組は深く礼をして去っていった。
工房前の路地を曲がると、ちょうどリオナが荷籠を抱えて戻ってきたところだった。
「リオナ、おかえり。大丈夫、重くない?」
「うん大丈夫よ……でも、街、すごいことになってるよ……」
リオナは息を整えながら荷籠を降ろした。
「西の道、行列だったわ。髪を整えてもらう人、それから仕立屋でドレスを注文する人……ご令嬢さんたちね。
あと、あの人たち、冒険者の人たちだと思う人も……髪、綺麗にしてたわ……」
青司は笑った。
「冒険者も身なりを整えたがるもんらしいよ。最近、ギルドが厳しいからって」
「でも……通り、ほんと前より明るくなった。ゼリー専門の店もできて、服のお店も増えて……
みんな、匂いが良い……」
リオナは街を歩くたび、不思議な世界に紛れ込んだような感覚に陥る。
「けど、裏口で座り込んでた仕立屋さん、寝てない顔してた……」
かつて血と鉄の匂いがあった通りが、今は石鹸と果物の香りに変わっている。
夕方、荷を積み終え、二人は馬車で領主に借りている別邸へ戻った。
夕焼けのオレンジが木々の影を伸ばし、全身を包む。
「……ようやく一息ね」
リオナが息を吐いた。
「街は街でいいんだけど……明日は森に戻ろうか」
「え、休み取れたの?」
「クライヴが“明日から少し長めに休んでいい”ってさ。街も森も大事で、どっちも同じ世界なんだけど……両方ちゃんとやるには休まないとね」
青司はそう言って目を細めた。
「……良かった。じゃあ、明日帰ろうね」
リオナは少し考えてから言った。
「街の人、青司のこと知らないのに……すごいね」
「俺も誰が使ってるか知らないから、おあいこだろ」
二人は笑った。
だが森の奥深く、夜風が吹き抜ける頃には、リルトではまだ、洗髪桶の水音と髪結い台の金具の音が響いていた。
街は膨張し続けている。
⸻
そして中心にいる男は、そのことをまだ実感していない。
◆
青司とリオナの様子を、荷積みを終えた商会の若い衆が遠巻きに見ていた。
「……なぁ、あの二人さ」
「ん?」
「王都行ってから、なんか距離縮まってない?」
「気づいた?手ぇ繋いでたしな。あと、セイジさん、口の端に付いたクリーム拭いてやってたろ」
「なにそれ……うわ、それ彼氏じゃん」
「本人ら無自覚っぽいけどな」
見ていた連中は苦笑しながら馬車に箱を積んでいく。
「まぁ、いいじゃん。なんか平和で」
「分かる。見てて嫌味が無いんだよな、あの二人」
馬車に二人が乗るまで、誰も茶化さなかった。
その自然さが、却って周囲を和ませていた。
◆
その頃、南区の鍛冶工房はまだ火が落ちていなかった。
火床に風箱を送り込み、火花が散る。
弟子が声を上げる。
「親方!すき鋏の刃合わせ、全部終わりました!」
クラウスは目を細め、刃の噛みを確認した。
耳を澄ませば、向かいの木工工房では桶の内側を磨く音。
奥の路地では荷馬車に道具を積む音。
「……明日も出荷か。寝てられんわ、鍛冶屋も何処かからもっと連れてこいって話しだな」
鍛冶屋も木工も香具師も、
誰も青司の名を知らない。
それでも街は、彼の撒いた仕事で息をし続けている。
◆
夜の酒場は湿り気を帯びて賑やかだった。
冒険者、商人、見習い職人が肩を寄せ合い、
安いビールを片手に喋り散らす。
「でな、西区で髪洗うとこう——つやつやなんだとよ」
「馬鹿言え、髪なんぞ湯で十分だろうが」
「だから違うんだって!王都の役人が使ってるんだよ!」
「“桶洗い”ってやつか?」
カウンターの奥で店主が耳を尖らせた。
「桶洗いなら商店街の端だ。行列だぞ。女冒険者も増えてな」
別の席では商人が手帳を叩く。
「仕入れ筋は“ホヅミ商会”って名が出る。聞いたことあるか?」
「いや、無い」
「だろ?なのに街の仕組み全部そこに繋がるんだと」
安酒と煙が漂う中、噂だけが勢いを増していく。
中心の名だけが、誰にも分からないまま。
◆
その夜、王都の宮廷内では控え室の灯りが落ちていなかった。
侍女長補佐は机に置いた瓶をじっと見つめていた。
——リオネ、とある地方商店の名。
——髪用、肌用と書かれた札。
女官の一人が囁く。
「侍女長様……それは噂の“桶洗い”で使う品とか」
侍女長補佐は蓋を開け、粘度を確かめた。
香りは控えめ、質は悪くない。
「王都には無い筋の技術ね……誰の仕掛け?」
女官たちは小声で笑う。
「聞くところでは、“リルトの職人街”が今すごいそうで」
補佐は瓶を静かに閉じた。
「調べる価値はあるわ。情報室に回しなさい」
瓶は灯りの下で鈍く光った。
この熱から遠く離れた場所で、夜は静かに更けていく。
**************
翌朝、森は霧を抱いていた。
踏みしめる枯葉の音しか聞こえない。
「……やっぱりここだな」
青司の声は小さく、それでも空気に溶けていった。
リオナは深く息を吸い込む。
「街は綺麗で楽しいけど……やっぱり森の匂いが好き」
青司は頷いた。
「どっちも大事だな。森も街も」
その言葉は、昨日の夕暮れに言ったのと同じだったが——
意味は、少し違って聞こえた。
鹿の足跡、昨夜の焚き火跡、乾いた枝のひび割れ。
世界は静かで、変化はゆっくりだ。
街とは違う速さで、森は呼吸していた。
霧の残る朝の森は、街とは違う匂いがした。
湿った土、枯葉、樹皮の甘い匂い。足元で冷たい小枝がぱき、と割れる。
「……静かだな」
青司が荷を下ろしながらつぶやく。
リオナは深呼吸した。
「うん。ここは、全部ゆっくりだから」
二人が小屋に荷を入れ終わる頃には、日が少し高くなっていた。
青司は道具棚を整えながら、不意に思い出して口を開く。
「そういえばさ……エリンさん、冬に結婚式挙げるって言ってたじゃん」
「うん。その話しをする時、ずっと嬉しそうだった」
「この前さ、ソバカスが目立つって気にしてて……なんか、隠せるのないかって言われたんだよな」
リオナが首を傾げる。
「ふうん、そういうの、街の女の人は大事なんだね」
青司は工具を置いて、少し考えてから口にした。
「……その……結婚式ってさ。やっぱ、いつもと違ったりしたいもんなの?」
リオナは一瞬止まり、それから困ったように笑った。
「私は分かんないけど……綺麗に見てもらいたい気持ちはあると思う。大事な人に」
「大事な人……に、か」
胸の奥が不意に熱くなって、青司は視線を自分の手元に落とした。
するとリオナが逆に尋ねる。
「セイジは、どうなって欲しいの?」
「俺が?」
「うん。もし……そういう大事な日だったら」
その問いは無自覚に踏み込んでいて、青司は返事に詰まった。
数秒の沈黙。
森の風が枝葉を揺らす音だけがする。
「……そうだな。隠すっていうより……魅力、みたいな?」
「魅力?」
「エリンだと……ソバカスって可愛いじゃん。あれ活かす感じのが、いいっていうか」
自分でもよく分からない言い方をしてしまいながら、青司は耳まで赤くなるのが分かった。
リオナはその言葉を聞いて、ゆっくり瞬きをした。
そして、ほんの少し声を落とす。
「……そういうの言えるの、いいと思うよ」
「いや、別に……」
「私は……そうだな。頬が明るくなるとか、眉が綺麗に整ってるのって素敵だと思う」
それを言った後で、自分の頬に指を触れ、目を逸らした。
青司が思わず見てしまう。
リオナの肌は森の光の中でふわっと柔らかく見えた。
「……それ、化粧とか?」
「知らない。でも……そうなれたら、ちょっと嬉しいかも」
その“嬉しい”は、なんのために、誰のために、という言葉が抜け落ちていて——
そのせいで余計に甘い。
青司は喉を鳴らして誤魔化した。
「じゃ、次は……そういうの考えてみるか。ソバカスを可愛いままに見せるのと、頬が明るくなるやつと、眉……整えるやつ」
「ふふ、欲張り」
「依頼主が二人いるからな」
「エリンと……?」
そこでリオナが言葉を切る。
青司も返事をしない。
森の風がふっと吹いて、二人の髪が揺れた。
沈黙に照れが溶けていく。
「……水場、見に行こっか。薬草ももう出てるかもしれないし」
「そうだな」
並んで歩き出す距離は、街にいた時の距離と同じだった。
近くて、無自覚で、甘い距離。
森は静かで、仕事はゆっくりで、気持ちは少しだけ前に進んだ。
◆
翌日。
朝霧がまだ草の先で転がっている頃、青司とリオナは森へ入った。
樹々の合間を縫う道は、湿り気を帯びた腐葉土の匂いがする。
鳥が一声鳴き、遠くで水の落ちる音がかすかに聞こえた。
「……今日は、化粧品の素材探しなんだよね?」
籠を肩にかけたリオナが振り向く。
「うん。と言っても、半分は薬草と同じ。澱粉になる芋、油になる実、保湿の草……色のは花か実だね」
「ふーん……ソバカスを隠すの?」
「いや、“魅力にする”って感じかな。隠すと違う顔になっちゃうし」
リオナはうんうんと頷いた。
それを見て青司は少し嬉しくなる。
人影の無い小さな谷につくと、青司は膝をついて土を指で探った。
「この辺、粉になる芋があるはずなんだよな……あ、あった」
葉をかき分けると、土中から白い芋が顔を出した。
切り口は粉っぽく、ほのかに甘い匂いが立つ。
「これ、澱粉?」
「そう。乾かして細かく挽けば、肌に乗せる土台になる」
「へぇ……なんとなく食べ物みたい」
「実際、食べられるよ」
籠に入れると、二人は次の木へ向かう。
森の内側は光が柔らかく、葉の影が揺れていた。
風が吹き、リオナの髪が頬にかかる。
「次は保湿……油の実だな」
青司は背伸びして枝に手をかけた。黒っぽい実がいくつもぶら下がっている。
「これ、つぶすと油が出て、肌を守ってくれる。あと柔らかくなる」
リオナは青司の手元を覗き込みながら、そっと別の枝の実を摘んだ。
「じゃあ、チークの赤いのは……花?」
「花か果汁か、鉱物でもいいんだけど……皮膚が荒れないやつがいいな。特に頬は」
「じゃあ花の方が可愛いね」
リオナは斜面を降りて、小さな群生を指した。
淡い赤から濃い紅まで、色がまちまちな花が揺れている。
「これ、王都でも見たよ。女の人が髪に挿してた」
「色は良いな……乾かして粉にして、澱粉と混ぜてみるか」
青司は花を包んで籠に入れた。
そのあと、渓流沿いに出ると水気の多い草むらが続く。
青司は葉の裏を捲り、茎を指で折る。
「これは保湿と整肌。乾燥にも、荒れにも効く。ファンデに混ぜられる」
「薬草なんだ」
「大半は薬と化粧の境目にあるよ。肌に乗せるものだから」
リオナは水音を聞きながら笑った。
「なんか……セイジの話って、聞いてると楽しい」
青司は一瞬、手を止めた。
照れを隠すように草を束ねる。
「……楽しいなら良かったよ」
暫くして荷は埋まり、帰り道に差し掛かる頃。
リオナはふと青司の背の大きな革袋に目を留めた。
「ねぇ、それ……」
「ん?」
青司が革袋の口を開くと、油紙に包まれた“乾いた植物”がいくつも詰まっていた。
「薬草……?」
「傷に効くやつ。前に使った、あれの材料」
リオナは瞬きをした。
「作るの?」
「第三騎士団、遠征が多いみたいだろ。怪我もするって思うしな。……頼まれたわけじゃないけど、もし役に立つならと思って」
そこだけ声が少し小さくなった。
リオナは薬草を指先でそっと触れる。
「……私、これで助けてもらったんだよね」
「初めて作ったから試作みたいなもんだったけどな」
「そんなことない。あれなかったら、今ここにいないよ」
風が葉を揺らし、二人とも短く黙った。
「でも……第三騎士団に渡すって、すごいことだよ?」
「渡せたら、だけどな。嫌がられたら笑って捨てりゃいい」
リオナは息を漏らすように笑った。
「……セイジは、いつもそんな感じね」
声が優しかった。
二人は歩きながら、どこかくすぐったそうに笑った。
籠には花と芋と草、革袋には傷薬。
森の出口に近づく頃、空は青く澄んでいた。
今日拾った素材が、
誰かの頬を赤くし、
誰かの傷を癒やす日がくる。
青司もリオナも、それをまだ実感していないまま、
けれど確かに、同じ方向へ歩いていた。




