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リルトの住宅街。その中でもひときわ落ち着いた通りに面した二階建ての旧領主別邸は、今では青司とリオナの住まいであり、同時に商談や面会にも使われる拠点となっていた。
二階の応接室は薄く磨かれた木目が美しい床に、灰青色の優雅な絨毯。秋を控えたこの季節には、レースのカーテン越しに柔らかな陽光が入り、涼やかな風が窓から時折吹き抜けた。丸卓の中央には銀盆に載せられた葡萄水のカラフェと、薄荷を浮かべた冷たいハーブ湯。書類と布見本を載せるための平盆が二枚、卓上に待機している。
クライヴが席を整え、窓辺の位置に座る。セイジの気配はこの建物の奥の工房からわずかに感じられたが、今日の主役は彼ではなく、この五人である。
やがて扉が静かに開き、領主フィオレルが入ってきた。その後ろに、灰茶の外套を羽織ったダラス、深緑の礼服に身を包んだオルヴェイン男爵、そして糸巻きを模した胸章を付けた工房長セリーナが続く。
「待たせたな。では始めよう」
フィオレルが席に着くと、応接室の空気は自然と会議のそれへと変わる。
最初に口火を切ったのはフィオレルだった。
「既に第三騎士団殿より、肌着および下装備五百組の注文が入っている。納期は冬季遠征前、三ヶ月以内。すでに契約は締結済みであるため、数と期限の変更はできぬ。さらに余裕があれば女官の分までということだったな」
書類を軽く指先で押しながら、淡々と確認事項を読み上げる。
クライヴが穏やかに付け加えた。
「はい。素材の糸はリルト服飾ギルド、染色と仕立ても同じくこちらで進めます。縫製の段取りはすでに始まっており、二百組まではリルトで完結できます。問題は、残る三百組です」
オルヴェイン男爵は深く頷き、手元の布見本を指先で整えた。
「糸の配合と加工は秘匿が前提である。譲りはせぬ──が、そこまでは先に話がついていることだ。問題は量だな」
そこで静かに視線を動かしたのはダラスだった。
彼は葡萄水を一口飲むと、にこやかに言った。
「量の問題は分かりやすい。しかし、王都で五百組すべてを受け取る以上──誰が、どうやって“着せる”のかが問題だ」
セリーナが片眉を上げた。
「寸法直し、という意味ですか?」
「そう。冷静に考えてほしい。我々が扱おうとしているのは“市井の服”ではなく、“軍団の装備”だ。着崩れも擦れも怪我のもと。汗を吸えば重くなるし、縫い目の食い込みは疲労の原因になる」
ダラスは笑みを崩さぬまま、卓を軽く指で叩いた。
「騎士団の兵士は千人単位。五百といえど、そう簡単ではない。まして今回は、新素材の肌着だ」
「なるほどな」
フィオレルが短く相槌を打つ。
ダラスはさらに続けた。
「王都には王都の服飾ギルドがある。測定人も、調整工房も、注文管理の窓口も。……そこでだ」
少しだけ視線を横へ滑らせる。見る先はクライヴとフィオレルの間──つまり王都との窓口を求めている立ち位置。
「五百組の仕立てをリルトで行う。それに異議はない。だが“最終調整と擦れ防止の補強、装備との干渉チェック”は王都で行う方が良い。騎士団は王都所属だからね」
セリーナは腕を組み、鋭い目つきで返す。
「補強と干渉チェックまで? それはこちらの工房で把握したい内容ですが」
「ならば──」
ここでフィオレルが軽く手を上げた。
「一旦整理しよう。クライヴ、現状の製造計画を示せ」
「はい」
クライヴは手元の書類を広げる。
「五百組中──
二百組は完全仕立て完了状態でリルトから納める予定です。
残り三百組は標準サイズ仕立てを行い、最終微調整を王都側で行う形を想定しています」
フィオレルが低く呟く。
「標準サイズというのは……?」
「はい。第三騎士団に提出された士官・兵士の体格統計があります。S・M・L・LL・XLの五種で分布。特に兵士はLかLLで八割を占めています。これに沿って作れば“無理なく着られるが、擦れや装備干渉は残る”状態です」
ダラスが微笑んだ。
「そこで王都の出番、というわけだ」
クライヴは頷きつつも慎重だった。
「ただし糸と縫製に関する核心情報は管理が必要です。王都側が仕立てるわけではありません。調整のみで止めてもらう必要があります」
セリーナも言葉を足す。
「調整に必要な縫い足しや補強布はこちらで用意します。それを持ち込んで使うなら許容できるな」
オルヴェイン男爵は扇子を閉じ、実務的にまとめた。
「つまり──
標準五種を仕立てて送る
王都服飾ギルドが寸法調整
調整用素材はリルト側支給
秘匿情報は漏らさない
……このあたりが落とし所か」
フィオレルが全員の顔を順に見渡した。
「そこに問題はないな。うちでの調整に心配なら……そうだな、オルヴェイン、君が王都に来てうちの者たちを監督すれば良い。王都ギルドの理事という立場を兼務すれば何の問題もない。セリーナ、君はリルトの工房長だけでなく、副ギルド長として彼がいない間のギルドを回せ」
「っダラス!うちの者を勝手に引き抜くんじゃない!」
フィオレルがダラスに鋭い視線を向ける。
「……何を言っているんだ?服飾ギルドの人事は、王都服飾ギルド長が持っているんだ。……これだけの功績をあげた二人を昇格させるのに、何ら問題はあるまいよ」
「確かに人事権は王都のものだ。だが領地に配属された者の任地は領主の裁量だったはずだぞ、ダラス。出向という形なら認めよう。今、オルヴェインが抜けたら回るものが滞る。お前の本意ではあるまい」
「それで構わんさ。オルヴェインが王都に来て監督すれば、セリーナも安心だろう。では問題は二つ残る。“窓口”と“金”だ」
ダラスが指を一本立てた。
「軍と女官の窓口は──第三騎士団長に任じられた男が王城の連絡係になる。私はすでにロマーヌ公爵夫人よりそう聞いている」
ここでクライヴの目がわずかに瞬いた。
彼はその話をロマーヌ公爵夫人から別角度で聞かされていた。
フィオレルは頷き、
「ふむ。では調整作業の“連絡窓口”は王城第三騎士団、実務は王都服飾ギルド。発注管理は第三騎士団。納品責任はホヅミ商会とリルト服飾ギルド。これでよいな」
全員が頷く。
「残るは金だな」
ダラスがもう一本指を立てた。
「寸法調整と補強チェックは“追加業務”だ。タダではやれない。だが五百組すべてを王都が調整する場合──第三騎士団の財布では足りん」
ダラスは声を落として続けた。
「つまり、王都服飾ギルドはこの仕事に正式に“噛む”ことで利益を得る。第三騎士団の装備精度が上がり、リルトは製造を譲らず、王都は仕立てに手を出さずに面子も立つ」
フィオレルは椅子にもたれ、指先で肘掛けを軽く叩いた。
その表情は、目元だけが笑っていた。
「そういうことだ。予算の責任は第三騎士団長が持つと言ったのだろう?ぜひ背負ってもらおうじゃないか」
ダラスが隠すことなく口端を吊り上げた。
そこには──第三騎士団の特別予算を通せる、滅多にない好機を嗅ぎ取った男の顔があった。
「ただし、サイズ測定と記録は王都にしかできない。市民向け販売も同じだ。標準規格でもちろん構わんが、肌着は流行る。間違いなく流行る」
セリーナが鼻を鳴らす。
「流行はお任せいたしたますけれど、糸と縫いは譲りませんよ」
「分かっているとも。だが“流行の売り場”は王都にある」
その言葉に、静かに視線を動かしたのはフィオレルだった。
「──ダラス。お前の狙いは、そこか?」
ダラスは笑いもせず、ただ肩をすくめた。
「王都服飾ギルドは王城の装備と市井の流行を繋ぐ窓だ。そこに新しい肌着が流れ込んでくれば、流行を形作るのは容易い。その時──リルトの技術は王都に届き、王都の市場が育つ」
少しだけ声を落とした。
「私は仕立てを奪う気はない。だが“市場と窓口”はもらう」
オルヴェイン男爵が眉を上げ、フィオレルが喉の奥で静かに笑った。
「なるほど──よく分かった。では取りまとめよう」
フィオレルは指を軽く叩き、議事をまとめ始めた。
葡萄水の入ったグラスを一度置き、ダラスが声を落とした。
「……そしてもう一つ。貴婦人たちと軍務局の動きだ」
応接室の空気がわずかに引き締まった。ここまでは“友好的な情報共有”だった。だが今の前置きは、それより一段階深い話を示している。
「まず貴婦人の方からだ。王都では秋の社交が始まる。舞踏会、晩餐会、観劇の季節。その準備でな、ロマーヌ公爵夫人を筆頭に、上級貴婦人連中が『汗を透かさず形を崩さない肌着』に興味を持っている」
「貴婦人たちは“形を崩さず香りも保つ”ために欲しがり、軍務局は“体温管理と衛生”のために欲しがっている。目的は違うが、求める先が同じになっている」
クライヴが息を止めた気配を見せた。オルヴェインも表情を変えずとも明らかに目の奥が動く。
「なぜそんな話が貴婦人層に?」
「簡単だ。流行りの美容品を求めにリルトに来た娘から伝わったんだ。女はそういうもんだ。リオネにくれば肌着も買える。親友の耳元で一度囁かれれば、あとは半日で王城の化粧室にまで届く。ほら、俺だって今さっき買ってこれた」
ダラスは肩を竦めた。
「お前たちの狙い通りの展開なんだろ?」
ダラスは肩を竦めた。冗談めかしているようで、その目は笑っていない。ダラスが低く問う。
「美容と文化の街としての発展が、街の中心政策の一つなのは間違いはないが」
フィオレルの目元がわずかに笑った。
「つまり、こういうことだ。フィオレル、お前の領地で作った肌着というのはな――」
視線をオルヴェインとセリーナへ。
「リルト服飾ギルドと工房が仕立てを整え――」
視線をクライヴへ。
「ホヅミ商会の物流で王都へ運ばれ――」
そして自分の胸を親指で軽く叩いた。
「――その結果、王都に逆流してきたんだよ。俺の“仕立屋の便宜”より早くな」
クライヴが小さく呟いた。
「……つまり、当初の想定とは逆の経路で」
「そうだ。俺は仕立屋を送り込んだだけのつもりだったが、王都に逆流してきたのは肌着だった。どうやらドレスも花が咲きそうだがな」
そこで第二幕の報告が締めくくられた。
短い沈黙のあと、フィオレルが片手を上げる。
「――では、第三幕の議題だ。各々の利害を提示してくれ」
葡萄水の表面に夕陽が反射し、薄い赤が卓上に揺れた。フィオレルが改めて空気を整える。
「……さて。ここからは“火加減”の話だ。誰がどこまで噛むかを決める」
最初に動いたのはオルヴェインだった。声は穏やかだが、内容は硬い。
「我々リルト服飾ギルドは、糸の技術も、仕立ての手法も譲りません。王都の窓口が必要なのであれば、あくまで“注文と採寸と最終調整”のみに留めていただきたい」
「糸はどこにも渡さない、だな?」
確認するダラスの顔はわかっているとばかりに笑う。
「当然です。貴族向けの名誉を求めているわけではありません。地元工房の生存を守るためです」
オルヴェインもどこまでもリルトの服飾ギルド長の立場を崩していない。
少し安心したようにセリーナも続く。
「軍務局の調整用サイズは王都で取るとして……実際の縫い直しはリルトでなければ無理です。干渉確認も補強も、装備と併せてやらないと危険ではないでしょうか」
クライヴが書類を軽く叩いた。
「ホヅミ商会としては、秘匿すべき工程が多い以上、王城への直納は避けたい。中継地点をリルトに限定したい。第三騎士団の分は“標準寸の中間サイズ”で納め、王都側で微調整してもらうのが最善です」
ここでダラスがゆっくりと脚を組み替える。
「……分かった。なら逆に聞こう」
指を一本立てる。
「(1)王城は何を求める?」
二本目。
「(2)王都服飾ギルドはどこに噛める?」
そして三本目。
「(3)地方の利益はどう守る?」
その三点が“火加減”の核心だ。
ダラスは続けた。
「まず(1)。王城が求めるのは“快適さ”と“即応性”だ。特に軍務局はな。だから採寸と最終調整の窓口は王都になければ困る」
セリーナが眉を寄せる。
「……それは、こちらが納品してからですよね?」
「もちろんだ。軍務局も製造工程には興味がない。欲しいのは着られる物だ」
オルヴェインが頷く。
「ならば採寸は王都、仕立てはリルト、調整は王都、で成立します」
「次に(2)。王都服飾ギルドが噛める場所だが──」
ダラスは卓上を指で弾いた。
「採寸、調整、装備との干渉相談、そして……“注文の正規化”だ」
クライヴが首を傾げる。
「正規化?」
「第三騎士団が二百欲しいとする。軍務局が百欲しいとする。貴婦人が三十欲しいと言い出す。王城はこれを一枚の紙に揃えられない。窓口と書式を持っているのは服飾ギルドだけだ」
つまり、王都服飾ギルドは“窓口の管理者”として噛める。
そして(3)。
「最後に地方の利益。これはセリーナ、オルヴェイン、クライヴ、お前たちの三者だ。ここを守るには条件を三つに絞るべきだ」
ペンを借りると、紙に三行書いた。
① 製造と仕立てはリルト
② 採寸と調整は王都
③ 注文と書式は王都ギルド経由
そこに一拍置いて、
「……そして領主が政治保証だ」
全員の視線がフィオレルに向いた。
フィオレルは静かに頷く。
「軍務局にも第三騎士団にも、王都服飾ギルドにも、この三条件と政治保証を提示する。それがリルトを焦がさず鍋を煮る方法だ」
その言葉は、あまりにも“正解”だった。
会議が終盤に差し掛かる頃には、冷やしていた葡萄水も温度を取り戻し、夕日が丸卓の銀盆を淡い琥珀色に照らしていた。客間の外では、リオナが吹かせた風が庭木を揺らし、窓をかすかに打つ音が一定のリズムを刻んでいる。夏の名残と秋の匂いが混じる、季節の境目の空気だった。
クライヴが紙束をまとめ、整えた上で静かに言った。
「……では、確認します。製造と仕立てはリルト。採寸と調整は王都。注文と書式は王都服飾ギルドがホヅミ商会の名で受ける。そして領主閣下が軍務局と第三騎士団の政治保証を担う――これでよろしいですね?」
セリーナが頷き、補足する。
「調整についてはあくまで“最終微調整”です。設計や素材の思考部分はリルト側に残します。そこは譲れません」
オルヴェインもそれに続いた。
「王都の名誉や顧客網につられて地方工房が干上がるのは、古い歴史で何度も見てきましたのでな。我々は繁盛を望んでも、凋落は望みません」
その言葉に、ダラスは肩をすくめて苦笑した。
「安心しろ。俺は地方を吸い尽くすつもりで来たわけじゃない。むしろ逆だ。王都は肥えすぎて動かん。新しい血を欲しがってる。それに、そのうち女官筋もフィオレルに頼むと声があがるはずだ」
その声音には、ただの戯れとは違う響きがあった。
フィオレルは全員の視線が集中したのを確認してから、一度だけ深い息を吐いた。政治判断を下す者の呼吸だった。
「……よろしい。では私の名のもとに、この方針で進めよう」
その一言で、この場の結節点は固まった。
卓上の銀盆に積まれた書状が、政治案件へと姿を変える瞬間だった。
だが、会議が締まったからといって、全員が安堵したわけではない。
最初に動いたのはクライヴだった。胸ポケットから別の書類を出し、机の中央にそっと滑らせる。
「第三騎士団の五百組。前期分の受注票です。すでに標準寸の中間サイズで製造しています。軍務局の点検を通した後に納品となります。最終微調整が出たさいにはよろしくお願いします」
ダラスが眉を上げる。
「もう動いるんだよな。王都の方が遅いとはな」
「軍の現場は王城より速いですよ。特に夏の野営が重なれば、汗や摩擦は切迫問題です。余裕はありません」
オルヴェインは書類に目を通しながら静かに言った。
「……このまま冬用素材の問い合わせが来ても不思議ではないな。冬営地の冷気は骨に響く。装備の内張りはどこも喉から手が出るほど欲しい」
「ちょっと早過ぎるてんかいですね……」
セリーナが呟く。
ダラスはグラスを指で転がしながら言った。
「いや、これでも遅いくらいだ。貴婦人の噂と軍務局の噂が同時に動き始めたのは二日前だぞ。第三騎士団はその前から情報を掴んでいたんだろうさ」
そこでふっと笑った。
「面白いのはな、文化の逆流ってのはいつも“実用品”から始まることだ。菓子や香水ではなく、汗と布と皮からだ」
誰も反論しなかった。実際その通りだからだ。
さらにダラスは指を三本上げた。
「だがな、ここから先は三つほど火種がある。どれも文化を燃やす燃料だ」
その場の全員が無意識に耳を澄ませた。
「一つ。軍務局は成果が出れば必ず“標準化”したがる。標準化は情報漏洩とほぼ同義だ」
セリーナは顔を曇らせた。
「……確かに」
「二つ。王妃派と公爵夫人派で“贔屓の舞踏会”が違う。秋の社交で肌着が絡めば、色と布の話題で派閥戦になる」
オルヴェインがわずかに目を閉じる。
「王都の流行に乗るだけで内政に巻き込まれるわけですな」
「そういうことだ」
そして三つ目。
「三つ。価格だ。地方が低く売れば王都が買い占め、市民が買えなくなる。逆に王都が高く値付けすれば商会が騒ぎ、騎士団が怒る」
フィオレルが低くまとめた。
「つまり、まだ火は消えていない」
「当たり前だ。今は火を移しただけだ」
ダラスはそう言って立ち上がり、軽く伸びをした。部屋の空気が少し緩む。
「だがな……今日はいい火加減だった。誰も焦がさなかった。地方も死なせなかった。王都も損をしない。文化にとってこういう会議は貴重だ」
そしてグラスを持ち上げ、夕日に透かして眺めながら呟く。
「……この街の匂いは、いい匂いだ。金と汗と香水と、ほんの少しの革命の匂いがする」
クライヴが苦笑する。
「革命は勘弁してください。商会は保守的にやりたいんですよ」
「革命ってのはいつも当事者がそう言うんだよ」
そのやり取りを聞きながら、オルヴェインは静かに席を立った。
「では、工房に戻ります。明日から採寸票の書式を整えねばならん」
セリーナも立ち上がる。
「軍務局の胸囲と肩幅の測り方はどこも違うから……もう一回全部聞かないと」
去っていく工房長たちの背中には、商売人の疲労と文化人の高揚が同時に混ざっていた。
残された三人──フィオレル、ダラス、クライヴ。
ダラスはゆっくりと窓の外を見た。リルトの街灯に火がともり始め、遠くの路地で少女の笑い声が跳ねた。仕立て屋の店頭から漏れるランプの光には、糸や布の影が揺れている。
その光景を眺めながら、ダラスは独り言のように言った。
「フィオレル……お前の街は、よく燃える」
フィオレルは答えない。ただ、苦笑と無言の肯定を含んだ目を向けた。
ダラスは続けた。
「王都はもう少ししたら気づく。ここで始まったのは産業じゃなく文化だってことに」
クライヴが静かに息をついた。
「セイジ殿が聞いたら、笑うと思いますよ。『そんな気はなかった』って」
「そういうやつなんだろうな」
ダラスはグラスを置き、背広を整えた。
「文化ってのは、本人の知らぬところで勝手に燃え広がる。菓子もそう、肌着もそう、髪染めもそうだ」
玄関の方で執事が足音を立てる気配がした。馬車の準備らしい。
「……さて、俺は公爵夫人に報告がある。窓口は決まり、火加減は調整中。そう伝える」
「余計なことは言うなよ」
フィオレルは友の肩を激励の意味を込めて叩く。
「余計なことしか言わんよ、俺は」
そう言ってダラスは笑った。
そして、扉を出る間際、ふと立ち止まった。
「クライヴ」
「はい」
「明日、一度腐った貴族どもの扱い方を教えてやるよ。ロマーヌ夫人に頼まれてな。“あの商会の番頭は品が良いが経験が足りないから、少しだけ揉んでやれ”ってさ」
クライヴは思わず顔を覆った。
「……そういう言い方をされると怖くてたまりませんね」
「安心しろ、殴りはしない。口で十分だ。
まずは女官たちをホヅミ商会に向けさせる。女官の美容は軍務じゃない。
宮廷の衣装筋の領分だ……本来はな」
そのままダラスは去っていった。
使用人が扉を閉め、馬車の車輪が石畳を軋ませながら消えていった。
静寂。
フィオレルとクライヴだけが残された。
「……長い一日でしたね」
「いや、まだ始まったばかりだ」
フィオレルは庭の暗闇を見やり、低く続けた。
「これで王都服飾ギルドは動く。軍務局も動く。貴婦人も動く。だが――」
「だが?」
「ホヅミ商会の主人は、まだ何も知らない」
クライヴは苦く笑った。
「そうですね。執務室で薬草を干しながら、のんきに新素材を考えているかもしれない」
「それでいい」
フィオレルは淡々と告げた。
「本人が知るより前に文化が動く。それは悪い話ではない。むしろ最良の形だ」
その声音には、政治家としてではなく、地方を守る領主としての情が滲んでいた。
そして小さく締める。
「……さて、明日も忙しくなるぞ」
応接室のランプが揺れ、紙と布と金の匂いを残したまま夜が降りた。
――この時まだ誰も知らない。
本格的な秋の始まりには王都で“吸湿速乾の下着を巡る静かな戦争”が始まり、
冬には“第三騎士団式のサイズ規格”が生まれ、
春には“リルト式肌着”という名称が王都に定着することを。
そして青司がそのすべてを、あくまで“副産物”として受け取ることになるとは。
文化の火は、すでに薪を見つけてしまっていた。




