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王都服飾ギルド長、ダラス・アーデルベルト子爵――その名を聞けば、王都の貴婦人の中に笑わない者はいない。
若い頃から女遊びで浮き名を流し、宮廷の舞踏会では必ずひと騒動起こす男だった。
踊る相手が近隣諸侯の令嬢であろうと、外交団の獣人の使節であろうと、まったく意に介さない。
気障な口説き文句と艶のある声で相手を笑わせ、時に泣かせ、宮廷侍従たちを胃痛にさせてきた。
王都の年配貴婦人の一人がかつてこう呟いた。
「――あの人は、女を滅ぼすか救うか、そのどちらかよ」
その評は半分当たり、半分は誤解だ。
確かにダラスは女好きではあるが、本当のところは、恋愛より「人間の面白さ」に惚れる質だった。自由奔放な音楽家も、沈黙しか返さぬ修道女も、頑なな女官長でさえ同じように扱う。
彼は、それぞれの生き方を眺めるのが好きだったのだ。金と名誉のために婚姻を繋ぐ貴族社会の中にあって、そういう感性は珍しかった。
そんなダラスと親しい男が一人いる。
リルト領主、フィオレル・ド・ヴァルド子爵だ。
二人の爵位と職責は同格に近く、年齢も近い。
王城の若い官僚や女官が集まる夜会で顔を合わせては、酒を片手に王都の愚痴や、愚かな貴族の話題で笑い合った。
真面目で融通の効かない文官肌のフィオレルと、遊び人で人たらしのダラス。
その相性が良い理由は誰も説明できなかったが、仲は誰より良かった。
ダラスは王都中の女性事情に通じており、話題の歌姫から事情持ちの後家まで、手札のように把握していた。
フィオレルの婚姻の話が持ち上がったときも、相談相手はダラスだった。
「お前が選ぶとろくな事にならん。紹介してやるよ。美人で賢く、頑丈で、気難しくない人間を」
「基準に一貫性はあるのか?」
「ないな。だが俺の嗅覚は外れない」
本当に外れなかった。
フィオレルの妻は穏やかで聡明な女性であり、子を一人授かってからも王都と領地とを行き来し、社交では気品を保ちながらも裏表のない人気者だった。
フィオレルたちが婚姻してからというもの、ダラスは年に数度、必ずリルトに立ち寄った。
「礼を言われる程のことじゃないさ。俺はただ、幸せそうな女の顔を眺めるのが好きなんだ」
それはダラスの本音だった。フィオレルも彼のその言葉を一度も否定したことがない。
近ごろは二人の関わり方が少し変わった。恋愛めいた相談ではなく、文化や産業に関する話になっていった。事の発端は数ヶ月前、フィオレルが王都でダラスにゼリーを振る舞った時だ。
透明で、冷たくて、淡く甘い、舌の上でほどける新しい菓子。王都には存在しなかった食感だった。ダラスは一匙で眉を上げ、二匙目で笑い、三匙目で舌打ちした。
その舌打ちは不快のためではなく、ただ新しい才能に出会った時の嫉妬だった。
「……なんだこれは。どうせまた、ホヅミ商会のやつだろう」
「察しが早いな」
「料理は女と同じでな。初めての質感ってやつはすぐ分かる」
フィオレルは呆れながらも作り方を説明した。固める素材、糖の処理、果物の扱い、冷却の順序――そして原材料の供給元がリルトであること。その会話の流れで、ダラスは不意に杯を置いた。
「……リルトに工房はあるか?」
「ある。服飾ギルドに連なる工房がいくつか」
「燻ってるやつを送り込んで良いか? 王都で腕はあるのに、パトロンを掴めない仕立屋がいる。貴族の服作りは派閥争いだからな。腕より家柄が求められることもある」
「腕が燻るのは女の損だ。良い仕立ては、良い生地と同じで傷む」
「……派閥で腐らせるくらいなら、こっちで育てた方が早いな。
かまわんよ。良い腕なら歓迎する。俺がパトロンになって店を出させてやるさ」
それで実際に送り込まれた数人の仕立屋が、いまリルトで評判の中心にいる。
王都帰りの客は「意匠は王都以上だ」と評した。
技術そのものは王都水準だが、配色や線の取り方が新しい。秋の社交界に面白い話題が欲しい貴族たちは、そういう“目立つ服”に弱いのだ。
ダラスは仕立屋を送り込んだだけのつもりだったが、王都に逆流してきたのは肌着だった。
衣服は高級品、肌着は消耗品――本来は流れる道が逆だ。それが逆流したことで、王都の軍務と社交が同時にざわつきはじめた。
街路に残る夏の暑さと、香水と、新しい色彩。あれらはダラスの悪戯のようなものである。
そんなダラスが再びリルトにやってきたのは、ちょうどその影響が頂点に近い頃だった。
領主館に響いた馬車の音は、いつもの商人や使者のそれとは違った。黒を基調にした瀟洒な外装、磨かれた車輪、御者の礼服。玄関で出迎えた執事が軽く息を呑む。
「アーデルベルト子爵閣下、お越しです」
執務室から出てきたフィオレルが姿を見せると、ダラスは手袋を外しながら軽く顎を上げた。
「よぉ。追い返されるかと思ったぞ」
「お前を追い返しても、どうせ裏門から入ってくるだろう」
「否定はしない」
肩を揺らして笑い、二人は握手ではなく軽い抱擁を交わした。若い頃からの癖だ。使用人も見慣れている。
「王都の暑さはどうだ?」
「うんざりするほどだ。リルトはまだ風がある。それに――」
ダラスは玄関ホールの空気を吸い込み、薄く目を細めた。
「……街が変わったな。いい匂いだ。女と金の匂いだ」
フィオレルは苦笑した。
「お前は本当に嗅覚で生きているな」
「商売も政治も全部そうだ。嗅ぎつけて、適度な距離で関わる。深追いはしない、でも早すぎる撤退もしない。王都の貴婦人から学んだ」
「その学びはどこで使うんだ」
「いま使っている」
フィオレルは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
「……分かって来たんだな」
ダラスは廊下を歩きながら、低く呟いた。
「……王城でな。吸湿速乾の肌着が出回ってる。軍務局が興味を示してる」
「聞いている。というか、俺が第三騎士団の耳に入れた」
「俺に何の話も通さずに?」
声は低いが、怒りではなく“手順の逸脱”を指摘する響きだ。
フィオレルは立ち止まらず答えた。
「領地運営はギルドの許可制ではない……だろ?」
「そうだな。だが王都に入った瞬間、それは文化と商売だ。ギルドは無視できない……だよな?」
「だからこうして来たのだろう?」
「そういうことだ」
短い沈黙のあと、フィオレルが言った。
「……悪意はなかった」
「分かってる。俺も怒って来たわけじゃない。けど、お前も分かってるだろう。ここまで話が大きくなるとは、誰も思ってなかった」
フィオレルは苦く笑った。
「……俺たちは、ちょっと面白いことをしただけのつもりだったんだがな」
「全くその通りだ。いつもと同じだな」
「心配しなくていい。俺は奪いに来たんじゃない。調べに来ただけだ。もし問題がなければ、“紹介”するだけだ」
「紹介?」
「王都の舞台、社交界、王城の裏口……その全部だ」
その言葉の重みを理解できる者は少ない。紹介とは、ただ人物を繋ぐだけではない。王都の文化を地方に流し、地方の技術を王都に押し上げる――その媒介行為は、時に政治よりも強い力を持つ。
「……それで?」
フィオレルが問うと、ダラスは手袋を指に挟みながら、軽く肩をすくめた。
「お前の想像よりは面倒だ。王城とギルドと貴婦人と軍務局が全部絡んでる」
「全部、か。王城の軍と女官の窓口はオズワルド侯爵に押さえられた。俺に残されたのはその他だけだ。軍に売って利益を得るなら、調達窓口まで触るなって理屈だ。全部、俺が用意した流れなのにだぞ?軍は装備が整えば良いだろうに」
「そして全部が“お前の街に興味を持っている”。そういうのは、放っておけば勝手に燃える。だから火加減を見に来た。それだけだ」
ダラスは軽口を叩きながらも、目の奥だけは笑っていなかった。
フィオレルはしばし無言になり、薄く舌打ちしたい衝動を押し殺して言った。
「……別邸の応接室で聞こう。関係者を呼ぶ」
「ああ、そうしてくれ。ホヅミ商会のクライヴは外さないでくれるか」
執事が会釈し、二人は並んで廊下を歩きだした。夕刻の光が廊下の絨毯を照らし、その先には既に湯を用意した応接室の扉が見える。
王都の遊び人であり、文化と女の橋渡しであり、いまや服飾ギルドの中枢に座る男が――地方の小さな街に吹いた新しい風を測りに来たのだ。
その報せはまだ青司にも届いていない。
◆
リルト領主館から少し離れた丘の中腹に、古い庭園付きの別邸がある。
かつては婚礼や客人接待に使われた屋敷で、今はフィオレルが青司とリオナに貸し出している。彼らの暮らす主屋の奥には、独立した応接室兼商談室があり、青司の執務室と庭に面したその空間は、近頃市中の商人たちにも静かな評判があった。
南と西の二面が窓になり、緑陰と光を均した風が入る。夏の終わりの匂いと、どこか甘い果実の気配。丸卓がひとつ、席は六つ。
壁には青司が使い切れずに置いた薬草のサンプルや、リオナが森の家から運び込んだ吸湿布の切れ端、青司の使った薬茶の小瓶などが無造作に並び、領主館とは違う不思議な温度を持った部屋だった。
ここにいま、五人が集まろうとしている。
ことの始まりは数日前。王都での職務に勤しむフィオレルのもとに、第三騎士団の使いが駆け込んだ。内容は短く簡潔で、しかし重かった。
――肌着および装備五百組の発注を行った。
軍と女官の窓口は第三騎士団長が請け負う。その他の調整はフィオレル卿に委ねるが、軍装備を優先されたい。
分厚い印璽とともに届けられた指示書には、軍務局副官の署名が添えられていた。フィオレルは紙に目を通しながら、無意識に眉の位置を変えた。嫌な驚きではない。むしろ、覚悟していた事が形を持ち始めたという類の驚きだ。
すぐに政務官としての調整と決済を済ませて領地に戻ったフィオレルはクライヴと状況の確認を行っていた。ホヅミ商会番頭であり、この件で領主が信頼する男だ。
「……フィオレル様のところにも、連絡が入ったのですね」
クライヴは書類に目を通した瞬間、深く息を吐いた。網膜に必要な情報がすべて刻まれるより先に、脳が動き始めてしまう種類のため息だった。
「第三騎士団長が今回の窓口になって頂きました。あの方は、こちらの話が通じるので助かりました」
「ああ。第三騎士団に話しを通していたのは私だったからな」
「そうとは知らずにおりました。ご尽力ありがたく」
「リルトの衛兵も清掃員にも役立つんだ。当然、軍も欲しがると見込んだだけだ。食い付けば街の発展になる。領主として当然の事をしたまでだ。
それともう一つ」
フィオレルは机上の別の書類を提示する。王都からの手紙。差出人はロマーヌ公爵夫人――王都上層社交界の女主人であり、王城と貴婦人層の橋だ。
その手紙は、知らぬ者にはただの優雅な便箋に過ぎない。しかしクライヴは一行目で背筋を伸ばした。
「……“第三騎士団のご尽力、たいへん見事でした。役目を終えた後も王都の空気を楽しんでおいででしたよ。ところで――”」
文面は婉曲を極めていたが、要点は二つ。
一つ、第三騎士団はすでに王城側の正式な窓口になったと公爵夫人が把握していること。
もう一つ――
「“クライヴ殿には、王都服飾ギルド長ダラス子爵より、貴族の流儀を学ばれても損はありますまい”……と」
クライヴは読み終えると同時に、手紙を閉じた。声を出さなかったが、表情が言っていた。
――これは、完全に紹介状だ。御礼の為に伺った際に聞いていたことが、領主宛に書面となって送られてきている。
クライヴは読み終えた手紙を丁寧に閉じると、机に置いた。
その動作に、ひどく慎重な礼儀があった。
領地の商人が王都のギルド長に「教えを乞う」形になるのは、屈辱ではない。むしろ筋道さえ整えば、権利を獲得する入り口になる。そういう複雑な外交儀礼が、王都の世界にはある。
王都では、誰に教えを乞うかで派閥の色すら変わることがある。無邪気な好意で成立する関係はほとんどない。
「……という事で、ダラスが来るのだが――ロマーヌ公爵夫人との知己はどうやって得たのだ?」
「……偶々の出会いでして。……リオナさんと商会長が大変気に入られましたようで、その御礼に伺った際にダラス様の件も聞いておりました」
フィオレルは一度だけ呼吸を整えた。
「……そんな偶然が、あるのか?しかし、お前たちが夫人と縁が持てたことは暁光だったな」
クライヴは視線を泳がせ、少し間を置いてから、静かに尋ねた。
「セイジ殿は……呼ぶので?」
「呼ばない。あの男は現場の核だ。外交の矢面に立たせるべきではない」
それは保護ではなく、政治判断だった。青司に外交をさせれば、王都は確実に“根源技術”へ触れようとする。そうなるとフィオレルでも守りきれない範囲に踏み込む。ゆえに、まだ立たせない。
「そして――服飾ギルドも呼ぶ。長のオルヴェインと、工房長セリーナも」
「五者会談ですか」
「ああ。王都、領地、商会、ギルド、工房。全部揃える」
「火加減の会議になりますね」
クライヴはすぐに本質を掴んだ。火加減――燃え広がる前に、どれだけの酸素を奪い、どれだけの燃料を増やし、どれだけの炎を制御するか。政治でも産業でも、同じ話だ。
その瞬間、もう一つの報せが届いたのは偶然か必然か。
執事が廊下から声をかけた。
「領主様。アーデルベルト子爵閣下が、すでにリルトへご到着とのこと」
クライヴが眉を上げる。まだ王都発の便りから日も経っていない。
「早い、ですね……」
「嗅覚で動く男だ。風聞の方が早い」
フィオレルは席を立った。そして短く命じた。
「別邸を整えろ。会議をする」
「日時は? 全員揃うまで待ちますか?」
「いいや。揃っていなければ揃うまで待たせる。順番は逆でもいい」
クライヴは一度だけ口元で笑った。領主としての腹を見たからだ。
「承知しました」
こうして――五者調整の火加減会議は始まった。
王城は肌着を手に取り始め、貴婦人は興味を示し、ギルドは匂いを嗅ぎ、軍務局は供給線を探し、商人は線引きを測り、領主は火を扱うために集める。
この時点でまだ、青司は別邸の庭先に設えた臨時工房で薬草を乾燥させていた。
自分の作った肌着が、政治の卓に乗り始めているとも知らずに。




