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 小さな石橋を越えた瞬間、街の空気が変わる。


 王都の強い甘さとは違う、乾いた香辛料の匂いと、革商人の油の匂い。

 馬車の窓から見えるのは、見慣れた低い屋根と商人たちの呼び声。


「……帰ってきたね」


 リオナが尻尾を揺らしながら、胸の前で手をぎゅっと握る。

 青司もわずかに息を吐いた。


 馬車が停まると、荷台を開けるより先に扉が開き――

「ご帰還、お待ちしておりました、セイジさん!」


 門番ではなく、クライヴだった。

 流石、気配に気づいたか、情報を掴んでいたのか。


「ただいま戻ったよ、クライヴ」

「王都は如何でしたか?」

「色々見て回れたよ。美味しい物もたくさんあったし。だけど――少し疲れたかな」


 クライヴは控えめに笑った。

「でしょうとも。こちらは相変わらず、現実的で騒がしいです」


 後ろからふわりと白いエプロンが揺れた。


「おかえりなさい、セイジさん、リオナちゃん!」


 エリンだ。控えめに頭を下げてから、手元の帳簿を抱え直す。


「お留守の間の売上、まとめてあります。……いい報告です」

「それはありがたい」


 さらに奥からミレーナが顔を出す。

「セイジさん、工房の方も順調ですよ。例の肌着と日焼け止め、追加の契約が来ています。王都での噂がもう流れてるみたいです」


 リオナが目を丸くした。

「早いね……」


 ミレーナは肩を竦める。

「実物見た貴族が帰って広めたそうです。商会の店頭にも来ましたよ。クレスさんが対応しました」


 その名が出た瞬間、店の扉が開く。

「ご帰還、ご苦労様です」

 低い声。姿勢はまるで騎士の礼法のまま、表情は商人として完成されている。


 彼こそがクレスだ。


「『在庫が無いのは分かっているけれど、次の入荷を教えてほしい』と伯爵家のご令嬢方の対応には少し骨がおれました」


「噂は早いものだな……」


 青司が苦く笑うと、クレスも僅かに口端を上げた。


「まことに、良い風が吹いております」


 そこへ――小走りにソフィアとリディアが駆けてきた。


「おかえりなさい!」

「王都はどうでしたか? あ、差し支えなければで……!」


 二人の目はきらきらしている。

 王都は娘たちにとって夢の場所なのだ。


 リオナは少し照れながらも答えた。


「きらきらして、人がいっぱいで、すごかったよ。でも……わたしは、こっちが好き」


 それを聞いたクライヴは、小さく頷いた。


 青司は荷物を肩にかけ直して言う。


「さて、続きは中で聞かせるよ。……ただいま」


 商会の仲間たちは声を揃えた。


「おかえりなさい!」



 ひんやりとした薄い布張りのソファに腰を下ろした瞬間、王都の熱が少し抜ける気がした。

 窓際の机には冷やした茶と、小さな焼き菓子が出される。青司は帽子を膝に置き、リオナは背もたれにそっと肩を預けた。


 クライヴが扉を閉め、帳簿と書類を抱えたエリン、工房資料を抱えたミレーナが続く。

 配置が自然に決まったところで、クライヴが口を開いた。


「では、まず留守中の報告から。――結論から申し上げます」


 ページを開く音が小さく響いた。


「売上状況、非常に好調です。肌着は入荷待ちが続き、日焼け止めは今期分がほぼ完売。美容品は王都での噂の影響か、ますます伸び始めています」


 エリンが控えめに付け加えた。


「店舗の来客数も、以前より二割以上増えています。……特に貴族の方が続きまして」


「貴族?」青司が眉を上げた。


 答えたのはミレーナだった。


「ええ。王都から帰ってきた夫人方が噂を広げたようです。『実物を見たい』といって店に来られた方が数名。その中で、肌着と日除止めは在庫切れのため、予約を受ける形にしました」


 リオナが目を瞬かせた。

「王都で広まるの、そんなに早いんだ……」


「女官と夫人は足と口が早いですからね」

 クライヴが苦笑する。


 クライヴが手元の帳面を軽く叩いた。


「食の方も動きました。疲労回復茶と……それからグミです」


「グミ?」と青司が片眉を上げる。


「ええ。持ち運びが楽で日持ちもするので、貴族商人問わず馬車旅の客に人気でして。街道沿いの旅籠が買い取って、旅人がそこから他所へ持っていく形です」


「なるほど……そうなるのか」


 青司は思わず笑った。用途が完全に噛み合っている。


「ゼリーは街の飲食店で定着しつつあります。ただ持ち帰りはまだ難しいようで。店で食べる品ですね」


「うん、それはそうなるだろうな」


リオナもこくりと頷いた。


「ぷるぷるしてるし、形も壊れちゃうものね」


「ええ。逆に言えば、街の“楽しみ”として根付く可能性は高いと、領主のフィオレル様も仰っていました」


 クライヴがそこで視線を上げた。


「こちらとしては、持ち運べる菓子はグミ、店で味わう菓子はゼリー、と用途が分かれた形です。どちらも広がり方が違うので、悪くないですね」


 応接室の空気が少し明るくなった。


 王都の眩しさとは違う、小さな街の確かな熱。それが帰ってきた二人の前に積み上がっていた。


 そこでクライヴが書類を重ね、少し表情を引き締める。


「そして――もう一つ。こちらが重要です」


 エリンが封筒を差し出した。軍務局の封蝋。


「第三騎士団から、正式な“追加発注”です」


 青司は息を止めた。


 クライヴが続ける。


「採用された装備の仕立てと布地の補充です。それから、新規で第一、第二部隊向けの肌着試験も入っています。季節替わりに備えたいとの意向ですね。……あと第三騎士団が最優先ですが、生産が追いつくのであれば女官向けの肌着も、と。王城の軍と女官の窓口が第三騎士団長様になっているので」


 リオナが喜び半分、驚き半分の声を漏らす。


「第三騎士団って……この前の?」


「そうです」

 ミレーナが頷く。

「あの時納めた分、と言っても試験用なんだけど、評価が高かったみたいです」


 青司はしばらく封筒を眺めた後、そっと置いた。


 クライヴは腕を組み、短く息を吐いた。

「……官需の匂いがしてきましたね。嬉しい反面、段取りを間違えると怖いことになりそうですね」


「……セリーナが、よくやってくれたな」


 その名が出た瞬間、クライヴは次の報告に移る。


「はい。工房の方ですが、セリーナ工房長が、生産体制を一段階上げています。糸の配合も季節向けに調整中。ただ、その影響で――」


「技術の方で、動きがあった?」

 青司が察した。


 クライヴは頷いた。


「王都服飾ギルドから接触がありました。ギルド長ダラス子爵です。布地と仕立ての供給元について、確認と――おそらく提携か、調整の申し出でしょう」


「……なるほど」

 青司は腕を組む。


 ミレーナが補足した。


「王都ギルドとしては、地方で軍装備の布地供給が成立しているのが気になるんでしょうね。市場を押さえるために話をしたいみたいです」


 エリンが遠慮気味に言葉を添える。


「ただ、セリーナ様は工房長ですし、技術や生産に責任を持つお立場です。外に流すようなことは絶対にされないと……私は思っています」


 その言葉にクライヴははっきりと頷いた。


「同意です。フィオレル卿も同見解です。そこで――」


 デスク上に一枚の文書を置く。


「ダラス卿との話し合いは、フィオレル卿の在席の場で、セリーナ工房長同席の上で行う手はずになりました。まだ日時は調整中です」


 青司は納得したように息を吐いた。


「それが一番いいな。セリーナが独りで王都ギルドと渡り合うのは負担が大きいし、俺が出るのも違うしな。フィオレル卿が場を作ってくれるなら安心だ」


「そういう流れですが、うちも無関係ではいられません」

 クライヴは丁寧に言った。

「王都では商流と利権の調整があります。セリーナ工房が王都側から正式に認知されれば、供給の根が太くなります。けれど、王都ギルドに発注先となられたりしないよう牽制は必要でしょう」


「服飾ギルド工房の関係が誰によって繋がっているのか……という点は、王都側も注目するでしょう」


 青司は特に警戒もなく頷いた。

「そっちの調整はクライヴにお願いしていいかな」


 クライヴは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息をついた。

(……本来そこに座るべき“源”は、あなたなんですが)

「……ええ、承知しています」


 リオナがそっと青司を見る。


「……すごいことになってるんだね」


「まあ、流れとしては想定内だけどな」

 青司は肩を竦めた。

「いずれ王都は動くと思ってた。ただ――」


 少しだけ笑う。


「帰ってきたばかりで聞く話じゃないな、これは」


 その言葉に商会員たちは静かに笑った。


 クライヴが最後に帳簿を閉じる。


「王都は甘くて眩しいでしょうが、こちらも現実的で忙しい。……良い風が吹いておりますよ、セイジさん」


「そうだな」青司は背もたれに深く座り直し、ふっと息を吐いた。


「ただいま。――戻ってきたって感じがする」


 リオナも横で柔らかく笑った。


「うん。落ち着く」


 応接室の窓から入る風は、王都のそれとは違う乾いた草と木の匂いだった。



*******


 王都から戻って数日が経つ頃、リルトの空気は乾いた草の匂いと人いきれの匂いが混じりはじめていた。

 夏の暑さはまだ街路に残っているのに、商人たちの足取りはもう収穫の季節のそれだった。

 朝の鐘が鳴るより早く、すでに北通りの方角から人の足音が続く。

 夏の盛りがひと段落し、収穫とともに物が動く予感に満ちた時期になってきた。

 けれど、その賑わいには去年までには無かった色が混じっていた。


 黒猫亭の裏口に荷下ろしを手伝っていた少年が、店の女将に声をかけた。


「おばちゃん、あっちの通り、また馬車来てるよ。でっかいやつ」


「ああ……今日も?」


 少しお腹が目立ってきた女将は腰に手を当てて小さくため息を吐いた。


「立ちっぱなしは堪えるわね……」


 馬車と言っても荷馬車ではない。屋根付の二頭立て、黒色で磨かれた車体、御者の綺麗な黒い外套。リルトでは珍しい王都風の馬車だった。見慣れぬ紋章が門扉越しにちらちらと揺れる。


 馬車が向かう先は決まっている。北通りの一角、リオネの店舗と商会事務所が並ぶ区画だ。


 マリサは肩をすくめた。


「王都帰りってのは、こういう意味もあるのねえ」


 通りを渡る主婦たちの話し声が耳に入る。


「またリオネなの?」


「この前も、というか開店からずっと並んでるわよ。リオナちゃんの良い人でしょ、一体何してるのかしらね」


「知らないけど、若い子もおばさまも買うんだもの。怖いわ」


 馬車一台が街の空気を変えるのは、地方都市では珍しくない。けれどリルトの場合、それが一台では済まなかった。翌日も、その翌日も、南門から西門から、違う紋章の馬車が現れた。しかも、中に乗っているのは商人ではない。夫人筋、令嬢筋、侍女筋。街の人間ならそれだけで察するものがある。


 それに反応したのは、街の仕立て屋だった。


 少し前に貧民街にできたいくつかの仕立て屋は、昨日も灯が消えていない。明け方、職人見習いの少年たちが目をこすりつつ店前の水桶で手を冷やしていた。縫い針で指先を痛めたのか、薄く血が滲んでいる。


「また夜通しやりやがったのか」

 パン屋の親父が声をかけた。


「うちのドレスを見たいって……秋の社交に間に合わせろって来てさ、髪の色とドレスの色を揃えたいとか」

 見習いの少年は、半ば呆れた声で言った。


「こっちも、もう何人も予約が入ってる」


「そう。王都で聞いてきたって。それで……なんか、女の人たちが押し寄せてる」


「揃えるって……髪の色なんて揃えるもんなのか?」


「それが流行になるんだってさ。ミレットならそれができるって。王都帰りの奥様が言ってた」


「なんだそりゃ……こっちはパンで精一杯だってのに」

 パン屋の親父は笑って肩をすくめたが、笑い事ではないことは街の空気が物語っていた。


 同じ頃、仕立て屋と距離を置いていた別の商売にも余波が飛ぶ。美容室「ミレット」の前には朝から三人の女が立っていた。扉こそ開いていないが、店前の黒板を食い入るように見ている。


「……半年先まで?」


「ほんとに書いてあるのよ。『休日枠は年内満了、平日午後は四ヶ月待ち』って」


「冗談じゃないわよ……」


 黒板の角に小さく刻まれた文字を、誰かが指先でなぞる。


『ホヅミ商会より、ヘアカラーの新色更新』


 そう書かれていた。その言葉ひとつが価値を変える。女というものは、そういう情報線に敏い。瞬く間に噂が広がる。


「ミレットに行ける女は、王都の令嬢みたいになるんですって」


「誰が言ったの」


「知らないけど、リオネの客が言ってた」


 その噂が、街の別の階層を動かした。市場の奥にある雑貨屋、帽子屋、靴屋、鞄屋。細かい消費が波のように押し寄せる。


「帽子、昨日三つ売れたんだよ。秋物の高いやつ」


「この街の奥様方が、なんで急に……」


 噂には名前があり、道があり、理由がある。今回の潮流はこうだ。


 ――王都の女官と貴婦人たちが、リルトにできた新しい服飾の縫製とミレットの整髪と髪染めを評価した。

 ――それがリルトに帰ってきた。

 ――だから街の令嬢も主婦も焦った。


 文化というのは、そうやって都市を流れる。



 商会事務所の前には、午前から人だかりができていた。最初に来たのは商人筋だったが、昼前になると侍女筋が加わり、午後には夫人筋の使者まで混ざった。従者が紋章入りの封袋を抱え、時間を区切って姿を見せる。


 事務所の扉が開けば、廊下には香水の匂いが残る。羊皮紙とインクの匂いと混ざって、リルトの空気とは思えない香りになる。


 受付の女性は朝から水を飲む暇もないほど忙しく、書記二人は帳簿を抱えたまま事務机と応接室を往復していた。


「受付番号二十一番、ドルバン商会の方――こちらへどうぞ」


 応接室に通される来客の顔ぶれも、もはや地元とは言いにくかった。王都からの商人、地方領からの使者、名義は“代行”だが実質は夫人筋の窓口、といった具合だ。彼らは細い声で話し、大きな財布を持って帰る。


 クライヴは午前中だけで十通の書状を捌き、五件の面談を済ませ、昼食を抜いたまま帳簿を開き続けていた。机の上には蝋で封じられた封書が積み上がり、印章の朱色が紙の端に点々と広がっている。


 隣では書類の束を抱えたエリンが息を切らしていた。普段は控えめな彼女の声が少し荒い。


「次はどちらの殿で?」


 クライヴが尋ねると、エリンは封筒を開きながら答えた。


「ええと……『王城女官局・調度係』。納期と数量の確認みたいよ。もう、こんなに引っ切りなしじゃあ、会計の仕事に手が回らないじゃない」


 珍しくエリンが泣き言を言い出している。その気配を感じたクライヴは、仕事に必要な情報だけをすばやく抽出する。


「調度……? 衣装じゃなく?」


「肌着ですって。季節替わりの調達計画に入ったようよ」


「王城の女官筋は第三騎士団長が窓口だぞ……?」


「そう言ってたわよね?」


「俺からそう伝えるさ」


 クライヴは淡々と言うしかなかった。王城から肌着の発注が来るなど、半年ほど前なら誰が想像しただろう。けれど、商流とはそういうものだ。文化が価値に変わり、価値が金額に変わり、それが書状と封蝋を通じて地方に降りてくる。


  午後になって、事務所前の通りが妙にざわついた。

 南方領主の馬車が停められ、従者が封筒を持って降りてくる。見覚えのある紋章だ。フィオレル家ではない。城の軍務筋でもない。


 エリンが目だけでクライヴを呼んだ。


「クライヴ……こちら、ええと、夫人筋の……」


 クライヴは立ち上がり、封筒を丁寧に受け取る。

 押された印章を一目見て、即座に状況を把握した。


「王都の名門宰相家の夫人筋みたいだな」


 そこで一拍置いてから――


「王城経由ではなく、領地から直接使者を走らせている……ここまでされたら断れない」


 エリンは思わずため息を漏らした。


「もうっ、頭良すぎよね……こっちはついていけないわ」


 クライヴは書状を軽く持ち替え、小声で付け足した。


「貴族は“門前払いをされたかどうか”すら計算に入れる。ここでの手続き一つで、何家分の点数が変わります」


 封は厳重で、文面が長い。依頼内容、数量、納期、条件。そのどれが欠けても駄目な種類の文書だ。


 クライヴは中身を確認した後、従者に丁寧に言った。

「こちらの内容は確かに拝受いたしました。工房の生産状況と納期可能数を確認し、書面にて折り返します。――ただし、『優先』とはお約束できません」


 従者は少しだけ表情を崩した。怒ったわけではない。むしろ安心したようだった。王都では“優先を乞う”のが夫人筋の作法だ。しかし本当に優先されるとは思っていない。商会の答え方を見て、自分の主人の格と扱いを測るのだ。


「承知いたしました。ではご返答を三日以内に」


「三日以内に」


 従者が去ったあと、事務所に静けさが戻った。

 エリンが小さく呟く。


「どうなっちゃってるの、この数日今までよりずっと……」


 クライヴは書状を丁寧に積みながら答えた。


「変化の兆しだよ。王都で芽吹いた文化が、地方都市の消費を変える。珍しいことではないさ」


「ここまでなんて、珍しいわよ」


「……まあ、確かに珍しい。滅多に見ない波だ」


 王都の暑さを追いかけるように、夏向け肌着の注文がいまリルトへ流れ込んでくる。季節が過ぎても、商いは追いついてきていた。


 窓の外には、リオネの店舗前に並ぶ女性客の列が見えた。色とりどりの衣装、控えめな化粧、香水の匂い。リルトの女の顔ではない。王都の社交界の入口に立つ女の顔だ。


 その列の最後尾に、小さな木箱を抱えた仕立て屋の職人が立っていた。注文確認のためらしい。細い声が聞こえる。


「肌着の縫製箇所を、うちにも見せてもらえませんか……?」


 店舗に出ているのは肌着だけだ。それでも新規制作の種を探すには充分らしい。職人たちは縫い方や断ちのパターンだけを熱心に覗き込む。

 糸のほうに秘密があるとは思いもしないまま。


 街の内側から、同じ力が伸びてくる。文化とは、そうして広がる。


 その少し離れた場所で、パン屋の親父が呆れたように笑っていた。


「なんだか王都が移ってきたみたいだな……ここは本当にリルトか?」


 それは誇張でも冗談でもなかった。通りを行く人の数と、金の流れと、香水の香りが、確かに街の格を一段押し上げていた。


 そして、商会の奥でその現実を一番実感していたのは、帳簿の数字と向き合うクライヴたちだった。


 ページをめくるたび、赤と黒の数字が増えていく。仕入、外注、納期、王都向けの輸送コスト、工房の生産限界数。全てが同時に動いている。


(……これは、ひとつの波では終わらない)


 彼は静かにそう確信した。


(王都の評価が“帰ってきた”のではなく、“流れ込んできている”。リルトそのものが、変わりはじめている)


 帳簿を閉じ、インク壺の蓋を戻す。その指先に少しだけ震えがあった。恐ろしくもあり、嬉しくもある震えだ。


 クライヴは窓の外を眺め、ふっと息を吐いた。


「――本当に、良い風が吹いていますよ。セイジさん」


 その頃、当の青司は王都帰りの疲れを癒すべく、商会の奥で淹れたばかりの茶をリオナと飲んでいた。外の騒ぎを知らないわけではない。けれど、まだ実感はしていなかった。


 街が変わり、商売が動き、文化が広がる。その波の中心にいる自覚は、青司にはまだ薄かった。


 だが、リルトに吹き始める少し涼やかな風は、その事実を容赦なく告げはじめていた。


 表の喧騒はまだ止まない。

 翌日は、さらに一台多く馬車が来ることになる。

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