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王城の奥、女官たちの控室は、昼休憩の茶の香りと、制服の麻の匂いが混じっていた。夏の日差しで焼けた石畳の熱がじわりと壁に残り、扇子で仰ぐ風が湿った髪を揺らす。
「ねえ、先日の避暑でリルトへ行った女官長が戻ってきたの聞いた?」
背の低い女官が声を潜めると、周囲が一斉に近寄った。
「聞いた聞いた。噂ならこっちにも来てるわよ。美容の店があるって」
「美容の店?」
別の女官がぱちぱち瞬きをする。
「あるのよ。髪の艶を出す液や、体を滑らかにするクリームが売られてて、王都よりよっぽど良いって」
「体を滑らか?それどんなもの?」
「肌がもちっとして、触れるとすべすべになるんだって。水仕事が多い女官にはうってつけなんですって」
控室がざわつき、皆が腕や髪に視線を落とした。
そう、彼女らにとって美は地位でも嗜好でもなく、労働の防護具でもあった。
「それから、日焼け止めの薬もあったらしいの」
「ほんとに?」
「ええ。本当に効果があるんだって。庭園担当の女官はあれがあるとないとじゃ、頬の焼け方が全然違うらしいわ」
「信じられないわねぇ……地方の薬師が作ってるって噂なのに」
「地方って言っても、リルトは交易都市なのよ?東門からも南門からも商人が来るもの」
「国境ほどではないけどね」
話しながらも、皆の瞳がわずかに輝いている。
「それにね、美容室もあるんだって」
「美容室?」
「そう、美容室。女官長が言うには、髪がさらさらになって、整って、指が引っかからないんだって。王都の美容院より良いって。大きな声じゃ言えないけど、白髪が黒くなってたのよ」
女官の一人が声を潜め、肩をすくめる。
「白髪が……?それ、薬じゃなくて魔法じゃないの?」
「それ、本当にすごいわよ。王都には元宮廷仕立て人の美容師もいるのに」
一瞬の沈黙が生まれた後、誰かがぽそりと言った。
「……で、その美容室どこにあるの?」
全員の視線がそちらへ向く。
「リルトの“美容室ミレット”ってところらしいわ。……行きたいでしょ?」
「行きたい……」
全員が同時にため息を漏らした。
「でも王都から遠いし、休暇もそんなに無いし……」
「仕方ないわよね。諦めるしか」
しかし別の女官が口を挟む。
「でも、そのリルトって今年の夏は避暑地扱いになってるでしょ?貴族夫人が何人か滞在してるって噂だし」
「避暑地なの?」
「山から川が流れてて、風が涼しいんだって。王城の噴水よりずっと冷たいらしいわ」
また控室がざわめく。
「貴族が避暑に行く場所に、庶民が行けるわけないじゃない」
「でも噂が広まれば商人が動くものよ。多分そのうち王都にも入ってくるわ」
「入ってきたら絶対買ってやる!」
女官たちが笑い合い、お茶を啜る。
しかしこの小さな囁きは、王城内のあちこちで広がっていた。控室、厨房、庭園、侍女控え……数日も経たぬうちに、“王城生活者の噂”から、“貴族階層の社交情報”へと形を変えていく。
そしてある晩、王城の一角――涼しい色の絹のカーテンが揺れる社交サロンにて。
「奥様、ご存じ?リルトには髪の艶を戻す美容室があるそうですわ」
若い夫人が涼しげな扇で口元を隠しながら囁いた。
「美容室?地方に?」
「ええ、とても人気らしくて。聞いた話なんですけどね、髪を梳かれても痛まないとか、白いものが黒くなるとか……まあ、どこまで本当かわかりませんけれど」
「まあ……王都の美容師でも、そうはいかないわよ?」
「それだけじゃなくてよ。聞くところによると、身体を滑らかにするクリームや、夏の日焼けを防ぐ薬もあるんですって」
別の夫人が瞳を輝かせた。
「日焼け止め?それは侍女に欲しいわ」
「わたくしだって欲しいですわ。特に馬車で郊外へ移動すると、頬が赤くなってしまうもの」
「まあ、羨ましい話。リルトって、そんな文明的な街だったかしら?」
「わたくし、去年までは違ったと思いますわ。けれど今年は違うらしいの。最新の肌着もあって、涼しいのですって」
「肌着?」
「吸湿して乾くとか……」
周囲の夫人たちが一斉に顔を寄せた。
「そんな服があるなら暑さも違うでしょうね」
「それに仕立て服も揃っているそうですの。帽子、靴、バッグまで」
「地方で?」
「ええ、ラシェル子爵様のお茶会で拝見いたしましたの。
その……柔らかくて動きやすいとか、洗っても型が崩れないとか……夫人だけでなく、殿方の目にも留まる品でしてよ。
そうそう、それだけではなくて、あの新しいお菓子も実に美味しゅうございましたの。
ご一緒した皆さまの話題が“甘味は夫人方、服飾は令嬢方、そして肌着は殿方”と、それぞれ別の方向に散ってしまって――皆さま驚かれておりましたわ。」
「……面白いわね」
扇子がぱたりとたたまれ、夫人たちの間に静かな火がつく。
噂は王城から王都のサロンへ、サロンから社交界へ。
そしてゆっくりと――しかし確実に、ある人物の耳へ届く。
◆
ロマーヌ公爵夫人は、静かに昼の茶を楽しんでいた。苺の砂糖煮と紅茶。夏の光がカーテン越しに柔らかく刺す。
侍女が近寄り、跪く。
「奥様、王城よりの書状にございます。リルトで出回っている品々の件、とのこと」
「リルト?」
夫人の瞳がわずかに動いた。
「読み上げて」
侍女は封を解き、丁寧に文を追った。
美容、日焼け止め、クリーム、涼しい肌着、仕立て服、鞄、靴、帽子、ゼリー――女官の報告としては十分すぎるほど詳細だった。
「……なるほど」
夫人は指先でカップを触れ、紅茶の縁を軽く揺らした。
「侍女長はなんと言ってらしたのかしら?」
「“王都より良いものがある”と申していたと」
「侍女長がそう言うなら、誇張ではないのでしょう」
夫人は胡桃色の瞳を少し細めた。
「医薬、美容、服飾、嗜好品……しかも消費層がバラバラ。王城生活者、避暑の夫人、侍女。そのうえで品が揃うというのは……」
扇子の先端で空をなぞる。
「市場の端で風が変わったということよ」
隣に控えた侍女が息を飲んだ。
「……セイジに、リオナ。あなた方、まだ面白い芽を持っているのね。けれど、それらを束ねて外へ流しているのは……フィオレル卿なのかしら?」
その笑みは温かった。
けれどその奥に、王都で最も古い名家の嗅覚が光っていた。
サロンの扉が音もなく閉じると、室内はひっそりとした静寂に包まれた。
日差しを受けて揺れる窓辺のレースが、白い波のようにたゆたう。
公爵夫人は、卓上に置いた細長い銀匙を指先で転がしながら、ひとつ息をついた。
ひどく上品なため息だった。
「……少し、悪いことをしたかしらね」
呟きは独り言だったが、声には棘も罪もなく、ただ淡い愉しさが混じっていた。
フィオレルが持ち帰った“あの若い商会”の話。
髪を梳かして痛まない櫛も、女官たちの肌着も、軍部の装備品も——
すべて、王都が好む“静かな革命”の香りがした。
夫人は目を伏せ、扇子で頬をそっとあおぎながら続ける。
「利権というものは、野に置いておけば腐ってしまうもの。
ならば扱いを心得た者に預けるのが礼儀でしょう?」
第三区——第三騎士団長オズワルドの顔が脳裏に浮かぶ。
誠実で、政治に無関心ではなく、しかし欲深すぎもしない男。
軍部と王城のあいだを、滑らかに繋ぐ手腕を持つ数少ない騎士団長。
「あの子たちは、まだ矢面に立てるほどに強くはないし……
フィオレルだって護られて良い年頃でしょう?」
唇にほのかな笑みが浮かぶ。
慈愛ではなく、政治に携わる女の微笑みだった。
「ええ、余計なお世話と言われても仕方のないことね。
でも、貴族というものは“仕方のない生き物”なのよ」
扇子の端で卓を一度、軽く叩いた。
音は小さかったが、そのひと打ちは意思表示だった。
「さて……あとはオズワルドが上手く吸収してくれるでしょう。
王城女官は噂が好きだし、軍は実利に弱い。
そのうえ予算まで第三騎士団が拾ってくれるなら
——王城はどれだけ静かに済むことか」
そこまで言って、夫人は小さく肩を揺らした。
「やっぱり少し悪いことをしたわね。
本人たちの同意も訊かずに、盤面を片付けてしまったのだもの」
しかし声の底には、後悔も自責もない。
あるのは、たしなむような愉悦だけ。
「でも——あの子たちには、この程度でちょうど良いのよ。
世の中は、善意だけでは磨耗してしまうものだから」
夫人は立ち上がると、扇子を閉じ、優雅に歩き出した。
ひとつだけ小声で付け足す。
「……そして何より、わたくしは“気に入った”の。
気に入ったものを守るのに理由なんて要る?」
壁にかかった大きな鏡の前で足を止め、
夫人はそのまま微笑を映した。
——少女のような、悪戯を仕掛けた後の笑みだった。
◆
数日後――
王都服飾ギルド長、ダラス子爵の書斎。
「またリルトの噂か」
ダラスは、侍女が買ってきたという瓶を手に取った。淡い蜂蜜色の液体。粘度が高く、陽を透かすと微かに琥珀色が揺れる。
「髪の艶が出る液、と」
蓋を少し開け、香りを嗅ぐ。
「悪くない。香りは控えめだが、薬臭くも安物の花でもない。……面白い」
机の前で控える部下が言う。
「女官たちの間でもかなり噂になっているようで、“避暑で買ってきてほしい”と頼む者も多いとか」
「避暑か。あの街には川があるからな。女は涼しい所が好きだ」
「それに、服飾ギルドとしても無視できないのは“涼しい肌着”と“仕立て”の噂でして」
「肌着?」
「吸湿して乾くとか」
ダラスの目がすっと細くなる。
「湿度に耐える下着……王都の夏の問題が何か知っているか?」
「汗と匂い、蒸れ、皮膚病……」
「その通りだ。宮廷でさえ、蒸れた下着は臭いを隠せん。もしその噂が本物なら、市場は一気に動く」
蓋を閉じ、机に置く。
「美容、日除け、肌着、仕立て。どれも横の繋がりが無い。……ということは複数の供給ルートに違いない」
そして囁くように続けた。
「――だが“源”は一つだろう」
「源、ですか?」
「女官の噂も夫人の噂も、結局最後は“リルト”に行き着く。フィオレルのところだ。ゼリーのレシピ代はずいぶんと高く跳ね上がってしまったか。そうなると、私の仕事は決まってくる」
机の上の書類に視線を落とし、低く呟く。
「……王都が欲する物を供給する者と組む。それが服飾ギルドの仕事だ」
◆
昼下がりの王都は、澄んだ陽光が石畳を照り返し、人と馬車と呼び声とで絶えず揺れていた。通りに吊るされた布の日除け越しに風が通り、香油と甘い焼き菓子の匂いが混ざり合う。
青司とリオナは馬車を降りると、自然と肩が並んで歩き出した。特に行き先を決めていたわけではない。街並みが誘うままに、ただ脚が向く方向へ。
「……すごいな。森を出てから、あちこち賑やかだとは思ってたけど、ここは桁が違う」
青司が呟くと、リオナは前を見たまま小さく鼻を鳴らした。
「人が多い……あ、あそこ、なんだろ」
視線の先は、細かい飾り紐と花の髪飾りが並ぶ小さな店だった。色と形が溢れていて、店先からして目が忙しい。
「入る?」
リオナは一瞬迷ったふうに耳を揺らしたが、すぐに頷いた。
店の中はさらに眩しく、薄い紫、深い紺、若草、金糸……色の洪水だ。リオナは店の隅の方で軽く固まっていた。華やかなものに囲まれると、自分が異物に感じられるのだろう。
青司は棚を見ていたが、ふと横目でリオナを見ると、視線を落としたまま指先で布の端をつまんでいた。
「こういうの、似合いそうだけどな」
「え……?」
青司は手に取ったのは、小さな革のバレッタだった。装飾が控えめで、ただ中央に葉の細工が一枚。派手ではないが、柔らかい品がある。
「猫耳と髪の境目のとこに留めるの、いけるんじゃないか。ほら、こう……」
言いながら自分の手で示すと、リオナは驚いたように目を見開いた。
「でも……高いんじゃ……」
「そんな高くねぇよ。森で拾った素材の方がよっぽど苦労したわ」
店主の笑いが洩れる。青司は会計を済ませると、袋を渡さずそのままリオナに差し出した。
「せっかくだし付けてみなよ」
言われてリオナは小さく戸惑い、耳を折り気味にしながら袋を開けた。鏡越しに位置を探し、そっと留める。耳が少し揺れ、柔らかく馴染む。
青司はじっと見てから、短く言った。
「似合ってる」
その一言で、リオナの尾がわずかに揺れた。本人は気づいていない。
「……へへ。なんか、嬉しい」
出口に出ると、通りの音が一気に戻る。呼び声、車輪、馬のいななき、笑い声、鍛冶屋の叩く音。
二人は少し歩いたところで、甘い匂いに足を止めた。
「すごい……!」
菓子店の窓越しには、焼きたての小さな菓子やクリームを詰めた生菓子が所狭しと並んでいる。青司はメニューを見上げ、リオナは目を輝かせていた。
「好きなの頼もうよ」
「えっ、いいの……?」
「折角王都に来たんだし」
席に着くと、店内は香草と砂糖の匂いで満ちていた。リオナは遠慮というより迷いでしばらくメニューを眺め、結局、小さな焼き菓子の盛り合わせにした。
運ばれてくると、青司が真っ先に摘んでかじる。
「うまいな、これ。アーモンドか?」
「ちょっと見せて……」
リオナは皿を覗き込み、青司の口元に粉が残っているのに気づいた。
「……ついてるよ」
そう言って指で軽く払う。青司は固まった。
「お、おう……ありがと」
リオナは気にせず食べ進め、すぐに目を丸くした。
「やわらかい……美味しい……王都すごい……!」
青司は笑った。リオナが幸せそうに食べているのを見ると、それだけで来た甲斐があると思えてしまう。
だが、菓子店を出た瞬間、また人の流れが飲み込んでくる。
「すげぇ……こんなに詰まって歩けるんだな、人って」
「押される……」
通りの速度は早く、止まればすぐ後ろから声が飛ぶ。建物からは幾つもの匂いが漏れ、馬車の横をすり抜けるたびに馬の吐息がかかる。
リオナは耳を畳む癖が出ていた。
「大丈夫か?」
「うん……ちょっと、慣れないだけ。森はもっと……静かだったから」
その後も、紐飾りの店、香油の小瓶を扱う屋台、薄い生地を専門にする店……どれも興味深かった。王都の多様さは圧倒的で、目も頭も追いつかないほど。
だが同時に、二人の足取りは次第に重くなる。
馬車の停留所は行列で詰まっており、並んだ青司は思わず苦笑した。
「王都って……生きてるって感じがするな」
「うん。楽しいけど……息を吸う場所が少ない」
「わかる」
ようやく乗り込んだ馬車は揺れながら野バラ亭へ向かう。通りの喧騒が徐々に後ろに下がっていく。
馬車から降りると、風が変わった。花と葉と土の匂い。陽の熱を含んだ草の匂い。思わず森の縁が遠くに見える気がした。
リオナは不意に目を細めた。
「……ねぇ、そろそろ」
「……そうだな」
「空気が、そう言ってる」
耳と尾が、ほっと緩んでいた。青司も深く息を吸い込む。
「……確かに。王都の菓子もうまかったけど、やっぱりこっちの匂いの方が落ち着く」
「うん。わたしは……森がいい。王都も好きだけど、ずっとは、ちょっと」
「ああ。俺も同じだ。……そろそろ帰るか、リルトに」
リオナは嬉しそうに笑った。
「明日の朝、帰りましょう」
二人は自分たちの居場所を再確認していた。
王都は眩しくて甘くて、面白かった。
でも、帰る場所は別にある。
それが今は、とても大事なことのように思えた。




