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 リルトの空気は、夏の盛り特有の鉱石のような熱を含んでいた。

 王都から届く伝書鷹の羽音も、このところは随分と増えた。


 その日の午後。

 ホヅミ商会の店舗横の店舗では、クレスがカウンターに向かい帳簿を整えていた。

 硫酸紙に写された数字と印章の跡は、王都へ送った荷の控えである。


(クライヴの出立から数日。さて……初動の返報はどうなるか)


 そう考えていたところ、扉が軽く叩かれた。


「戻りました、クレスさん」


 振り向けば、汗を拭いながらクライヴが立っていた。


「おお、クライヴ殿。無事の帰還、安堵しました」


「何かと急な対応をありがとうございました」


 言いながら、水差しの杯を一気に煽る。

 その動きに疲労はあるが、沈んだ色はない。むしろ――結果のある帰還だ。


「どうでした、王都は」


「まあ……一言では収まりません。二階へ移動して話しましょうか」


クレスは頷き、クライヴと移動した。

 ミレーネ、エリン、商会の機関を担う若い二人も集まってくる。


 簡素な事務机を囲んで、クライヴはゆっくりと息を整えた。


「まず、第三騎士団の方です。挨拶に行き、肌着を含めた装備一式の受注を取ることに成功しました。こちらが出向く前から、向こうは調べをつけていたようで、内々の段がついていましたね」


 帳簿に目を落としていたミレーネが顔を上げた。


「三騎団って、王都近隣の盗賊や魔物討伐と街道警備のとこでしたよね? まさか軍需に繋がるなんて、思ったより早すぎる展開ですね」


 クレスは淡々と頷いた。


(“三騎”という選択が現実的だ。補給線が短く、王都へのレポートも早い。良い)


「数は?予備は?」とクレス。


「最初は500。……一人に二組だそうだ。洗い替えが必要なのは、さすが分かっている。さらに、他の軍団や女官の窓口まで第三騎士団長が担って頂ける事になった」


 ミレーネが口笛を吹いた。

「それ、売れたら止まらないやつですね」


 クレスは眉をひそめ、ふと思った。――窓口は普通、フィオレル様ではないのか? だが、第三騎士団長が直接回すことで、滞りなく進められるのかもしれない。



「次にロマーヌ公爵夫人だ」


 その名にエリンがびくりと肩を震わせた。

 地方都市の娘にはそれだけで十分な威圧感がある。


「三騎団との折衝の道――偶然だろうが、廊下ですれ違い、リオナさんが夫人の目に留まった。……ずいぶんと気に入られていた」


「気に入られた、って……どういう意味で?」とエリン。


「おそらくは、庇護のようなものだろう。あの方、リオナさんを非常に気にかけているようだった」


 クライヴの言葉は冗談めいているのに、笑う者はいなかった。


「それで、リオナさんは私室に連れて行かれた。第三騎士団との折衝を終えたセイジさんが迎えに行ったら――どうやら、セイジさんも夫人の眼鏡に適ったらしい」


「あのセイジさんが、貴族に?」とミレーネ。


「驚いたよ。だが、夫人の前でも自然に振る舞っていた……そういう人間は珍しいんじゃないか。俺は、あの肌着を着ていても、背中に汗が流れていたぞ」


「翌日、仕度を整えて夫人と正式に面会し、皆に用意してもらった贈り物を商会の返礼として届けた。そこでだ、王都服飾ギルド長――ダラス子爵との橋渡しを頂いた」


 室内の空気が少し変わった。

 王都“ギルド長”の言葉が持つ重みは、商人なら知っている。


「ダラス子爵って……領主のフィオレル様と仲良かった人?」とミレーネ。


「そうだ。その縁もあるのだろう。ただ今回は“商会”宛に正式に繋がったんだ。貴族との付き合いを学べ――ということでもある」


 エリンがそっと息を呑む。

「肌着……王都の服飾と組むんですか? セリーナは、リルトの服飾ギルド、何と言いますかね」


クライヴは軽く肩をすくめた。

「向こうは乗り気のようだ。理由は単純――あれが軍需品として伸びると踏んでいるのだろう。まだまだ調整に汗をかく必要はありそうだ」


 クレスは静かに指を組んだ。


(服飾ギルドが動くなら――素材、採寸、輸送、礼装、冬装備……全部に波及する)



「それと……皆には本当に助けられた。セリーナへの繋ぎも、贈り物の仕度も、急な段取りも……全部、こちらでは時間がなかった」


 その言葉には、形式的な礼の響きはなかった。

 ミレーネは照れ隠しに髪を掻き上げながら、小さく息を吐く。

「……ふふ、でも私たちも、手が空いていたわけじゃないんですけどね」


 エリンは胸の前で手を握りしめ、目を輝かせる。

「商会って……こういう時のためにあるんだね」


 クライヴは机の上に置いた手を握り直し、少しだけ肩をすくめる。

「うむ……ここまで王都で直接折衝ができるとは思わなかったな」


「服飾ギルド工房の方には、フィオレル様からも通達があったようです」

 クレスは改めて頷き、言葉を続ける。

「軍需品の件、これで本格的に正式ルートが開かれますね。つまり、我らの商会の名が、王都に点として刻まれることになるという事ですな」


 ミレーネは少し息を詰め、目を丸くした。

「点……本当に? まだ、できたばかりの商会なのよ? それなのに、もう単なる地方商会じゃなくなる?」


 エリンも口元を押さえ、静かに息を呑む。

「でも、こうして王都まで届くのね……」


 クライヴはゆっくりと息をつき、顔を上げる。

「商会長セイジさんの作り上げてきた物と皆の手があったからこそだ。王都での折衝は、俺たちだけでは到底成し得なかった」


 室内の空気が、少し変わる。王都での経験の重みが、確実にここに伝わっていることを、皆が肌で感じていた。


 クレスは拳を握りしめ、静かに声を漏らす。

「……クライヴ殿、よくぞここまで」


 ミレーネがふと笑みを浮かべる。

「……これからが本番かもしれないわね、商会としての」


 エリンは小さく頷き、確かな決意を胸に刻んだ。

 そして、皆の目が自然とクライヴに集まる――その視線に、達成感と、これからの責任の重さが交錯していた。



 事務机の周りに集まる商会員たちに軽く目をやり、クライヴは息を整えた。


「では、領主フィオレルのところへ、王都での報告に行ってくる。王都からの帰りのやり取りでは、卿もこちらに戻っているという事らしいからな」


 クレスがうなずく。

「承知しました。伝書鷹での連絡は済ませてありますが、やはり直接の報告の方が良いでしょう」


 ミレーネやエリンがそっと顔を見合わせる。王都での成果を一つひとつ整理して、今ここで子爵に伝える。胸の奥に、少しの緊張と高揚が混じった。


 店の扉を出ると、日差しが容赦なく二人の肩を照らす。リルトの街道を馬車で揺られながら、クライヴは頭の中で報告の順序を反芻していた。


 馬車が領主邸の前に停まる。執事が馬車に寄り添い、静かに扉を開ける。クライヴとクレスは息を整え、御前へ向かって足を進めた。


 室内に通され、目の前にフィオレル子爵が立っていた。子爵の表情は涼やかでありながら、鋭く、全てを見透かすような力を持っていた。


「王都での成果を聞かせてもらおう」


 その一言で、クライヴは深く一礼した。

「承知しました。順を追って、すべてご報告いたします――」


「そうか、夫人とそんな経緯があったのだな。私の方は、王都での用は済んだ。軍需の注文書は決済が通った。……正式にホヅミ商会へ発注をかける」


「はっ」


 フィオレルは頷いて、封筒をクライヴに手渡した。


「吸湿速乾肌着、下着、手袋、靴下、それに兜と外套の内貼り用布地。王城軍需局よりの依頼だ。予算もつく」


 部屋の空気が一瞬止まり、その瞬間、二人の胸に緊張と期待が同時に走った。


(……なんたる追い風だ)


 クレスは封筒を胸に抱えながら、心底そう思った。


 クライヴの報告が“王都への道”を拓いた直後に、軍から正式な需要が降りてきたのだ。


 フィオレルは商会員を軽く見渡した。


「王都は動き始めている。地方商会が遅れて良い理由はない。……しっかり頼むぞ。

 ダラスとの折衝には、必ずセリーナを同席させること。その場は一旦、私が仕切らせてもらう。

 ダラスとは付き合いが長く、こちらの意図も分かる人物だ。

 貴族とのやり取りに慣れていない者にとって、同席者がいた方がスムーズに事を運べるだろう」


 その言葉は圧でも命令でもなかった。

 ただ、領主としての当然の評価だった。


 クライヴはその言葉を聞き、心の奥で静かに理解した。


(――実質的には自分を守ってもらっているのだな)


 冷静な指示の裏に、領主の配慮を感じ取り、拳を軽く握った。


 クライヴは深く一礼し、拳を握りしめた。


(王都で動いた線が――リルトで、ここに結ばれた)


 夕刻、事務室の灯は消えることなく夜まで揺れていた。

 王都での折衝と軍需発注――遠く離れた都の決定が、今まさに商会の手の中に生きていることを、誰もが肌で感じていた。




**************




 ロマーヌ夫人に案内されて通された客間は、思っていたよりずっと静かだった。


 厚い絨毯は足音を吸い、窓の外の庭には低い灌木と白い花が整然と並んでいる。王都の貴族の館なのに、どこか森の縁に似た匂いがした。


 侍女が淡い金の茶を置いていく。手が震えないように気をつけながら受け取ると、指先が少し冷たいのに気がついた。


(王都……落ち着かない。みんながわたしを見る。見るけれど、触れない)


 視線は多いのに、距離は遠い。森とは違う感覚が、胸の奥に溜まっていた。


 隣に座る青司はいつも通りで、少し周囲を観察してから穏やかに微笑んだ。


「落ち着かないなら、深呼吸するといいよ」


 小声でそう言われただけで、少し肩の力が抜けた。


 ロマーヌ夫人は対面に座り、まるで小鳥を観察するようにこちらを見ていた。けれど嫌な感じはしなかった。好奇ではなく、もっと柔らかいもの。


「ふふ、お二人ともよく似ていらして」


「えっ?」


 思わず声が漏れ、青司も瞬きをした。


「慎ましくて、よく人を見ているところが、よ。王都には珍しいの」


 そう言って茶をすする仕草は優雅で、それでいて何も誤魔化していなかった。


 夫人はしばらく談笑した後、軽く席を立った。


「少し庭を歩いていらして。王都は息が詰まるでしょう? お連れしますわ」


 庭に出ると、夏の陽射しが白い石畳に落ちていた。だが、思ったより暑くはない。


 木陰の間を細い小川が流れ、浅瀬で光が揺れている。水が小石に当たるたびに、かすかな音が生まれた。


(……涼しい)


 リオナは無意識に歩調を緩めた。青司も並んで歩き、小川沿いの回廊へ誘う。


 流れを冷ますように、庭全体に風が通っていた。遠くで小さな噴水が水を跳ね上げ、その霧が細かく陽光を砕いている。


 王都の庭なのに、森の端に似た涼しさがあった。


 その後ろを、夫人がゆっくりと距離をとって歩く。


(……なんだろう、この距離)


 見守るようで、邪魔しない。目は逸らしているのに、意図ははっきりしている。


 (──ああ、本当に気づいていないのね。

 せっかく育つものを、宮廷の無粋な手で摘ませてなるものですか)


 庭を一周する頃には、さっきの緊張が嘘のように消えていた。


「……少し、好きかもしれない。この場所」


 気づかぬうちに口から出てしまい、青司が目を丸くした。


「リオナが好きって言うなら、いい庭なんだと思うよ」


 青司の言い方はいつもと同じだった。普通で、自然で、優しい。だから余計に胸が変に疼いた。


(どうして青司は、そんなふうに……)


 少しだけ目を伏せる。



 館に戻る途中、リオナが少し前を歩いた。夫人がその横に立つ。


「王都は疲れるでしょう?」


「……はい。でも、夫人のお屋敷は、落ち着きます」


「それはよかったわ。あなたの毛色は美しいもの。王都は時々、そういうものを欲しがりすぎるの」


 リオナが一瞬息を止めたのが分かった。夫人は声を潜める。


「だから私は、あなたを“見せびらかしたくない”のよ。分かる?」


「……はい」


 そのやり取りを見て、青司は気づいた。


(この人は、保護者であろうとしている)


 政治でも、商売でもなく、単純な感覚で。


 部屋に戻る頃、夫人が青司に向かって言った。


「貴方にも、少し見ていたいところがあるの」


「見て、ですか?」


「人はね、自分では気づかない魅力に守られているものよ。特に王都では」


 意味が分からず短く頷く。夫人は微笑んで付け加えた。


「私は無粋な手出しを嫌うだけですの。──今は、それで十分でしょう?」


 その言葉は柔らかかったが、同時に強かった。


 扉が閉まり、部屋に沈黙が戻る。


 リオナが小さく息をつく。


「……なんだか、不思議な人ね」


「うん。悪い人じゃないと思う」


「わたしも、そう思う」


 リオナは窓辺に寄り、庭を見下ろした。


「ここ、青司も好き?」


「うん。騒がしくなくて、目に優しい」


 リオナが少しだけ笑った。その笑顔は森にいた頃と同じで、安心した。


(……この環境なら、大丈夫だ)


 と、その時だけは本当に思えた。


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