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 王都の朝の空気は、夏の熱がまだ眠りきれずに漂っていた。

 石畳に残る夜の湿り気が、陽が昇る前から蒸気に変わりつつある。


 高い建物の影だけが僅かに涼しく、露店の布がぱたぱたと風に揺れた。

 匂いは湿った石と水路の藻と、焼け出したパンの皮の香り。


 クライヴは外套ではなく薄手の上着の袖を軽く整え、手に持つ封筒を確かめた。


(昨日の夕方に飛ばした伝書鷹は、今ごろ届いている頃だろうが――)


 汗ばむ季節にも関わらず、胸の奥の心配は冷たいままだ。


(ミレーネ、エリン、クレス。あの三人なら手際も気も利く。問題はない)


 そう思えば、自然と歩く速度も確かなものになった。



 ――昨日の夕方、リルト。


 夕方の帳が降り始めたリオネ商会(ホヅミ商会 二階事務所)に、風切り音が滑り込んだ。


 窓の桟に伝書鷹が留まり、嘴で小さくガラスを突く。


「……来たわね」


 紙片を受け取ったミレーネは走り読みし、わずかに眉を上げた。


「王都から緊急……クライヴさんらしいと言えばらしいけど」


 階段を駆け下りながら声を張った。


「エリン! 包装台、空けて! あと倉庫鍵!」


「は、はいっ!」


 商会事務を任されているエリンは慌てて帳面を閉じ、髪をまとめてから包装台へ走る。


 ミレーネはまだ紙片を読みながら指示を重ねた。


「シャンプー、コンディショナー、日焼け止め、スクラブ、バスソルト、ボディバター……種類が多いわね。

 詰めは“最上贈答”の要領でお願い」


「個数は?」


「王都の上客向けよ。最低限、体裁は整えましょう。

 箱は羊皮紙と薄紙で丁寧に、外装は麻布。案内状も添えて」


「……破損防止は詰物を忘れずに。オイル系は漏れ止めの紐を二重にするわね」


 リオネは閉店前の慌しい空気に切り替わる。



 ――王都、午前。


 商業ギルドの受付では、荷の受領がすでに確認されていた。


「クライヴ様、確かに荷物は王都商業ギルド倉庫に到着しております。手数料はこちらに」


 受付の事務官が淡々と手続き書類を並べる。


「迅速な対応、感謝します」


「いえ。リルトからの荷は、いつも綺麗に整っておりますので。扱いが楽です」


 その一言に、クライヴの胸中で緊張がほどけた。


(ミレーネたちの仕事の丁寧さは、こういう所で誰より輝く)


 ギルドを出ると、クライヴは直行で王城へ向かった。


(本来なら、こちらから土産を用意していくのが筋だが……先手を打たれた。なら、せめて礼を形にする必要がある)


 ロマーヌ公爵夫人の“心遣い”には、愚直に礼を返すのが最良だ。


(セイジさんの品は、商人としても価値がある)


 クライヴはそう考えていた。



 ――昨夜、リルト。


「ミレーネさん! この組は箱詰め完了!」


 エリンが息を切らしながら伝える。


「タグの文章は?」


「《香りと休息は働く人の補給》って書いたけど……商会っぽくないですか?」


「完璧よ。セイジさんの考え方にも近いし、王城にも通るでしょ」


 ミレーネは箱を持ち上げ、重さを確認する。


「クレスさん! 商業ギルドへの発送手配お願い!」


 その声に、店の奥からクレスが顔を出した。


「――で、宛先はどこです?」


「王都商業ギルド経由、ホヅミ商会クライヴ宛、至急。破損厳禁」


「了解した。……ところでミレーネさん」


 クレスはひとつ箱を持ち上げながら、低い声で言った。


「これ、王城に上げる気だな?」


「さあ、どうかしら。クライヴは至急最上客向けに商品を送って欲しいとしか言ってきてないから」


「……なら、俺は元主へ知らせておく」


 クレスは階段を上りながら、腰の伝書鷹筒を手に取った。


「リルトの商会が王城に物を上げるのなら、フィオレル様が知らないのは筋が通らん。それに、商会の後見貴族でもあられるのだからな」


 それは強がりでもなく忠義でもなく、

 クレスなりの秩序の守り方だった。



 ――王都、昼過ぎ。


 第三騎士団の詰所は、さすがに空気が鋭い。


 警衛兵に名を告げると、レオンがすぐに出てきた。


「クライヴ殿、昨日ぶりだな。三日も続けて、今日はどうしたんだ」

 レオンは軽い口調だが、礼は崩さずに距離を測っているようだった。


「急な取り次ぎ、恐縮します」


「ロマーヌ公爵夫人なら、すでに聞き及んでいる。荷も届いた。話は早いぞ」


 さすがは第三騎士団。話が早い。


 案内された待合室は、静かで温度が一定だった。


(この部屋は“待たされる人間”で階層が分かる。そういう部屋だ)


 クライヴは身構えず、だが気を抜かずに待った。



 ――同じ時間帯、リルト。


 伝書鷹が塔の上空に消えたのを確認しながら、クレスは階段を降りてきた。


「発送、夕方の最終で出せる。最速で王都ギルドに入るはずだ」


「ありがとう。助かったわ」


「それと――」

 クレスは箱のひとつを指で叩いた。

「リオネの名が王都で出るなら、我らも妙な顔をされんよう気を付けないとな」


「分かってはいるけど、緊急対応だとどうしても手が走るのよ」

 ミレーネは包装台を片付けながら、苦笑混じりに息を吐いた。

「でも、王都に目を向けさせるくらいじゃなきゃ、地方商会は上に行けないわ」


 夜の店内は暖炉の火が赤く揺れ、外とは違う温度を持っていた。

鼻をあかすだとどうでしょうか



 ――王都、午後。


「お待たせしました。ロマーヌ公爵夫人がお通しになります」


 レオンの声に、クライヴは立ち上がる。


「ありがとう、レオン殿」


「いや――今回ばかりは俺も興味があるが、ここからはお前の舞台だ。俺は立ち入れない。行ってこい」


 しばしの静寂のあと、内側から声が落ちる。


「お入りなさい」


 扉が開いた。


 応接間は窓を大きく開け放ち、薄い紗のカーテンが風に揺れていた。

 暖炉は夏のあいだ灰を掃き清められ、涼やかな飾り皿だけが置かれている。

 その中央に座す夫人は、扇を軽く動かしながら、微笑んだままクライヴを一瞥した。

 その笑みは柔らかいのに、評定の気配を隠そうともしない。


「昨日はご苦労さま。あなたはあの二人の同行者ですね?――名と用件をどうぞ」


 クライヴは一礼し、まっすぐ前を見た。


「リルトの街のホヅミ商会員のクライヴと申します。まずは、一つ。セイジ殿とリオナ殿に賜ったご配慮――身に余る心遣い、深く感謝申し上げます」


 ロマーヌ夫人はそっと扇子を閉じ、伏せた睫毛のまま言葉を返した。


「感謝の必要はありません。私は、私が望んだことをしたまでです」


 その声音は軽いのに、揺るぎない意思だけが残る。

 

 クライヴはそこでようやく理解した。


(物ではなく、人を評価する目だ――だから怖い)


 それは商人にとって恐ろしく正確な観察だった。

 だからこそ、クライヴは持参していた封筒を両手で差し出した。


「そしてこちらは――当商会よりのささやかな返礼にございます。

 持参した荷は、商会長が作ったもの。ゆえに、ただの贈答品ではございません」


 ロマーヌ夫人が扇子の端で封筒の縁をなぞる。


「“手を添えた返礼”ということですね」


「左様にございます。決して厚かましい真似をする意図ではございません。ただ――礼は形に。品は証に。それが商いにございます」


 夫人の目がわずかに愉しげに細められた。

微笑の奥には、品定めをする者特有の静かな硬さがあった。


「……やはり面白いわ、この商会は」


 その一言に、クライヴは胸の奥でひそかに息をついた。


(これで、商会は“王都の地図に点が置かれた”。――それが後にどれほど重くなるか)


 その瞬間を、確かに感じた。


 だがロマーヌ夫人は、扇を膝に置いたまま、まだ視線を逸らさない。


「さて」


 扇子の骨が控えめな音を立てる。


 夫人の声音は柔らかいのに、質問ではなく“確認”の響きを持っていた。

 クライヴは、その意図を察する前に、夫人が次の言葉を紡ぐ。


「リオナはあの歳頃にしては繊細よね。旅は――彼女にとって負担ではなかった?」


 口調はあくまで他意の無さを装いながら、それでも選び抜かれた一撃だった。

 クライヴは、王都の貴婦人が娘を案じるような優しさの裏に、

 “どれほど誰が支えたのか”を測ろうとする刃を感じ取った。


 だからこそ、迷いはなかった。


「はい。道中は王都街道も整備されており、順調にございました。

 ただ――特段の困難がなかったのは、セイジ殿の気配りあってのことと存じます」


 夫人の扇子が、すこし傾く。


「気配り?」


「ええ。休憩のたびに水を確かめ、

 人混みではリオナ殿が迷わぬよう前に出て歩かれました。

 どれも大げさではなく、ごく自然に、でございます」


 クライヴは少し思案してから、静かに付け加える。


「……あれほど“気づかれぬ形で”気を配る方は、珍しいかと存じます」


「リオナ殿も、宿場では人の多さに少し緊張しておられましたが……

 セイジ殿が前に立つと、それだけで随分落ち着いておられました」


 夫人は扇子の影から、目だけを細めた。


「なるほど……“見過ごすふりのできる男”は、稀ですわね」


 言葉を終えると同時に、夫人は扇子を閉じた。

 ぱちり、と静かな小さな音。

 それが、夫人の内で何かが“位置を取った”合図のように響いた。


「そう。彼は“人そのもの”を見られるのね」


 その声音には、感嘆よりも“分析”の比率が高かった。

 夫人は椅子の背にもたれず、むしろ少し前に寄りながら続ける。


「リオナは幼い頃から、周囲に合わせることを覚えなかった子。

 悪くはないのよ。ああいう子は、合う相手がいれば強くなる」


 扇子の先端が、机の上をそっとなぞる。

 それは地図の上の一点を示す仕草に似ていた。


「そして――合わねば、折れるわ」


 クライヴは言葉を失わず、静かに受け止める。


 夫人はふと視線を上げ、まるで公爵家の客人ではなく、優れた商人としてクライヴを見据えた。


「あなたはどう思う? セイジという人間を」


 問いは無邪気さを帯びているのに、逃げ道は一つもない。

 クライヴは一礼し、言葉を選ばぬまま、正直に答えた。


「……あの方は、誰かを見捨てるより先に、手を貸す人でございます。

 少々不器用ですが、利得を最初に考えぬ人です。

 そして、あの方の手から生まれる品と仕事ぶりに、私は惚れ込んだのです。

 ギルドを辞して商会へ移るほどに――“賭けてみたい”と思わせる人でした」


 夫人は短く息を吐いて笑った。


「理由で語るのね。さすが商人というところかしら」


 だがその笑みに冷たさはなかった。

 むしろ、何かを確信した人間特有の響きがあった。


「……悪くない選択だわ、リオナにとって」


 微かな囁きのように発せられたその一言は、

 感情を装わず、ただ評価だけが残っていた。


 クライヴはそこで初めて、夫人の“庇護”という側面を理解した。


(守ろうとしている――リオナ殿を。そして、セイジ殿までも)


 ロマーヌ夫人は扇子を開き、涼やかに別れの合図を送る。


「二人に伝えて。昨日の件――私は忘れないと」


「は。必ず」


「ええ。商いというもの、忘れない者同士の方が面白いのでしょう?」


 その微笑みは、柔らかく、そしてぞっとするほど鋭かった。

 それは、王都の“上”に立つ者の微笑だった。


(これで――商会は“王都の地図に点を置いた”

 その点が後にどれほど重くなるか……)



 退出の気配が漂いはじめた頃、ロマーヌ夫人は扇子を閉じたまま、ふと首を傾けた。


「……ところで一つ、伺ってもよろしいかしら」


 その声音には和らぎがあったが、問いの矛先は鋭い。


「あなた、貴族との社交経験はどれほど?」


 クライヴは一瞬だけまばたきをし、それから素直に頭を垂れた。


「お恥ずかしながら……躾はリルトの商業ギルド長、ラシェル子爵の夫ガラント殿に鍛えられました。しかしながら、専ら仕事は市民相手にございまして」


 夫人はほんの短く「なるほど」と息を整える。


 それは貴族が判断を下す前に挟む、あの一瞬の静止だった。


「悪くありませんわ。市民相手の商いは、癖のある貴族相手よりよほど骨が折れるものですもの」


 軽い言葉なのに、慰めではなく――評価。


 だからこそクライヴは姿勢を正した。


「……身に余るお言葉」


「ただし」


 扇子の先端が、机上の何もない空間を軽く示した。


「あなたが王都と商うのであれば、“貴族との距離”も理解しておく方が

 扉が閉まらずに済むの」


「扉……でございますか?」


「そう。貴族相手の扉は、知らぬ間に閉じるものだから」


 クライヴは息を呑んだ。

 断じて拒絶ではない。むしろ逆だ。


 夫人は続けた。


「月に二度ほど、王都にいらっしゃいな」


「……王都に、でございますか」


「ええ。社交を教えたがっている人がいるの。あなたにとても興味を持っているわ」


 クライヴは理解が追いつかず、沈黙した。

 夫人は少し楽しそうに扇子を再び開いた。


「服飾ギルド長のダラス。ご存知かしら?」


 名を聞いた瞬間、クライヴは小さく目を見開いた。


(ダラス……フィオレル子爵のご友人筋。彼の紹介で王都の仕立屋見習いがリルトへ赴いたはず……)


「あら、察しが早いわね」


 夫人は扇子を傾け、涼やかに続けた。


「彼は一度リルトへ赴いたでしょう? あの時は“面白いものを見つけた”という顔で戻ってきたの。見習いを送ったのも、あくまで試し。そういう性質の人よ」


 そこで扇子の動きが止まる。


「けれど今は違うわ。昨日も私のところへ来て、やや興奮気味に言っていました――

 “あれは王都で売れるものだ。放っておけば誰かに持っていかれる”と」


 クライヴの眉がわずかに動く。


(あれ……? 肌着のことか……)


 夫人は小さく笑った。


「最初は静観するつもりだったのでしょうけれど、諦めが悪いのよ、あの人。

 “王都で扱わせろ、その方が互いに得だ”――そんなところね」


 扇子の影から覗く目が、楽しげに光った。


「あなたと話したがっているのよ。正確には“王都での扱い方を決めたい”というところでしょうね」


「……恐れながら、私は」


「逃げ道ではありませんよ、クライヴ殿」


 初めて夫人は彼を“殿”付けで呼んだ。


 それは冷たい支配ではなく、

 責任を持って“場”へ押し出す者の声音だった。


「服飾は貴族の皮膚に最も近い文化。

 肌着を変える者は――季節を変える者と同じ」


 その言葉は冗談に聞こえたが、目は笑っていなかった。


「貴族が季節を決めるのではありませんの。

 季節に貴族が合わせるのです。覚えておきなさい」


 クライヴは深く頭を垂れた。


「……は。肝に銘じます」


「よろしいわ」


 夫人は立ち上がりもせず、退室の合図として扇子を軽く横に振る。


「リオナによろしく。

 そしてセイジにも。

 “忘れない者の方が強い”とお伝えあそばせ」


 その言葉は温かいのに、なぜか背筋が冷たくなる。


(やはり――逃がす気など、初めからなかったのだ)


 そう思いながら、クライヴは静かに退出した。

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