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 王城を出て馬車に乗り込んだ瞬間、リオナの肩から力が抜けた。

 そのわずかな変化を先に気づいたのは、対面に座るクライヴだった。


「……よく頑張りましたね、リオナさん」


 静かな言葉だったが、慰めではない。

 労いと評価の間にある、大人の声音。


 リオナは少し頬を染めて、小さく首を振った。


「い、いえ……あの、わたしは、ただ……」


 言葉に詰まる。

 その続きは本人にも分からない。


 クライヴはそれ以上追及せず、視線を窓に向けた。

 王城の白い石壁がゆっくりと後ろへ流れていく。


 青司はというと、ずっと黙ったまま――ただ考えていた。


(……夫人の“あれ”は、試されてたんだよな)


 胸元のブローチの重みではなく、

 “立ち方”の方を測られていたという感覚が、まだ残っている。



 野ばら亭に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。

 扉を開けた瞬間、厨房で煮込んでいる香草と肉の匂いが三人を包む。


 宿の女将が振り返り、ぱっと笑顔になる。


「おかえりなさい、旦那様方。――まあ、リオナちゃん、顔が真っ赤じゃないの!」


「えっ、あ……そ、そう、ですか?」


「王城だろう?そりゃあ緊張するさ」

 女将はあっけらかんと言いながら、席へ案内した。


 テーブルに水が置かれ、ようやく三人は腰を下ろす。


 最初に息を漏らしたのはクライヴだった。

「……いや。生きて戻れたのは幸運ですよ」


 あまりに真顔で言うので、青司は思わず苦笑した。

「大げさだな。そんなに怖い人だったか?」


「いえ、私は直接の接触はありません。そもそも階層が違いすぎますからね。

 せいぜい、ロマーヌ公爵夫人の亡き夫君が現王の従兄に当たり、騎士団でも名を残された方だった――そんな噂話を耳にした程度です」


 クライヴは淡々と言ったが、その声音にはわずかな驚きが混じっていた。


「あのお方の“個人としての振る舞い”など、王城に出入りしている者でもごく一部しか知らないはずです。

 まして商業の側にいる私など、遠目に名を聞くくらいが関の山ですよ」


 青司は目を瞬いた。

「……そんなに凄い人が、俺と……? どう考えても場違いでは?」


「事実ですから仕方ないでしょう。……ただ、だからこそ僥倖なのですよ。

 政務にも軍務にも一切関与しない“中立の公爵夫人”。

 領地の統治を完璧にこなし、それ以外は興味を示さない……私はずっとそう聞いていました」

 クライヴは苦笑し、肩をすくめる。

「そんな方が、個人の名で貴方を呼ばれた。政治ではなく、好奇か評価か……理由は分かりませんが、極めて異例です」


「……評価なんてされるようなこと、俺はしていないが」


「その“つもり”なのは貴方だけですよ。

 王城で軍派に装備を売り抜けた功績は、王都中に響いているはずです」


 リオナが湯気の立つカップを青司に押し付けるように渡した。


「とにかく、飲んで落ち着いて。顔色悪いよ」


「あ、悪い……ありがとう」


 温かさが掌に沁みて、ようやく胸の奥が緩む。


 リオナの瞳が大きく揺れる。


「え……あの、その……わ、わたし、なんか、変なこと……!」


「してません。だから無事だったんです」


 クライヴが手短に断言する。その冷静な口ぶりとは裏腹に、机の下ではつま先を小さく揺らしているのが見え、妙な安心感があった。


 青司もカップを持つ指を少し緩めて、息を吐く。


「……緊張はしてたけどな。俺も」


 リオナはほっと息を漏らし、胸に手を当てた。


「よ、良かった……ほんとに……」


 その時、厨房から香草の香りがふわりと流れた。

 遠い王城から戻ってきたことを、身体がようやく思い出したようだった。



 料理が届き、皿の香りが立ち始める頃。


 リオナは肉にナイフを入れながら、ふと漏らした。


「でも……すごく優しい人でした。こわいけど」


 クライヴは少しだけ笑った。


「それは私も同じ感想です。

 あのお方は――守ると決めた者には誰一人触れさせない。

 ただ、守る価値がないと判断すれば、容赦なく切り捨てる。

 そういう“線”がはっきりした方でしたね」


 リオナは箸――ではなくフォークを止めた。


「切る、って……」


「社交的にも、政治的にも、ですね」


 青司はそこでようやく言葉を挟んだ。


「……でも、怒ってなかったですよ。リオナに」


 リオナは青司を見て、目を丸くする。


「えっ……そう、だった?」


「怒ってる時の目じゃなかったし、

 評価するときの人の目だった」


 クライヴの手が止まった。


「ほう……それは興味深い観察です。

 護る対象を見る“目”は、権力に近い人間のものですよ」


 青司は首を横に振った。


「たぶん……俺たちよりリオナのこと、ちゃんと見てた。

 リオナが、どう立ってるのか、どう息してるのか、どう返すのか……全部」


 リオナはその言葉に困り果てたような顔をした。


「そ、そんな……わたし、ただ、がんばって座ってただけで……」


「それが“立派”なんですよ、リオナさん」


 クライヴが柔らかく言った。


 リオナはフォークを握ったまま小さく肩を縮めた。

 耳まで赤くしながら。



 やっと皿が半分ほど減った頃、クライヴが穏やかに続けた。


「とはいえ……今日の成果は、セイジさんの考える以上に大きい」


 青司は瞬きをした。


「成果、ですか?」


「ええ。

 軍派閥への装備の供給経路。

 王城内の窓口。

 貴族夫人による第三者評価。

 ――そして、内々とはいえ“認められた”という事実」


 リオナは目をぱちぱちと瞬かせる。


 青司は思わず息を吐いた。

「本人は商売の話をしたつもりだったんですけどね……」


「それで十分です。あとは周囲が勝手に大局へ運びます」


 青司は呆れたように笑った。

「便利なんだか面倒くさいんだか……」


 クライヴも少し笑った。

「大抵は面倒ですね」


 リオナは二人のやり取りを聞きながら、そっと胸に手を当てた。


(……終わった。ちゃんと、終わったんだ)


 気づけば肉も温野菜もほとんど空になっている。

 頃合いを見計らったように、女将が温かい茶を持ってきた。


 それを三人が同時に口へ運んだ時だった。


 クライヴが静かに言った。

「――さて。ではひとつ、朗報を」


 青司とリオナが顔を上げる。


 クライヴは茶を置き、控えめに笑った。

「ロマーヌ公爵夫人は、今日ほぼ確実に“誰かと”お話をされます。

 我々のいない場所で」


 青司は眉を寄せる。

「……誰と?」


「オズワルド侯爵でしょう。

 そしてもう一人――フィオレル卿も巻き込まれる」


 青司はそこでようやく気づいた。


(ああ……そういう仕組みか)


 クライヴは締めくくるように言った。

「つまり――今日の本当の会議は、これからです」


 リオナは思わず目を丸くした。


 青司は笑うしかなかった。

「……大変だな、この世界」


 クライヴは淡々と返した。

「大変ですよ。

 だからこそ、あなたのような人間が生きる余地がある」


 その言葉は不思議と優しく響いた。


 そして三人は、同時に茶を飲んだ。


 社交の緊張は、ようやく喉の奥で溶けていった。



 野ばら亭で三人が茶を飲んでいた、その少し前。


 ロマーヌ公爵夫人の部屋には、まだ温かい紅茶の香りが残っていた。

 青司とリオナが去り、扉が静かに閉じられた後も、夫人は席から立たずにいた。


 その対面には、オズワルド侯爵が控えている。


 しばらく沈黙があったが――先に口を開いたのは夫人だった。


「――さて。オズ。貴方はあれをどう見ました?」


 問いは軽い調子なのに、逃げ道はない。

 オズワルドは眉をわずかに寄せ、正面から答える。


「礼節を解し、聞くべき時は聞き、言うべき時に言う。

 至って無害のようでいて、油断すれば周囲を巻き込む類ですな」


 夫人は目を細めた。


「ええ。……ああいうのを若い頃、面白いと感じたのを思い出しました」


 その声音にはほんのり苦味があった。


 オズワルドは続ける。


「品については本物です。儀礼用ではなく実用。

 第三騎士団に回せば即座に結果が出ましょう」


「それは貴方の采配で良いわ。

 私は“彼らの人間関係”の方に興味があるの」


 夫人は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。

 分厚いカーテンの隙間から差す光が、彼女の横顔を縁取る。


「リオナさん。あの子は可愛いわ。

 庇護を請わず、媚びず、逃げもせず、泣きもしない」


 オズワルドは少し意外そうな目をする。


「好評価ですな」


「当然でしょう?

 貴族の社交で最も厄介なのは、身の程を間違える子よ。

 その点、あの子は正しい位置に座っていた」


 そこで夫人は小さく、しかしはっきりと息を吐いた。


「そしてセイジさんは……その位置を壊そうとしない」


 オズワルドは静かに頷く。


「それこそが厄介だ、と仰りたいのですな」


 夫人は振り返る。


「ああいう男は、周囲が勝手に持ち上げていくの。

 自分は立っているだけで、気づく頃には高い場所にいる」


 そして、茶杯に残った紅茶を指先で揺らしながら言う。


「――あれは“変革”の側に立つ者よ」


 その言葉に、オズワルドは少し目を伏せた。


「……陛下が聞けば喜ぶでしょうな」


 夫人はくす、と笑う。


「逆に不安がるわよ。変革は歓迎されるけれど、制御は望まれるから」


 オズワルドは言葉を選びながら答えた。


「私は軍派閥として、あれを守る意志があります」


「ええ。それで良いわ。

 フィオレル卿は内政と外交の派閥でそれをしたのでしょう?

 なら軍が奪い返すのも自然よ」


 オズワルドは苦笑する。


「……“奪い返す”とは、物騒な」


 夫人は肩を竦めた。


「政治はいつだって物騒よ、オズ。

 血を流さないだけで」


 そこでようやく席へ戻り、指先でテーブルを軽く叩く。


「ひとつ確認しておくわ。

 ――貴方は、セイジさんとリオナさんを“派閥の駒”にしたい?」


 オズワルドは考えずに答えた。


「否です。それは彼らが望まぬ。

 ゆえに私は“通路を守る”だけとしましょう」


 夫人の目が細く、柔らかくなった。


「なら良いわ。

 彼らは“守られる側”だけれど、“閉じ込められる側”ではないもの」


 言葉は静かだが、含む重さは王城のどの石壁よりも強い。


そして夫人は最後に、軽やかに言った。


「さてオズ。今夜、フィオレル卿に手紙を届けてちょうだい」


 オズワルドは眉を上げる。


「内容は」


 夫人は唇に指を添えて、いたずらっぽく笑った。


「――“あなた、急がないと全部持っていかれるわよ”」


 オズワルドは数秒黙り、仕方なさそうに息を吐いた。


「了解いたしました。……合掌しておきましょうか?」


 夫人は軽やかに首を振った。


「不要よ。生きてる人間は、戦えるもの」


 そして扉の方を指し示す。


「行きなさい、オズ。面倒事はまだ始まったばかりよ」


 オズワルドは姿勢を正し、一礼した。


「承知」


 扉が閉じる。


 その後の静寂の中、夫人は紅茶を一口だけ飲んだ。


「……本当に。面白い時代になりそうね」


 誰にも聞かれない声でそう呟いた。



 城内・政務棟の第三応接室。

 石壁は薄い藍色に反響し、窓の外には午下がりの光が射す。


 フィオレル子爵は、机上の書類を指で弾きながら息をついた。


(……やられた)


 第三騎士団向けの装備納品書。

 軍務部の決裁印が押され、王城内の搬入許可も処理済み。


 自分も途中に名はある――だが、“通しただけ”の名だ。


 本来なら、青司という技術者を最初に見出し、自分の領する交易都市リルトとの輸送整備を計画したのは自分である。

 肌着の機能面を城内の事務方に通す口上も自分が整えた。


 なのに、成果の大部分は軍派閥へ流れた。


(軍務、おまけに公爵夫人……この組み合わせに勝ち筋は薄いか)


 そこで、控えめなノックの音が、執務室の空気を切った。


「――オズワルド侯爵、伺った」


 軍人らしい簡潔な声。

 フィオレルは書類を閉じ、立ち上がって出迎える。


「お手を煩わせました。どうぞ」


 オズワルドは軽く会釈し、封書を差し出した。

 封蝋はロマーヌ公爵家の紋だが、そこに重たい“政治臭”はなかった。


「お忙しい中、わざわざ?」


「夫人からの伝達だ。政務ではなく、純粋な連絡として預かった」


 その注意書きは、“夫人は政治に介入していない”ことをわざわざ明示する配慮でもあった。


 フィオレルが眉を寄せたまま封を開くと、短い筆致でこう書かれていた。


 ――『軍務案件につき、窓口は軍に。書類処理は政務側にて便宜を』


 たったそれだけ。

 だが意味は重い。


 読み終えたフィオレルは、笑うより先に舌打ちしそうになるのを飲んだ。


「……承知しました兵站ですね。しかし“肌着”まで軍の所掌とされるのですか?」


「そうだ。汗冷えは体力を奪う。肌着は立派な装備の一部だ。どちらも兵站に関わると判断された」


 軍務としては正論中の正論。


「判断者は夫人でしょうか、陛下でしょうか?」


 オズワルドは慎重に首を横に振る。


「“判断した者は複数”と申し伝えておこうか。

 ただ、うちの兵站部に売り込みに来たのは、貴族後見人の貴方だろう。直接折衝に来て頂ければ話も違ったかもしれないが、後見人が政務を通じて売るなら、軍は軍務を通じて買う。――そういう筋というものだ」


 フィオレルは椅子に深く腰を下ろし、息を吐いた。


(肌着は医務とも繋がるし、庶務とも絡む。

 本来は政務部が扱うはずの案件だ……)


 オズワルドは立ったまま言葉を続けた。


「フィオレル殿。貴殿には“事務方の窓口”を任せたい。それでも旨味は大きかろう」


フィオレルは皮肉を混ぜて返す。


「それはつまり、私には“軍の雑務処理と引き換えに事務方の窓口を”ということでしょうか?」


「本音を言えば、軍は書類仕事が不得手でな。

 それに、陛下の意向としても“政務部を無視する形は避けたい”」


 それを言われると断れない。

 政務部を通さずに軍務だけで動く事例が連続すれば、政務部の存在価値そのものが揺らぐ。

 フィオレルはその危険を知っている。


(……夫人はそこまで見えているのか)


 フィオレルはゆっくりと封筒を置いた。


「……責任の所在はどうなっているのです?」


「軍部が持つ。調達予算もな。女官が欲しがる物も、あの商会は用意しているのでな」


「では私は?」


「“調整”。そして“整頓”。

 ――得意分野だろう?」


 痛いところを突かれ、フィオレルはほんの少し笑った。


「買いかぶらないで頂きたい。単に面倒に慣れているだけですから」


 オズワルドの口調は変わらない。


「貴殿が政務で潰れれば、誰が外交折衝を回すことに?

 今は、敵を減らす方が得策だと思われるが」


 その一言は、声を荒げるより残酷だった。


 昇爵の噂は、陛下の意向と派閥の支持が揃って初めて現実になる。

 軍派閥と公爵家ロマーヌを敵に回すのは得策ではない。


 フィオレルは少しだけ目を閉じ、結論を出した。


「……分かりました。軍務と女官の窓口はそちにお任せ致します。

 事務方の窓口と全ての政務処理は私が行いましょう」


オズワルドは微かに頷いた。


「ご高配、痛み入る。政務部の立場にも配慮しよう」


 フィオレルは苦笑した。


「ありがたい事です。政務部への配慮、痛み入ります。軍務部の誠意として受け取りましょう」


 「そうそう。リルトの工房は既に視察済みだ」


 フィオレルの指がぴくりと止まる。


「……いつの間に?」


「兵站幕僚がな。報告によれば、設備も人材も良い。――国費を通す価値がある」


 その一言は、単なる兵站上の判断に見えて、しかし別の重みを持っていた。


 リルトはフィオレルの統治領。

 国費が流れれば、街は潤う。実績になる。

 同時に軍の視線も入る。


(利益と牽制を同時に、か)


 フィオレルは表面に出さずに受け止める。


「評価していただけたのなら、領主として光栄です」


「功績は積むものだ。爵位とは別に、な」


 侯爵と子爵という差を、遠回しに示す言い方だった。

 だがそれは威圧ではない。“秩序の確認”だった。


 扉に手をかけたオズワルドが振り返る。


「外交は任せる。内政も好きに回せ。だが兵站は軍が握る。――均衡を保つためにもな」


 その言葉は三派に対する尊重であり、同時に明確な線引きだった。


 フィオレルは短く答えた。


「承知しています。均衡あってこその王都です」


 扉が閉まった後、フィオレルは息を吐く。


(……夫人は政治に触れなかった。三派の力も揺れていない。だが――)


 机の端に置かれた視察報告に目をやる。


(……リルトに国費が流れる。軍の旗の下で)


 損ではない。むしろ利益だ。

 しかし、それは“軍がリルトに関心を持つ”ことでもある。

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