84
厚手の絨毯に足音を吸われる廊下を進み、オズワルド侯爵は一つの扉の前で静かに立ち止まった。
扉の向こうは、ロマーヌ公爵夫人の私室兼応接室。外に話し声が漏れない造りだという話は、青司も聞いていた。
侯爵は、扉の真鍮のノッカーに手を添え、軽く二度だけ叩いた。
音は絨毯と木壁に吸われ、小さく沈む。
「オズワルドです。ホヅミ商会のセイジ殿をお連れしました」
それだけを告げ、返答を待つ。
扉の内側は完全な静寂で、数秒だけ空気が張る。
やがて、布越しのように柔らかい声が返った。
「……入ってもよろしくてよ」
その一言で、空気が緩む。
侯爵は扉の取手を静かに押し下げ、開いた。
青司へ視線だけで合図を送り、無言で「続け」と促す。
青司は息を整え、胸ポケットのブローチを指先で確かめる。
そして一歩前に出た。扉の敷居の前で一度深く一礼する。
「失礼いたします」
その声は緊張を含みつつも、乱れてはいない。
青司が入室すると、クライヴも続いて軽く礼を取った。
扉は静かに閉められ、やがて音が消えた。
部屋の中央、テーブルの向こうにロマーヌ公爵夫人が座っていた。
背筋は伸び、手は優雅に組まれ、視線は逃げ道なく澄んでいる。
そして、そのすぐ傍に——
リオナが、控えめに腰掛けていた。
青司の胸の奥が、かすかに熱を帯びた。
扉が閉じると、部屋に満ちていた静寂がそのまま空気の厚みとなって残った。
青司が入ってきた瞬間、リオナの肩は僅かに震え、視線が一気に彼へ吸い寄せられる。
喜びでも、不安でも、そのどちらでもある感情を飲み込みながら、
リオナは呼吸を浅く整えた。
(……来てくれた)
その安堵は胸の奥でじんわりと温かいのに、表情にはあまり出ない。
ただ耳朶まで赤く染まっているのが、気持ちの強さを隠し切れていなかった。
その小さな変化を、公爵夫人は視線で静かに捉えた。
まるで宝石の傷を調べるような、軽く、だが正確な観察。
驚きも、微笑もない。ただ“見極める視線”だけがあった。
青司へ向ける眼差しには、温度よりも「評価」がある。
リオナの反応に値する人物かどうか。
その瞳の奥で、静かに天秤が動いていた。
「お入りなさい、セイジさん」
声は穏やかで、さらに心地よいほど整っている。
だが、そこに宿る“距離の正確さ”が、逆に油断ならなかった。
まるで「歓迎はしていないが、拒んでもいない」と軽やかに告げている。
青司が礼を述べると、夫人は応えずに一拍置いた。
その短い沈黙が、部屋の空気をわずかに張り詰めさせる。
軽い仕草の一つで場を支配する――それは高位者特有の怖さだった。
「第三騎士団との折衝は、無事に終わられたご様子ですね」
言葉遣いは丁寧で柔らかく、むしろ優しい。
だがリオナの方へは一切振り向かない。
ただ青司の返答を待ちながら、冷静に評価を続けている。
リオナはそのことに気づき、胸がきゅっと強張った。
(……大丈夫だよね)
不安と期待が混じるまま、手をぎゅっと握る。
青司が答え終えると、公爵夫人はゆっくりと視線をリオナへ戻した。
その目は“責める”でも“許す”でもなく、
ただそこにある感情を一つずつ拾い上げ、“受け止めた”。
そして小さく、だが決定的に告げる。
「そう。なら、話を続けましょう」
その声音には温かさも冷たさもある。
揺れるのではなく、同時に存在している――そんな不思議な力を持っていた。
まるで今初めて“迎える”ことを許したかのような調子だった。
排斥ではなく、歓迎でもなく、
ただ「この場に置く価値がある者として扱う」という判断。
青司は一呼吸置き、静かに腰を正す。
「……お預かりしているものをお届けにまいりました」
言葉が落ちた直後、短い沈黙が室内にしみ込んだ。
夫人のまつげがゆるく伏せられ、再び上がる。
その仕草ひとつで、空気の温度が変わる。
リオナが小さく息をのみ、指先を握りしめた。
「――そう。では、拝見しましょう」
その一言で、青司が正しい答えに辿り着いたことが分かった。
青司は胸元にそっと指を添えた。
胸ポケットから取り出したのは、白い布に包まれた小さな膨らみだった。
布は本日使うことのなかった清潔なハンカチで、角まできっちりと折られ、崩れのない形に整えられている。
ケースや巾着の類は渡されなかった――だからこれが青司にできる最も丁重な扱いだった。
その手つきと布の状態を見て、ロマーヌ公爵夫人の目元がかすかに動いた。
驚きではない。評価でもない。
「この状況で取りうる最善」を冷静に認める目だ。
青司は布をそっと解き、その中に収められたブローチを両手で包むように持ち上げる。
金細工の繊細な縁、古い宝石の落ち着いた光沢。
返却という行為に、余計な手数はない。だが雑さもない。
「お預かりしておりました物を、お返しいたします」
声は控えめでありながら、言葉の選び方には誠意があった。
突然託された物であれ、自分の責任で持っていたという事実がそこにある。
その一瞬、リオナは息を詰めた。
胸ポケットに入っていた――つまり、道中ずっと肌身離さず持っていてくれたのだと理解できたからだ。
(……落とさないようにしてくれてたんだ)
そんな小さな発見だけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
夫人は手を伸ばさない。
侍女も動かない。
ただ青司の両手にあるブローチを、静かに見つめている。
沈黙は三呼吸ほど。
その短い時間に、夫人は“扱われ方”と“心の在り処”を見ていた。
やがて、公爵夫人は細い指をすっと伸ばした。
その動きは優雅だが、ためらいは一切ない。
「――確かに、お返しいただきました」
触れた瞬間、ブローチはまるで元の主の元に還るべく吸い寄せられたかのように見えた。
夫人はその手元を一瞥し、視線だけで次の言葉をつなげる。
「ケースも紐も渡しませんでしたものね。……その扱いで十分よ」
その声音に責めの気配は一つもない。
むしろ、“状況を理解した者へ与えられる、軽やかな赦し” があった。
リオナはその言葉にそっと肩の力を落とす。
自分のために動いた青司が、礼節を欠いていなかった――そう確認できたからだ。
公爵夫人はその様子を横目で一度だけ確認し、まるで風に合わせて扉を閉じるような自然さで言葉を結んだ。
「では、続きを話しましょう。
——状況は揃いましたから」
軽やかで、しかし逃げ道は一つもない声だった。
「さあ、オズワルドも一緒に。セイジさんも、こちらへお掛けなさい」
公爵夫人が軽やかに促すと、控えの侍女たちが滑らかな動きで椅子を二つ運び入れる。
続けて、銀の盆の上に乗った茶器が並べられ、青司とオズワルドの前にも湯気の立つ紅茶が置かれた。
夫人とリオナのカップには、新たに香り高い茶が注ぎ足される。
ふと横を見ると、さきほどまで威厳そのものだったオズワルド侯爵が、ほんの僅かに緊張している。
その様子に夫人は目元だけで笑みを浮かべた。
「そんな顔をしないの、オズ。あなたは私の亡夫の後輩だったのでしょう?先輩の忘形見の相手をすることくらい構わないでしょうに」
青司もリオナも思わず瞬きをする。
夫人の言葉は軽いのに、部屋の空気が一度に整った。
オズワルドは苦笑を滲ませ、夫人に向き直った。
「いえ、すでに商談の前にお相手をさせていただきましたが?」
「そうだったわね」
夫人は軽やかに笑う。
「でも若い二人も加わったのだから良いじゃない。私も楽しいもの」
そのやり取りは、礼儀と親しみの均衡の上に成り立つ大人の会話だった。青司はただ静かに背筋を伸ばし、茶器の音が落ち着いた室内に淡く溶けていった。
控えの者たちが静かに椅子を運び、青司とオズワルドの前に整然と並べる。
同時に香り高い紅茶が注がれ、二人の前に置かれた。
オズワルドは一呼吸置き、軽くカップに目を落としてから口を開いた。
「では、失礼をして美味しい紅茶を頂きます。
セイジさんも遠慮なく頂きなさい。
ロマーヌ様の紅茶は香り高く、味わい深いぞ」
青司は一礼し、穏やかにカップを持ち上げる。
温かい香気がふわりと広がり、わずかに肩の力が抜けた。
「して――」
オズワルドは軽くカップを置き、視線を夫人とリオナへ向ける。
「とても楽しそうなご様子ですが、そちらのセイジの連れと何かありましたかな」
言葉の調子は柔らかく、探るよりも確かめるという距離感だった。
ロマーヌ夫人は口元に小さな笑みを浮かべたまま、軽やかに言い添える。
「リオナさんよ。とても可愛らしい方でしょう? 楽しいお話がたくさんできたの」
その言い方は社交辞令に聞こえず、どこか本気の熱を含んでいた。
「え、あ……」
リオナは思わず肩を縮め、青司をちらりと見た。
目の奥には不安と喜びが混じり、伏せた睫毛が震えている。
ロマーヌ夫人はそれを咎めず、むしろ慈しむように視線を受け止めた。
「そんな顔をしないの――大したことではなくてよ」
軽い一言で、空気の緊張が一段ほどける。
オズワルドも苦笑しながら、青司に言葉を投げる。
「なるほど、楽しげで何より。セイジさん、良い友を持ったな」
青司は一瞬だけ息を整え、微笑を返す。
「ええ。……本当に、良い方です」
その短い答えの裏に、リオナは胸の内を温かく満たされていくような感覚を覚えた。
カップが静かに皿へ戻される音が、一度だけ響く。
公爵夫人はその小さな音の余韻すら逃がさぬような仕草で、青司へと視線を向けた。
「――さて。では、話を続けましょうか」
柔らかいのに、有無を言わせない調子。
「王都の美味しいお店と、女性の好きそうなお店はリオナさんにお伝えしてあってよ。セイジさん、時間を見つけてぜひご一緒して差し上げてね」
夫人の声は、明るい話題を選んでいるのに、相手の反論を許さない自然な貴族の響きを含んでいた。
リオナははっとして青司を見るが、夫人はすぐに続ける。
「それから――リルトのお話を少し伺ったのだけれど、リオネのお店についてはセイジさんからも聞かせてもらいたいわ。ああいう店は、周りの人間の目線も大事でしょう?」
軽い口調なのに、観察は一切解かれていない。
しかし同時に、話しやすい扉もそっと開かれている。
それがロマーヌ夫人の“優雅な誘導”だった。
「リオネはホヅミ商会が運営している店舗でございます。
扱っているのは、私の開発した洗髪液や整髪用の乳液、入浴剤、肌用の軟膏、吸湿速乾の下着類、それから日焼け止めなどでございます。」
「入店は自由ではなく、リルトの宿や理髪店、料理屋を利用した者へ渡される引換券をお持ちの方のみとしております。
そのためお客様は、リルトを訪れた貴族の方々や、紹介を受けた商人、冒険者が中心でございます。」
「品は遊興品ではなく生活の質を整える物が多く、特に香りの薄い洗髪液やボディバターは好まれております。」
「最近では冒険者が装備の手入れのついでに寄ることもあり、ゆとりのある商人も増えております。」
青司の説明が終わると、夫人はカップの縁を指先で軽く撫で、涼しげに瞬きを一度。
「入店を制限するのは……信用の管理ね。
客層が混ざれば、店の品格は簡単に落ちてしまうものだわ」
言葉は穏やかだが、分析は容赦がない。
オズワルドが静かに頷いて補う。
「紹介制は、王都の高級仕立屋でも用いられる手法ですな。
粗野な振る舞いをする客を避けられるという利点もある」
青司は軽く頭を下げる。
「そうした意図もございます。
製品の性質上、使い方や注意も説明せねばなりませんので……」
夫人はその言葉に目線だけで笑みを含めた。
「説明を聞き入れる素地がある人間を客に選ぶ……ということね。
それは“贅沢品”の発想ではなく、“生活の質に介入する品”の発想だわ」
リオナは思わず、ゆっくり瞬きをした。
夫人の言葉は、まるで核心をすでに掴んでいるかのようだった。
「リオナさんの髪も肌も、とても丁寧に手入れされていると伺ったわ。
香りを薄くしているのも、貴族向けの工夫でしょう?
強い香りは、昼の社交には不向きですもの」
言い方は柔らかいのに、観察と分析が混ざった声音だった。
青司は少し目を瞬かせてから、素直に答える。
「リオナに渡しているものは、作る時に好みを聞いたり、試してもらったりしていて……。
香料で誤魔化さず、素材の清潔さを保つ方が喜ばれるのは、お客様も同じかもしれません」
夫人はそこでようやくカップを置き、微笑みを深める。
「ふふ、つまり“身近なモデル”で実地に確かめているというわけね。
それは商売において、何よりも強い説得力になるわ」
その一言に、オズワルドが横目で青司を見やり、リオナは一瞬だけ肩を竦める。
――夫人が問うていたのは“香り”だけではない、と気付いたのは青司以外の全員だった。
「それに……“冒険者”を下支えに入れたのも良い判断ね」
青司が目を瞬かせたまま静かに返す。
「……と申しますと?」
「彼らは継続的に来る。
貴族は季節で入れ替わるけれど、冒険者は街を支える“常連”になるわ。
そこに裕福な商人の妻が加われば、店の噂は自然に広がる」
リオナが小さく息をのむ。
それは図星というより、どこか未来を見透かされた感覚に近かった。
オズワルドも薄く笑みを滲ませる。
「王都の老舗も、そうして顧客層を育てておりますな。
……うむ、なかなかに考えた運営ですぞ、セイジ殿」
青司は深く頭を下げた。
「身に余るお言葉でございます」
夫人は最後に、軽く指を弾くような動きで締めた。
「――結局のところ、“誰に売っているか”は“何を売っているか”より大事なの。
その点、あなたたちの店は間違えていないわ」
その評価は、決して軽いものではなかった。
空気に落ちるその重さを、リオナは確かに感じ取った。
だが次に飛んできた言葉は、あまりに軽やかだった。
「それで……私もリルトの宿に泊まらないと、シャンプーや日焼け止めは買えないということよね?」
――一瞬、誰も息をしなかった。
まるで何気ない雑談のようでいて、それが“本題”であることは、青司にも分かった。
制度への質問、意思の表明、そして交渉の入り口。
青司は丁寧に背筋を正し、言葉を選ぶ。
「……はい。現在はそうした仕組みでございます。
品物の量と人手の都合もあり、自由な販売までは整えられておりません」
夫人はその答えを聞き流すように頷いた。
「そう。つまり――王都では買えないのね」
柔らかい声なのに、結論は鋭い。
オズワルドが紅茶を置き、静かに口を開いた。
「むしろ、そこが問題でしてな。
日中の訓練で外に出る近衛から、室内で執務に当たる事務方、
そして宮中を行き来する女官たちにまで需要が見込める。
さて、セイジ殿。王城用の“装備”として扱えば、王都にも置けるわけですな?」
青司は驚きつつも、即答はしなかった。
その表情を見てか、オズワルドはわずかに口元だけ笑った。
「もちろん、いま即答せよという話ではない。
供給量、生産設備、人員、原料――考えるべき点は多い」
そして視線だけをクライヴに送る。
「そこは、クライヴに調整させよう。
王城内部の備品は“侍従局”と“医務室”の双方に関わる。調整役が要るからな」
クライヴは表情を崩さず、軽く頭を下げた。
「承知いたしました。必要な量と用途を整理すれば、王城側の受け入れ条件を整えられます。
肌着、日焼け止め、洗髪液……どれも”実用品”として扱いやすい部類ですので」
夫人は、楽しげな目で三人を眺めていた。
「王城の近衛なら、春から秋は外で汗をかき通し。
肌着も整髪も日焼け止めも“嗜好品”ではなく“装備”になるわ」
そう言ってから、青司に視線を寄越す。
「つまり、あなたの品は――娯楽ではなく“必要品”なのよ。
それに気づいているかしら?」
青司は静かに息を吐いた。
自覚していなかったわけではない。
けれど、ここまで確信を持って言われたこともなかった。
「……お言葉、痛み入ります。
ただ、供給量に限りがございます。
王城で扱っていただくとなれば、尚更に慎重を……」
夫人がリオナへと一瞬だけ視線を送る。
リオナは息をのみ、手を膝の上でそっと握る。
夫人は目元を穏やかに和らげた。
「だからこそ、考えればいいの。
焦らず、けれど引かずに。
あなたたちには、そういう歩き方が似合うわ」
オズワルドも深く頷いた。
「違いありません。
セイジ殿、王城内部での扱いについては、我らで道筋を付けよう。
肌着や装備を他の者に先んじられてはかなわんからな。
王城内の調整はわしが引き受ける。
そして確かフィオレル卿は商会の後見であったな。
事務方の取りまとめを任せれば、否とは言うまい。
そなたは質を落とさぬことだけを考えていればよい。」
クライヴが控えめな声音で続ける。
「具体につきましては、日を改めて教えを請いに伺いたく存じます。
リオネとリルトの仕組みを壊す意図ではなく、あくまで新たな窓口を増やすのみの話ですので。」
青司は深く頭を垂れた。
「……誠に、身に余るお話でございます。
慎重に検討の上、前向きに応えることをお約束いたします」
その言葉に、夫人はようやく満足したように紅茶を口へ運んだ。
「ええ、結構。では――難しいお話はここまでにしましょう。
せっかくのティータイムに商談だけでは味気ないもの」
そう言った途端、部屋の緊張がふっと解けた。
まるで張り詰めた絹糸を、優雅に切り落としたかのように。




