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庁舎の石段を登ったところで、セリーナは足を止めた。
「……ここが、騎士団の庁舎ね」
言葉にすれば平坦だが、内心では少し圧される。武装した門衛、整然と動く騎士たち、静かに流れる厳粛な空気。街の商会とは明らかに違う世界だ。
(……間に合うかしら。……あれは)
セリーナの目に入ったのは、見知らぬ貴婦人に伴われて、リオナが庁舎の奥へ進んでいく姿だった。
青司と別れ、背筋を伸ばして歩くリオナ。その堂々とした歩き方は後ろからでもよく見えた。
貴婦人の威厳ある歩調に自然と合わせているとはいえ、胸にはわずかな緊張と疑問がよぎる。
「……すいません、あの人たちに合流したいんです」
セリーナは応接室へ案内してくれる騎士にそう告げ、歩を速めた。
レオンの案内で応接室へ向かおうとした青司とクライヴが、ふと靴音に振り向いた。
そこに、セリーナが向かってくるのに気づく。
青司とクライヴはわずかに間を置き、自然と歩を止めた。
互いの視線が交わる。――追いついてきたのだ、と。
「……遅くなりました。……間に合いましたか」
セリーナは、安堵の色を浮かべつつも少し緊張したまま、青司に声をかけた。
クライヴは手早く、今日の段取りを簡潔に指示する。
セリーナは頷き、必要な書類と試作の情報を頭に入れながら、二人に新たな試作品――糸の混紡の種類を変えたもの――を持ってきたことを伝えた。
やがて、応接室の扉が目の前に現れる。
木の扉に刻まれた控えめな彫刻、磨き上げられた床、壁にかけられた配置図。
応接室の扉が開かれ、青司、クライヴ、そしてセリーナが中に足を踏み入れた。
重厚な木製の机を囲むように、第三騎士団長のオズワルド侯爵が座している。周囲には幹部数名、壁際には控えの騎士が整然と立っていた。レオンは侯爵の横に着席する。
応接室の扉が閉じられると、室内には落ち着いた静寂が漂った。
団長オズワルド侯爵はゆっくりと顔を上げ、三人に視線を向ける。その視線だけで、空気がわずかに引き締まった。
「……今日、あの猫人族の娘は来なかったのか?」
低く、落ち着いた声だった。威圧ではなく、事実の確認のための声。青司は思わず軽く息を呑み、レオンと目を合わせる。
レオンは静かに応えた。
「廊下でロマーヌ公爵夫人と遭遇し、同行する流れになりました」
青司も添える。
「今日の話し合いが終わりましたら、夫人のブローチを持って迎えに行くよう指示を受けています」
侯爵はゆっくりと深く息を吐き、静かに頷いた。
「そうか……分かった。迎えに行く際には、私も同行しよう」
その一言で、室内の緊張は自然な秩序として収まり、議論の場としての空気が整った。
「……それで、そちらは」
侯爵は視線をゆっくり上げ、セリーナを見据える。
「初めてお目にかかりますな。リルトの服飾ギルド工房長、セリーナ嬢でよろしいか」
セリーナは深く一礼する。声は落ち着き、しかし確かな緊張を含んでいた。
「はい。初めてお目にかかります。リルトの服飾ギルドの工房を預かっております、セリーナと申します」
侯爵は軽く頷き、わずかに目を細める。
「なるほど……リルトのギルドから、直接この場に来るとは、興味深い。ここまでの道筋は、よく整えてあるようだな」
クライヴが横で手早く書類を差し出す。侯爵はそれを受け取り、目を通しながら静かに頷いた。
「……なるほど。よく準備されているな」
青司もまた、侯爵に向けて短く報告する。
「本日、第三騎士団の比較試験の段取りを確認いたします。工房側代表のセリーナが資料と試作品を持参しています」
侯爵は書類を一瞥し、そして視線を上げ、二人にゆっくりと言った。
「よろしい。では、議題に移ろうか」
その一言で、応接室の緊張はただの秩序となり、討議の場としての空気が整う。
控えの騎士たちは自然と姿勢を正し、レオンも侯爵の横に座って手元の資料を整えた。
「今日の議題は、軍の装備改良と、工房の試作との比較だ」
侯爵の声は低く、確かに室内に響く。だが重さは抑えられ、議論を進めるための導入として完璧だった。
セリーナは静かに資料を並べ、青司とクライヴも隣に控える。
侯爵の威厳は場を支配するが、同時に議論を妨げるほどではない――
まさに、議論に集中させる威厳。
侯爵は指を組み、応接室の中央に置かれた試作品の方に視線を向けた。
「では、ここからが本番だ。各自、所見を述べよ」
静かな呼吸と、書類をめくる音。応接室の空気は、これから始まる比較試験の緊張と期待で満ちていた。
◆
応接室の中央に並べられた試作品を前に、セリーナは静かに立ち上がった。
「まず、先に持ち込んだ絹綿混紡の生地についてです」
彼女は丁寧に布を広げ、手触りを侯爵たちに示す。
「肌触りは柔らかく、光沢もございます。吸湿性・速乾性の面でも問題はありません。しかし、さらなる可能性を探るため、今回は絹麻混紡の試作品をいくつか用意いたしました」
侯爵オズワルドはゆっくりと頷き、手を組んだまま静かに見つめる。
「麻を混ぜる理由は?」
低く落ち着いた声で、問いかける。
「絹綿混紡の長所を残しつつ、麻を加えることで生地の強度を向上させ、さらにコストの低減を狙っています」
セリーナは配合比を書いた簡単な表を指し示す。
「糸の段階で絹と麻を、7:3、6:4、5:5、4:6、3:7、2:8の六種の割合で混紡しました。こちらの糸で生地を織り上げた際の肌触りや吸湿速乾の度合い、価格をまとめています」
青司はメモを取りつつ、クライヴは静かに資料を読み込む。侯爵は頷きながら、一つ一つの生地に指を触れ、手触りを確かめた。
「なるほど……確かに、絹と麻の比率によって、肌触りや硬さに差が出ているな」
侯爵の声は低く、だが鋭く、評価の含みを帯びる。
「最も絹の比率が高いものは、滑らかさと光沢が際立ちます」
セリーナは布を持ち上げ、光を受ける角度を変えながら説明する。
「麻が増えるほど、通気性と強度が増しますが、肌触りはやや硬めになります」
「費用の面ではどうだ?」
侯爵の視線が表に置かれた表に移る。
「絹7:麻3に比べ、絹3:麻7はおよそ7〜10%ほど低コストになります。使用目的に応じて、原料配合を選択可能です」
セリーナは落ち着いて説明し、必要に応じて布の触感を侯爵や幹部に確かめさせる。
静かな応接室。紅茶の香りがわずかに漂い、紙をめくる音、布を触る音、指先の微かな動きだけが響く。
侯爵はゆっくり息を吐き、深く頷く。
「……よく準備されている」
その言葉だけで、室内に流れる緊張感の意味がわかる。
青司も短く頷き、クライヴは手元の資料に目を落とした。
セリーナが最後の配合比率を示すと、応接室の空気が少しだけ張り詰めた。
オズワルド団長は、静かに指先で絹麻混紡の生地に触れ、感触を確かめる。
「なるほど……」
低く落ち着いた声。だが、その言葉には確かな評価の色が滲む。
「柔らかさ、肌触りともに悪くない。絹7:麻3と比べて、麻の割合が増しても、かなり扱いやすくなっているな」
幹部の一人が、眉をひそめながら手を伸ばす。
「値段の差を……もう一度聞いても良いか?」
セリーナは手元の資料を示し、声を落ち着けて答える。
「絹7:麻3に比べ、絹3:麻7はおよそ7%ほど低コストになります。原料費と、基本的な生地加工のコストを含めた数字です」
「なるほど」と侯爵。
掌で軽く生地を撫でる。
「コスト削減と品質の両立が、ここまでバランスよくなるとは……興味深い」
青司が控えめに口を開く。
「団長、この試作品を用いて比較試験を行う予定です。今回、セリーナが一組ずつ装備一式を用意していますので、現場の騎士団員にも触れてもらい、耐久性や吸湿速乾性を評価してもらいます」
「よろしい」と侯爵は頷いた。
「まずは触覚と肌触り、次に使用条件下での耐久性。段階を追って、現場の意見を集めるのだな」
レオンは侯爵の横で手早く書類をまとめ、付け加える。
「工房側は異なる配合の装備も用意しており、使用感や肌触り、吸湿速乾性を比較した表も揃えています」
侯爵はゆっくり息をつき、部屋を見渡す。
「なるほど……。では、各自、触れて確認する。率直な所感を述べるように」
幹部たちは静かに試作品を手に取り、触れ、少し眉をひそめたり、頷いたりする。
「……絹の割合が多い方が、柔らかさは優れるな」
「麻の割合を増やすと、速乾性と通気性が向上している」
侯爵は再びセリーナの方へ視線を向ける。
「工房長、実際に現場での使用を想定して、この配合の中で最適と考える比率はあるか?」
セリーナは短く頷き、はっきりと答える。
「耐久性と肌触りのバランスを考えると、絹4:麻6が最も現場向きです。価格面も含めれば、実用性は十分高いと思います」
侯爵は静かに息を吐き、控えの騎士たちや幹部の反応を確かめる。
「……分かった。では、現場での比較試験に進めよう」
青司は小さく頷き、クライヴも書類の確認をしながら、次の段取りを頭の中で整理する。
部屋の空気には、これからの比較試験への期待と緊張が漂ったままだった。
◆
訓練場から戻った騎士たちは、整然と応接室に並んだ試作品の前に立った。剣と盾を用いた軽い動作テストを経て、素材の伸縮性や肌触り、吸湿速乾性を体感してきた者たちだ。
侯爵オズワルドは指を組み、静かに彼らを見渡す。「では、各自の所見を述べよ」
一人が口を開く。
「絹多めの混紡は柔らかく、動きやすさは申し分ありません。しかし汗をかくと多少重く感じます」
別の騎士が続く。
「麻が多めの混紡は軽く、運動時の動作は快適です。肌触りは硬めですが、吸湿速乾性は良好です」
侯爵は騎士たちの報告と資料を見比べ、静かに頷く。
「なるほど……よく検討されているな」
「では、このデータをもとに総合的に判断する」
壁に控えた幹部たちが、口々に意見を交わし始める。
「耐久性を重視すれば、絹3:麻7でも良いが、肌触りは犠牲になる」
「だが、吸湿速乾性も考慮すると、絹4:麻6が最適でしょう」
「費用面も無視できない。麻の割合を増やすことで、コストを抑えられる」
侯爵は静かに腕を組み、各意見を聞きながら総合的な判断を組み立てる。
「なるほど……皆の意見を総合すれば、絹4:麻6を基本とし、状況に応じて配合を調整するのが最も合理的か」
応接室には一瞬の静寂が訪れる。騎士団幹部たちの表情は皆、納得した様子だった。
青司は控えめに頷き、侯爵の言葉を胸に刻む。
「団長……では、この仕様で、正式に注文をかけてもよろしいでしょうか」
レオンの声には、緊張よりも責任感が込められていた。
侯爵はゆっくりと頷く。
「よい。第三騎士団、二百五十人分、一人二枚、合計五百組。すべて、この配合・仕様で作られるように、ホヅミ商会に正式に発注する」
レオンが書類を手早くまとめ、侯爵の言葉を確認する。
「了解しました。発注書はホヅミ商会宛てにすぐに手配いたします」
セリーナは横で短く頷き、心の中で準備していた情報と数量を確認した。
「耐久性、吸湿速乾性、価格……すべて把握しています」
侯爵はさらに重々しい声で付け加える。
「期限を守ること。品質は妥協するな。第三騎士団の装備である以上、命を預ける者の安全が最優先だ」
青司は深く頭を下げる。
「承知しました」
クライヴも頭を下げる。
「すべての工程を監督し、品質の確認も怠りません」
レオンが手元の書類に軽く目を通し、付け加えた。
「必要な書類は、後ほど正式に整えます」
応接室の空気は、再び落ち着きを取り戻す。
決定が下された今、次の段階は現場での製作と、騎士たちの安全を保証するための最終確認へと移るのだった。
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応接室の空気が決定事項の確認で落ち着きを取り戻すと、青司はそっと手をポケットに滑り込ませた。指先が触れたのは、公爵夫人から託されたブローチだった。冷たい金属の感触に、胸の奥が少しだけ締め付けられる。
「……よし」
青司は小さく息をつき、視線を上げる。
そのとき、オズワルドが静かに口を開いた。深く座り込む背中からも、威厳がにじみ出ている。
「迎えに行きたい者がおるのだろう、セイジさん」
言葉に含まれた調子は柔らかいが、命令でもあり、承認でもある。その意味は十分に伝わった。
「案内しよう」
青司は軽く頷くと、ブローチをもう一度見つめ、深呼吸をひとつ。
その時、セリーナは横で手に持っていた資料を整えながら、静かに頭を下げた。
「それでは、私は工房に戻り、作業を進めます」
彼女の声は落ち着いている。だが目には、今日の比較試験が無事に終わった安堵と、次の工程への責任感が宿っていた。
「わかりました。それでは、後日現場で」
青司は軽く手を上げ、セリーナに礼を告げる。
「では行くとしよう」
侯爵の手が、応接室の奥に続く廊下の方向をゆっくりと指し示す。青司は小さく頭を下げ、従うように歩を進める。
廊下には厚手の絨毯が敷かれており、青司たちの歩みはほとんど音を立てなかった。
侯爵に案内されて進む廊下は、静寂と威厳に包まれており、足元を吸収する絨毯のおかげで、自然と呼吸や心臓の音まで意識されるようだった。
クライヴは横で静かに付き添い、必要があれば支える構えを整える。
扉の向こう、公爵夫人の部屋からは話し声ひとつ漏れてこない。青司は、そこでリオナが安全に待っていることを思い浮かべ、胸の奥で軽く緊張がざわめいた。
青司はポケットのブローチに手を添え、息を整える。扉の向こうにいるのは――きっと、リオナと公爵夫人だ。青司の胸の奥で、緊張と期待が静かに波打った。
侯爵は振り返らずに、淡く言葉を添える。
「慎重にな。だが、礼節を忘れるな」
青司は小さく頷き、ブローチをしっかり握り直す。これから先は、公爵夫人のもとへ――そして、リオナとの再会だ。




