表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/110

82

 庁舎の奥へ続く廊下は、思ったよりも静かだった。


 廊下には厚手の絨毯が敷かれており、歩くたびに足音は吸収される。

 ロマーヌ公爵夫人は、その静寂すら計算に入れているかのように、歩調を整えながら歩いていた。


 早くも遅くもない。

 だが、自然と――こちらが歩調を合わせてしまう速度。


(……置いていかれない)


 そう思った瞬間に気づく。

 置いていかれないのではない。置いていかせない歩き方なのだと。


 夫人は前を向いたまま、ふと口を開いた。


「緊張している?」


 問いかけは軽い。

 だが、逃げ道はない。


 リオナは一拍置いてから、正直に答えた。


「……少し」


「そう」


 それだけ。

 慰めもしなければ、責めもしない。


 廊下の窓から、午後の光が差し込む。

 色の淡い光が、夫人の横顔を照らしていた。


 白い手袋。

 揺れない姿勢。

 視線は前へ――決して、こちらを値踏みするようには向けない。


 けれど。


(……見られている)


 肌の質感。

 髪の手入れ。

 呼吸の浅さ。


  視線を向けられなくても、すべてを把握されている感覚があった。

 背後には従者たちの気配もあるはずなのに、意識は夫人に縫い止められている。


「あなた、森の匂いがするわね」


 唐突な一言。


 リオナは思わず、目を瞬かせた。


「……はい」


「嫌いじゃないわ」

 夫人は、ほんのわずかに口元を緩める。

「王都には、あまり残っていない匂いだもの」


 歩きながら、指先で扉を示す。


「ここ」


 扉の前で立ち止まる。

 それだけで、周囲の空気が変わった。


 控えめだが、上質な扉。

 装飾は少ないが、隙がない。


 夫人は振り返り、初めてリオナの顔を正面から見た。


 視線が、合う。


 優しい――と、思いかけて、やめる。

 それはきっと、違う。


「あなたは、きれいね」


 飾らない声。


「守られてきたきれいさじゃない」

「自分で、傷を避けてきた人の肌だわ」


 リオナは、何も言えなかった。


 夫人はそれを当然のように受け取り、微笑む。


「安心なさい」

「連れてきた理由は、悪いものではないわ」


 そして、静かに付け加えた。


「少なくとも――あなた自身にとっては」


 扉が開かれる。


 柔らかな香り。

 外とは切り離された空気。


 夫人は一歩先に進み、振り返らずに言った。


「さあ」

「少し、お茶でも飲みましょう」


 リオナは、胸の奥が静かに鳴るのを感じながら、一歩を踏み出した。


 ――迎えに来る人の顔が、ふと脳裏をよぎったが。


 今は、それを考える時間ではなかった。



扉の向こうは、外よりも柔らかな空気に満ちていた。


 香りは控えめだが、はっきりとした調合。

 花だけではない。乾いた茶葉と、かすかに樹脂の匂い。

 落ち着かせるための香りだと、リオナは直感する。


 ロマーヌ公爵夫人は中へ入ると、足を止めずに言った。


「どうぞ」


 それだけだった。


 部屋は広いが、無駄がない。

 壁際には低い棚と、書類用の机。

 中央には、小さな円卓と二脚の椅子。


 夫人は迷いなく片方に腰を下ろす。

 背筋は伸びているが、力は入っていない。


 リオナが一拍遅れて椅子に近づくと、周囲が動いた。


 扉が静かに閉められる。

 侍女が背後へ半歩下がり、護衛らしき気配は視界の端へ溶ける。

 誰も指示を受けていないのに、それぞれの位置が定まっていく。


(……ここは、そういう場所)


 リオナはそう理解し、促されるまま椅子に腰を下ろした。


 カップが置かれる音。

 白磁が卓に触れる、短く澄んだ音。


 夫人はまだ、手を伸ばさない。


 その沈黙の中で、初めて視線が合った。


「ここは、私の部屋よ」


 声は穏やかだった。


「余計な話は、外へは出ないわ」

「だから――安心して、お座りなさいな」


 命令ではない。

 だが、異論を差し挟む余地もない。


 リオナは、静かに頷いた。


 夫人はそれを確認してから、ようやく微笑む。


「では、改めて」


 一拍。


「あなたのお名前を、伺ってもいいかしら」


 逃げ道のない問いだった。

 だが、不躾さは感じない。


 リオナは背筋を正し、答える。


「……リオナ、と申します」


「リオナさん」


 名を、ゆっくりと口にする。

 音の響きを確かめるように。


「良い名前ね」


 それだけで、評価が下された気がした。


 夫人はカップに手を伸ばすが、まだ飲まない。


 間を置かず、次の言葉が続く。

「先ほど、リルトのホヅミ商会長の同行者、と聞いたけれど」

「あなたは、あの商会の方なの?」


 問いは穏やかだが、曖昧な返答を許さない。


 リオナは背筋を伸ばし、正直に答えた。


「いえ。商会の人間ではありません」

「ただ……一緒に行動させていただいています」


 夫人は否定も肯定もせず、視線を少しだけ和らげる。


「……そう」

「“属してはいない”けれど、“無関係でもない”のね」


 言い当てられた形だった。


 そして、三つ目の問い。


「リオナさんは王都には、慣れているのかしら?」


 それだけ。


 住まいも、出自も、聞かれない。


 だが――答えは、自然と限られる。


「……いいえ」

 リオナは一拍置いてから答えた。

「まだ、慣れていません」


 夫人は、ほんのわずかに微笑んだ。


「でしょうね」


 茶器が静かに置かれる音がする。


「あなたからは」

 夫人は紅茶に視線を落としたまま、続けた。

「王都で長く暮らした人の匂いがしないわ」


 それ以上は、言わなかった。


 だがその一言で、

 リオナが「外から来た人間」であることは、完全に把握された。


 夫人は、リオナの返答を急かさなかった。

 ただ、視線を外さずに一拍、待つ。


 その間に、扉の外から気配が動いた。


 音もなく開いた扉から、従者が二人入ってくる。

 一人は銀のトレイを、もう一人は湯気の立つティーポットを手にしていた。


 配置は無駄がない。

 夫人の斜め後ろ、影にならない位置。

 リオナの前には、そっと――逃げ場を塞がない距離で。


 淡い香りが、空気に溶ける。


「……いい香りでしょう」


 夫人は、自分のカップに残る紅茶を飲み干すことなく言った。


「少し、足してちょうだい」


 声は、ごく穏やかだった。


「今日は、少し軽めにしてあるの。

 緊張している人には――強い茶葉は、向かないでしょう?」


 カップが置かれる。

 白磁に、細い金の縁取り。

 音を立てない所作に、逆に背筋が伸びた。


 夫人は、自分のカップを取る前に、リオナを見た。


「どうぞ。

 話は、飲みながらでいいわ」


 促され、リオナは両手でカップを包む。

 温度が、指先から伝わってきた。


 一口。


 苦味はほとんどなく、後にほんのり甘さが残る。


「……おいしいです」


 思わず、そう零れる。


 夫人の口元が、わずかに緩んだ。


「正直ね。嫌いじゃないわ」


 一口、夫人も紅茶を飲む。


「さっきの質問だけれど」


 カップを置く音は、静かだった。


「王都に慣れているか――と聞いたのはね、

 道に迷うかどうかを知りたかったわけじゃないの」


 リオナは、黙って続きを待つ。


「王都は、

 “慣れた者ほど、疲れる街”なの」


 視線が、やわらかく、しかし正確にリオナを捉える。


「あなたは、疲れていない。

 緊張はしているけれど――すり減ってはいない」


 少し間を置いて。


「それは、

 あなたが誰かに“使われている”立場ではない、ということ」


 紅茶の表面が、かすかに揺れた。


 リオナは、カップに視線を落としたまま、静かに答える。


「……私は、

 ついてきただけです」


「ええ」


 即答だった。


「でも、“連れてこられた”のではない」


 夫人は微笑む。


「その違いは、

 見れば分かる人には分かるのよ」


 再び、紅茶。


 今度は、夫人の方から一息つくように。


「だから、次は――」


 視線が上がる。


「あなた自身のことを、少しだけ聞きたいわ」


 声は変わらない。

 けれど、逃げ場は用意されている。


「答えたくないことは、答えなくていい。

 その代わり、答えるなら、飾らないで」


 紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと昇っていく。


「ねえ、リオナさん」


 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がわずかに鳴った。


「あなたは――

 ここに来て、後悔している?」


 その問いは、

 試すためではなく、確かめるためのものだった。


 部屋の外は遠い。

 今、この静かな卓の上にあるのは、

 紅茶と、視線と、選ばれた言葉だけ。


 リオナは、もう一度カップを手に取った。


 温かさを確かめるように。


 リオナは、すぐには答えなかった。


 カップの縁に指を添え、ゆっくりと一口、紅茶を口に含む。

 熱すぎない。香りが先に立ち、喉を通る頃には、ほのかな甘みだけが残る。


 それから、視線を伏せたまま、言った。


「……後悔、というほどでは」


 一拍。


「正直に言えば、怖いです」

 声は低く、揺れていない。

「王都も、この場所も。自分が、ここにいていいのかも」


 少しだけ、言葉を選ぶ間があった。


「でも」

 リオナは顔を上げ、夫人を見た。

「来なければよかった、とは思っていません」


 その視線は、逃げていない。


「必要だと思ったから、来ました」

「一緒に来た人が、ここで話をするなら」

「……私も、そばにいるべきだと思ったので」


 カップを静かに置く。


「だから」

 小さく、しかしはっきりと。

「後悔しているかと聞かれたら――いいえ、です」


 夫人の表情は、まだ読めない。


 だが、紅茶の湯気の向こうで、

 その答えが「飾られていない」ことだけは、確かに伝わっていた。


 夫人は、すぐには言葉を返さなかった。


 カップを手に取り、ひと口。

 紅茶を味わうというより、間を置くための所作だった。


 やがて、静かに息を吐く。


「……いい答えね」


 声は穏やかで、感情の起伏はない。

 だが、その一言には――値踏みではない、判断が含まれていた。


「怖いと認めて、それでも来た」

「それで後悔していない、と言える人は多くないわ」


 視線が、わずかに和らぐ。


「選ばされて動く人ではなく」

「自分で選んで、立つ人ね」


 そして、何気ない調子で続けた。


「では――」


 一拍。


「その人のそばから、少しの間とはいえ、離させてしまって」

「申し訳なかったかしら」


 謝罪の言葉。

 けれど、頭は下げない。

 声色も変わらない。


 それは“詫び”というより、

 どう受け取るかを、相手に委ねる問いだった。


 夫人は、リオナの反応を待ちながら、淡く微笑む。


「迎えに来るように、と言ったでしょう?」

「あれは、形だけの約束ではないのよ」


 紅茶の湯気が、ふたりの間でゆっくりと揺れた。


 リオナは、すぐには顔を上げなかった。


 カップを持つ指に、ほんの少しだけ力が入る。

 温かさを確かめるように、縁に触れてから、静かに口を開いた。


「……いいえ」

 首を小さく振る。

「そうは、思っていません」


 一度、言葉を切る。


 そのまま終わらせることもできた。

 けれど、夫人の視線が、続きを待っているのがわかった。


「ただ――」


 ほんの一瞬、息を整える。


「少し、驚きました」


 言い訳はしない。

 怖さも、戸惑いも、飾らずに。


「急でしたから」

「でも……嫌では、ありませんでした」


 言い終えたあと、ようやく顔を上げる。


 視線が合う。


 逃げない。

 背伸びもしない。


 ロマーヌ公爵夫人は、すぐには言葉を返さなかった。


 だが、その沈黙は、重くない。


 カップを置く音が、静かに響く。


「正直ね」


 それだけ。


 賞賛でも、評価でもない。

 だが――否定では、決してなかった。


 夫人は、口元にかすかな笑みを浮かべる。


「その程度の驚きなら、許されるわ」


 視線が、柔らかくリオナを包む。


「無理に慣れたふりをする人より」

「ずっと、信用できるもの」


 紅茶の香りが、もう一度、空気を満たした。


 ロマーヌ公爵夫人は、カップを置いたまま、指先だけをわずかに動かした。


「では――」


 間を置く。

 その一拍が、場を整える。


「あなたが、“そばにいたい人”は」

 視線が、真正面から向けられる。

「どういう人かしら」


 声は柔らかい。

 だが、問いは明確だった。


 リオナは、すぐには答えなかった。


 胸の奥で、名前が浮かぶ。

 だが、それをそのまま口にするのは、違う気がした。


 少しだけ、言葉を選ぶ。


「……静かな人、です」


 自分でも意外なほど、はっきりとした声だった。


「前に出るより、後ろで見ていることが多くて」

「でも……必要な時には、必ず動く人」


 夫人の表情は変わらない。

 促しも、遮りもない。


 だから、続ける。


「話さなくても、放っておいてくれるところがあって」

「けれど、放っておかないところも、あります」


 矛盾している。

 けれど、嘘ではない。


 リオナは、自分のカップに視線を落とす。


「安心できる人です」

「一緒にいて、息を詰めなくていい」


 そこで言葉を切る。


 それ以上は、説明になってしまう気がした。


 沈黙。


 紅茶の湯気が、ゆっくりと二人の間を上っていく。


 やがて、ロマーヌ公爵夫人が、ふっと息をついた。


「……なるほど」


 その一言に、含みがある。


「珍しくもないけれど」

 指先でカップの縁をなぞりながら、続ける。

「簡単に出会える人でもないわね」


 視線が、どこか遠くを見る。


「そういう人のそばにいられるのは」

 ほんの一瞬、声が低くなる。

「運よ」


 再び、リオナを見る。


「あなたは、その運を」

「自分の手で、掴んでいるのね」


 断定だった。


 評価ではない。

 だが、見抜いた者の言葉だった。


 夫人は、ゆっくりと微笑む。


「……ありがとう」


 それだけだった。

 礼を言われる理由を、説明する必要はない。


 カップに手を伸ばし、ひと口、紅茶を含む。


「大事なところは、十分に聞かせてもらったわ」

「ここまで、正直に話してくれるとは思っていなかったから」


 視線が、柔らかくなる。


「ええ、ここからは――」

 小さく息をついて、声の調子を変えた。

「もう少し、楽しいお話にしましょう」


 そう言って、扉の方へ目配せをする。


「せっかく王都に来ているのだもの」

「堅い話ばかりでは、疲れてしまうでしょう?」


 紅茶の香りが、再びふわりと立つ。

 空気が、わずかに緩んだ。


「最近、王都で評判になっている品の話でもいいし」

「あなたが見て、面白いと思った街のことでもいいわ」


 夫人は、いたずらっぽく微笑む。


「――安心なさい」

「ここからは、確かめる時間ではないから」

「少し、肩の力を抜きましょう」

 そう言って、カップを置いた。


 リオナは、胸の奥が静かにほどけていくのを感じながら、

 もう一度、紅茶に手を伸ばした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ