82
庁舎の奥へ続く廊下は、思ったよりも静かだった。
廊下には厚手の絨毯が敷かれており、歩くたびに足音は吸収される。
ロマーヌ公爵夫人は、その静寂すら計算に入れているかのように、歩調を整えながら歩いていた。
早くも遅くもない。
だが、自然と――こちらが歩調を合わせてしまう速度。
(……置いていかれない)
そう思った瞬間に気づく。
置いていかれないのではない。置いていかせない歩き方なのだと。
夫人は前を向いたまま、ふと口を開いた。
「緊張している?」
問いかけは軽い。
だが、逃げ道はない。
リオナは一拍置いてから、正直に答えた。
「……少し」
「そう」
それだけ。
慰めもしなければ、責めもしない。
廊下の窓から、午後の光が差し込む。
色の淡い光が、夫人の横顔を照らしていた。
白い手袋。
揺れない姿勢。
視線は前へ――決して、こちらを値踏みするようには向けない。
けれど。
(……見られている)
肌の質感。
髪の手入れ。
呼吸の浅さ。
視線を向けられなくても、すべてを把握されている感覚があった。
背後には従者たちの気配もあるはずなのに、意識は夫人に縫い止められている。
「あなた、森の匂いがするわね」
唐突な一言。
リオナは思わず、目を瞬かせた。
「……はい」
「嫌いじゃないわ」
夫人は、ほんのわずかに口元を緩める。
「王都には、あまり残っていない匂いだもの」
歩きながら、指先で扉を示す。
「ここ」
扉の前で立ち止まる。
それだけで、周囲の空気が変わった。
控えめだが、上質な扉。
装飾は少ないが、隙がない。
夫人は振り返り、初めてリオナの顔を正面から見た。
視線が、合う。
優しい――と、思いかけて、やめる。
それはきっと、違う。
「あなたは、きれいね」
飾らない声。
「守られてきたきれいさじゃない」
「自分で、傷を避けてきた人の肌だわ」
リオナは、何も言えなかった。
夫人はそれを当然のように受け取り、微笑む。
「安心なさい」
「連れてきた理由は、悪いものではないわ」
そして、静かに付け加えた。
「少なくとも――あなた自身にとっては」
扉が開かれる。
柔らかな香り。
外とは切り離された空気。
夫人は一歩先に進み、振り返らずに言った。
「さあ」
「少し、お茶でも飲みましょう」
リオナは、胸の奥が静かに鳴るのを感じながら、一歩を踏み出した。
――迎えに来る人の顔が、ふと脳裏をよぎったが。
今は、それを考える時間ではなかった。
◆
扉の向こうは、外よりも柔らかな空気に満ちていた。
香りは控えめだが、はっきりとした調合。
花だけではない。乾いた茶葉と、かすかに樹脂の匂い。
落ち着かせるための香りだと、リオナは直感する。
ロマーヌ公爵夫人は中へ入ると、足を止めずに言った。
「どうぞ」
それだけだった。
部屋は広いが、無駄がない。
壁際には低い棚と、書類用の机。
中央には、小さな円卓と二脚の椅子。
夫人は迷いなく片方に腰を下ろす。
背筋は伸びているが、力は入っていない。
リオナが一拍遅れて椅子に近づくと、周囲が動いた。
扉が静かに閉められる。
侍女が背後へ半歩下がり、護衛らしき気配は視界の端へ溶ける。
誰も指示を受けていないのに、それぞれの位置が定まっていく。
(……ここは、そういう場所)
リオナはそう理解し、促されるまま椅子に腰を下ろした。
カップが置かれる音。
白磁が卓に触れる、短く澄んだ音。
夫人はまだ、手を伸ばさない。
その沈黙の中で、初めて視線が合った。
「ここは、私の部屋よ」
声は穏やかだった。
「余計な話は、外へは出ないわ」
「だから――安心して、お座りなさいな」
命令ではない。
だが、異論を差し挟む余地もない。
リオナは、静かに頷いた。
夫人はそれを確認してから、ようやく微笑む。
「では、改めて」
一拍。
「あなたのお名前を、伺ってもいいかしら」
逃げ道のない問いだった。
だが、不躾さは感じない。
リオナは背筋を正し、答える。
「……リオナ、と申します」
「リオナさん」
名を、ゆっくりと口にする。
音の響きを確かめるように。
「良い名前ね」
それだけで、評価が下された気がした。
夫人はカップに手を伸ばすが、まだ飲まない。
間を置かず、次の言葉が続く。
「先ほど、リルトのホヅミ商会長の同行者、と聞いたけれど」
「あなたは、あの商会の方なの?」
問いは穏やかだが、曖昧な返答を許さない。
リオナは背筋を伸ばし、正直に答えた。
「いえ。商会の人間ではありません」
「ただ……一緒に行動させていただいています」
夫人は否定も肯定もせず、視線を少しだけ和らげる。
「……そう」
「“属してはいない”けれど、“無関係でもない”のね」
言い当てられた形だった。
そして、三つ目の問い。
「リオナさんは王都には、慣れているのかしら?」
それだけ。
住まいも、出自も、聞かれない。
だが――答えは、自然と限られる。
「……いいえ」
リオナは一拍置いてから答えた。
「まだ、慣れていません」
夫人は、ほんのわずかに微笑んだ。
「でしょうね」
茶器が静かに置かれる音がする。
「あなたからは」
夫人は紅茶に視線を落としたまま、続けた。
「王都で長く暮らした人の匂いがしないわ」
それ以上は、言わなかった。
だがその一言で、
リオナが「外から来た人間」であることは、完全に把握された。
夫人は、リオナの返答を急かさなかった。
ただ、視線を外さずに一拍、待つ。
その間に、扉の外から気配が動いた。
音もなく開いた扉から、従者が二人入ってくる。
一人は銀のトレイを、もう一人は湯気の立つティーポットを手にしていた。
配置は無駄がない。
夫人の斜め後ろ、影にならない位置。
リオナの前には、そっと――逃げ場を塞がない距離で。
淡い香りが、空気に溶ける。
「……いい香りでしょう」
夫人は、自分のカップに残る紅茶を飲み干すことなく言った。
「少し、足してちょうだい」
声は、ごく穏やかだった。
「今日は、少し軽めにしてあるの。
緊張している人には――強い茶葉は、向かないでしょう?」
カップが置かれる。
白磁に、細い金の縁取り。
音を立てない所作に、逆に背筋が伸びた。
夫人は、自分のカップを取る前に、リオナを見た。
「どうぞ。
話は、飲みながらでいいわ」
促され、リオナは両手でカップを包む。
温度が、指先から伝わってきた。
一口。
苦味はほとんどなく、後にほんのり甘さが残る。
「……おいしいです」
思わず、そう零れる。
夫人の口元が、わずかに緩んだ。
「正直ね。嫌いじゃないわ」
一口、夫人も紅茶を飲む。
「さっきの質問だけれど」
カップを置く音は、静かだった。
「王都に慣れているか――と聞いたのはね、
道に迷うかどうかを知りたかったわけじゃないの」
リオナは、黙って続きを待つ。
「王都は、
“慣れた者ほど、疲れる街”なの」
視線が、やわらかく、しかし正確にリオナを捉える。
「あなたは、疲れていない。
緊張はしているけれど――すり減ってはいない」
少し間を置いて。
「それは、
あなたが誰かに“使われている”立場ではない、ということ」
紅茶の表面が、かすかに揺れた。
リオナは、カップに視線を落としたまま、静かに答える。
「……私は、
ついてきただけです」
「ええ」
即答だった。
「でも、“連れてこられた”のではない」
夫人は微笑む。
「その違いは、
見れば分かる人には分かるのよ」
再び、紅茶。
今度は、夫人の方から一息つくように。
「だから、次は――」
視線が上がる。
「あなた自身のことを、少しだけ聞きたいわ」
声は変わらない。
けれど、逃げ場は用意されている。
「答えたくないことは、答えなくていい。
その代わり、答えるなら、飾らないで」
紅茶の湯気が、二人の間をゆっくりと昇っていく。
「ねえ、リオナさん」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がわずかに鳴った。
「あなたは――
ここに来て、後悔している?」
その問いは、
試すためではなく、確かめるためのものだった。
部屋の外は遠い。
今、この静かな卓の上にあるのは、
紅茶と、視線と、選ばれた言葉だけ。
リオナは、もう一度カップを手に取った。
温かさを確かめるように。
リオナは、すぐには答えなかった。
カップの縁に指を添え、ゆっくりと一口、紅茶を口に含む。
熱すぎない。香りが先に立ち、喉を通る頃には、ほのかな甘みだけが残る。
それから、視線を伏せたまま、言った。
「……後悔、というほどでは」
一拍。
「正直に言えば、怖いです」
声は低く、揺れていない。
「王都も、この場所も。自分が、ここにいていいのかも」
少しだけ、言葉を選ぶ間があった。
「でも」
リオナは顔を上げ、夫人を見た。
「来なければよかった、とは思っていません」
その視線は、逃げていない。
「必要だと思ったから、来ました」
「一緒に来た人が、ここで話をするなら」
「……私も、そばにいるべきだと思ったので」
カップを静かに置く。
「だから」
小さく、しかしはっきりと。
「後悔しているかと聞かれたら――いいえ、です」
夫人の表情は、まだ読めない。
だが、紅茶の湯気の向こうで、
その答えが「飾られていない」ことだけは、確かに伝わっていた。
夫人は、すぐには言葉を返さなかった。
カップを手に取り、ひと口。
紅茶を味わうというより、間を置くための所作だった。
やがて、静かに息を吐く。
「……いい答えね」
声は穏やかで、感情の起伏はない。
だが、その一言には――値踏みではない、判断が含まれていた。
「怖いと認めて、それでも来た」
「それで後悔していない、と言える人は多くないわ」
視線が、わずかに和らぐ。
「選ばされて動く人ではなく」
「自分で選んで、立つ人ね」
そして、何気ない調子で続けた。
「では――」
一拍。
「その人のそばから、少しの間とはいえ、離させてしまって」
「申し訳なかったかしら」
謝罪の言葉。
けれど、頭は下げない。
声色も変わらない。
それは“詫び”というより、
どう受け取るかを、相手に委ねる問いだった。
夫人は、リオナの反応を待ちながら、淡く微笑む。
「迎えに来るように、と言ったでしょう?」
「あれは、形だけの約束ではないのよ」
紅茶の湯気が、ふたりの間でゆっくりと揺れた。
リオナは、すぐには顔を上げなかった。
カップを持つ指に、ほんの少しだけ力が入る。
温かさを確かめるように、縁に触れてから、静かに口を開いた。
「……いいえ」
首を小さく振る。
「そうは、思っていません」
一度、言葉を切る。
そのまま終わらせることもできた。
けれど、夫人の視線が、続きを待っているのがわかった。
「ただ――」
ほんの一瞬、息を整える。
「少し、驚きました」
言い訳はしない。
怖さも、戸惑いも、飾らずに。
「急でしたから」
「でも……嫌では、ありませんでした」
言い終えたあと、ようやく顔を上げる。
視線が合う。
逃げない。
背伸びもしない。
ロマーヌ公爵夫人は、すぐには言葉を返さなかった。
だが、その沈黙は、重くない。
カップを置く音が、静かに響く。
「正直ね」
それだけ。
賞賛でも、評価でもない。
だが――否定では、決してなかった。
夫人は、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「その程度の驚きなら、許されるわ」
視線が、柔らかくリオナを包む。
「無理に慣れたふりをする人より」
「ずっと、信用できるもの」
紅茶の香りが、もう一度、空気を満たした。
ロマーヌ公爵夫人は、カップを置いたまま、指先だけをわずかに動かした。
「では――」
間を置く。
その一拍が、場を整える。
「あなたが、“そばにいたい人”は」
視線が、真正面から向けられる。
「どういう人かしら」
声は柔らかい。
だが、問いは明確だった。
リオナは、すぐには答えなかった。
胸の奥で、名前が浮かぶ。
だが、それをそのまま口にするのは、違う気がした。
少しだけ、言葉を選ぶ。
「……静かな人、です」
自分でも意外なほど、はっきりとした声だった。
「前に出るより、後ろで見ていることが多くて」
「でも……必要な時には、必ず動く人」
夫人の表情は変わらない。
促しも、遮りもない。
だから、続ける。
「話さなくても、放っておいてくれるところがあって」
「けれど、放っておかないところも、あります」
矛盾している。
けれど、嘘ではない。
リオナは、自分のカップに視線を落とす。
「安心できる人です」
「一緒にいて、息を詰めなくていい」
そこで言葉を切る。
それ以上は、説明になってしまう気がした。
沈黙。
紅茶の湯気が、ゆっくりと二人の間を上っていく。
やがて、ロマーヌ公爵夫人が、ふっと息をついた。
「……なるほど」
その一言に、含みがある。
「珍しくもないけれど」
指先でカップの縁をなぞりながら、続ける。
「簡単に出会える人でもないわね」
視線が、どこか遠くを見る。
「そういう人のそばにいられるのは」
ほんの一瞬、声が低くなる。
「運よ」
再び、リオナを見る。
「あなたは、その運を」
「自分の手で、掴んでいるのね」
断定だった。
評価ではない。
だが、見抜いた者の言葉だった。
夫人は、ゆっくりと微笑む。
「……ありがとう」
それだけだった。
礼を言われる理由を、説明する必要はない。
カップに手を伸ばし、ひと口、紅茶を含む。
「大事なところは、十分に聞かせてもらったわ」
「ここまで、正直に話してくれるとは思っていなかったから」
視線が、柔らかくなる。
「ええ、ここからは――」
小さく息をついて、声の調子を変えた。
「もう少し、楽しいお話にしましょう」
そう言って、扉の方へ目配せをする。
「せっかく王都に来ているのだもの」
「堅い話ばかりでは、疲れてしまうでしょう?」
紅茶の香りが、再びふわりと立つ。
空気が、わずかに緩んだ。
「最近、王都で評判になっている品の話でもいいし」
「あなたが見て、面白いと思った街のことでもいいわ」
夫人は、いたずらっぽく微笑む。
「――安心なさい」
「ここからは、確かめる時間ではないから」
「少し、肩の力を抜きましょう」
そう言って、カップを置いた。
リオナは、胸の奥が静かにほどけていくのを感じながら、
もう一度、紅茶に手を伸ばした。




