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第三騎士団庁舎の石段を下りた瞬間、クライヴは外套を翻し、迷いなく歩き出した。
王都の午後は、まだ人の流れが多い。
商人の呼び声、馬車の軋む音、遠くで鳴る鐘。
だが彼の耳には、それらは背景音に過ぎなかった。
――予想以上に、話が早い。
庁舎を出てから、頭の中で先ほどのやり取りを反芻する。
即断は避ける。
比較試験。
素材選定は慎重に。
だがそれは裏を返せば、「本気で導入を考えている」ということだ。
クライヴは歩調を早め、人混みの隙間を縫う。
ここで手配が遅れれば、次の流れに乗れない。
セイジの立場も、工房側の信用も、すべてに影響が出る。
――間に合え。
フィオレル卿の邸宅は、王都の中でも比較的静かな区画にある。
門が見えたとき、クライヴはようやく一息だけ吐いた。
だが、立ち止まらない。
門衛に名を告げる声は簡潔に。
取次を待つ間も、頭の中では次の段取りを組み立てていた。
リルト。
商業ギルド。
服飾ギルド工房。
セリーナ。
すでに昨夜のうちに、商会で使っている伝書鷹を通じて、ラシェルには話を入れてある。
フィオレル卿が噛んでいる以上、連絡が滞るはずはない。
問題は――どこまで具体的に動いてもらえるか。
「……第三騎士団が、本気だ」
小さく呟き、クライヴは背筋を正す。
これは根回しではない。
ただの予防線でもない。
次の一手を、確実に現実へ落とし込むための動きだ。
午後の陽が、邸の石壁に淡く反射する。
王都は、何事もない顔で今日を続けている。
その裏で、静かに歯車が回り始めていることを知る者は、まだ少ない。
クライヴは呼び出しを告げられ、邸の奥へと足を踏み入れた。
時間は、無駄にできなかった。
◆
応接間は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
フィオレル子爵は、クライヴの報告を最後まで黙って聞き、やがて小さく頷いた。
「第三騎士団か……」
指先で机を軽く叩きながら、静かに言う。
「街道補修の件もあったからな。
あの流れなら、軍が装備に目を向けるのは時間の問題だと思っていた」
クライヴは一歩、姿勢を正す。
「恐れ入ります」
子爵は顔を上げ、淡々と続けた。
「私からラシェル経由でセリーナには、すでに伝えてある。もちろん、服飾ギルド長のオルヴェインにもだが」
「彼女には素材配分を変えた試作を、いくつか用意しておくようにな」
その言葉に、クライヴの表情がわずかに引き締まる。
「君たちがリルトを発った翌日――つまり今日だ」
「試作を持って、王都へ向かっているはずだ」
子爵は、断定するように言った。
「早くて今晩。状況が良ければ、明朝には着くだろう」
「軍との話し合いが“検討”の段階に入ったなら、
工房の人間が顔を出すのは、まあ自然な流れだろう」
視線が、クライヴに向けられる。
「君たちは、余計なことをしていない」
「むしろ、よく判断した」
短い沈黙。
クライヴは、深く一礼した。
「ありがとうございます。第三騎士団は、比較試験を前提に動く構えです」
「素材選定は慎重に進めたい、と」
「それでいい」
フィオレル子爵は即答した。
「急がず、だが遅れない。それが一番だ」
話は、それ以上広がらなかった。
だが、必要な情報はすべて揃っていた。
クライヴは再び頭を下げ、応接間を後にする。
――これで、歯車は揃った。
あとは、現場と工房と軍が、同じテーブルにつくかどうか。
それだけだ。
◆
フィオレル邸を出たクライヴは、外套の前を留め直すと、そのまま石畳を早足で進んだ。
王都の通りは、夕刻に向かって人の流れが増えつつある。
だが、今はそれを眺めている余裕はない。
(――よし。順番は崩れていない)
頭の中で、情報を一つずつ並べ直す。
第三騎士団の判断。
比較試験という方針。
セリーナの到着見込み。
どれも噛み合っている。
遅すぎず、早すぎず――今が一番、動かしやすい。
騎士団庁舎の門が見えたところで、クライヴは一度だけ息を整えた。
走ってきたわけではないが、思考の回転が身体より先に疲労を呼んでいる。
門衛に名を告げると、すぐに中へ通された。
廊下を進む途中、すれ違う騎士たちの視線が一瞬だけこちらに向く。
昼の会合の余韻が、まだ庁舎全体に残っているのだろう。
案内されたのは、応接室ではなく、少し簡素な詰所だった。
書類の束、壁に掛けられた配置図、控えめな油灯の明かり。
そこに、レオンがいた。
机に手をつき、資料を確認していたレオンは、クライヴの姿を見ると顔を上げる。
「来ると思っていた」
その一言だけで、状況を察している声音だった。
「はい。走り回らせて頂いております」
クライヴは一歩前に出て、簡潔に告げる。
「工房の代表――セリーナは、順調なら明朝、遅くとも午前中には王都に入ります」
レオンの眉が、わずかに動いた。
「早いな」
「ええ。比較試験という方針が出た時点で、動いていました」
「こちらには、明日の午後に訪問する段取りで進めて構わないでしょうか」
レオンは、ほんの一瞬だけ視線を落とし、考える。
それから、小さく頷いた。
「……ちょうどいい」
「団長にも、そう伝えよう」
それだけで、十分だった。
余計な確認はない。
疑念もない。
すでに“前提”として、話が共有されている。
クライヴは内心で、わずかに息をついた。
(――ここまでは、問題なし)
レオンが資料をまとめながら、淡々と続ける。
「明日は、現場側の担当も数名呼ぶ」
「比較試験なら、主観だけで終わらせるわけにはいかん」
「承知しています」
クライヴは即答した。
「工房側も、条件を揃えるつもりです」
短い沈黙。
しかし、それは詰まった沈黙ではなく、次の段取りを互いに確認するための間だった。
「……忙しくなるな」
レオンが、わずかに口元を緩める。
「ええ」
クライヴも、ほんの少しだけ笑った。
「ですが――悪い忙しさではありません」
レオンはそれを否定しなかった。
クライヴは一礼し、詰所を後にする。
廊下に出た瞬間、張り詰めていた思考が、少しだけ緩んだ。
(これで、明日の舞台は整った)
あとは、実物を並べ、同じ条件で比べるだけだ。
工房。
現場。
騎士団。
三つが、同じ卓につく。
そのために、今日一日、走り回った価値はあった。
クライヴは足を止めず、庁舎の出口へと向かう。
次に戻るべき場所は、もう決まっていた。
――野バラ亭だ。
青司とリオナに、余計な不安を持たせる必要はない。
だが、明日が“本番”になることだけは、伝えておくべきだろう。
王都の夕暮れが、庁舎の窓から差し込んでいた。
その光を横目に、クライヴは静かに歩き続けた。
◆
野バラ亭の階段を上がりながら、クライヴは一度だけ呼吸を整えた。
外套の裾を払う仕草は自然なものだが、足取りにはわずかな疲労が残っている。
扉の前で、控えめにノック。
返事を待つあいだ、頭の中では確認が終わっていた。
第三騎士団。
フィオレル邸。
工房代表セリーナの到着時刻。
すべて、予定通りだ。
扉が開く。
立っていたのは青司だった。
昼に別れてから、そう時間は経っていない。だが、室内の空気は少しだけ違って見えた。
「……戻りました」
そう告げながら、部屋の奥へ視線を流す。
窓際に、リオナの姿があった。夕暮れの光を受けて、静かに外を見ている。
クライヴは、それ以上見ない。
「工房の代表――セリーナですが」
必要なことだけを、簡潔に告げる。
「順調なら、今夜遅くか、遅くとも明日の朝には王都に入ります」
「第三騎士団からは、無理をさせないようにとのことでした。明日の午後、訪問する段取りです」
青司が頷くのを見て、胸の内で一つ区切りをつける。
この場に、余計な言葉はいらない。
視線の端で、青司とリオナの距離感が、自然なまま保たれているのがわかった。
寄り添いすぎず、離れすぎず。
だが、昼に見た並びとは、どこか違う。
――変わったな。
そう思ったが、口にはしない。
必要がない。今はまだ。
「私はこの後、少し部屋で休みます」
クライヴは淡々と続けた。
「何かあれば、気にせず来てください」
「助かります」
青司の声は、落ち着いている。
それで十分だった。
クライヴは一礼し、踵を返す。
扉を閉める直前、ふと背後の気配が和らいでいることに気づいたが、振り返らない。
今はまだ、歯車を回す役目を果たすだけでいい。
階段を下りながら、クライヴは次の動きを頭の中で整理する。
明日の午後。
工房、騎士団、そして――現場。
すべてが、同じ卓につくまで、もう少しだ。
**************
第三騎士団庁舎は、王都の中でもひときわ堅牢な建物だった。
淡色の石で組まれた正面階段は広く、昼なお影を落としている。
昨日も、ここへは来ている。
それでも、馬車を降りて改めて見上げると、やはり視線を引き上げられた。
青司は石畳に足を下ろし、ひと息ついてから庁舎を見た。
「……ここが、第三騎士団の庁舎、か」
初めて見たときほどではない。
だが、武装した門衛や、出入りする騎士たちの動きは、やはり街の商会とは空気が違う。
「お二人とも、こちらです」
先に馬車を降りていたクライヴが、迷いなく階段へ向かう。
その背中に続きながら、青司は隣を歩くリオナをちらりと見た。
リオナは、昨日と変わらない様子だった。
背筋を伸ばし、視線を落としすぎず、かといって周囲を見回すこともない。
森にいた頃と同じ、静かな歩き方。
だが――。
(……浮いてない、な)
昨日も思ったことだが、改めてそう感じる。
この場所で場違いなのは、自分の方ではないか。
そんな錯覚さえ覚える。
三人が階段を上り切ったところで、庁舎の扉が開いた。
「クライヴ」
低く、落ち着いた声。
現れたのは、第三騎士団副官のレオンだった。
甲冑姿ではないが、立ち姿だけで軍人だと分かる。
「お待ちしていました」
「ありがとうございます。予定通りです」
簡潔なやり取り。
青司が口を挟む間もなく、話は進む。
そのときだった。
――廊下の奥、庁舎の内側から、別の一団が姿を見せた。
数人の従者に囲まれ、ゆっくりと歩いてくる女性。
年若くはない。だが、立ち居振る舞いに一切の無駄がない。
レオンが、ぴたりと足を止めた。
次の瞬間、背筋を伸ばし、深く敬礼する。
「ロマーヌ公爵夫人」
青司は、反射的に息を呑んだ。
(――公爵?)
言葉の意味を噛み砕くより先に、空気が変わる。
庁舎前のざわめきが、一段落ちた。
ロマーヌ公爵夫人は、軽く顎を引いて応じる。
「ご苦労さま」
それだけ。
だが、声には揺るぎがなかった。
夫人はそのまま通り過ぎ――
かけて、足を止めた。
「あら」
その視線が、青司ではなく、リオナに向けられていることに、気づくのが一拍遅れた。
「……まあ」
一歩、近づく。
距離は詰めていない。だが、視線が離れない。
「綺麗な髪ね」
リオナは驚いたように瞬きをしたが、すぐに一礼する。
「恐れ入ります」
短く、控えめな声。
ロマーヌ夫人は、今度は肌の色、立ち姿、呼吸の静けさまで見るように、目を細めた。
「どちらの方?」
問いかけは穏やかだが、拒む余地はない。
レオンが一歩前に出る。
「リルトのホヅミ商会長、セイジ殿の同行者です」
その名を聞いた瞬間、夫人の眉がわずかに動いた。
「……ホヅミ商会」
小さく反芻する。
青司の胸に付いているギルド員のバッチにちらと視線を向ける。
「最近、よく聞く名前ね」
視線が、今度は青司に向いた。
青司は、完全に反応が遅れた。
「え、あ、はい……」
口が半開きのまま、慌てて頭を下げる。
ロマーヌ夫人は、それを咎めもしない。
「いいわね」
再び、リオナを見る。
「少し、私とお話をしてくださらないかしら」
それは命令ではない。
だが、断る選択肢は、初めから存在しなかった。
青司が言葉を探すより早く、夫人は従者に声をかけ、胸元に留めていたブローチを外させた。
控えめだが上品な細工のブローチだった。
「これをお持ちになって」
そう言って、夫人は何でもないことのようにブローチを差し出した。
控えめで上品な細工。だが、胸元から外されたそれは、明らかに特別な品だった。
青司の手に載せられた瞬間、ひやりとした重みが伝わる。
「お仕事が終わりましたら」
夫人は、軽く首を傾げる。
「その時に、この子を迎えに来てくださればいいわ」
まるで、雨宿りの約束でもするかのような口調。
「亡き夫からの、大切な贈り物なの」
にこやかに、だが一切の説明を足さない。
一瞬、空気が止まる。
「あら」
夫人は青司の表情を見て、くすりと笑った。
「そんな顔をなさらないで。返しに来てくださるのでしょう?」
問いかけの形だが、答えを求めていない。
「――大丈夫」
そう付け足す。
「失くしたり、忘れたりする方ではないと、分かっていますもの」
念を押すように言って、夫人はリオナへ視線を戻した。
「では、参りましょうか」
リオナは、一拍だけ青司を見る。
何か言いたげで――けれど、言葉はなかった。
そして、静かに頷いた。
ロマーヌ公爵夫人に伴われ、庁舎の奥へと歩いていく。
残された青司は、手の中のブローチを見下ろしたまま、動けずにいた。
「……え?」
遅れて、声が出る。
クライヴが横で、小さく息を吐いた。
「……選ばれましたね」
その言葉の意味を理解するには、まだ時間が必要だった。




