79
宿の食堂には、朝の光がやわらかく満ちていた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温かいスープの湯気が、眠りの名残を少しずつ追い払っていく。
青司とリオナは、向かい合って席についた。
言葉は少なめだが、昨夜までとはどこか違う。視線が合えば、互いに小さく笑みを交わす程度の、静かな距離。
ほどなくして、食堂の扉が開いた。
「おや、もうお二人ともいらしていましたか」
軽やかな声とともに現れたのはクライヴだった。
いつもの穏やかな表情で、二人の様子を一瞬だけ確認し、何事もなかったかのように空いている席に腰を下ろす。
「おはようございます」
「……おはよう」
青司がそう返すと、クライヴは満足そうに頷いた。
朝食が運ばれ、三人はゆっくりと食べ始める。
昨日の緊張とは打って変わって、話題は他愛のないものばかりだった。宿の料理の味、王都の朝の賑わい、今日の天気。
スープに口をつけながら、クライヴがふと、何気ない調子で言う。
「今日は特に急ぎの用事もありませんし……」
一瞬、間を置いてから続ける。
「お二人で、ゆっくり王都見物でもしてきてはいかがですか」
青司の手が、ほんのわずかに止まった。
「え……?」
「昨日はずいぶんと気を張っていましたからね」
クライヴは涼しい顔でパンをちぎりながら、
「街を歩くだけでも、気分転換になりますよ。私は別件がありますし」
視線が、自然とリオナへ向く。
リオナは少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。
「……そうね。せっかく王都に来ているもの」
その言葉に、青司は一瞬言葉を探し――やがて、小さく頷いた。
「うん……そうだね」
自分から誘ったわけではない。
けれど、断る理由もなかった。
クライヴは二人の反応を見て、満足そうにカップを置く。
「決まりですね。では、私は先に失礼します」
立ち上がりながら、軽く肩をすくめて付け加えた。
「良い一日を」
その背中を見送りながら、食堂には再び静けさが戻った。
青司は、少しだけ居心地悪そうに視線を落とし――そして、意を決したように口を開く。
「……ゆっくり、歩こうか」
リオナは、柔らかく頷く。
「ええ」
朝の光は、変わらず穏やかだ。
だが、二人の一日は、昨夜よりほんの少しだけ――近い距離から始まろうとしていた。
宿を出ると、王都の朝はすでに動き始めていた。
石畳の街路は、夜の名残をわずかに留めながらも、朝の光を受けて淡く輝いている。
軒先では商人たちが木箱を並べ、布を払う音や、呼び込みの声が控えめに交わされていた。
「……思っていたより、静かだね」
青司が周囲を見回しながら、ぽつりと言う。
騎士団の本部や商業ギルドの近くでは、人の流れはあるものの、まだ本格的な喧騒には至っていない。
朝という時間が、王都にもひと息つく余白を与えているようだった。
「朝のうちは、こんな感じよ」
リオナは歩きながら答える。
「お昼前になると、一気に人が増えるわ」
会話は短い。
それでも、並んで歩く足取りは自然と揃っていた。
通りの角を曲がると、小さな露店が集まる広場が見えてくる。
焼き菓子の甘い香り、果物の瑞々しい色合い、朝露に濡れた花束。
青司は、無意識のうちに歩みを緩めた。
「……こういうの、嫌じゃない?」
振り返りながら、少し慎重に問いかける。
リオナは一瞬だけ考え、それから首を横に振った。
「ううん。人混みになる前なら、好き」
そう言って、露店の花に目を向ける。
「静かで……生きてる感じがするもの」
その言葉に、青司は胸の奥で小さく息をついた。
安心と、ほんの少しの誇らしさが混じる。
広場を抜けると、道は緩やかに続いていく。
高い建物の間を吹き抜ける風が、朝の冷たさを運び、二人の間をすり抜けていった。
青司は、歩きながらふと気づく。
隣にいるリオナが、時折こちらの歩幅を確かめるように視線を落とすこと。
そして、自分もまた、無意識のうちに彼女の速度に合わせていることに。
(……観光、だよな)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の鼓動は少しだけ早い。
王都の街路は、まだ始まったばかりだ。
けれどこの朝の一歩が、二人にとって特別な時間になる予感だけは、確かにあった。
市場通りに足を踏み入れると、空気が一段、賑やかに変わった。
布張りの天幕が連なり、木組みの露店が石畳の両脇に並んでいる。
香辛料の香り、焼き立てのパンの温かさ、金属製品が触れ合う乾いた音――それぞれが混じり合い、王都らしい活気を形作っていた。
「……すごいね」
青司は思わず声を落とす。
「リルトとは、やっぱり違う」
「王都だもの」
リオナはくすりと笑い、通りの奥を見渡した。
「物も、人も、多いわ」
人の流れはまだ穏やかだが、露店の前では足を止める者が増えている。
二人も自然と歩調を落とし、小さな店を覗き込んだ。
素焼きの器、簡素な木製の櫛、乾燥させた果実。
どれも実用的で、派手さはないが、丁寧に作られているのが伝わってくる。
リオナが、布の上に並べられた小さな包みを手に取った。
「これ……薬草茶ね。香りがいい」
青司も覗き込み、軽く頷く。
「夜に飲むやつだ。疲れが残らない」
短い会話のあと、青司は迷わず代金を払った。
リオナが一瞬、驚いたようにこちらを見る。
「……いいの?」
「うん」
少し照れたように視線を逸らしながら答える。
「昨日、よく眠れたから」
それ以上は言わない。
リオナも深く追及せず、小さく微笑んで包みを受け取った。
市場通りを抜けると、視界が開ける。
石造りの建物が並ぶ広場の中央に、大きな噴水があった。
白い石を彫り出した装飾は洗練され、流れ落ちる水が朝の光を反射してきらめいている。
「……王都、って感じだね」
青司の言葉に、リオナは噴水を見上げたまま頷く。
「うん。でも、不思議」
「人が多いのに、息苦しくない」
噴水の水音が、周囲のざわめきを和らげている。
石畳の冷たさが、足裏から穏やかに伝わってきた。
そのときだった。
市場通りから流れてきた人の波が、広場に一気に押し寄せる。
行き交う人々の肩が触れ合い、視界が一瞬、揺れた。
リオナの足が、わずかに止まる。
次の瞬間、青司は考えるより先に動いていた。
半歩前に出て、自然とリオナの進行方向に立つ。
肩を張るわけでも、手を伸ばすわけでもない。
ただ、人の流れと彼女の間に、自分の位置を差し込んだだけだ。
人波は青司の肩をかすめて流れ、リオナの前には小さな余白が生まれた。
「……大丈夫? 人が多くなってきたから」
振り返りながら、低く声をかける。
差し出した手に、自分でも少し驚きながら。
リオナは一瞬、きょとんとしたあと、小さく頷いた。
「ええ……ありがとう」
その声は静かだったが、
少し頬を染めて、青司の手を取っていた。
青司はそれ以上、何も言わなかった。
手を引くことも、強く握ることもせず、
ただ、元の歩調に戻る。
けれど、立ち位置だけは――
いつの間にか、リオナの外側に移っていた。
人の流れを受け止めるように。
守る、と言うほど大げさでもなく、
自然に、そうあるべき場所に立つように。
噴水の水音が、再び耳に戻ってくる。
王都の広場には、
行き交う人々の気配と、
朝の光と、
ゆっくりと流れる時間があった。
そして、その中で――
二人の距離もまた、
言葉にしないまま、
ほんの少しだけ、近づいていた。
噴水の縁を囲むように置かれた石のベンチに、青司とリオナは並んで腰掛けていた。
白い石を彫り出した噴水からは、絶えず水音が響き、朝の光を受けてきらきらと弾いている。
青司の手には、紙で包まれた細長いパン。
香ばしく焼かれた麦の皮の中に、刻んだ肉と野菜、香草を合わせた温かい具が詰め込まれていた。
「……王都の軽食って、思ったより素朴だね」
そう言いながら、青司は一口かじる。
外はかりっと、中は柔らかく、肉の旨みと香草の爽やかさが広がった。
「屋台向けのものだからね」
リオナは自分の分を両手で持ち、小さく笑う。
「でも、歩きながら食べられるのは便利でしょう?」
彼女の手にあるのは、薄焼きの麦皮で具を包んだものだった。
焼いた鶏肉と酸味のある野菜、香草を合わせ、軽く温めた簡素な包み食だ。
「うん……」
青司は頷き、ふと隣を見る。
「……それ、食べにくくない?」
「大丈夫よ」
そう言いながらも、少し具がずれそうになる。
青司は反射的に手を伸ばしかけ――途中で止まった。
代わりに、指先だけが、そっと彼女の手に触れる。
一瞬。
リオナが視線を落とし、青司の方を見る。
何も言わずに、
けれど自然に、二人の指が絡んだ。
噴水の水音が、少しだけ遠く感じられる。
「……落とさないように、ね」
青司の声は低く、控えめだった。
リオナは小さく頷き、指にわずかに力を込める。
「ええ」
それだけで十分だった。
二人は手をつないだまま、それぞれの軽食に口を運ぶ。
会話は途切れがちだが、沈黙は気まずくない。
人の行き交う広場の中で、
噴水の前のこのベンチだけが、少しだけ時間の流れを緩めているようだった。
青司は、手の温もりを確かめるように、そっと息を吐く。
(……観光、だよな)
そう思いながらも、胸の奥が落ち着かない。
だが、その不安すら、今は悪くなかった。
そのとき――
「……やはり、こちらでしたか」
落ち着いた声が、少し離れたところから響いた。
青司が顔を上げると、
噴水の向こう側から、見覚えのある二人が歩いてくるのが見えた。
騎士団副官のレオンと、そしてクライヴだった。
青司は一瞬、目を瞬かせ――
そして、つないだ手に気づいて、わずかに肩を強張らせる。
だが、手は離さなかった。
リオナもまた、視線を上げ、二人の姿を確認すると、
ほんの少しだけ、指に力を込めたまま、静かに息を整える。
レオンとクライヴは、噴水を回り込むようにして二人の前まで来ると、足を止めた。
青司は思わず背筋を伸ばす。
けれど、つないだ手は――離れなかった。
一瞬、その様子を視界に入れたレオンの眉が、ほんのわずかに動く。
だが、彼は何も言わず、すぐに視線を青司の顔へ戻した。
「お寛ぎのところ、失礼します。セイジ殿」
声はいつも通り、穏やかで事務的だ。
「少々、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
その横で、クライヴがわざとらしく肩をすくめる。
「いやあ、探しましたよ」
軽い調子で笑いながら、噴水と二人の手元をちらりと見る。
「王都見物中だろうとは思っていましたが……ずいぶん良い場所を選びましたね」
青司は、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
「えっと……はい。少し休憩を」
言い終える前に、リオナが静かに口を開く。
「何か、急ぎのご用件ですか?」
声は落ち着いていて、けれど距離を保つ丁寧さがあった。
レオンは一瞬だけ彼女に視線を向け、短く一礼する。
「いえ、急を要するというほどではありません」
「ただ――騎士団内での話し合いが一段落しまして」
その言葉に、青司の意識が一気に引き戻される。
「……話し合い?」
「はい」
レオンは頷いた。
「吸湿速乾装備の運用について、幹部間で意見がまとまりつつあります」
「セイジ殿が王都に滞在されている間に、一度、正式にお話しをさせて頂きたいと」
クライヴが、少し真面目な表情で続ける。
「あちらとしては、現場の声が揃っている“今”が一番判断しやすいんでしょう」
「王都を離れてから書簡でやり取りするより、直接詰めたい――そういう判断ですね」
青司は、噴水の水音を背に、静かに息を吸った。
(……思ったより、早い)
けれど、不思議と動揺はなかった。
昨日までの緊張とは違う、腹の据わった感覚がある。
ふと、つないだ手に意識が戻る。
リオナは、青司の横顔を見ていた。
何も言わず、促すでも、引き止めるでもない。
ただ、選択を委ねる視線。
青司は小さく息を吐き、決めた。
「……分かりました」
顔を上げ、レオンを見る。
「少し時間をもらえますか。この軽食を食べ終えてからでも」
レオンの口元が、ほんのわずかに緩む。
「もちろんです。ごゆっくり」
クライヴも頷き、軽く笑った。
「じゃあ、私はその間に騎士団庁舎へ連絡を入れてきます」
「合流は……そうですね。噴水の反対側で待っていますよ」
二人はそれ以上踏み込まず、自然に距離を取った。
足音が遠ざかる。
再び、噴水の水音と、人のざわめきだけが残った。
青司は、手をつないだまま、リオナに視線を向ける。
「……急に、現実に戻されたね」
リオナは、くすりと小さく笑う。
「ええ。でも」
指先に、少しだけ力を込めて。
「セイジが頑張ってきた結果でしょう?」
その言葉に、青司の胸の奥が、静かに温かくなる。
「……うん」
二人は残りの軽食を、ゆっくりと味わった。
噴水の前で過ごした、短い休息。
けれどそれは、これから始まる話し合いに向かうための、確かな支えになっていた。
やがて、青司は立ち上がる。
名残惜しそうに、しかし自然に、手を離した。
「行こうか」
リオナは頷く。
「ええ」
こうして――
二人は並んで、騎士団庁舎へと向かうことになる。
甘さを胸の奥に残したまま。




