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 宿の食堂には、朝の光がやわらかく満ちていた。

 焼きたてのパンの香ばしい匂いと、温かいスープの湯気が、眠りの名残を少しずつ追い払っていく。


 青司とリオナは、向かい合って席についた。

 言葉は少なめだが、昨夜までとはどこか違う。視線が合えば、互いに小さく笑みを交わす程度の、静かな距離。


 ほどなくして、食堂の扉が開いた。


「おや、もうお二人ともいらしていましたか」


 軽やかな声とともに現れたのはクライヴだった。

 いつもの穏やかな表情で、二人の様子を一瞬だけ確認し、何事もなかったかのように空いている席に腰を下ろす。


「おはようございます」

「……おはよう」


 青司がそう返すと、クライヴは満足そうに頷いた。


 朝食が運ばれ、三人はゆっくりと食べ始める。

 昨日の緊張とは打って変わって、話題は他愛のないものばかりだった。宿の料理の味、王都の朝の賑わい、今日の天気。


 スープに口をつけながら、クライヴがふと、何気ない調子で言う。


「今日は特に急ぎの用事もありませんし……」

 一瞬、間を置いてから続ける。

「お二人で、ゆっくり王都見物でもしてきてはいかがですか」


 青司の手が、ほんのわずかに止まった。


「え……?」


「昨日はずいぶんと気を張っていましたからね」

 クライヴは涼しい顔でパンをちぎりながら、

「街を歩くだけでも、気分転換になりますよ。私は別件がありますし」


 視線が、自然とリオナへ向く。


 リオナは少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。


「……そうね。せっかく王都に来ているもの」


 その言葉に、青司は一瞬言葉を探し――やがて、小さく頷いた。


「うん……そうだね」


 自分から誘ったわけではない。

 けれど、断る理由もなかった。


 クライヴは二人の反応を見て、満足そうにカップを置く。


「決まりですね。では、私は先に失礼します」

 立ち上がりながら、軽く肩をすくめて付け加えた。

「良い一日を」


 その背中を見送りながら、食堂には再び静けさが戻った。


 青司は、少しだけ居心地悪そうに視線を落とし――そして、意を決したように口を開く。


「……ゆっくり、歩こうか」


 リオナは、柔らかく頷く。


「ええ」


 朝の光は、変わらず穏やかだ。

 だが、二人の一日は、昨夜よりほんの少しだけ――近い距離から始まろうとしていた。



 宿を出ると、王都の朝はすでに動き始めていた。


 石畳の街路は、夜の名残をわずかに留めながらも、朝の光を受けて淡く輝いている。

 軒先では商人たちが木箱を並べ、布を払う音や、呼び込みの声が控えめに交わされていた。


「……思っていたより、静かだね」


 青司が周囲を見回しながら、ぽつりと言う。


 騎士団の本部や商業ギルドの近くでは、人の流れはあるものの、まだ本格的な喧騒には至っていない。

 朝という時間が、王都にもひと息つく余白を与えているようだった。


「朝のうちは、こんな感じよ」

 リオナは歩きながら答える。

「お昼前になると、一気に人が増えるわ」


 会話は短い。

 それでも、並んで歩く足取りは自然と揃っていた。


 通りの角を曲がると、小さな露店が集まる広場が見えてくる。

 焼き菓子の甘い香り、果物の瑞々しい色合い、朝露に濡れた花束。


 青司は、無意識のうちに歩みを緩めた。


「……こういうの、嫌じゃない?」


 振り返りながら、少し慎重に問いかける。


 リオナは一瞬だけ考え、それから首を横に振った。


「ううん。人混みになる前なら、好き」

 そう言って、露店の花に目を向ける。

「静かで……生きてる感じがするもの」


 その言葉に、青司は胸の奥で小さく息をついた。

 安心と、ほんの少しの誇らしさが混じる。


 広場を抜けると、道は緩やかに続いていく。

 高い建物の間を吹き抜ける風が、朝の冷たさを運び、二人の間をすり抜けていった。


 青司は、歩きながらふと気づく。


 隣にいるリオナが、時折こちらの歩幅を確かめるように視線を落とすこと。

 そして、自分もまた、無意識のうちに彼女の速度に合わせていることに。


(……観光、だよな)


 そう自分に言い聞かせながらも、胸の鼓動は少しだけ早い。


 王都の街路は、まだ始まったばかりだ。

 けれどこの朝の一歩が、二人にとって特別な時間になる予感だけは、確かにあった。


 市場通りに足を踏み入れると、空気が一段、賑やかに変わった。


 布張りの天幕が連なり、木組みの露店が石畳の両脇に並んでいる。

 香辛料の香り、焼き立てのパンの温かさ、金属製品が触れ合う乾いた音――それぞれが混じり合い、王都らしい活気を形作っていた。


「……すごいね」

 青司は思わず声を落とす。

「リルトとは、やっぱり違う」


「王都だもの」

 リオナはくすりと笑い、通りの奥を見渡した。

「物も、人も、多いわ」


 人の流れはまだ穏やかだが、露店の前では足を止める者が増えている。

 二人も自然と歩調を落とし、小さな店を覗き込んだ。


 素焼きの器、簡素な木製の櫛、乾燥させた果実。

 どれも実用的で、派手さはないが、丁寧に作られているのが伝わってくる。


 リオナが、布の上に並べられた小さな包みを手に取った。


「これ……薬草茶ね。香りがいい」


 青司も覗き込み、軽く頷く。

「夜に飲むやつだ。疲れが残らない」


 短い会話のあと、青司は迷わず代金を払った。

 リオナが一瞬、驚いたようにこちらを見る。


「……いいの?」


「うん」

 少し照れたように視線を逸らしながら答える。

「昨日、よく眠れたから」


 それ以上は言わない。

 リオナも深く追及せず、小さく微笑んで包みを受け取った。


 市場通りを抜けると、視界が開ける。


 石造りの建物が並ぶ広場の中央に、大きな噴水があった。

 白い石を彫り出した装飾は洗練され、流れ落ちる水が朝の光を反射してきらめいている。


「……王都、って感じだね」


 青司の言葉に、リオナは噴水を見上げたまま頷く。


「うん。でも、不思議」

「人が多いのに、息苦しくない」


 噴水の水音が、周囲のざわめきを和らげている。

 石畳の冷たさが、足裏から穏やかに伝わってきた。


 そのときだった。


 市場通りから流れてきた人の波が、広場に一気に押し寄せる。

 行き交う人々の肩が触れ合い、視界が一瞬、揺れた。


 リオナの足が、わずかに止まる。


 次の瞬間、青司は考えるより先に動いていた。


 半歩前に出て、自然とリオナの進行方向に立つ。

 肩を張るわけでも、手を伸ばすわけでもない。

 ただ、人の流れと彼女の間に、自分の位置を差し込んだだけだ。


 人波は青司の肩をかすめて流れ、リオナの前には小さな余白が生まれた。


「……大丈夫? 人が多くなってきたから」


 振り返りながら、低く声をかける。

 差し出した手に、自分でも少し驚きながら。


 リオナは一瞬、きょとんとしたあと、小さく頷いた。


「ええ……ありがとう」


 その声は静かだったが、

 少し頬を染めて、青司の手を取っていた。


 青司はそれ以上、何も言わなかった。

 手を引くことも、強く握ることもせず、

 ただ、元の歩調に戻る。


 けれど、立ち位置だけは――

 いつの間にか、リオナの外側に移っていた。


 人の流れを受け止めるように。

 守る、と言うほど大げさでもなく、

 自然に、そうあるべき場所に立つように。


 噴水の水音が、再び耳に戻ってくる。


 王都の広場には、

 行き交う人々の気配と、

 朝の光と、

 ゆっくりと流れる時間があった。


 そして、その中で――

 二人の距離もまた、

 言葉にしないまま、

 ほんの少しだけ、近づいていた。


 噴水の縁を囲むように置かれた石のベンチに、青司とリオナは並んで腰掛けていた。

 白い石を彫り出した噴水からは、絶えず水音が響き、朝の光を受けてきらきらと弾いている。


 青司の手には、紙で包まれた細長いパン。

 香ばしく焼かれた麦の皮の中に、刻んだ肉と野菜、香草を合わせた温かい具が詰め込まれていた。


「……王都の軽食って、思ったより素朴だね」


 そう言いながら、青司は一口かじる。

 外はかりっと、中は柔らかく、肉の旨みと香草の爽やかさが広がった。


「屋台向けのものだからね」

 リオナは自分の分を両手で持ち、小さく笑う。

「でも、歩きながら食べられるのは便利でしょう?」


 彼女の手にあるのは、薄焼きの麦皮で具を包んだものだった。

 焼いた鶏肉と酸味のある野菜、香草を合わせ、軽く温めた簡素な包み食だ。


「うん……」

 青司は頷き、ふと隣を見る。

「……それ、食べにくくない?」


「大丈夫よ」

 そう言いながらも、少し具がずれそうになる。


 青司は反射的に手を伸ばしかけ――途中で止まった。

 代わりに、指先だけが、そっと彼女の手に触れる。


 一瞬。


 リオナが視線を落とし、青司の方を見る。


 何も言わずに、

 けれど自然に、二人の指が絡んだ。


 噴水の水音が、少しだけ遠く感じられる。


「……落とさないように、ね」


 青司の声は低く、控えめだった。

 リオナは小さく頷き、指にわずかに力を込める。


「ええ」


 それだけで十分だった。


 二人は手をつないだまま、それぞれの軽食に口を運ぶ。

 会話は途切れがちだが、沈黙は気まずくない。


 人の行き交う広場の中で、

 噴水の前のこのベンチだけが、少しだけ時間の流れを緩めているようだった。


 青司は、手の温もりを確かめるように、そっと息を吐く。


(……観光、だよな)


 そう思いながらも、胸の奥が落ち着かない。

 だが、その不安すら、今は悪くなかった。


 そのとき――


「……やはり、こちらでしたか」


 落ち着いた声が、少し離れたところから響いた。


 青司が顔を上げると、

 噴水の向こう側から、見覚えのある二人が歩いてくるのが見えた。


 騎士団副官のレオンと、そしてクライヴだった。


 青司は一瞬、目を瞬かせ――

 そして、つないだ手に気づいて、わずかに肩を強張らせる。


 だが、手は離さなかった。


 リオナもまた、視線を上げ、二人の姿を確認すると、

 ほんの少しだけ、指に力を込めたまま、静かに息を整える。


 レオンとクライヴは、噴水を回り込むようにして二人の前まで来ると、足を止めた。


 青司は思わず背筋を伸ばす。

 けれど、つないだ手は――離れなかった。


 一瞬、その様子を視界に入れたレオンの眉が、ほんのわずかに動く。

 だが、彼は何も言わず、すぐに視線を青司の顔へ戻した。


「お寛ぎのところ、失礼します。セイジ殿」

 声はいつも通り、穏やかで事務的だ。

「少々、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」


 その横で、クライヴがわざとらしく肩をすくめる。


「いやあ、探しましたよ」

 軽い調子で笑いながら、噴水と二人の手元をちらりと見る。

「王都見物中だろうとは思っていましたが……ずいぶん良い場所を選びましたね」


 青司は、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。


「えっと……はい。少し休憩を」


 言い終える前に、リオナが静かに口を開く。


「何か、急ぎのご用件ですか?」


 声は落ち着いていて、けれど距離を保つ丁寧さがあった。

 レオンは一瞬だけ彼女に視線を向け、短く一礼する。


「いえ、急を要するというほどではありません」

「ただ――騎士団内での話し合いが一段落しまして」


 その言葉に、青司の意識が一気に引き戻される。


「……話し合い?」


「はい」

 レオンは頷いた。

「吸湿速乾装備の運用について、幹部間で意見がまとまりつつあります」

「セイジ殿が王都に滞在されている間に、一度、正式にお話しをさせて頂きたいと」


 クライヴが、少し真面目な表情で続ける。


「あちらとしては、現場の声が揃っている“今”が一番判断しやすいんでしょう」

「王都を離れてから書簡でやり取りするより、直接詰めたい――そういう判断ですね」


 青司は、噴水の水音を背に、静かに息を吸った。


(……思ったより、早い)


 けれど、不思議と動揺はなかった。

 昨日までの緊張とは違う、腹の据わった感覚がある。


 ふと、つないだ手に意識が戻る。


 リオナは、青司の横顔を見ていた。

 何も言わず、促すでも、引き止めるでもない。


 ただ、選択を委ねる視線。


 青司は小さく息を吐き、決めた。


「……分かりました」

 顔を上げ、レオンを見る。

「少し時間をもらえますか。この軽食を食べ終えてからでも」


 レオンの口元が、ほんのわずかに緩む。


「もちろんです。ごゆっくり」


 クライヴも頷き、軽く笑った。


「じゃあ、私はその間に騎士団庁舎へ連絡を入れてきます」

「合流は……そうですね。噴水の反対側で待っていますよ」


 二人はそれ以上踏み込まず、自然に距離を取った。


 足音が遠ざかる。


 再び、噴水の水音と、人のざわめきだけが残った。


 青司は、手をつないだまま、リオナに視線を向ける。


「……急に、現実に戻されたね」


 リオナは、くすりと小さく笑う。


「ええ。でも」

 指先に、少しだけ力を込めて。

「セイジが頑張ってきた結果でしょう?」


 その言葉に、青司の胸の奥が、静かに温かくなる。


「……うん」


 二人は残りの軽食を、ゆっくりと味わった。


 噴水の前で過ごした、短い休息。

 けれどそれは、これから始まる話し合いに向かうための、確かな支えになっていた。


 やがて、青司は立ち上がる。


 名残惜しそうに、しかし自然に、手を離した。


「行こうか」


 リオナは頷く。


「ええ」


 こうして――

 二人は並んで、騎士団庁舎へと向かうことになる。


 甘さを胸の奥に残したまま。

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