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 馬車はゆっくりと街道を進む。木の床板がわずかにきしみ、革張りのシートに体を預けると、青司の肩の力が自然と抜けていった。外の陽射しが窓から差し込み、揺れる景色がぼんやりと視界に流れる。


「今日は……色々と、大変でしたね。お疲れ様でした」

 クライヴの声が静かに、しかし確かな存在感を持って耳に届く。青司は小さく頷き、手元の荷物に視線を落とした。


「うん……騎士たちの反応を見るまでは、正直、少し不安だった。団長の侯爵様は優しく話してくれていたけど、やっぱり緊張するよ」

 肩の力を抜きながら吐き出す。応接室での侯爵とのやり取り、汗をかきながらも懸命に走った騎士たちの姿が、次々に思い浮かぶ。


「でも、実際に体で感じてくれたのは大きいですね」

 青司は肩の力を少し抜き、視線を前方に落とした。


 クライヴは微かに笑み、窓の外に目をやる。

「セイジさんの装備は、確かに衛兵隊や清掃員に効果を示していました。数字や記録に頼らずとも、騎士たちが感じた感覚こそ、最も信頼できる証拠です」


 青司は視線を上げ、深く息を吐く。胸の奥に残っていた熱が、少しずつ落ち着きと安堵に変わっていくのを感じた。


「ありがとう……。でも、まだ全員に配布できるかどうかは、団長と幹部次第のようだね」

 青司は少し肩をすくめ、希望を捨てきれない自分を感じた。


「それでも、今日の様子を見た騎士たちが、直接意見を述べに来たのは心強いですね」

 クライヴは青司の手元に軽く目を落とし、静かに付け加えた。

「装備は単なる道具です。しかし、それを作った人の思いが、現場に届く瞬間というのは、何物にも代えがたいじゃないですか」


 青司はゆっくりと頷いた。馬車の揺れと窓外の景色、そしてクライヴの言葉が、胸の奥に残る緊張を静かに溶かしていくのを感じた。


「……リオナに、この話し伝えたらなんて言うかな」

 思わず口にした言葉に、クライヴも微かに笑みを返す。


「ええ。今日の成果を、誰よりも理解してくれるでしょう」

 その声に、青司の胸の奥に温かさが広がり、守るべき人々のために作ったものが確かに役立っていると、静かに実感する瞬間だった。


馬車は街の方角へと進み、揺れる景色とともに、青司の心も少しずつ日常のリズムを取り戻していった。



「着きましたね」

 クライヴが荷物の置き方や宿の前での動きを手際よく示す。青司はその動きに倣い、馬車から降り立った。


 宿の扉を開けると、室内には柔らかい光が差し込み、居心地の良い空気が迎えてくれる。足を踏み入れた瞬間、青司の胸の奥に安心感が広がった。


「リオナ……」

 思わず名前を口にし、廊下を進む。長く離れていたわけではないのに、今日の一日の緊張と疲労が、一気に思い出として胸に押し寄せる。


 奥の居室から、少し驚いた表情でリオナが顔を出した。青司の姿に気づくと、すぐに微笑みが広がった。


「おかえりなさい、セイジ」


 青司は荷物を置き、少し照れくさそうに微笑む。

「ただいま……。今日は、ほんと色々あってね」


 リオナの笑顔と、宿の落ち着いた空気に包まれ、青司の胸の奥にわずかな温かさが満ちていった。

今日の成果、騎士たちの反応、応接室での出来事――すべてが、少しずつ整理され、静かに心に落ち着いていく。


「今日は……長かったみたいね」

 リオナの声は穏やかで、どこか気遣いを含んでいた。

 青司は小さく頷き、深く息を吐いてから口を開いた。


「ほんとだよ、でも……結果は、良かったと思うんだ」

 青司の手元には、騎士たちが実際に体感した装備の効果や反応が鮮明に残っていた。胸の奥に、熱くも誇らしい感覚が広がる。


「始めはリオナのために作ったものが、騎士団の人たちにまで役に立ったんだ……」

 言葉は小さいが、その思いは青司の胸にしっかりと響いた。


 リオナはそっと近づき、青司の肩に手を置いた。

「それは、本当に良かったわ。セイジが頑張ってきた成果だもの……私も、嬉しい」


 青司はその手の温かさに、自然と肩の力が抜けるのを感じた。

「皆の反応も、想像以上だったんだ。騎士たちが、率直に団長に良さを伝えてくれて……」

「そう……やっぱり、ちゃんと分かる人には伝わるのね」

 リオナの言葉に、青司は小さく微笑む。


「よかったわ、セイジ。あなたが信じて作ったものが、認められたんだもの」


 窓の外に差し込む夕陽が、部屋の中を暖かく染める。

 青司は深く息をつき、少し肩の力を抜いたままリオナを見つめた。

 今日の出来事が、心の中で静かに整理され、安堵と小さな誇りに変わっていく。


「……明日は」

 青司の言葉に、リオナはにっこりと笑った。

「明日のことは今はいいのよ。今夜はゆっくり休んで。セイジの頑張りを、ちゃんと労わらなくちゃ」


青司は、今日一日の緊張と達成感を胸に、深く息をつきながら静かにうなずいた。


長い一日が終わり、ようやく心を解きほぐすひとときが、ここにあった。



 宿の食堂は、夜の帳が下り始めた頃合いだった。

 昼間の熱気はすっかり引き、窓から入る風が、火照った体に心地よく触れる。


 三人は奥の卓に並んで腰を下ろした。

 木の天板には素朴な料理が並び、湯気とともに香草の香りが立ち上る。


「こうして落ち着いて食事ができるのも、今日は久しぶりに感じますね」

 クライヴが小さく笑い、杯を手に取る。


「……本当だ」

 青司は深く息を吐き、ようやく実感を伴った声で答えた。

「昼間は、ずっと気が張りっぱなしだった」


 リオナは二人の様子を見ながら、静かに皿を取り分ける。

「今日は暑かったものね。ちゃんと食べないと、体が持たないわ」


 その声音は柔らかく、だが自然に青司の前へと向けられていた。

 青司は「ありがとう」と短く返し、スープに口をつける。


 温かさが喉を通り、胸の奥に染み渡っていく。


「訓練場での様子ですが」

 クライヴが、食事の手を止めずに言った。

「騎士たちの反応は、想像以上だったようですね」


「うん……」

 青司は箸を置き、少し考えてから頷く。

「実際に走ってもらって、初めて分かることが多かった。説明よりも、体が先に答えを出した感じだった」


 リオナは小さく微笑み、頷く。

「セイジらしいわね。理屈より、ちゃんと“使う人”のことを考えてるんだもの」


 その言葉に、青司は少し照れたように視線を落とした。


「団長も、副隊長も」

 クライヴが続ける。

「すぐに結論を出さなかったのは、悪い意味ではないと思いますよ。むしろ、本気で扱おうとしているからこそでしょう」


「……そうだと、いいな」

 青司はそう言いながらも、どこか安堵した表情を浮かべていた。


 食堂には、食器の触れ合う音と、控えめな話し声だけが流れている。

 三人とも、大きな言葉は交わさない。


 だが――

 今日という一日を、同じ場所で共有した空気が、確かにそこにあった。


「今日は、よく頑張ったのね」

 リオナが、ふとした拍子にそう言った。


 青司は驚いたように顔を上げ、そしてゆっくりと頷く。

「……うん」


 その一言で、胸の奥に残っていた緊張が、静かにほどけていった。


 夕食は、穏やかに、そして静かに進んでいく。

 外では、夜の風が宿の壁を撫でる音がしていた。


 クライヴは、二人の様子を一瞬だけ眺め、グラスを置いた。


「すみません、少しクレスさんに頼まれていた用事を思い出しました」

 軽い調子でそう言って、立ち上がる。


「先に部屋へ戻って休んでいてください。食事は十分いただきましたから」


 そう言い残し、クライヴは静かに席を外した。

 扉が閉まる音は、ほとんど聞こえなかった。



 クライヴが扉を閉めると、食堂はふっと静まり返った。


 先ほどまであった食器の音も、会話の余韻も消え、夜の気配だけが残る。

 蝋燭の火が小さく揺れ、その明かりが木の卓と壁に淡い影を落としていた。


 沈黙。


 気まずさではない。

 むしろ、言葉を探す必要がない静けさだった。


 リオナは椅子から立ち上がり、空になった皿を重ねかけて、ふと手を止めた。

 動きは静かで、控えめで、けれどどこか柔らかい。


 青司は、その仕草をぼんやりと見ていた。


 今日一日、張り詰めていたものが、ここに来てようやくほどけ始めている。

 騎士団、訓練、団長の視線――

 それらとはまるで別の世界に戻ってきたようだった。


 リオナが皿を置き、振り返る。


「……疲れたでしょう?」


 声は小さく、夜に溶けるような調子だった。


 青司は一瞬考え、それから正直に答える。


「うん。正直、かなり」


 そう言って、少し苦笑した。


「でも、不思議と嫌な疲れじゃないんだ」

「身体は重いけど……心は、軽い」


 リオナは一歩近づき、青司の前に立つ。

 その距離は、触れようと思えば触れられるほど近い。


 そっと、青司の肩に手を置いた。


 指先は温かく、力は込められていない。

 それだけで、青司の呼吸が少し深くなる。


「それなら……よかった」


 リオナは、ほっとしたように微笑む。


「ずっと、気を張ってたのよね」

「騎士団の人たちの前で、団長様の前で……」


 青司は視線を落とし、ゆっくりと頷いた。


「……緊張しなかったと言えば、嘘になる。

 それでも、逃げたいとは思わなかった」


 言葉を探しながら、続ける。


「作ったものを、ちゃんと使う人たちに渡して」

「その人たちが、身体で確かめてくれた」

「それを見たら……もう、引き返せなかった」


 一拍、置いて。


「リオナのために作ったものが……」

「ここでも、誰かを守ることにつながるかもしれないって思えたんだ」


 リオナの手が、ほんの少しだけ、肩に力を込める。


「……うん」


 短い返事。

 でも、それで十分だった。


 リオナはそっと手を離し、今度は青司の隣に腰を下ろす。

 肩と肩が、触れるか触れないかの距離。


 夜風が、窓の隙間から静かに入り込む。


 青司は、深く息を吐いた。


「……今日は」

 小さく、しかしはっきりと。

「ここに戻ってこられて、よかった」


 リオナは、少しだけ驚いたように青司を見る。


 そして、柔らかく笑った。


「ええ」

「おかえりなさい、セイジ」


 その一言で。


 今日一日の緊張も、重さも、責任も――

 すべてが、この小さな宿の一室に置いていける気がした。


 夜は、まだ長い。

 だが、今は急ぐ必要はなかった。


 ただ、静かに――

 二人で、呼吸を整える時間があれば、それでよかった。


 廊下に出ると、宿はすでに夜の静けさに包まれていた。

 ランプの灯りが、二人の影を床に並べる。


 隣り合う扉の前で、自然と足が止まる。


「……リオナ」


 呼び止めてから、青司は一瞬だけ言葉に詰まった。

 指先が、無意識に服の端を握る。


「今日さ」

 視線を逸らしながら、ぽつりと続ける。

「……君が帰りを待ってるって思ったら、ちゃんと前に立てた」


 リオナは、少し驚いたように目を瞬かせる。


 青司は苦笑気味に、正直に言った。

「俺にとっては、まだ……すごく高いところにいる人だからさ」


 それでも、と小さく息を吸う。


「でも、今日は」

「同じ宿に戻れて――一緒に食事ができて、よかった」


 ほんの一瞬の沈黙のあと、リオナはゆっくりと微笑んだ。


「……私も、よ」


一歩だけ、距離を詰めて。

声を落として、


「おやすみなさい、セイジ」


「……おやすみ」


扉が閉まる音が、夜に溶けていく。




 朝の光が、薄いカーテン越しに差し込んでいた。

 宿の廊下からは、階下で朝支度を始める気配が微かに聞こえてくる。


 青司は目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。

 深く眠ったはずなのに、胸の奥にはまだ、昨夜の静かな温度が残っている。


 ――同じ宿に戻れて、一緒に食事ができてよかった。


 思い返すと、少しだけ気恥ずかしくなる。

 だが、不思議と後悔はなかった。


 身支度を整え、部屋を出る。

 廊下に出た、そのちょうど同じタイミングで、隣の扉が静かに開いた。


 リオナだった。


 一瞬、互いに足を止める。


 そして、自然と笑みがこぼれた。


「おはよう、セイジ」


「……おはよう」


 それだけのやり取り。

 けれど、声の調子も、距離も、昨夜より少しだけ柔らかい。


 並んで階段へ向かいながら、青司は気づく。

 歩く速さが、いつの間にか揃っていることに。


 階段を下りながら、青司はふと、隣を歩くリオナに視線を向けた。


 朝の光を受けた横顔は、昨夜よりも少しだけ近く感じられる。

 髪の先が肩に触れ、歩くたびにわずかに揺れるのを、なぜか目で追ってしまう。


(……あ)


 意識した瞬間、慌てて視線を逸らす。

 胸の奥が、かすかに跳ねた。


 隣にいるだけだ。

 何も変わっていない――はずなのに。


 一方、リオナもまた、ほんの一瞬だけ足を緩めていた。


 青司の歩幅が、自然と自分に合わせられていることに気づく。

 音も立てず、押しつけがましさもなく、ただ並ぶためだけの距離。


(……昨日より、少しだけ)


 考えそうになって、そっと首を振る。

 今は、朝だ。

 まだ、一日が始まったばかり。


 視線を前に戻すと、青司がちょうどこちらを見て――そして、目を逸らしたところだった。


 ほんの一瞬。

 けれど、それで十分だった。


 リオナは、小さく息を整え、口元にかすかな笑みを浮かべる。


 言葉は交わさない。

 触れもしない。


 それでも、二人の間には、昨夜から続く静かな気配が、確かに残っていた。


 朝の階段を下りきったところで、宿の食堂の扉が見えてくる。


 青司は、無意識にもう一度、呼吸を整えた。


 今日は、きっと――

 穏やかな一日になる。


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