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 宿の部屋に残されたのは、二人分の気配だけだった。


 扉が閉まると、廊下のざわめきは嘘のように遠のく。王都の宿は、外の喧騒に比べれば驚くほど静かで、窓の外から届く音も、馬の蹄や人の話し声が溶け合った、低く柔らかなものだった。


 テーブルの上には、分厚い本が一冊置かれている。革張りの表紙に、細かな金の装飾。別邸で女官から渡された、貴族との折衝に用いる礼儀作法の書だ。


 青司は椅子に腰を下ろし、少し迷ってからその本を開いた。


「……読む?」


 問いかける声は、思ったよりも軽かった。


「うん。少しだけ」


 リオナも頷き、隣の椅子に座る。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた気がした。


 青司は本を読み上げる。


 呼称、視線の置き方、言葉の選び方。ひとつひとつは難しくないはずなのに、文章が堅く、どこか現実感が薄い。


「……『相手の発言を遮らず、間を尊重すること』」


 青司はそこで言葉を切り、苦笑した。


「……これ、難しいな」


「ふふ」


 リオナが小さく笑う。


「でも、青司は、もうやってると思うよ」


「え?」


「人の話、ちゃんと最後まで聞くし。黙るときも、ちゃんと考えてる顔してる」


 不意打ちのような言葉に、青司は一瞬、返事を失った。


「……そうかな」


「うん」


 短い肯定だったが、迷いはなかった。


 本を読む手が、いつの間にか止まっている。ページは開いたままなのに、文字はもう追われていなかった。


 窓の外に目を向けると、王都の街並みが夕暮れに沈み始めている。屋根の連なりが橙色に染まり、遠くの塔が長い影を落としていた。


「……大きいね」


 リオナがぽつりと言う。


「うん。人も、音も……全部」


 言葉を交わしながら、二人の視線は自然と窓の外に揃った。


 気づけば、椅子の距離が少し近い。肩が触れ合うほどではないが、逃げるほど離れてもいない。


 リオナが、無意識のように背中を伸ばし、青司の肩にそっと触れる。


 青司は、そのぬくもりを感じて、身じろぎできなくなった。


 嫌ではない。むしろ、胸の奥が静かに落ち着いていく。


 本を閉じる音が、控えめに響く。


「……今は、ここまでにしよっか」


 青司が言うと、リオナは頷いた。


「うん。旅人でいないと、ね」


 クライヴの言葉を思い出したのだろう。二人で、少しだけ笑う。


 窓の外は、もう夜に近い色になっていた。


 灯りを点けるほどではない、だが暗くもない。そんな時間帯。


 青司は思う。


 ここまで来たのだ、と。


 仕事でも、責任でもなく。誰かに押されてでもなく。


 ただ、一緒に馬車に乗り、同じ宿に泊まり、同じ夕暮れを見ている。


「……そろそろ、夕食かな」


「うん」


 立ち上がる前に、ほんの一瞬だけ、視線が重なる。


 それ以上、何も起きない。


 だが――

 灯りを落とすまでの時間は、確かに、二人のものだった。



 朝の宿の食堂は、思っていたよりも静かだった。


 早朝の混雑がひと段落した時間帯らしく、客はまばらで、木の床に足音が柔らかく響く。焼いたパンの匂いと、湯気の立つスープの香りが混じり合い、窓から差し込む光がテーブルを淡く照らしていた。


 青司は、少し眠たげな顔で席に着いていた。


 長旅の疲れ――だけではない。

 昨夜、灯りを落とすのが遅くなった理由を、本人はよく分かっている。


 枕元に積んだままの礼法書。

 王城内での立ち居振る舞い、言葉遣い、視線の置き方。

 覚えきれないほどの決まりごとを、最後まで追おうとして――結局、途中で意識が途切れた。


 湯気の立つカップを両手で包み、青司は小さく息を吐く。


「……まだ、頭が起きてないな」


 小さく呟くと、向かいに座るリオナが、理由を知っているような目でこちらを見た。


「昨日、遅くまで起きてたでしょ」


 責めるでもなく、呆れるでもなく。

 ただ、静かに。


 青司は、誤魔化すように小さく笑った。


「まあ……少し、な」


「無理もないよ。昨日は、移動だけで一日だったもの」

 その声は、いつもと変わらず柔らかい。青司は少しだけ肩の力を抜いた。


 そこへ、トレイを手にしたクライヴがやってくる。いつもの落ち着いた様子だが、今朝はどこか、仕事の顔に戻っていた。


「おはようございます。よく眠れましたか」


「……まあ、そこそこ」


 青司が正直に答えると、クライヴは軽く頷き、席に着く。


 そして、食事に手を付ける前に、用件を切り出した。


「セイジさん。今日の午後ですが――第三騎士団から、時間をいただけることになりました」


 青司は、スプーンを持ったまま動きを止めた。


「……今日、ですか」


「はい。正式な呼び出し、というほどではありませんが」

 クライヴは言葉を選ぶ。

「副隊長殿からの伝言で、“鎧の下に着る装備について話をしたい”。それだけです」


 テーブルの上に、短い沈黙が落ちる。


 リオナが、そっと青司の方を見る。


 驚きはあるが、動揺というほどではない。むしろ――予想していた未来が、少し早く来ただけ、という顔だった。


「午後、なのね」


 リオナが静かに言う。


「ええ」

 クライヴが頷く。

「午前中は、自由に過ごして構いません。昼前に私が迎えに来ます」


 青司は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ついに、来たか」


 声には、重さよりも覚悟が混じっていた。


 リオナは何も言わず、ただ、カップを置く音を立てる。そして、青司の隣にいるという距離を、少しだけ確かめるように姿勢を整えた。


 朝の光は、変わらず穏やかだった。


 だが――

 この日が、ただの旅の続きを許さないことだけは、三人とも分かっていた。



朝食を終えたあと、二人は宿の部屋へ戻った。


 廊下を行き交う足音や、階下から聞こえてくる食器の触れ合う音が、扉一枚隔てただけで遠のく。部屋に入ると、王都の喧騒は一気に薄まり、代わりに静けさが満ちた。


 窓際に置かれた小さな机の上には、昨夜の名残がそのまま残っている。閉じかけの礼法書、挟まれた栞、読み進めたページで止まったままの紙束。


 青司は、それを一度だけ見てから、そっと視線を外した。


「……午前中、どうする?」


 リオナが聞く。


 声は低く、落ち着いている。何かを勧めるでも、急かすでもない。


「特に、決めてない」

 青司は正直に答えた。

「出るまで、少し……頭を整えたい」


「うん」


 それだけ言って、リオナは頷いた。


 彼女は青司の向かいに座るでもなく、隣に寄るでもない。窓辺に立ち、カーテンを少しだけ開ける。王都の通りが、細い切れ目から覗いた。


 石畳の道。行き交う人々。遠くで鳴る馬の嘶き。


「……大きい街だね」


 独り言のように、リオナが言う。


「ああ」


「でも」

 少し間を置いてから、続ける。

「セイジが行く場所は、もっと大きい」


 青司は、黙って息を吸った。


 否定も肯定もせず、ただ受け取る。


 しばらくの間、言葉はなかった。


 リオナは腰を下ろし、装備袋の中を整え始める。青司は椅子に深く座り、両手を膝に置いたまま、目を閉じた。


 心臓の音が、やけに大きく感じられる。


 逃げたいわけではない。

 怖くないと言えば、嘘になる。


 だが――行くと決めた。


(……森にいた頃とは、違うな)


 ふと、そんな考えが浮かぶ。


 あの頃は、選ぶのは自分たちだけだった。

 今は、選んだ先に、国がある。


 静かに扉が叩かれたのは、昼前だった。


 クライヴの声が、廊下越しに聞こえる。


「セイジさん。そろそろ準備を」


「分かりました」


 青司は立ち上がり、上着を手に取る。


 リオナも、自然な動きで立ち上がった。


 だが、彼女は一緒に扉へは向かわなかった。


 青司がそれに気づいて、足を止める。


「……ここまで、でいい?」


 問いかけは、短い。


 リオナは一瞬だけ考えてから、頷いた。


「うん。ここで待ってる」

 そして、少しだけ笑う。

「ちゃんと、戻ってきて」


 青司は、何も言わなかった。


 ただ、一歩近づき、ほんの一瞬、肩に触れる。


 それだけで十分だった。


 扉を開けると、空気が変わる。


 仕事の顔に戻ったクライヴが立っていた。


 青司は一度だけ、振り返った。


 リオナは、部屋の奥で静かに見送っている。


 それを胸に刻み、青司は廊下へと踏み出した。



 王城の外郭が近づくにつれ、馬車の揺れが、どこか別の意味を帯び始めた。


 石畳の幅が広くなり、進行を示す標識も、商業区のものとは明らかに違う。整えられた街路樹の間を抜けるたび、視界の先に、白い城壁が少しずつ大きくなっていく。


 やがて馬車は、王城正門前の馬車止めへと導かれた。


 常駐の王城警護騎士が二名、静かに近づいてくる。鎧の意匠は簡素だが、隙のない動きと、視線の鋭さが、ここが「王城の入口」であることを雄弁に物語っていた。


「ご用件を」


 淡々とした声。


 クライヴが一歩前に出る。


「ホヅミ商会会長、セイジ様。第三騎士団より招請を受けております。付き添いのクライヴと申します」

 名と目的を、過不足なく告げる。


「確認します。少々お待ちを」


 騎士は短く頷き、書状と印章を確認した後、青司へ視線を移した。


「失礼します」


 形式的な言葉とともに、手荷物の検めが始まる。

 書類、包み、手土産――一つ一つ、手際よく確認され、専用の札が付けられていく。


 青司は、背筋を伸ばしたまま、ただ待った。


(……頭を動かすと、覚えたことがこぼれ落ちそうだ)


 そんな、どうしようもない感覚が胸の奥に広がる。

 礼法、言葉遣い、姿勢。昨夜まで必死に詰め込んだはずの知識が、緊張に揺さぶられて、定着しているのかどうか分からなくなる。


 その様子に気づいたのだろう。

 クライヴが、ほんの少しだけ声を落として言った。


「大丈夫です」

「ここでは、“正確”であれば十分です。完璧である必要はありません」


 視線は前を向いたまま。だが、その一言は確かに、青司の耳に届いた。


「……ありがとう」


 検めが終わると、荷物は別の係へと引き渡され、青司とクライヴは、王城内用の馬車へ案内された。


 王城の内側は、外から見るよりも広く、静かだった。

 行き交うのは、必要な者だけ。無駄な足音も、無意味な会話もない。


 馬車は城内を抜け、ほどなくして、王国軍騎士団の庁舎前へと到着する。


 堅牢な石造りの建物。飾り気は少ないが、実務と規律をそのまま形にしたような佇まいだった。


 入口で受付を済ませると、先ほど検められた手荷物と手土産が、改めて返却される。

 札を確認し、間違いがないことを示す簡潔な手続き。


「クライヴ殿は、こちらでお待ちください」


 受付騎士の言葉に、クライヴは静かに頷いた。


「はい。ここでお待ちします」


 青司は一瞬、クライヴの方を見る。


「……行ってきます」


「ええ」

 クライヴは微笑むでもなく、ただ穏やかに。

「いつも通りで」


 その言葉を背に、青司は一歩、前へ進んだ。


 そこへ、足音が近づく。


 整えられた短髪、実直そうな眼差し。

 年若すぎず、老練すぎない――現場と上層の橋渡しを担う者の顔だった。


「ホヅミ商会会長、セイジ殿ですね。日をおかずに来訪して頂き感謝します。また、お会いできて嬉しく思います」


 青司は、深くなりすぎない礼を取る。


「はい。お招きいただき、ありがとうございます」


 男は、名乗った。


「王国軍第三騎士団副隊長、レオン・ヴァイスです」

「団長より、私がご案内するよう申し付かっております」


 形式ばった言葉だが、声音は落ち着いている。


「こちらへ」


 そう言って踵を返すレオンの後に、青司は続いた。


 その横で、控えていた兵が一歩前に出る。


「お荷物は、こちらでお預かりします」


 簡潔な確認の後、木箱と包みは静かに引き取られた。


 待合室の空気が背後で閉じる。



 石張りの廊下は、足音が過度に響かないよう、厚手の絨毯が敷かれていた。

 壁に掛けられた団旗と紋章が、無言で通路の格を示している。


 数歩先を歩きながら、レオンが何気ない調子で口を開いた。


「本日は、団長の執務室ではなく――応接室にてお話しいただきます」


 青司は、わずかに視線を上げる。


「……応接室、ですか」


「はい」

 レオンは振り返らず、歩調も変えない。

「今回は“報告”ではなく、“意見を聞く”場になりますので」


 言葉は柔らかいが、その意味は軽くない。


「形式ばった場にすると、かえって話しにくいと団長が判断されました」

「遠慮なく話せるように、と」


 青司は、小さく息を吐いた。


「ずいぶん……買われていますね」


「評価ではありません」

 即座に返る。

「必要としている、というだけです」


 廊下の先に、背の高い扉が見えてくる。

 装飾は控えめだが、造りは明らかに上位の来客用だった。


 レオンが足を止める。


「ご安心ください」

 今度は、はっきりと青司を見る。

「この場は、セイジ殿に不利になるものではありません」


 扉に手を掛けながら、静かに付け加えた。


「むしろ――団として、どう関わるべきかを探る場です」


 重厚な扉が、音もなく開かれる。


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