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控えめな足音が、応接室の前で止まった。
扉が再びノックされることはなかった。
代わりに、静かに開かれる。
ラシェルだった。
先ほど店舗前で別れたばかりのはずなのに、その表情はもう「戻ってきた者」のものではない。
商業ギルド長として、話すべき順序と重さをきちんと整えた顔だった。
室内には、青司とリオナ、クライヴ、ミレーネ、エリン。
少し遅れて、店舗側からクレスも入ってくる。
全員の視線が、自然とラシェルに集まった。
ラシェルは一度だけ深く息を吸い、椅子に腰掛けることなく、そのまま話し始めた。
「まず、誤解のないように申し上げますわ」
その声は柔らかい。だが、曖昧さはなかった。
「これは“査問”でも、“命令”でもありません」
「王国軍第三騎士団――その団長である侯爵家当主が、“話を聞きたい”と仰っています」
青司は、何も言わずに頷いた。
言葉を挟むべき場面ではないと、本能的に理解していた。
「すべてのきっかけは、衛兵隊と清掃局への“あの肌着”の試験導入です」
「性能、供給、運用……どれも、街の規模を超えた視点で見られ始めています」
ラシェルは、机の上に視線を落とす。
そこには何も置かれていない。
――それでも、見えない資料が並んでいるかのようだった。
「軍部は、非常に慎重です」
「特に、装備に関しては」
「予算、規格、責任の所在……軽々しく“良いものだから使う”とは決して言いません」
ミレーネが、わずかに唇を引き結んだ。
エリンは、無意識に指先を重ねる。
ラシェルは、続ける。
「ですが――」
「“現場で効果が出ている”という事実には、目を逸らしません」
青司の脳裏に、炎天下の街路を歩く衛兵たちの姿が浮かぶ。
汗を拭いながらも、以前より落ち着いた動き。
報告書に並んだ、短く、しかし確かな言葉。
「今回、同行していた副隊長殿は」
「調査役でも、交渉役でもありません」
一拍置く。
「“確認役”です」
その言葉が、室内の空気を静かに引き締めた。
「つまり――」
「本当に話を聞く価値があるかどうかを、直接見て、判断する役目です」
クライヴが、低く息を吐いた。
「そして、侯爵家が名を出した、ということは」
ラシェルは青司を見る。
「“もし話が合えば、先の話もあり得る”という意味でもあります」
青司は、思わず背筋を正した。
貴族社会の速度。
遠回しで、しかし確実に詰めてくる圧。
「だからこそ」
ラシェルの声は、あくまで穏やかだ。
「“都合の良い時で”という言葉を、額面通りに受け取ってはいけません」
少しだけ、微笑む。
「侯爵家の“空いた時間”は、そう多くありません」
「そして、“話を聞きたい”という興味は、長く待ってはくれない」
誰も口を挟まなかった。
その沈黙を、ラシェルは否定しない。
「準備をしてからでも構いません」
「ですが――」
「“準備が整ってから行く”より、“行くと決めてから整える”方が、貴族社会では評価されます」
青司は、静かに頷いた。
恐怖はない。
だが、軽さもない。
(……これが、次の段階か)
ラシェルは、最後に付け加える。
「商業ギルドとしては、全面的に支援します」
「供給体制、契約形態、責任分担……整理は、こちらで手伝えますわ」
そう言って、ラシェルは穏やかな笑みを浮かべた。
「……私たち夫婦は、保証人でもありますから」
その言葉に、クライヴとエリンが小さく安堵の息をつく。
そして――
ラシェルは、視線を一瞬だけクレスに送った。
「商業ギルドとしては、全面的に支援します」
「供給体制、契約形態、責任分担……整理は、こちらで手伝えますわ」
そう言って、ラシェルは穏やかな笑みを浮かべた。
「……私たち夫婦は、保証人でもありますから」
ほんの一瞬。
だが、確かに合図だった。
クレスは何も言わず、静かに一礼する。
そのまま、部屋を出ていった。
ラシェルは、再び青司に向き直る。
「セイジさん」
「これは、“商人として断れる話”ではありません」
「けれど――」
「“商人として、どう出るかを選べる話”です」
応接室に、静かな時間が落ちた。
青司は、ゆっくりと息を吸い、リオナの方を見る。
彼女は何も言わない。ただ、隣にいる。
それだけで、十分だった。
青司は、顔を上げた。
*******
まだ朝靄の残る時間帯だった。
街門の外、街道へと続く石畳の先に、一台の馬車が止まっている。王都行きのために手配された、装飾を抑えた実用本位の車両だ。派手さはないが、車輪や幌はよく整えられており、長距離を走ることを前提とした作りであることが見て取れた。
リルトの街は、いつもより少し静かだった。
朝の仕込みに向かう職人や店主の姿はあるが、馬車を見送るために立ち止まる者はいない。意図的に、そうしている。
これは見送りの行列ができるような旅ではない――誰もが、そう理解していた。
青司は馬車の前で、ひと息ついた。
ここから先は、王都。
噂や書物でしか知らなかった場所だ。
ホヅミ商会の会長として呼ばれる可能性は想定していたが、こうして正式に王城へ向かうことになるとは、数日前までは思ってもいなかった。
「準備はよろしいですか、セイジさん」
声をかけてきたのはクライヴだった。
いつも通り落ち着いた調子だが、今日はわずかに声が引き締まっている。
「ああ。積み残しはないと思う」
そう答えながら、青司は無意識に荷の内容を思い浮かべていた。
書類、試験導入の簡易報告、素材の見本、契約の雛形――
どれも、武器ではない。
だが、今回の折衝においては、剣や鎧よりも重要なものだ。
馬車の反対側では、リオナが御者と何か短く言葉を交わしていた。
森で育った彼女は、馬や道の様子を見る目が確かだ。王都までの道のりが一日以上になることを、感覚的に理解している。
やがて、彼女が青司の隣に戻ってくる。
「……大丈夫そう。今日は天気も崩れないって」
「そうか」
それだけの会話だったが、青司の肩から、少しだけ力が抜けた。
ラシェルは一歩引いた位置に立ち、二人を見守っていた。
商業ギルド長としての顔ではなく、今日は「案内役」としての立場だ。王都へ向かうのは途中まで。王城に入るのは青司だけになる。
「王都までは、この街道を真っ直ぐですわ。途中で宿を挟みますが、特に問題はないはずです」
「ありがとうございます。ここまで手配していただいて」
「それが、ギルド長の仕事ですもの」
そう言って、ラシェルは微笑んだ。
その表情の裏にある意味を、青司は理解している。
――王都は、商人にとっても別格の場所だ。
好意だけで済む場所ではない。
クライヴが、馬車の扉を開ける。
「では……行きましょうか」
青司が先に乗り込み、続いてリオナが足をかける。
彼女は一瞬、振り返って街門の方を見た。
リルトの街。
森と隣り合い、魔物の影も残る土地。
だが、今では衛兵と清掃員が行き交い、子どもが笑い、店が息づいている場所だ。
――守りたい場所がある。
それを、リオナは誰に言うでもなく胸に刻んでいる。
馬車の扉が閉まり、御者が合図を出す。
車輪が石畳を軋ませ、ゆっくりと動き出した。
街門を抜けると、視界が一気に開ける。
街道は整備されてはいるが、ところどころに古さが残る。道の先には、森の影がまだ色濃く続いていた。
リオナが、窓越しにその森を見つめる。
「……王都って、森から遠いんだよね」
「ああ。少なくとも、ここみたいに隣り合ってはいない」
「そっか」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
だが、その沈黙は不安ではない。
青司は、馬車の揺れに身を任せながら、前を向いた。
王都では、軍が待っている。
騎士団が待っている。
そして――商人ではない目が、自分を測ろうとしている。
だが、逃げる理由はなかった。
馬車は街道を進み、やがてリルトの姿は小さくなっていく。
それでも、完全に見えなくなるまで、リオナは窓の外を見ていた。
森の縁、石畳の街路、白い壁。
見慣れたものが、順に遠ざかっていく。
やがて、街道は森と丘の間を抜ける一本道になった。
舗装はされているが、ところどころ補修の跡が残り、往来の多さを物語っている。
しばらく進んだところで、馬車が減速した。
前方から、規律の揃った足音が近づいてくる。
王国軍の巡回隊だった。
鎧は使い込まれているが、整えられ、無駄がない。
数は多くない。だが、動きに迷いがなかった。
すれ違う際、隊の一人が御者に短く敬礼する。
それだけで、互いの立場が分かる。
青司は、無意識に彼らの装備に目を向けていた。
鎧の合わせ、手袋の内側、首元――
どれも堅牢だが、暑さを逃がす工夫は乏しい。
(……炎天下での巡回は、相当きついだろうな)
リオナもまた、黙ってその背中を見送っていた。
昼前、街道沿いの宿場で馬車は一度停まった。
馬を休ませ、人も水を取るための短い休息だ。
宿場は小さいが、よく整えられている。
井戸があり、屋根付きの休憩所があり、干し草の匂いがする。
青司とリオナは、並んで腰を下ろした。
木のベンチは硬いが、揺れ続けた後では十分だった。
「……まだ、遠いね」
リオナが、ぽつりと言う。
「一日がかりだって、分かってはいたけどな」
そう答えながら、青司は水を一口飲む。
冷たくはないが、身体に染みた。
周囲では、行商人や旅人が短い会話を交わしている。
誰もが目的地を持ち、誰もが通過者だ。
その中で、二人は不思議と落ち着いていた。
急ぐ理由も、ここで何かを決める必要もない。
休息は長くは続かない。
やがて馬車が再び動き出す。
街道は、次第に広くなる。
往来も増え、馬車同士が譲り合う場面も増えていった。
その先にあるものを、皆が知っている。
◆
陽の影が長くなってきた頃だった。
丘を越えた先で、景色が一変する。
街道の先、緩やかな丘を越えた瞬間、視界が一気に変わった。
石造りの城壁が、遠くまで連なっている。
塔、門、旗――どれもが、これまで見てきたどの街とも違う規模で並び立っていた。
「……あれが、王都」
リオナが、思わず声を落とす。
言葉にすれば、それだけだ。
だが、その一言に込められた圧は重い。
リルトの街も決して小さくはない。
だが、ここは“集まる場所”だ。人も、権力も、情報も。
馬車道は何本にも分かれ、行き交う馬車の数も、装いも違う。兵士、役人、商人、貴族の従者――立場が、そのまま服に表れていた。
青司は、無意識に背筋を伸ばしていた。
視線を向けられているわけではない。
だが、向けられる可能性が、常にある街だった。
「二人とも、今は見なくていいものまで見てしまう時分です」
御者台から降りたクライヴが、穏やかに声をかける。
「まずは宿へ向かいましょう。荷を下ろして、落ち着いてからです」
その言葉に、青司は小さく息を吐いた。
――ああ、今は“任せていい”。
王都の中では、クライヴの方がはるかに場慣れしている。
商会の交渉役として、過去にも何度か訪れているのだ。
城門を抜けると、さらに人の流れが濃くなる。
石畳は磨かれ、建物は高く、道は広い。
香辛料と鉄と香油の匂いが混じり合い、耳には常に人の声があった。
リオナは、きょろきょろと視線を動かしている。
露骨に怯えてはいないが、森育ちの感覚には刺激が強い。
「……落ち着かない?」
青司が小さく尋ねると、彼女は少し考えてから頷いた。
「うん。でも……嫌じゃない。ただ、頭が忙しい」
「それは俺もだ」
二人は顔を見合わせ、ほんの一瞬だけ笑った。
そのやり取りを、クライヴは横目で確認していた。
(――このままでは、余計な疲れが出る)
そう判断したのだろう。
彼は歩調を少し落とし、意識的に話題を切り替えた。
「宿は、王城から少し離れた場所を押さえています。静かで、出入りも目立ちません。食事も悪くない」
「……もう、取ってあるんですか」
「ええ。呼び出しが“王国軍”と分かった時点で、最優先で」
淡々とした報告だが、その裏にある配慮は明確だった。
青司は、胸の内で深く感謝する。
やがて辿り着いた宿は、王都の規模からすれば控えめだが、よく整えられていた。
表通りから一本入った場所にあり、落ち着いた雰囲気がある。
「今日は、ここまででいいでしょう」
鍵を受け取りながら、クライヴが言う。
「王城へ向かうのは、明日になるはずです。
私が先に王城へ挨拶に行き、セイジさんの登城予定を確認してきます。
今夜は――二人とも、ただの“旅人”でいてください」
リオナが、少しだけ目を見開いた。
「……旅人」
「ええ。商会長でも、交渉相手でもない。
ただの、長旅の客です。
けれど――王都を見て歩くのは、仕事が終わってからにしてくださいね」
クライヴは、そう言って笑った。
その言葉は、思った以上に効いた。
肩に乗っていた力が、すっと下りる。
部屋に入ると、窓から王都の屋根が見えた。
高い建物の向こうに、城の一部が覗いている。
「……すごいね」
リオナが、今度は素直に言った。
「ああ。でも――」
青司は、彼女の隣に立つ。
「明日までは、関係ない」
リオナは、少し驚いた顔をしてから、ゆっくり頷いた。
クライヴは扉の外で一礼する。
「夕食まで、少し休んでください。
王都は……思っている以上に、体力を使います。
時間がきたら、先に食べていてくださいね」
そう言い残して、クライヴは廊下へと去っていった。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
青司とリオナは、同時に深く息を吐いた。
王都は、確かに大きい。
だが――今は、二人で並んで立てている。
それで、十分だった。




