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 街のあちこちで、リルトの衛兵隊や清掃局による吸湿速乾の装備一式が試験導入されている――その事実を、軍部は見逃していなかった。


 王都にある軍部の一室では、書類と地図が散乱した机の周囲に、数人の将校が集まっていた。地図上にはリルトの街の区画ごとの被害報告や巡回頻度が貼り出され、軍部が独自に行った視察や報告がまとめられている。


「この街では、衛兵や清掃員が既存の装備に加えて、新しい肌着を試験導入しているようです」

若い将校の声に、年嵩の男がゆっくりと頷く。


「街の衛兵隊と清掃局か……清掃局なんて部署のある街は聞いた事がないが、街の清掃など誰もやりたがらんだろう」


「いえ、この街の清掃員は衛兵隊をはじめ市民からも高く評価されており、何より待遇の良さから女性の働き手も多く、現場の士気は安定していました」


「……女性が現場に?……それで回っているのか?……装備はどうしているんだ?」


「はい。リオネという店でも、店頭での販売動向や使用感について、継続的な言及が見られると報告があります」

 別の将校が、街角での様子を伝える。店には軍人や市民が出入りし、肌着だけでなく帽子や手袋の内側、靴下やズボン下にも同じ糸を用いた製品が並んでいる。特に体格の良い衛兵らしき人物が商品を手に取り、支給品と使用感の違いを確かめている様子が、細かく観察されていた。


「なるほど……ただの街の噂ではなく、現場でも一定の評価があるということだな」

年嵩の将校は、資料に目を落としながら静かに言う。



 その頃、リルトの街では、ホヅミ商会が朝から慌ただしかった。


 青司は大きな書類箱を抱え、リオナは隣で並べられた資料に目を通していた。店内ではクライヴが伝票と帳簿を行き来し、ミレーネは工房と連絡を取りながら染め薬やシャンプーの納期調整に追われる。エリンは会計書類の整理に手を取られ、電話や伝令の札が絶え間なく舞い込む。


「……頭がパンクしそうだ」

 青司は苦笑しながら、資料の山に目を落とす。


「まだ序の口よ。まだ、本の半ばなんだもの」

 リオナは小さく、だがどこか同情を含んだ笑みを浮かべ、青司の横で分厚い本を開く。貴族との折衝に必要な言葉遣いや礼儀作法を、一つ一つ確認していた。


「セイジ、ここはこうした方が印象が良さそうです」

「うん……なるほど」

 二人の間には静かな集中が流れ、時折、商会の喧騒が遠く感じられる。


 昼食にはサンドイッチを口に運び、午後にはおやつをつまみながら、折衝に必要な言葉や態度を何度も読み返す。リオナの小さな指摘に青司は頷き、二人で黙々と復習を重ねる。


しかし、夕方が近づくころには、青司の肩越しにリオナの頭がほんの少しもたれかかる。

「……休憩するか」

青司は静かに言い、二人は一旦、別邸に戻ることを決めた。



リオネの店舗奥、二階へと続く階段を上がると、

副隊長は思わず背筋を伸ばした。


空気が変わる。


一階の喧騒とは違う。

だが、静まり返っているわけでもない。


筆の音。

紙を繰る音。

短く、要点だけを押さえた言葉のやり取り。


「こちらが、ホヅミ商会の事務所です」


先に立ったのは、クライヴだった。

落ち着いた声、控えめだが曖昧さのない口調。

軍人の目から見ても、補佐役としてよく鍛えられた立ち居振る舞いだった。


階段を上がってすぐの区画では、数人の商会員が机に向かい、帳簿と書類を行き来させている。

誰もが自分の仕事を把握しており、指示を待つ様子はない。


「こちらは営業と工房との折衝、それから数量と納期の管理を行っております」


クライヴは歩調を落とさず、簡潔に説明する。


副隊長は、机の配置や書類の積み方に目を走らせる。

軍の参謀室ほど堅苦しくはないが、雑然ともしていない。


(……回っている)


それが率直な感想だった。


廊下を進むと、別の区画が見えてくる。

職人や外部工房とのやり取りを行う場所だ。


「ここでは仕様のすり合わせと進捗確認を」

「最近は、量産に向けた調整が増えておりまして」


声を荒げる者はいない。

だが、条件は明確だ。

曖昧な約束は交わされていない。


ラシェルは、その様子を黙って見ていた。

表情には出さないが、視線の動きで評価しているのが分かる。


次に案内されたのは、少し空気の違う区画だった。


「こちらは、商会員の休憩室です」


簡素な長椅子と机。

湯を沸かす炉。

短い休憩を取る者たちが、静かに次の仕事に備えている。


「……休憩室まで、設けているのですか」


副隊長が、思わず尋ねる。


「ええ。忙しい時ほど、無理をさせると全体が止まりますので」


その言葉に、軍人は小さく頷いた。

軍でも同じだ。


隣には、小さな厨房があった。

調理員が鍋をかき回し、控えめだが確かな香りが漂ってくる。


「商会員用の食事を用意しております」

「時間が不規則になりますから」


ラシェルが、ここで初めて口を開いた。


「……合理的ですね」


それだけで、十分な評価だった。


廊下の奥、二つの扉が並んでいる。


「こちらが、商会長の執務室」

「そして、こちらが応接室になります」


執務室は質素だった。

机と書棚、必要最低限の調度。

だが、ここで街の商いと装備の流れが決まっていることは、容易に想像できた。


応接室は、来客用として整えられている。

貴族、ギルド関係者、そして――軍の人間が座っても違和感のない空間。


副隊長は、静かに息を整えた。


(……ここは、店ではない)


商会だ。

判断が積み重なり、人と物と金が流れる場所だ。


クライヴが一礼する。


「少々お待ちください。商会長をお呼びいたします」


その言葉に、軍人は小さく頷いた。


呼び出し状を渡すに、

そして、話を始めるに――


ここは、申し分のない場所だった。



 控えめなノック音がした。


 それは、いつもの事務的な合図よりも、わずかに慎重さを含んでいる音だった。


 クライヴが顔を出す。

 背筋は伸びているが、表情は固すぎない。

 ただ、いつもより一拍、間を置いてから口を開いた。


「セイジさん。

 商業ギルド長のラシェル様と――王国軍の方が、お見えです」


 青司の手が、無意識に止まった。


「……ギルド長と、王国軍?」


「はい。副隊長級とお見受けします。

 現在、応接室でお待ちいただいております」


 副隊長級。

 その言葉だけで、空気の質が変わった。


 商業ギルド長が訪ねてくる理由なら、いくつも思い当たる。

 供給の確認、流通の相談、街への本格導入の経過報告――

 いずれも、商会としては想定の範囲だ。


 だが。


(……王国軍、か)


 それも、使いの兵ではない。

 交渉の席につく立場の人間が、わざわざこの場所まで足を運ぶ理由。


 青司の頭には、答えが浮かばなかった。


 予兆はあった。

 領主フィオレル様から、貴族との折衝に備えておくよう言われていた。

 言葉遣い、立ち居振る舞い、視線の運び方。

 理由までは告げられていなかったが、何かが動いていることだけは感じていた。


 だが――

 それが、ここまで来ているとは。


「……分かりました」


 青司は、静かに息を整える。


 隣を見ると、リオナもまた、状況を察したのか、口を結ばずに立ち上がっていた。

 不安というより、身構えるような静けさ。


「一緒に来てくれるかい」


「うん」


 短い返事だったが、そこに迷いはなかった。


 クライヴが一歩前に出る。


「こちらへ。

 ラシェル様は、あくまで案内という立場のようです」


 ――案内。


 その言葉が、かえって重い。


 廊下を進む足音が、やけに大きく響いた。

 事務所のざわめきは、扉一枚隔てただけで遠のいていく。

 青司は、応接室の扉を見た。

 商会の来客としては、少しだけ勝手が違う。

 ――話す相手は、商人ではないかもしれない。


 商会の応接室。

 これまで幾度となく使ってきた場所だ。


 だが今日は、

 いつもの話をするための部屋ではない――

 そんな予感だけが、確かにあった。


 クライヴが扉の前で立ち止まり、静かに振り返る。


「――お通しします」


 青司は、小さく頷いた。


 理由は分からない。

 相手の腹も、意図も、まだ見えない。


 それでも――

 ここから先は、逃げ場のない話になる。


 扉の向こうにあるのは、

 商会の次の段階か、それとも――

 もっと大きな流れの入口か。


 青司は、意識を切り替え、応接室へと足を踏み入れた。



 応接室は、事務所の喧騒から切り離された、静かな空間だった。

 厚手の絨毯が足音を吸い、壁際の棚には取引記録や見本帳が整然と並んでいる。商人のための部屋だが、過度な装飾はない。必要なものだけを、きちんと揃えた場所だった。


 先に通されていた二人が、席を立った。


 一人は、商業ギルド長ラシェル。

 柔らかな微笑みを浮かべてはいるが、今日はあくまで同行者だという距離を保っている。


 もう一人は――軍人だった。


 背筋を伸ばし、無駄のない所作で一礼する。

 鎧は着けていないが、立ち姿だけで分かる。日常的に重い装備を身に着け、指揮を執る側の人間だ。


「お時間を頂き、感謝します」


 低く、落ち着いた声だった。

 威圧も、媚びもない。だが、場を制するだけの重みがある。


「王国軍第三騎士団、副隊長を務めております。名はレオン・ヴァイス と申します」


 名乗りを終えると、男は一歩引き、改めて頭を下げた。


「本日は、団長であるオズワルド・フォン・シュタインベルク侯爵の使いとして参りました」


 その言葉が置かれた瞬間、空気がわずかに変わる。


 青司は表情を崩さず、ただ耳を澄ませた。

 侯爵。しかも騎士団長。

 直接の呼び出しではない。だが、偶然の訪問でもない。


「用件は一つです」


 副隊長は、簡潔に続けた。


「貴商会が手掛けていると聞く――鎧の下に着る装備について、一度お話を伺いたい」


 “肌着”とも、“商品”とも言わなかった。

 現場の言葉だ、と青司は思う。


「現在、我々の方で正式な検討に入っているわけではありません。

 ただ、巡回や訓練における負担軽減について、現場から声が上がっておりまして」


 一拍、間を置く。


「その一環として、実情を知る者から直接話を聞くべきだと、団長が判断されました」


 押しつける調子ではなかった。

 だが、軽い相談でもない。


 副隊長は、そこで一歩引いた立場を明確にするように、言葉を選ぶ。


「本日はお呼び立てではありません。

 商会のご都合が整った時で構いませんので、一度、第三騎士団までお越しいただければと」


 時間も、期限も、指定しない。

 それが逆に、この話の重さを示していた。


 青司は、すぐには答えなかった。


 軍が、こちらの事情を“考慮している”という姿勢を見せている。

 同時に、無関心ではないことも、はっきりと伝わってくる。


 視線をわずかに動かすと、ラシェルが小さく頷いた。

 彼女は本当に案内役なのだ。判断は、商会に委ねられている。


「……承りました」


 青司は、ゆっくりと口を開いた。


「まずは、商会内で整理をし、改めてご連絡いたします」


 即答でも、拒否でもない。

 商人として、今できる最も誠実な返答だった。


 副隊長は、その言葉を受けて、静かに頷いた。


「ありがとうございます。それで十分です」


 そう言って、深くは頭を下げない。

 対等な立場を保ったまま、礼を取る。


「では、本日はこれで」


 用件は、それだけだった。


 二人が退室すると、応接室には再び静けさが戻る。

 遠くで、事務所のざわめきが微かに聞こえた。


 青司は、息を吐く。


 予想していなかった。

 だが、不思議と混乱はない。


 街で始めた試みが、街の外へと届き始めている。

 それを、今はただ、静かに受け止めていた。


 ――準備は、必要だ。


 青司は、そう心の中で確認しながら、椅子から立ち上がった。

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